第三章

 幻想的な蝋燭の灯された店内には、ベートーヴェンの月光が流れていた。大きな窓からは夜がおりてきている。すっかり陽は沈み切ってしまった。遠くのほうにぽつりと灰色の雲が見えていたが、あれがこやけの言っていた通り雨の正体なのだろうか。僕はぼんやりとそれを眺めていた。友人が一人帰ったところで、こやけはデザートの注文をしていた。こうしていると、彼女はただの人間のように見える。届いた抹茶ロールケーキを咀嚼している彼女を横に、他の友人へと目を向ける。

「主催は帰ってしまったけれど、この会は続ける?」

「まだ彼女の話を聞いていないから――」

 と僕は返事する。いつになったら、話を始めてくれるのであろうか。その話が如何に僕たちの異常な興奮を求める思いを満たしてくれるのだろうか。僕は期待でいっぱいであった。夕焼けの里の噂は聞いていた。その筋の人間たちには有名な話であろう。だが、この会では誰も触れなかった。有名過ぎて、逆に「今更」と言われるのがわかっているからだ。だが、現状はどうだ。僕たちの眼前にいるのは、夕焼けの精霊――こやけ本人だ。夕焼けの里の話を聞くには絶好の機会だ。彼女に依頼することも今なら難しい話ではない。彼女は言っていたではないか。「皆様の中のどなたかが、私の存在を強く望んでいらっしゃったのです。さあ、どなたですか。私を呼び、私に人殺しを頼みたいとおっしゃる方はどちらにいらっしゃいますか。そして、この中で殺したい相手はどなたですか」と、はっきり言っていたではないか。

 つまり、この中の誰かを殺したいと思っているやつがいるということだ。僕もまたその中の一人でしかない。この中で不審な動きをした人物が、誰かを殺したいと思っている。この『奇談の会』の主催者である紺谷は帰ってしまったから省こう。僕は最初に彼を疑っていた。その筋の者たちの中では有名な、夕焼けの精霊の姿を見て、「アニメのコスプレ」と言ったからだ。彼の演技力は見るに堪えないものであったな、と今更ながらに思う。本物の夕焼けの精霊を前にして、皆奇妙な興奮を隠せないでいたというのに。そんな彼は既に通り雨に濡れているかもしれないが。

 こやけのデザートタイムを待ち、僕たちは彼女が話し始めるのを待った。彼女が聞かせてくれるという優しい悪夢の話が気になった。だが、彼女は話そうとはしなかった。正確には、話すことができなくなってしまった。彼女の言葉を借りるならば「私を縛り付ける道具の一つ」が一昔前の着信音を響かせたのである。それはちょうど黒電話というものの音であった。こやけは僕たちに遠慮することなく、通話ボタンを押す。

「もしもし。ああ、何ですか。もう片付けてしまったのですか。私のほうはこれから依頼を聞くところなのです。貴方と話している時間でさえ惜しいですよ。え。それは録画しておいてください。私の楽しみなのです。再放送なんてしてくれないのですから、お願いします。ええ。そうですね。そういうところでしょう。依頼人が誰かはまだわかっておりませんが、きっとそのうち名乗り出てくださるでしょう。何と言ったって私がわざわざ夕焼けの里から赴いているのですからね。はい。はい。わかりました。何もしなくても、貴方は私をずっと見ているのでしょう。いえ、監視していると言ったほうが正しいでしょうか。ええ。そういたします。では、また後程」

 こやけはスマートフォンを袂に戻すと、店員を呼び、食器を片付けさせた。僕たちは顔を見合わせてその時を待った。この中に、誰かを憎み、誰かを殺したいと思っているやつがいる。このことを考えるだけで、僕は異常な狂気に興奮した。こやけは、にっこりと愛らしく笑うと口を開いた。

「この中で、私に依頼したいという人間はいませんか?」

 僕たちは顔を見合わせた。意思の再確認とはまた違った。この場に居合わせた者たちで相手を疑い始めたのだ。この中に、自分を殺したい相手がいる。それなら、相手よりも早く、そいつを殺すしかない。だが、友人なのだ。他でもない志を共にする同朋なのだ。その同朋を疑うなんて馬鹿げている――とは言えなかった。皆の目つきはすっかり変わってしまっていた。

「フム……まだ名乗りでませんか。ならば、私の話を続けましょう」

 こやけは店員を呼びつけると、グリーンティを注文した。夜は更けていく一方だというのに、奇妙なほどに蝉の鳴き声が店内に響いていた。


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