戦いの正装は巫女装束で!
――重大な危険の瞬間、世界はスローモーションで見えるというのは話には聞いてたけど、我が身で識れるとは思わなかった。
穂乃香さんと葵ちゃんがあたしを呼んでいる。
鬼は気持ち悪い笑みであたしを掴もうとしている。
その鬼の向こう、警官たちが走ってきている。
走りながら穂乃香さんは次の符札を構える。
葵ちゃんも何かモサッとしたものをいつの間にか手にしている。
あたしが組んだ腕の周りで生まれた風がふわっ、とあたしの前に流れてくる感覚がする。
その風に――初めて『何か』をあたしは感じた。
意思というか、気持ちというか、空気の流れにそんなのが混じっていることを微かに意識した。
目に見えないものが幕のように、あたしの前で練り固め、広げられた感触がある。
鬼の拳が、明らかに遅くなった。
鬼が顔をしかめる。
鬼が更に手を突き出すと、触れていないのにあたしは押されるようにずずっ、と下がった。
その、一秒くらいの間で充分だった。
「この子の魂を還しなさいっ!」
接近していた穂乃香さんが、鬼の横っ腹に符札を叩き付けた。
さっきと同じ感じで鬼が上体を跳ねさせたところに、葵ちゃんが葉の付いた枝――『玉串』というのだと後で教えてもらった――で鬼を突く。
「奈々美ちゃんの魂を返してっ!」
と、なん往復かそれで鬼の体をばしばしと叩く。
鬼が吼えた。
両手を振り回し、飛び退いた穂乃香さんと葵ちゃんに威嚇するようにもう一度荒い声を立ててからあたしを見下ろす。
あたしの傍に、穂乃香さんが駆け寄ってきていた。
鬼は憎々しげに顔を歪めると金棒を拾って、後ろに来ていた警官隊に襲いかかった。
警官たちがわっ、と包囲の輪を広げる。
その輪の一角に鬼は寄って、警官三人を金棒で一度に弾き飛ばすと、そのまま包囲を破って走り出した。
「待てッ!」
警官たちのほとんどが鬼を追って行く。
穂乃香さんが、座り込んだままのあたしを支えてくれていた。
「よくやったわ、奈々美」
「ケガ増えてない? 大丈夫?」
葵ちゃんも来てくれて言う。
刑事なのか、制服じゃない男の人があたしたちに向かって来た。
穂乃香さんがあたしにだけ聞こえるくらいの小声で、
「邪魔ね……」
と呟く。
男の人はあたしたちを不思議そうな眼差しで見ていた。
「あ~、色々、聞きたいことはあるが……」
どこか軽めの口調で言う。
穂乃香さんは彼を無視するように、あたしを立たせてくれる。
「走れる?」
あたしは少し考えてから、頷く。
「良いわ、奈々美。
――急ぎますので失礼します」
何か言おうとした刑事に穂乃香さんは冷徹に返して、あたしと葵ちゃんを促した。
「あ、こら、待ちなさい君たちッ」
刑事がそう呼ぶのを背に、あたしたちは来た方向へ戻って駆けだした。
▼△▼△▼△
さっきの刑事が追ってくる様子はなかった。
穂乃香さんがそれを確認してから言う。眼鏡はかけ直していた。
「神社に一旦戻りましょう。
いい? 奈々美」
穂乃香さんには何か意図があるのだろう、そう思ってあたしは首を縦に振る。
「葵、服の用意を」
「はいっ」
コインパーキングの精算をして、車のドアを開けながら穂乃香さんは悔しそうな顔をしていた。
穂乃香さんが運転席に入った。葵ちゃんとあたしは後ろの席に乗り込む。
「甘く見ていたわ。気を取り直して体勢を整えて、本気でかかりましょう」
「そうですね。力だけであんなに圧されるとは思ってなかったですよ」
あたしは穂乃香さんの後ろに座った。
「奈々美の分、何とかなる?」
葵ちゃんは頷いて、ケータイを取り出していた。
穂乃香さんが車を出した。
高級車っぽい車じゃない、流線型の形をしてるけど左ハンドルの車だ。
軽快な音を立てて道路に出る。
車のオーディオからは『――丁目方面に逃走中』とか『――より本部っ、応援まだかっ!』とかノイズ混じりで聞こえていた。
ラジオじゃない。
あたしが興味を示しているのに気付いたのか、穂乃香さんがちらっとあたしを見た。
「警察無線をFMトランスミッターでオーディオに飛ばしてるのよ」
あっさりと言う。
車は神社に戻る方向に向かっている。
電話してた葵ちゃんがケータイを閉じた。
「オッケーです、穂乃香さん」
「急ぎましょう」
そこで、葵ちゃんがあたしに抱きついてきた。
「奈々美ちゃん、『風』使えたね!」
そう言われて初めて、さっきのあれが『精霊の力』だったんだと理解した。
「そうね、奈々美。
よくやったわ」
穂乃香さんにもう一度ほめられる。
「あれが……巫術?」
葵ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「やっぱり『風』が使いやすい?」
「ん……よく解らない、まだ」
「でも、術行使の入り口に立てたわ」
バックミラー越しに、穂乃香さんと目が合う。
穂乃香さんが微笑んだ。
「さっき、奈々美は風の力で奴の拳を防いだ。それは自覚できた?」
「はい」
「ならいいの。無意識に出せたものでもそれが術の力だと解っているのなら、ね。
次は、意識して使うことね」
穂乃香さんはあたしを時々見ながら、周りの車をどんどん抜かして走っていく。
――けっこうスピード出てる?
道は登りにさしかかっていた。
「葵ちゃん、『服』って?」
ふと気になって、すぐ隣の葵ちゃんに聞く。
「わたしたちの集中力を高めるための衣装、って言ったらいいかな」
笑顔で葵ちゃんは言った。
「見れば解るよ。奈々美ちゃんの分もあるから」
車が減速してきた。
「着くわよ」
葵ちゃんの家――大軻神社の鳥居が見えてきていた。
最初、何かの冗談かと思った。
それか、神社だからってあたしをからかってるのか。
でも、あたしをどうこうしても何にもならないし、穂乃香さんも葵ちゃんもいたって真面目な顔で着替えはじめるもんだから、あたしも出されていたその服を手に取った。
それは、真っ白な着物と朱色の――袴?
巫女装束だった。
穂乃香さんと葵ちゃんは和服用の下着と襦袢で胸をぎゅっと押さえて、手際よく白衣と袴を着けてゆく。
神社に戻ったあたしたちは社務所の奥にある部屋に入っていた。
十二畳くらいの広さで、大きなタンスとか物置っぽい五段のボックスとかがある。フスマ一枚で社務所の表側に出られるようになっている。
「着方、わからないよね?
ちょっと待っててね」
葵ちゃんが袴の帯を結びながら言う。
「奈々美ちゃん、服脱いでて」
「ん……うん」
穂乃香さんは綺麗な黒髪をゴムでまとめた上から和紙でくるんでいる――『水引』というらしい。
葵ちゃんも同じようにくしゅっとした髪を、左右でくくっている。
あたしは服を脱いで、下着だけになった。
あらためて例の穴が目に入る。ここ数日で葵ちゃんが言うには『安定』したらしい。確かに、穴の周辺の肌が少し厚くなった感じがするし、飲み食いもできるようになった。お茶飲んでも穴から漏れ出す、なんてことはない。
それだけに、なんだか不思議だ。勾玉は相変わらず鈍い艶を見せているし、臓器とか何とか、科学的なことを無視している気がする。
――そう言ったら、『死んでいる』あたしがこうして活動してることそのものが、今まで現実にはありえないと思っていたことか。
穴に手を入れてみる。妙な感覚で穴の内側を撫でて背中に届く。
ムズムズしてきてイジるのをやめて、あたしの前に置かれている衣装の中から襦袢を取った。
サラッとした手触りで、薄い。夜でも暖かくなってきてるし、厚手のものだったら大変かもな、などと思う。
「葵ちゃん、下着はどうするの?」
着替え終えてた葵ちゃんがすぐ傍に来ていた。
「今日のならそのまま、
葵ちゃんが笑って言う。
「昨日のレモン色のだったら、替えたほうがいいかも、だけど」
今日のはオフホワイトのシンプルなブラとショーツのセットで、安かったやつだ。
「和服の着付けは?」
あたしは首を振る。
夏祭りの浴衣も簡単なのを着るくらい、着付けなんてやったことがない。
「あたしも昔は着せてもらってたから気にしないで。
すぐ覚えられるよ」
葵ちゃんはそう言って、キュッ、とかピッ、とか布を鳴らして手際よくあたしに白衣と袴まで全部、着せてくれた。
「髪は……いいかな。付け毛して水引巻く?」
あたしは首を振った。
穂乃香さんは部屋の隅にあった長い包みを解いていた。
あたしの着付けが終わった。
「どう? 動きにくくない?」
葵ちゃんが覗き込んでくる。
白衣はともかく、胸の下で締める袴の感覚は初めてだった。白衣にしても襦袢から着たことはなく、いつもの下着やキャミとは違う肌触りはでも、イヤじゃなかった。
少し歩いてみる。
「うん、大丈夫っぽい」
そこでまた気になって葵ちゃんに聞く。
「でも、戦いとかこの格好で、ってツラくない?」
「問題ないわ」
応えたのは穂乃香さんだった。
手に、長い棒を持っていた。その先端に刃がある。
薙刀だ。
「動きやすさを重視して
穂乃香さんが薙刀を少しだけ振った。
ひゅっ、と軽い風切り音がする。
「これが、私たち『巫術使い』の戦闘服よ」
穂乃香さんがこの中で一番、この衣装が似合ってると思った。
葵ちゃんはさっきも持ってた玉串を手にしていた。
「行くわよ。
今夜中に片をつけて、奈々美の魂を取り戻す。いいわね」
穂乃香さんが言って、あたしと葵ちゃんは真剣な表情で頷いた。
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