第六章

 おれは、やっとの思いで便所に辿り着いた。あんなに恐ろしいものが現れるだなんて思ってもみなかったし、主催が先に帰るなんてどういうことだ。あまりの凍てついた空気に小便をするのも一苦労であった。話の途中で抜けてきてしまったが残った奴らがおれを殺すように依頼していたらどうだろうか。このまま逃げるというのも手か。便所を出て、左右を見る。誰もいない。逃げ出せそうだ。

「キミ。何をしているの?」

「うわっ」

「きゃはは。驚かせちゃったかな? ごめんね。でも安心して、僕は人間だから」

 きゃはっと笑った声の正体は、和装の青年であった。一見すると女性のような線の細さをしているのだけれど、声が間違いなく男のものであったので、おれは男だと確信した。それにここは男子便所への通路なのだから、女子がいるはずがないだろう。男にはどこか見覚えがあった。会ったことも話したこともないのだが、見覚えはある。そう、それは数刻前にあの夕焼けの精霊が見せてくれたスマートフォン。確か、眼前にいる男は――

「初めまして。僕は弐色にしき神宮弐色じんぐうにしき。よろしくね」

 丁寧に挨拶をすると、弐色は微笑んだ。安心したのも束の間。こいつは、あの夕焼けの精霊のミセの従業員だ。こうしてはいられない。逃げ出そう。

 足を踏み出そうとした途端。ぐいっと襟を引っ張られた。おれは苦しくてもがく。やはり誰かが既におれを殺すことを依頼したに違いない。裏切り者め!

「あんまり暴れちゃ嫌だよ」

「離せ! くそ!」

「キミが何に怯えているのか大方見当はつくのだけど、僕も暇でさ。キミの名前はなぁに? 僕に聞かせて」

 弐色はおれの襟から手を離した。あどけない子どものように無邪気な笑顔を浮かべている。その姿がおれの心に少しの余裕をもたらした。少なくとも、こいつはおれを殺しに来たのではない。あの夕焼けの精霊――こやけも言っていたではないか。

「呪殺は人を直接傷つけるものではありません。遠隔から不幸を呼び寄せるものと言ったところでしょうか」と。

これだけの近距離でおれに何かをするはずがない。こいつが何故ここにいるかはわからないが、この近距離ならば問題無いはずだ。名を教えたところで、何かがあるとは思えない。こいつも先程名乗っていたではないか。

「おれの名前は、田中久雄」

「ふぅん。タナカ、ヒサオって名前なんだね」

 背筋にゾワリと冷たい感覚がした。これがいったい何を意味しているのか、おれにはわからない。わかったところで、どうすることもできそうにない。弐色は懐から紫色の扇子を取り出すと、ゆっくりと広げ、あおぎはじめた。ふわふわと、蝶が舞っているように、ぼんやりと蝋燭の火が風に揺れている。

「名前を教えてくれたお礼に、良いことを教えてあげるね」

「良いこと?」

「この世で、一番短いしゅは、名だよ」

「名?」

「うん」

 弐色が頷いた。いったい何を言っているのか。

「それは、お前の弐色やおれの久雄というものか」

「そう。例えば、夕焼けとか雨とか闇とか海とかそういう名も呪の一つだよ」

「難しくてよくわからないな」

「呪とは、要するに、モノを縛ること。例えば、久雄というキミの名前。キミも僕も同じ人だけれど、キミは久雄って呪を、僕は弐色って呪をかけられている人ということになるのさ」

 おれはまだ理解が追いついていない。陰陽師は、こんなにも理論的な話をするものなのか。そもそもこれは理論なのか。おれは生憎頭が良い方ではないからわかっていない。

「おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか」

「いいや。キミはいるよ。ただ、久雄って人がいなくなる」

「久雄はおれだ。久雄がいなくなれば、おれもいなくなるのではないのか」

 肯定するでも否定するでもなく、弐色は小さく首を振った。

「眼に見えないものがある。その眼に見えないものさえ、名という呪で縛ることができるよ」

「はぁ」

「ある人がある人を妬んでいる。またある人がある人を羨ましく思っている。その気持ちに名をつけてまじれば、嫉妬になる」

 なんとなくわかってきた気はする。だが、これのどこが良いことなのだろうか。おれは逃げ出す時間を奪われてしまったのではないかと思い始めた。

「さて、暇潰しもできたし、もう良いかな」

 声と共におれの肩に何かが落ちてきた。おれは慌てて何かを払い落とす。ベチャッと黒いものが落ちた。翼が生えている。これは、蝙蝠だ。

「もう逃げることはできないよ。田中久雄さん」

 名を呼ばれただけだというのに、床から蔓のようなものがはえて脚に絡みついたかのような、蜘蛛の巣に引っかかった憐れな虫のような、おれはこの場からぴくりとも動けなくなってしまった。瞬き一つさえできずに、眼球は渇いていく。ザザザザザザ……何かが擦れあう音が頭上からした。音の洪水のように、擦れあう音が耳を侵していく。おれは渇いた眼球で見てしまった。蝙蝠の群を。その蝙蝠たちの中心に、三日月を横倒しにしたかのように狂った歪んだ笑顔の人物を見る。

。これも、呪だよ」

 おれの体は、穢れた翼で月光を覆う蝙蝠たちに飲み込まれた。


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