第七章
僕は悩んでいた。このまま高雄を置いて田中の様子を見に行くかだ。こやけの口振りから考えて、田中は既に亡き者になっているであろう。わかっているというのに見に行くのも馬鹿馬鹿しい話だ。それに、僕が席を外している間に高雄がこやけに僕を殺すように依頼する可能性だってある。それなら、先手を打っておくべきだろう。
僕は汗ばんだ手を握りながら叫んだ。
「依頼なら、僕がする!」
「ま、待って。それなら私も!」
僕の声に続けて高雄も叫んだ。シン……と静まり返った店内。こやけは僕と高雄の顔を見比べてから、そっと目を伏せた。何かを考えているのだろうか。やがてトスッと椅子の奥に座りなおすと、いつの間にか卓に乗せられていたポテトチップスに手を伸ばした。
「フム。お二人同時にご依頼と来ましたか。それは、本当に願っているモノでしょうかねェ。今この場を逃れるための願いであるなら――言わなくてもわかりますよねェ?」
バリッ……。ただのポテトチップスであるのに、異様に恐ろしいものを食べているように感じられた。僕は戸惑った。「高雄を殺して欲しい」と言うつもりであったが、それは僕が心から望んでいるものではない。ただこの場を逃げ出すために考え出した願いでしかない。高雄を見ると、顔色は真っ青で、汗が流れており、もう叫ぶ元気も無いように見えた。きっと彼女も僕と同じ考えだったのだ。そう気付いた僕は、もう一つの選択肢を取ることにした。
「こやけさん。僕は田中の様子を見に、お手洗いへ行ってきます」
「オヤ。依頼は良いのですか? 彼女に殺されるかもしれないというのに」
「良いのです。僕は田中の方が気になって、気が気ではありません。ですので、先に彼女の願いを叶えてあげてください。僕の願いはその後でも構いません」
「ええ。ええ。それでは、田中さんの様子を見に行ってらっしゃいませ。くれぐれも、死神の甘い言葉になど耳を貸さぬように」
バリッバリッ……。ポテトチップスを咀嚼しながら彼女は僕に手を振った。高雄がもしも僕を殺すように依頼したとしても、ここから便所までは距離がある。まだ逃げ出す手立ては幾らかあるだろう。それに、高雄が本当に僕を殺したいと願っているかもわからない。その場しのぎの願いだったとしたなら――あの場にいるのは危険だ。これ以上目の前で死体を増やされて堪るか。
便所へ続く通路は嫌に静まり返っていた。この店自体が異様に静か過ぎる。店員たちはいつの間に消えたのだろうか。店内に流れていた優雅な音楽も消え、聞こえるのは、風の音と虫の声。蝉が遠くで物悲しく鳴いている。暗い通路の照明を手探りで見つけだし、僕は灯りを点けた。
「うわっ。吃驚した」
人がいた。いや、人なのか怪しい。銀の冠を戴いたかのような髪に、灼熱に燃える紅い瞳。暗がりなので目を凝らして、見る。手には禍々しい鎌。俗に言う死神の鎌。僕はその場に立ち尽くす。死神に出会ってしまった恐怖ではない。僕の背中をツーっと指が滑ったのだ。後ろに誰かが居る。振り向くことはできない。振り向いてはいけない。本能で察知した。
「キミの名前はなぁに?」
「弐色。余計なことをするなよ」
「死神様は、お固くって嫌だねェ。もうちょっとばかり緩く生きて欲しいよ。って、キミはもう死んでいるんだっけ? きゃはははは」
「弐色」
「はいはい。わかったよ。僕は何もしないよ」
きゃはっ! と笑いながら僕の前に男が回り込む。京紫色の和服がゆったりと揺れていた。こいつが、あの陰陽師か。画像で見るのと、実際に見るのとでは、異なって見えた。実際に眼前にしてみると、彼の異様なほどの色香に狂いそうになる。男であるということは知っているというのに、この高まりは何なのであろうか。噎せ返るような色香。ねっとりとした甘い目つき。ゆったりと着た和服から覗く白い肌。これが、本当に男なのか。何故だか僕は勿体無いような気持ちにもなった。
「僕に見惚れるのも良いけれど、キミは田中さんのことを知りに来たんじゃないのかな」
弐色の言葉にハッとなる、首を横に振り、気を改める。
弐色が、ふーっと、息を吐くと和紙が蝙蝠へと変わり、僕の横を飛び去って行った。式神か。詳しくは知らないが、その筋の人間ならば知識として持っている。蝙蝠が入った道具入れを覗くと、ひとかたまりの黄色い肉塊が転がっていた。床は赤く濡れている。いとも奇怪な
「お、おい。田中」
「もう亡くなっているよ」
「見たらわかると思うけど。
「お前は黙っていろ」
「はぁい。怒られちゃったや」
恐らく失血死だろう。僕は手を合わせると上着を田中だったモノにかけた。僕は別段田中と親しかった訳ではない。だから、涙など出なかった。悔しいとも思わなかった。勝手に席を立ったのだから、自業自得だと思っていた。僕は踵を返して、元来た道を辿ろうとした。
「あー、ちょっとキミ。そっちに行っちゃ駄目だよ」
「え」
「お嬢の
「喰也――」
「オレ様は、無意味な労働をしたくない。オレ様なら、キミを逃がすことができるよ。信じるか信じないかはキミの勝手だけれど、少なくとも、お嬢――こやけの傍に戻るよりは安全だとは、思う」
弐色が何かを言いかけたが、さすがの僕もこの吉報には少なからず興奮していた。死神が僕をあの恐ろしい夕焼けの精霊から逃がしてくれると言う。嬉しさのあまり、そこに恐ろしい罠があることを、まるで気付かなかった。
「既に死んでいるのに、もう一度殺す必要なんてないだろう」
シュッ……。風を切る音と共に、僕の意識は途絶えた。
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