ep9/9「老人と金属海(うみ)」
「海刃……起動……開、始ッ!」
ブルは激しく咳き込みつつも、倒れ込むようにコックピットシートへと収まる。
再び裏道を通って来た彼は、無事に海刃の下へと戻って来たのだ。
途中、主電源に仕掛けて来たお手製爆弾の起爆に成功したらしく、もはや基地全体が緊急用の赤色灯に照らされている。これで戦闘能力の大半は奪えたのだし、ブルとチャックを追い立てる戦力もしばらく増えることはない。
彼の任務はひとまず上手くいった、はずだった。
どうにも拭えない不安は、チャックが
彼はここに辿り着くまでに、通路という通路から撤退して行く基地要員たちを見て来た。慌ててデータを抜き出す者、備品を持ち出す者、規則に従って誘導にあたる者。およそ百人以上の人員が、この基地をぶら下げている軌道エレベーターに乗って脱出を図るらしい。
だが、どうにも様子がおかしい。
いかに主電源装置を破壊されたとはいえ、ここまで手早く全施設を放棄するだろうか? いくらなんでもおかしい。ブルの直感がそう告げていた。基地が完全に放棄されるにあたって、何か上層部からの命令が下ったのではないだろうか。
そんな彼の脳裏をよぎるのは、撤退準備を進める基地要員の一人が口走っていた言葉だ。
――――『ガイストが制御不能だ! あの亡霊が暴れてるらしい』
――――『馬鹿野郎! その名前は……!』
直後に同僚からたしなめられていたところを見るに、どうやら機密性の高い隠語のようだった。一種の暗号、コードネーム、幾らでも可能性は考えられる。だが、軍でさえも制御不能の何かがこちらへと向かって来ている。それだけは間違いない。
徐々に、上がり切っていた息が収まって来る。
補助動力装置(APU)のアイドリング解除、冷媒循環率規定値に設定。排熱と共に、戦闘出力での急速起動を開始。ブルは手早く再起動プロセスを進めるのと同時に、頭では『ガイスト』なる単語の意味を考えていた。
「ガイスト……幽霊、亡霊か? なにか関係があるのか」
脚部から伸びていたケーブルを引き千切りつつ、海刃は立ち上がっていった。
閉所を埋め尽くすように立ち上がった機体は、その全身に漆黒を纏って行く。頭頂から広がる影があらゆる凹凸を覆い隠し、まるで立体感の無い影絵を浮かび上がらせたようだった。耐圧システムを起動させた海刃は、躊躇なくその両腕を外に向かう隔壁へ向ける。
既に周辺に人が居ないことは確認済みだ。
ジワリと霞む両腕の輪郭は、凄まじい音圧へ跳ね上がっていく超音波に包まれる。こんなもの、屋内で撃って良いような代物ではない。超高温・超高圧たる外界との壁を破ってしまえば、時として惨劇が引き起こされるからだ。無論、ブルとてそんな事は分かっていた。
それでも、一刻も早く『ガイスト』なる脅威と対面しなければならないのだ。あれはまず間違いなく、チャックが
一刻も早く向かわなければ、取り返しのつかないことになる。
「壁ごとぶち抜く……!」
発振半ばの高周波により、海刃を収めていた密閉空間の何もかもが砕かれていく。四方を覆っていた壁面が剥離し、弾け飛び、干渉を始めた音波同士が唸り音を奏でる。波紋を描くように重なり始める音は、苦味すら感じるほどの焦げ臭さとなって鼻孔を満たしていた。もし、この場に生身の人間が居ようものなら、一瞬で赤い霧となって即死するに違いない。
全方向から機体を押し包む暴威の中、ブルはトリガーボタンを押し込んだ。
流れ込んで来る超高圧流体、圧潰する隔壁、乱流に呑まれた小舟のように外へと押し出されていく海刃一号機は、その勢いに翻弄される。上下左右に振られるコックピットの中、ブルは勢いを殺さぬ内に、フットペダルと操縦桿を目一杯押し込む。途端に唸り出すメタルジェットエンジンが安定を取り戻し、機体は隔壁を抜けて瞬く間に加速する。
「チャック、大丈夫か!」
『大丈夫な訳があるかぁ! ヘルダイバーが出て来やがったぞ』
信じ難い言葉に耳を傾けると同時に、ブルは聴覚を研ぎ澄ます。チャック機は40km先の九時方向、ブル機との相対深度-5km付近で浮上を試みているところだった。聞こえる範囲では、四肢は全部くっ付いていて目立った損傷はない。とっくにケーブルは外れているものの、戦闘に支障が出ている様子でもない。
だが、遥か遠方から突き出される
継ぎ接ぎの海刃二号機は、レーザーじみた紫色の音波砲撃に晒されている。今にも絡めとられようとしているが、メタルジェットエンジンを吹かしては寸前で回避していた。ドッグファイトじみた砲撃戦。チャック機も負けじと真っ赤な衝撃波を撃ち出し、暗闇を背景に鮮やかな網を張り巡らせていった。
それは触れれば砕かれてしまう、美しくも致命的な音の網だ。
「離脱しろ! 援護する」
ブルはチャック機に短距離音波通信を飛ばすと同時に、
そして発射。淡色円環を思わせる音が閃くと、海刃一号機からは次々に赤い衝撃波が撃ち出されていく。ガイストを引き剥すように次々撃ち込まれる衝撃波。その砲撃をくぐって、チャック操る海刃二号機はなんとかこちらへ離脱して来る。
遠方から聞こえて来る敵機の反射音は、一時的に遠ざかっていた。異様に大きな両腕、そして背負っている二挺のライフル、敵機の微かなイメージが脳裏に浮かび上がって来た。
「何があった?」
『ワシにも詳しい事は分からん。ただ、奴め、最初は24機の荒巌部隊に同伴していたらしいんだが、こっちに接触する前に急に暴れ出したんだ。そのまま荒巌部隊は撤退、奴だけがお出ましっていう寸法よ』
味方と共にやって来ておきながら、いきなり暴れ出したとでも言うのか。
理解を超えた敵機の行動に、ブルはどう応えればいいのかが分からない。
そして、いくら不意討ちだったとはいえ、瞬時に荒巌一個中隊を退けたという戦闘力に戦慄を覚える。これではまるで大戦期の悪夢、かつて幾多のダイバーを沈めて来た〈ヴォーテックス〉にも匹敵する戦闘力ではないか。
ブルは思わず、かつてヴォーテックスに奪われた左目を抑えていた。
「という事は、あいつ自身が
『ガイストだぁ? 何だって良いけどよ、奴をぶちのめさないと俺たちがヤバいぜ。なにせ奴さん、大戦後に開発された最新のヘルダイバーらしいからな!』
ブルは正面のコンソールパネルに手を伸ばすと、連絡船への通信回線を確立する。
「アイ、連絡船は直ちに進路を変更! 最大加速で基地施設への最接近ルートを取った後、回り込むように潜航だ。ガイストに姿を見せるな!」
『はい』
アイの操船により、基地施設を回り込むようにして加速を始める連絡船。ガイストからちょうど陰になる位置を確保しつつ、潜航しようというのだ。
これでようやく、敵が何に興味を示すのかも判明するはずだった。
単なる発狂の末の行動か、連絡船の撃沈か、あるいはそれ以外なのか。いずれにしても、既に軍による統制を離れたと思しきガイストが何を目的にしているのかは、これではっきりする。
連絡船を背に置く二機の海刃は、それぞれガイストに向けて
ガイストとの相対距離50km、40km。
何の躊躇いもなく距離を縮めて来る敵機は、さながら
そして、これだけ接近しても敵機の進路は変わらない。
もはや狙いは明確だった。
『奴の目的は連絡船らしいなぁ!』
「何の為に」
『そんなこと知るか!』
友軍に牙を向けた機体が、今さらどうして連絡船を狙う?
当初の任務通りに連絡船を狙うつもりなら、どうして味方を攻撃するような真似をした?
何もかもがブルの中で噛み合わない。何かがおかしい。相手のパイロットは狂っているのか? 愚にもつかない想像が彼の裡では広がっていくものの、どれも噛み合わないものばかりだ。
敵パイロットは何を考えている。
「連携して足止めする!」
『あいよ!』
自分の中での迷いを断ち切るように、ブルは操縦桿に込める力を強める。海刃二号機に追随して、ブルが操る海刃一号機はガイストへの距離を詰めていく。
まるで寸分の隙も無い壁を作るように、あるいは
だが、敵機は一瞬たりとも迷わない。
神速の判断で回避機動を見極めると、ガイストの両腕が力強く羽ばたいた。これまで一対だと思われていた巨大な腕から、薄い翼を思わせる両腕部分が分離。さながら大小四枚の羽を生やした天使のように、異形の翼を液体金属水素の只中で広げていたのだ。
『翼だァ……?!』
驚く間も無く、ブルの耳を奇怪な鳴き声が撫でて行った。
まるで百の呻き声、千の断末魔を束ねたような高周波音が
刹那、ガイストはにわかには信じ難い運動性を発揮して、放たれた衝撃波その全てを避けて行く。
人には有り得ない、四本の腕を操るヘルダイバー。
それを見た途端、ブルとチャックは確信した。相手は人間ではない。
「チャック、あいつは人間じゃない! AI制御だ」
『アイみたいに自己進化したってのか? まさか大戦期からの研究が継続されていたとはなぁ……行き付く先はヘルダイバーにAIを積む事だったって訳かい』
「結局、こうして制御できなくなっている」
ふと、ブルの脳裏に浮かぶ疑問があった。
アイにしてもガイストにしても、それ以前に計画されたという無人潜航艇にしてもそうだ。全体からすれば極めて小さな割合だろうが、この
人ならざるAI達は、この
だが、敵がアイを沈めるつもりでいるならやる事は変わらない。たった一つだ。
たとえ相手こそが、この
「アイのもとには行かせん!」
Gに押しひしがれながらも、ブルは双発メタルジェットエンジンを噴かす。
発振開始、しかしガイストの方が早かった。
ブルがトリガーボタンを押し込むよりも早く、ガイストから紫色の衝撃波が撃ち出される。鈍った反射神経で辛うじてフットペダルを踏み込むと、機体の左腰付近を衝撃波が掠めて行った。
途端に襲い掛かって来る、身体がシェイクされるような感覚、神経末端を弄り回されたかのような吐き気。ふらつく目の前を、極彩色の幾何学模様となった音が明滅していく。掠っただけで五感がすり潰されそうだった。
ビリビリと震える装甲が悲鳴を上げるものの、捻り機動でソニックウェポンを回避した海刃は更に距離を詰めていく。
接触寸前、ブルは今度こそトリガーボタンを押し込んだ。まるで的にして下さいと言わんばかり――――馬鹿でかい羽に向けて、ギリギリの距離からソニックウェポンを撃ち込む。
敵機の反応速度は異常な域に達している、とはいえ回避し切る事は出来なかった。大きな翼のような主腕の端に衝撃波が着弾すると、音圧に耐えかねた表面装甲が剥離。ガイストはそれまでの高速が仇となって、大きく元の進路を外していく。
『ブル!』
海刃一号機の周囲に衝撃波が降り注ぐ。チャック機が援護の火線を寄越して来たのだ。
ブルは全身に走る鈍痛を堪えながらも、口元を僅かに歪めていた。年齢を忘れたかのような激しい戦闘機動を駆使してまで、無茶な接近を挑んだ甲斐はあった。
「はっ、一発当ててやったぞ!」
これでガイストは、こちらにも目を向けざるを得なくなったはずだ。暴走した戦闘AIの思考など知る由もないが、とにかく海刃二機を無視できない存在だと思わせることが出来れば良い。
鬱陶しいハエを払うために、敵は連絡船から目を逸らすことだろう。
実際、ガイストは連絡船へと向かう進路をズラされたからか、今度は海刃への接近ルートへと乗っていた。敵機加速、接触予想24秒後。
二機の海刃は、それぞれ後退しつつ相対速度を殺していった。足止めを図る。
しかし、次の瞬間、ブルは自らの見積もりが甘過ぎた事を思い知らされた。
ガイストはふと連絡船への執着を思い出したかのように、機体姿勢を転換。こちらへと向かいつつも背面から二挺のライフルを展開する。すると、あろうことか基地施設に向かってその砲口を向けたのだ。
恐らくは口径12.7mm、砲身長6m以上。ヘルダイバーの証たる
「なっ……!」
ガイストが何の躊躇もなく基地に撃ち込んだのを見て、さしものブルも言葉を失う。
まさか連絡船を沈める為だけに、その直線上の障害物を排除しようとしたのか。狂っているにも程があると吐き捨てつつ、彼は咄嗟にメタルジェットエンジンを再噴射。離脱を図る。
それよりも早く、隔壁表面で炸裂した
だが、ガイストは止まらない。
立て続けに五発もの弾頭を撃ち込むと、一度開けた穴の内部から次々に施設を破壊していった。全長数十kmにも及ぶ巨大構造物が、内部に熱核弾頭数百発分の熱量を抱え込む。容赦なく炸裂する数千万℃の火球は、超高圧に耐え得る隔壁そのものを蒸発させていった。
メインシャフトは蒸発し、隔壁は吹き飛び、数百万気圧にも及ぶ液体水素が何もかもを砕いて行く。元は逆さキノコのようだった基地施設だが、もはやその傘部分の八割以上は崩壊し掛けている。つい数分前までは平穏無事に存在していたことなど、今では信じ難い。
たった数発の
まるで幾千の雷鳴が轟くかのように、
無数に発生したデブリは、数百m四方から数m四方のものまで、それこそ寸分の隙間も残さぬほどに漂い始めている。海底へと沈んでいく
『野郎、まさか基地を潰すなんてなぁ……正気じゃねえ』
「人員の退避は終わっていたはずだからな、それだけが救いだろう。アイも無事らしい」
『ただな、これ以上撃たれたら、今度こそ連絡船は沈められちまうぜ』
「その前に叩き潰す。あれで行くぞ」
『あいよ、分かってらぁ。お前さんがやれよ』
ブルはチャックの言葉に対し、機体にライフルを構えさせることで応える。
海刃二号機はメタルジェットエンジンを作動させつつ、ガイストが漂っていると思しき海域に
一方、ブルは手頃な位置に数十m四方のデブリを聞き取ると、反射音を頼りに機体を取り付かせる。さながら生身の狙撃手のように、海刃一号機はデブリの上でライフルを固定していた。伏せ撃ちの体勢は、前面投影面積を最小限に抑える。未だ轟音が収まり切っていない悪条件下、推進装置を止めた機体を探り当てるのは困難極まりない。
なによりこのデブリの中では、ダイバーは自在に動けないはずだった。それは相手にとっても同じ事で、こちら諸共、相手の機動性を封じ込める事もできるのだ。あの化け物を同じ土俵に引きずり出すにはこれしかない。
チャックが囮でブルは本命。これで数多の敵機を葬って来た。一度だけ失敗したが。
『掛かった!』
チャックの言葉に先んじて、海刃二号機をレーザーじみた衝撃波が掠めて行く。闇を背景に浮かび上がる軌跡の先には、勿論、殺意に溢れるガイストが控えていた。海刃二号機とガイストは激しく衝撃波を撃ち合いつつ、鮮やかな赤と紫に彩られた音を描いていく。
ブルは必死に耳を凝らしつつ、二機の現在位置を脳裏に詰めて行く。
トリガーボタンに力を込めたブルは、しかし、不意に首を巡らせたガイストの動作に凍り付く。何故かは分からないが、海刃一号機の位置に勘付かれていた。
――――これはマズい!
若い頃なら、ここで即座に離脱動作に入れていたのかもしれない。しかし、悲しいかな、ブルの反射神経は老いて錆び付いているも同然だ。ガイストが動いたことに気付いた瞬間、彼は咄嗟にフットペダルを蹴り込むも、襲い来る
デブリに突き刺さる衝撃波は、狙い澄ましたかのようにライフルを直撃していた。
まるで薄い三日月のような衝撃波が長砲身を分断し、いとも容易く破壊。狙撃の要であるライフルを失ったブルは、ガイストが今度こそ
だがその時、彼はチャック機の方から飛んで来る何かに気が付いた。
『ブル、こいつをオオッ!』
高速で飛んで来る物体は、随分と大きい。ブルは咄嗟に物体を受け取ると、その衝撃で機体ごとハンマーに殴られたような衝撃を味わう。視界一杯に広がる青い衝撃音を堪えると、受け取って初めて物体の正体に気付いた。チャック機から全力で投げ付けられたのは、装填済みのライフルそのものだ。
だが、これは今ここにあってはいけない。チャックが持っているべきものだ。
――――お前はどうする!
彼が言葉にする間も無く、海刃二号機はガイストに向けての突撃を敢行していた。
ガイストはブル機への砲撃を中止し、代わりに特攻じみた勢いのチャック機に照準を固定。容赦なく撃ち放たれた紫の衝撃波は、海刃の腕をもぎ取り、頭部を抉り、瞬く間に戦闘力を奪い取って行く。それでも、ブルを背にするチャック機は突撃を止めようとしない。
無言の裡にもその背中は言っていた。『撃て』と。
ブルはその覚悟を理解した途端、半ば反射的に狙撃体勢に入っていた。
チャックの突撃によって稼がれた数秒、この間に今度こそ撃つ。紛れもない彼の意思で押し込まれたトリガーボタンは、
しかし、ガイストの四肢から高出力の衝撃波が迸ると、一見、無造作にも見える動作で辺りが撃ち抜かれる。敵は恐らく、射撃タイミングを完璧に読んでいた。衝撃波の内の一本は、直撃コースに乗っていた弾頭を即座に弾き飛ばしていた。
――――渾身の一発は、不発に終わる。これでもガイストには届かない。
ブルは意識するともなく、即座に次弾装填に移っていた。
しかし時間が足りない。反動制御のせいで反応が遅れる、間に合わない。
ガイストは今度こそ二挺のライフルを構えると、それぞれの海刃を砲口に捉える。欠片ほどの躊躇も無い洗練された動作。たとえ僅かな回避をも許さぬタイミングで、
あの距離、タイミングで避けるのは不可能だった。
海刃一号機の左胸部に食らい付いた
ブルが着弾を知覚した頃には、既に歪んだコックピットフレームが破片を撒き散らしていた。機体を包み込む強大な衝撃波、一面真っ白にホワイトアウトする聴覚。激震するコックピット内を暴れ回る無数の破片は、モニターを割り、身体の至る所を切り裂いて行く。もはや身体のどこが無事で、どこが残っているのかも分からない。
激震が収まった頃になってようやく、ブルは開けたはずの右目が闇に閉ざされている事に気付いた。瞼を開こうとしても、閉じようとしても、右目に映り込む世界は真っ暗な霧に覆われている。全身をねっとりとした温かさが滴り落ち、どうしようもない倦怠感が襲っていた。
痛みは無い。吐き気と痺れと、焼けるような熱さがあるだけだ。
奇跡的に破れずに済んだらしい鼓膜は、機体の断末魔を聞き取っていた。
明らかに循環系が破断していると思しき異常音、端から圧潰しつつある左腕付け根、全身の装甲に刻まれた
それだけ聞けば、はっきりとしない頭でも充分に理解できる。
これは一般的な基準で定義されるところの、敗北というやつだ。
パイロットも機体も死にかけて、この超高圧の
間違いなくそれが常識で、且つ賢明な判断であるはずだった。
これで終わりなのか?
――――それでも、違う。
今のブルに見えるのは、音だけが照らす世界。
もはや光を失った視界に映り込むのは、幾何学模様を浮かばせる極彩色の世界。
だからこそ、彼は心中で確信する。まだやれる。
たとえ光を失おうとも、未だ潰れていない耳を澄ませば良い。体内で開き切った金属花が見せてくれる、聴覚だけが頼りの絶対孤独の海。この
今さら何を躊躇う事があるだろうか。戦いはここからだというのに。
「こんな所で……俺は……」
78年も生きて来て、未だ何も為していない。奪う事以外に何も為していない。
だからこそ――――ここで命を掴むのだ。答えを掴むのだ。
これまで無為に生きて来た半世紀。その人生の価値を問う為に、操縦桿とフットペダルへ全神経を込める。この期に及んで燃え上がる炎は、まさしく老兵が全てを賭して輝かす執念。アイを守り通す為の力を絞り出してなお、燃え尽きようとしない命の輝き。まるで走馬灯のように記憶が駆け巡っては、自らの言葉を心に刻み付けて行く。
――――そこに連れて行ってやる。俺の全てを賭けてでも。そう誓った。
――――奪う為では無く。アイを守り切るだけの力が欲しい。そう願った。
あれは嘘だったのか? 違う。
超深海層へと送り出してやること、それがアイに贈ってやれる最初で最後の花束だから。こんなところで寝ていることは許されない。自分が許さない。
〈アイに花束を〉。チャックとの間でそう名付けた作戦は、まだ何も達成できてはいないのだ。だからこそ、ブルは諦める事が出来なかった。命を燃やし尽くすまでは止まるつもりもなかった。終わり掛けた人生を捧げるならば、全てをこの瞬間に賭けてやる。
だからこそ海刃に問うのだ。お前はまだやれるのかと。
「最期まで付き合ってくれるな、海刃ッ!」
血まみれの両手で握り締める操縦桿の感触はどこか遠い。
だが、それでも――――操縦桿から微かに伝わって来る微振動。それが答えだった。
息を吹き返した海刃は、もはや満身創痍となり果てながらも全身に電力を叩き込む。ブルは未だに残っているレバースイッチの一群を、記憶を頼りに端から押し倒していく。もはや意義を失った機体保護システムを停止、機体に備わる
既にひび割れた機体フレームが揺らぐとも、アクチュエータが砕けようとも、もはや止まる道理はない。老兵は全てを捧げる、海刃も全てを捧げる。遥か昔に
全てはこの時の為に、たった一つの誓いを遂げるために。
それだけで構わない。それ以上の理由など、要らない。
「行くぞ」
既に限界が近い機体は、全身を軋ませながら弾丸の如き速度で弾き出される。
聞こえて来る音は、何もかもが明瞭だった。プランターの最期、金属花が開きかけるタイミングで以て最高潮に達するという共感覚能力。身体感覚の全てが痺れているというのに、聴覚だけはこれまで体験したことが無い程に冴えわたっていた。
砕けた歯を食いしばりながら、目一杯の力を振り絞って操縦桿を押し込む。海刃は液体金属水素をライフルで切り裂きつつ、減速する素振りすら見せずに弾頭を射出。一射、二射、続けて襲い掛かって来る発射反動を巧みにいなし、正確無比な狙撃をガイストに叩き込む。
着弾、敵機の足を粉砕。着弾、敵機の主腕を根元から吹き飛ばす。
これまでは届かなかったガイストに、絶え間ない攻勢の手を伸ばしていく。
今のブルには、僅かな温度差によって屈折した反射音さえ判別できる。音がどう曲がるのか、どこで曲がるのか。密度差による
何も無いはずの海域へと、
全ての
海刃周囲で逸れて行った超高密度弾頭は、幾つもの残骸を貫いて彼方へと飛んで行く。
こうなった今だからこそ、辿り着けた境地だった。
――――全てを燃やす、もう何も残らなくて良い。
回避し切れなかった紫の衝撃波が、海刃の左脚部を抉って行く。既に無数の
あまりの音圧にブルの意識が飛び掛ける。しかし、彼は朦朧とする意識の中で被弾箇所を
互いに止まる気配はない。海刃とガイストは真正面からぶつかり合う。
同じくらいに傷付いた鉄巨神同士が、装甲を削り合い、超高圧の中に自らを圧潰させて行く。機体が軋むほどの衝撃がブルを襲い、嫌な音と共に幾つかの肋骨を砕いて行った。まるで身体が痛覚すら忘れてしまったかのように、もはや痛みさえ感じない。
同じだな。ブルはそう感じていた。
人だろうがAIだろうが同じだ。何も変わりはしない。今、痛んでいるのは心の方だ。
――――そうか、お前も怖いのか。
ブルは霞みつつも、刃物のように冴え切った思考の中で直感する。
ガイストは、その中に納まっているはずのAIは、この
幾度も、幾度も、海刃とガイストは互いに衝撃波を撃ち込み合う。
何度も、何度も、海刃とガイストの刃物めいた四肢が互いを削り合う。
機体が壊れていく、崩れていく。もう何もかもが限界を迎えようとしていた。
「……これで、終わりにしよう」
声になったかどうかも分からない宣言と共に、ブルは精一杯の力で引き金を引いた。
海刃から放たれた
まるで鏡合わせに描かれたかのような弾道は、中央で僅かに交わり合っている。二つの
海刃の胸部直上へと食い付いた弾頭、ガイストの脇腹至近へと辿り着いた弾頭、二つの
そして、果ての無い
どこまでも深く、深く、残骸は沈み込んでいく。
数ある残骸の一つとなり果てた海刃とガイストは、もはや見付ける事が出来ない。
* * *
「うっ……ワシぁ、今どこに」
気付けば、チャックは大破した海刃の中で意識を取り戻していた。
凄まじい衝撃波に揺さぶられて流された機体は、かなり流されている。推進機関も僅かしか動作しない。弱弱しくも作動するメタルジェットエンジンを吹かし、チャックは海刃とガイストが交戦していた戦域へと必死に向かおうと試みる。あまりに遅い、一体どうなったのだ。
ブルは、アイは、ガイストは―――――。
チャックは精一杯耳を澄ましてみると、段々と湧き上がって来る恐怖と喪失感に耐えなければならなかった。交戦していた場所には、もはや残骸以外には何も漂っていない。それが意味するところを悟った時、チャックの胸には思わず熱いものが込み上げて来て顔を歪めて行った。
あいつは、本当にやり遂げたのだ。
「……やりよった、あいつはやりよったぞ!!」
その時、付近を漂う残骸が装甲に接触し、仄かに青い音が視界に広がった。
まさかこれは――――。衝動に突き動かされるチャックは操縦桿を軽く押し込み、決して小さくはない残骸に左腕を伸ばす。既に千切れかけている鋼鉄の腕は、まるで抱き締めるように残骸を胸元に引き寄せた。
想像を絶する熱で焼かれた装甲板、剥き出しのフレーム、殆ど消し飛ばされた異形の翼。間違いない。残骸の正体を理解したチャックは、その胸部に収まっているはずのコアディスクが稼働状態にあることを確認する。
ガイスト。ブルは自らに襲い掛かって来たAIからでさえ、奪おうとはしなかった。最後の最後まで、アイを護る為だけにその力を振るったに違いなかった。
ブルは本当に馬鹿で、ちっぽけで、どうしようもなく偉大な事をやり遂げていた。
気付けば、腹の底から笑っていた。乱暴に顔を拭っていた。
チャックは勝手に歪み出す顔面を隠すかのように、手のひらで顔を抑えつける。余命半年も無かった爺がこれほどの任務を遂げた事が、愉快で、痛快でたまらなかった。
たった一つの願いの為に、ここまで馬鹿になれる爺は他にいるまい、この無限にも思えるほどの
チャックの指の間からは、どこまでも熱い水滴がこぼれ落ちていく。
「お前さんは本当に馬鹿野郎だよ……
この果てしない
何を今さら惜しむことがあるだろうか。
そしていつだったか、若き日のブルの言葉をチャックは思い出す。ブルは帰艦後にコックピットから降りて来ると、決まって『
果たして、友は一体何を聞いていたのか。結局、聞けずじまいだ。
でも、きっと――――きっと、今は静寂が彼を包んでいる事だろう。
「ブル、そこはもう静かになったろう……ぐっすり眠れるはずだぜ」
そして、そう遠くない再会の時を信じる。それまではほんの少し、ほんの少しだけ顔が見られなくなるだけだ。数年に一度会っていた今までと、何も変わりはしないのだ。チャックの拳はぐっと親指を突き出し、最高の力強さで以て戦友の奮闘を称える。
人生最後の大深度ミッションの成功を祝して。
そう遠くない日に訪れる再会を願って。
チャックはもう、不揃いな前歯を剥き出して笑っていた。
「そっちで少しだけ待ってろよ。今だけは、あばよ……相棒」
* * *
感覚という感覚がぼんやりと薄まって行く中、ブルは真っ暗な無に呑まれようとしていた。目も耳も、そして身体も、今はあるのかどうかさえ分からない。限りなく死に近付いているという実感が、直感的な理解として浮かび上がって来る。
最後に、会っておけばよかったな。
薄雲のような後悔を覚えた彼は、もう叶わぬ願いと知りつつもアイを想う。
すると、既に光を失ったはずの視界に白い何かが閃く。それは雪が降り積もるようにワンピースの形を成して行くと、穏やかな春を思わせる光に包まれて行った。ちっぽけな画面に描画される立体モデルでは無く、まるで生身のように。そこに佇んでいるかのように。どこまでも穏やかな微笑みを浮かべる少女は、こちらを振り返ると、一層その笑みを深める。
アイが来てくれた。それだけで全てが報われる気がした。
幻覚かどうかなど、現実かどうかなど、もはや些細な問題でしかない。
そうかここまで来てくれたのか。
お前は、優しいな。いつだって俺の傍にいてくれた。
ただの妄想だっていうのは分かっている。
それでもお前は俺にとってのたった一人の家族で――――。
思わず、アイに向けて腕を伸ばしていたブルは、手を包み込む温かさに安堵を覚える。これまで触れることも叶わなかった
そうか、ありがとう。ありがとう。
そしてすまない。もうよく聞こえないんだ。何も見えないんだ。
身体が動く内にそう言ってやれば良かった。何十年も居たのになぁ。
眠気にも似た感覚の中、ブルの脳内は音が織り成す景色に満たされる。
きっと、アイが聞かせてくれているのだ。体内で開き切った金属花に耳を澄ませば、既に絶えた視界に映る幻でさえそう信じる事が出来た。アイが目指していた場所、送り届けてやりたかった場所。もう自分は見られない情景だというのに、それでも鮮明に景色が見える。情景が聞こえてくる。
「そうか、お前が行きたかったのは……」
ブルに
この
〈アイに花束を〉。
アイに贈るべき花は、
全てはこの
『行ってくるね』
ああ、そうか。もうそろそろ時間だったな。
いってらっしゃい。
アイの姿が遠ざかる。音に照らされた
何も残らなくて良いとさえ覚悟したのに、ブルの手にはともすればかき消えてしまいそうな温かさだけが残る。触れられるはずも無かったアイの手は、そこに儚い残り香のような温度を残していったのかも知れなかった。
こんなことは有り得ない。理性が囁く。
でも、信じたって良い。心が告げる。
この温度が、温かさこそが、最後の半年で動き出した人生の答えになり得るのなら。この手に残るものはあまりに大きい。老兵には過ぎるくらいに、重くて、愛おしくて。
だからこそ、ブルの胸中に残るのは悔いではない。哀しさでもない。
ただ充分過ぎると思えるくらいの、満足感だけがあった。
何もかもが終わり行く静寂の中に、不可思議な歌声が響いているようにも聞こえる。それはまるで別れを歌う鯨の鳴き声、あるいはどこか優し気な海鳴りの音。今まで聞いたことも無い、言い知れぬ歌は、ブルを温かな闇へと誘っていた。
――――ああ、これでやっと眠ることができる。
『……お……なさい……、おやす……なさい』
もはや現実のものかどうかも分からぬひび割れた音が、鼓膜を震わせる。
破壊し尽くされたコックピットの中、ブルは静かに意識を閉じて行った。
長い、長い眠りに、その傷付き切った身を委ねるように。
全ての力と重さが、抜けて行く。
その昔、誰かが伝えた。
――――若い人の栄えはその力、老人の美しさはその白髪であると。
その昔、誰かが語った。
――――老兵は死なず、ただ消え去るのみだと。
木星の
儚い達成感を胸に、絶対なる静寂の中に。
ブルを迎え入れる
水無き海のラストダイバー【完結済】 鉄乃 鉄機 @43121523
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