第二章
俺は、自分では正気のつもりでいるし、人も正気のように取り扱ってくれてはいるが、真実正気であるのかどうかはわかっていない。狂人であるかもしれないし、そこまでいかなくても何らかの精神疾患を患っているかもしれない。今日開かれた『奇談の会』も俺が主催であるというのに、先に帰路についてしまっている。それも、まさか、本当に、夕焼けの精霊が現れるとは思ってもいなかったからである。
『奇談の会』を開くにあたって、俺は様々な怪現象を扱う書物や映像を見てきた。日頃からこのつまらぬ日常を離れたいと思っていたし、幽霊や妖怪などの魑魅魍魎の類に興味があった。そんな中、見つけたのが夕焼けの里の存在である。俺は夕焼けの里について調べているうちに、その里の異常な美しさに囚われていった。実在するかもわからない場所であるというのに、俺の心を捉えて離さなかった。だから、同じように奇怪な現象を好む友人たちを集めて、今日の『奇談の会』を開催した。だが、誰も夕焼けの里の話をしなかった。オカルト好きな人間の内では有名な話だと思っていた俺はひどく落胆した。そんな時である、夕焼けの精霊が姿を現したのは。
俺は最初こそただの物好きなコスプレイヤーが話に混ざって来たのだろうと思っていた。あのような格好のキャラクターもきっとどこかに存在するだろうと思っていた。だがしかし、彼女の話は紛れも無い真実であった。あれこそが夕焼けの里の、夕焼けの精霊の、こやけ自身だと知り、俺は怖くなった。と同時に俺は心の奥底で誰かを憎み、殺したいと思っていることも知ってしまった。もしも人を殺すことができたのなら、それがどんなに狂気な俺の心を満たしてくれるのだろうかとも思ってしまった。だから、俺は逃げ出した。友人たちはこやけの話に飽きて帰ったのだと思っているだろうが、それは違う。俺は怖くなってしまった。自分自身が彼女を呼び出してしまったことに、そして、これから彼女が誰かを殺すという事実を受け入れたくなかったのだ。
「話の途中で帰ってしまうのはどうかと思う」
ふいに、背後から声がした。俺は振り向いてはいけない。振り向いてはいけないと念じながら歩みを進める。振り向くとあちら側に連れ去られてしまう。色々な書物で得た知識だ。黄昏時は特に気をつけなければならない。あの夕焼けの精霊も言っていたではないか。
「『黄昏時の一人帰りは危険ですよ』って、こやけも言っていたはず」
ククッ。喉の奥で笑う声が隣から聞こえた。もう逃げることはできない。俺の脳は一瞬にして事実を受け入れたのだ。そして、見てしまった。声のする方向を。
「こんばんは」
あまりにも呑気な挨拶だった。想像よりも声は高く通っており、裏声で話せば女性でも通じるかのような声であった。俺はこの眼前の人物が誰であるかを知っていた。夕焼けの精霊が見せてくれたスマートフォンに映っていた人物で間違いなかった。もう陽も完全に沈む頃であるからか、日傘は干からびた棍棒のように細く巻かれていた。青空を切り取ってそのまま貼り付けてきたかのような色をした髪。深い海のように透き通った碧い瞳が俺を見下していた。身長は俺のほうが高いというのに、俺は見下されていた。見つめているだけで冷え切るような凍てつく視線に俺は恐怖の他に絶を望んだ。全てが終わると悟ったのだった。俺が求めた『狂気』が笑顔でやって来た。
狂気は――景壱は、俺の目を見て何かを悟ったのか微笑んだ。彼の目に何が映ったのかは俺には知る由がないし、何よりも俺はこの場から逃げ出すことができないという事実を受け入れるしかない。元より逃げるという選択肢を俺の脳は削除してしまっていた。もう何もかもが手遅れになってしまっているのだと思っていた。あの店に残してきた友人も、今頃は夕焼けの精霊に皆殺しにされているのではないかと考えると異常に興奮した。そして、人の死とはこんなにも呆気なく迎えられるものなのだと冷静にもなっていた。俺が殺したい相手があの中にいたのかというと、無意識のレベルでわからない。だが、いたからこそ、夕焼けの精霊はあの場に来たのだろう。
「あなたは、絶を望んでいる?」
しばらく俺の顔を見ていた景壱が声を発した。その声は驚くほどに冷静でいて、感情など無いものであった。例えるなら、楽器を弾いたように滑らかな旋律。
「もう友人たちは殺された頃だろう」
「それを知ったら戻れなくなる。でも、こやけは言っていたはず。『通り雨にはご注意を』って」
景壱は再び喉の奥で笑うと、日傘を広げた。もうすっかり辺りは真っ暗になってしまっているというのに、日傘を広げる意味などあるのだろうか。俺があまりにも不思議そうな表情をしていたのだろう。景壱は俺のほうを見ると言った。
「折り畳み傘は常備しとかんと、な?」
その言葉の意味を知ることができないまま、俺は、翌朝冷たくなった死体として発見されたのである。
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