カレーでGO!

水谷 悠歩

カレーでGO!

「博士、今回のテーマは何ですか?」

「学校給食の人気メニューであり、学生やサラリーマン、そして何よりも全国一千万人の主婦の味方である、国民食・カレーライスを題材とする。タイトルはズバリ『カレーでGO!』じゃ」

「何とも安直なタイトルですが、懐かしの某有名電車ゲームにあやかろうという目論見でしょうか」

「いや、国民的ボール投げゲームを連想する者が多いやもしれぬ」

「人によっては、英雄カプセルトイの方かもしれないですね」

「戯れはこれくらいにしておこう。さて、さっそく本題に取り掛かりたいところじゃが、その前に諸君に一冊の本を紹介したい。料理研究家・森枝卓士氏の著書『カレーライスと日本人』である。カレー色の表紙が特徴の講談社学術文庫じゃ。先にも軽く触れたが、日本の家庭料理の定番メニューとも言えるカレーライスに関して、その定義から歴史まで分かりやすく説明しておる良書である」

「オフレコですが、今回のテーマのネタ元になります」

「さて、今回の講義では、日本のカレーのルーツについて話をしようと思う」

「まずは業界・学界の定説などを教えてもらえますか」

「そもそも、カレーが日本にいつ伝来し、それがどんなものであったかについては諸説あり、誰もが頷く定説というものは存在しない。例えば、ハウス食品のウェブサイトに掲載されている『カレーの日本史』によれば、幕末期に幕府から欧州に派遣された使節団一行が、フランス船上で働くインド人が『飯の上ヘ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す』姿を目撃しており、これが日本人のカレーとのファーストコンタクトであったとしている。文久三年、西暦で言えば一八六三年――明治維新の五年前の出来事である」

「このカレーが日本に伝わったのでしょうか?」

「違うじゃろうな。この『手でこね回して食べる』というのはインド式の作法であり、スプーンを用いる日本の食べ方とは明らかに異なる。しかも、先の文献は三宅某という人物の日記だが、インド人の食べ物に好印象を抱くどころか『至って汚なき人物なり』と、侮蔑的な目で見ていたことが分かる。さもあらん、箸で食することに慣れ親しんだ者にしてみれば、彼らの作法はひどく行儀の悪いものだったに相違ない。これでは食べる気は起こるまい」

「その他の資料ではどうなんですか」

「明治三年にアメリカに留学した物理学者・山川健次郎が、その往路で『ライスカレー』を始めとする西洋食に出会ったと後年に記しておる。だが、西洋食独自の匂いに馴染めず、結局は食さなかったらしい」

「西洋食の匂いですか。確かに和食の醤油や味噌とは違って、肉やバターの香りは獣系の匂いですから、当時の日本人にはきつかったのかもしれませんね」

「確実な資料としては、明治五年に敬学堂けいがくどう主人が書いたとする『西洋料理指南』が、日本で最初のカレーのレシピとしてよく紹介されておる。肉材としてニワトリやエビ・タイ・カキ、そしてなんとアカガエルを使用するとしているところが何とも印象深い」

「あ、あのゲコゲコ鳴くカエル、ですか?」

「いかにも」

「あまり想像したくない味ですね……」

「何を言う。確かに現代人には馴染みが薄い食材やもしれんが、日本でも戦後しばらくまでウシガエルを食用として養殖していたことを忘れてはいけない。また現在でも、中華料理やフランス料理ではカエルは高級食材なのだぞ。くせがなく柔らかで、それでいて弾力性のあるあの食感は何とも言えん美味じゃ」

「博士、博士、よだれが垂れています」

「……続けよう。同じく明治五年に発表された仮名垣かながき魯文ろぶんの『西洋料理通』に登場する『カリード・ヴィル・オル・ファウル』が、日本で最初のカレーのレシピだとする文献もある。ここで注目すべきは、『西洋料理指南』と『西洋料理通』の二冊が刊行された『明治五年』という年が、日本カレー史において最も重要な時期であるということである」

「いったい何があったのですか?」

「禁忌であった肉食が解禁になったんじゃよ。世界的に極めて珍しいケースなのじゃが、仏教徒が大半を占めておる日本では長い間、肉を食べることが重大なタブーとされてきた。しかし、文明開化の名の元に西洋文化がどっと押し寄せてくると、その歯止めも効かず、あちこちで公然と肉が食べられるようになった。政府としてはこれを弾圧するわけにはいかなくなったんじゃろう、明治五年の初めに明治天皇が世にも奇妙な『肉食宣言』をし、程なく政府からのお触れとして公式に肉食が認められると、我が国にもようやく肉食文化、ひいては洋食文化を育てるための下地ができ上がったというわけじゃ。カレーだけでなく、カツレツやコロッケ、オムライスなど、我々がよく口にする洋食の大半は、この時期に輸入され、日本独自の味への改良に成功しておる」

「では、明治以前の人々はベジタリアンだったのですか?」

「それは早とちりじゃ。まったく肉を食べなかったわけではない。時期にもよるがほとんどの場合、魚や野鳥などは禁止動物の数に入らず、重要な動物性タンパク源として食されてきたし、その他の山の獣も色々と理由を付けて食られていた。――いのししを『山鯨やまくじら』と呼び、『海のもの』として扱っていたのがいい例じゃ」

「それと同じような話、聞いたことがあります。兎を『一匹二匹』と数えずに、鳥のように『一羽二羽』と数えるのも同じ理由ですよね?」

「左様。江戸幕府の五代将軍・綱吉の発した『生類しょうるいあわれみの令』が人々から非難された所以ゆえんは、当時の日本人が肉食であったからに他ならぬ。しかし誤解なきように断っておくが、熱心な信者の中には一度たりとも動物の肉を口にしたことのない者もいたはずじゃ。ただ、そうでない者が多数おったのも紛れもない事実じゃの」

「その辺りの事情は、現代にも通じるものがありますねー」

「さて、この肉食解禁後に公にデビューを果たしたカレーであるが、注目すべき点がある。それは『カレー粉』を用いてカレーライスを作っているということじゃ」

「何が重要なのですか?」

「カレーの本場・インドでは、それぞれの家庭で百種類以上のスパイスを混合し、調味料として使用する。この作業が料理の要となるのじゃ。ブレンド具合によって地方独自の味、そして家庭の味ができ上がる。従って、日本のスーパーやデパートなどで売っている、ブレンド済みのいわゆる『カレー粉』や『カレー・ルー』なるものは存在しないと考えた方がよい」

「便利なのにどうして使わないんでしょうね?」

「こんな例えはどうじゃろう。日本でも最近はインスタントの『ダシ入り味噌汁の素』があるが、あれを使った味噌汁を飲みたいと思うかね?」

「たまにならいいですけど、毎日だとちょっと嫌かもですね」

「それに同じ感覚だと思えばよろしい。味噌は味噌、ダシはダシで別々に扱う。それが味噌汁に対する基本的な姿勢じゃ。インドのカレーも同じこと。スパイスを独自にブレンドするところから始めるのが、インドでのカレーに対する基本姿勢なのじゃ」

「つまり、日本に入ってきたカレー粉はインド産じゃないということですね?」

「うむ。結論から言えばイギリスのものである。インドを植民地としたイギリスは、時間を掛けながら現地料理カレーを自国の料理に取り込んだ。その過程で、イギリス食に合わせて、手間の掛からぬ混合香辛料・カレー粉が作られたのじゃ。洋食業界では有名な話だが、日本で最初に紹介された西洋香辛料はイギリスのクロス・アンド・ブラックウェル(C&B)社のカレー粉で、その後、洋食の定番香辛料として用いられた。だが、大正から昭和の初めに日本国内で安価なカレー粉が生産できるようになると、カレーライスは爆発的な勢いで庶民に浸透し、国民食と化した。今の日本カレー業界を支える雄のほとんどは、この時期に創業を開始しておる」

「へー」

「余談ではあるが、最近は日本のカレー粉やルーがインドに輸入されているという話を聞く。手軽さが受けたのじゃろう。インドからイギリス、日本に渡り、百年以上の時を隔て、別の文化としてまたインドに戻ってきたというわけじゃな。何とも面白い話ではないか」

「なるほど。明治から西洋食としてカレーが食べられるようになったことから考えると、日本におけるカレーの原点は、幕末から明治の初めくらいなのは間違いなさそうですね」

「それはどうかな」

「というと……ひょっとして、何か新たな発見があったのですか?」

「東京神保町のとある古書店で、日本におけるカレーのルーツを遥かに遡る歴史的資料を発見した。その名も『蘭食らんしょく事始ことはじめ』、著者はかの林羅山はやしらざんである!」

「あのー、博士。その林羅山って、確か有名な人ですよね?」

粗忽者そこつもの、いきなり盛り下げるではない。――林羅山とは、徳川幕府の初代将軍・家康に御伽衆おとぎしゅうとして仕え、その後も秀忠・家光・家綱と四代に渡り幕府に貢献した、日本儒学の祖とも言われる人物じゃ。江戸初期の法令や外交・典礼などに深く関与しておる。身近なところで言えば、林家の家塾からスタートし、後に幕府直轄の機関となった『昌平坂しょうへいざか黌問所がくもんじょ』は東京大学の前身である」

「つまり江戸初期としては最高水準のインテリだったのですね」

「その彼が長崎の平戸ひらど出島でじまから発信される異国の情報に興味を抱いたのは当然のことじゃな。まずは序文からご紹介しよう」



【原文】

 それ、西洋の人、漸々やくやく我が西鄙せいひに船を渡せしは、ようには交易にせよ、いんには邪教を広めんと欲する所ありてなるべし。故に其のわざわいおこりしを、国初こくしょ己来いらいはなはだ厳禁の事とはなりし。


【現代語訳】

 西洋人が我が国の西の果てに船でやって来たのは、表向きの理由は交易であったが、真の目的はキリスト教の布教にあったのは紛れもない事実である。後年、キリスト教が元で戦乱が起きたため、幕府成立の初期より事実上の入国禁止となった。



「何とも攻撃的な出だしですね」

「人目に触れることを必要以上に意識したのか、幕府お抱え学者としての血が騒いだのか、この後、キリスト教に関する驚きの放送禁止用語が延々と続いておる」

「大家といえども、やっぱり人の子なんですねー」

「いや、仕方ないというのが正解じゃろう。これが執筆されたのは正保二年(一六四四年)であるが、六年前(一六三七年)に江戸時代最大規模の一揆『島原の乱』が勃発しておる。幕府は四ヶ月もの時間をかけてこれを鎮圧すると、鎖国政策の強化に乗り出した。一六三九年にポルトガル船の来日を禁止し、一六四一年にオランダ商館を平戸から出島に強制移転させた。その後、二〇〇年もの長期に渡り、我が国と西洋との接点が出島のみになる」

「学校の歴史の時間にも勉強しました」

「それで、ようやく本題の蘭食のご登場というわけじゃが――」



【原文】

 今時いまどき、長崎では蘭食らんしょくふ食物もっぱら作られ、志を立つる人はく学び、無識むしきなる者はみだりにこれを誇張す。はじめ出嶋でじまの三好流と云ふ調美ちょうびの一家なり。此家このいえは、其の初、南蛮なんばん船の通詞つうし三好みよし庄兵衛しょうべえと云へる者にて、彼国かこくの料理を伝へ、平戸ひらどにて船人せんじんほどこせしか、其の船の入津にゅうしん禁止せられて後、又、紅毛こうもう通詞となり、其の国の料理もつたえり。其れ賄事まかないごとの事は其の教え方、すべじつくをもっせんとすれば、おきな家主やしゅに従ひ学び、西洋薬膳せいようやくぜんなる蘭食を取得しゅとくせり。


【現代語訳】

 最近、長崎では蘭食という料理が作られており、志を立てている者は懸命にこれを学び、理解していない者はみだりに誇張している風潮がある。その初めは、出島にある三好流という、料理で名の通った家系である。その祖はポルトガル船で通訳をしていた三好庄兵衛という者で、彼らの食事を学び、平戸で船人たちに料理を作っていたのだが、ポルトガル船の入港が禁止されてからは、今度はオランダの通訳となってオランダ料理も学んだと言う。まかないは身体で覚えることが第一であるので、私もこの家の主人に従って学び、西洋薬膳という蘭食の作り方を会得えとくした。



「『西洋薬膳』――これが博士の言う『カレー』ですか?」

「いかにも」

「しかし、カレー本場のインドですが、先ほど、イギリスの植民地だって言いましたよね。敵国とも言えるオランダやポルトガル経由で日本に入ってくる可能性はあるのでしょうか?」

「仮にも学問のならば思い込みで物事を語ってはならぬ。ヨーロッパとインドの関係は、一五九八年にバスコ=ダ=ガマのインド到着に始まるのだが、その後、彼の出身地ポルトガルだけではなく、イギリス・オランダ・フランスと、大航海時代後半を代表する列強国はこぞってインドへの進出を狙った。彼等の目的は、肉料理には欠かせない魔法の種子・胡椒こしょうである」

「胡椒と金が同じ値段だったという逸話は有名ですねよ」

「うむ。莫大な利益をはらむインドを巡り、列強国の間で激しい争いが繰り広げられたのだが、最終的に勝利したのが大英帝国・イギリスなのである」

「つまり、イギリスが牛耳るまでは、オランダもポルトガルもインドと関係があったというわけですね」

「もう一つ注意すべきことがある。そもそも、カレーを食しているのはインドだけではない。アジアにはカレー文化を持ち、なおかつオランダ領やポルトガル領であった植民地が多数ある。それらから伝来した可能性を誰が否定できよう」

「分かりました。もう一点、確認ですが、この『西洋薬膳』がカレーだと断言できる証拠はあるのでしょうか」

「ある。林家の伝書の一つである『林翁記はやしおうき』という書物に、偶然にもこの『西洋薬膳』のレシピが残っておった。今回は子孫の方に連絡を取り、特別に公開の許可をいただくことができた。もちろん本邦初公開じゃ」



●西洋薬膳之製法

 鬱金うこん数箇、鷹爪たかのつめ一掴ひとつかみねぎ一茎ひとくき生姜しょうが半箇、にら少許しょうきょ罌粟実けしのみ少少をうすにて粉砕し、水一合に醍醐だいご少少を加へ、旬魚しゅんぎょ旬菜しゅんさいを入れく煮、後に柚子ゆずと塩にて味を調ととのへる。作りたる汁は椀に盛りし白米と混和こんわすべし。



「こ、これは確かにカレーです! 世紀の大発見ですよ、博士!」

「はっはっは。ちなみにこの食材について少し補足しておくと、鬱金うこんとはカレーの黄色い素であるターメリックであり、鷹の爪は赤トウガラシ、醍醐だいごはヨーグルトだと思えばよろしい。当時、日本にはまだなかったタマネギの代わりにネギを、またレモンの代わりにユズを使っている以外は、今のカレーと比べても何ら遜色ない」

「レシピの中にケシってありますけど、これはあの麻薬の原料のことですか?」

「日本では馴染みが薄い食材かもしれんが、ケシから採取した種はポピーシードと呼び、煎ると香ばしい風味がすることから、菓子類や和食のワンポイントとして、またインドではカレーのスパイスの一つとして使われておる。我々の一番身近な例では、アンパンの上に乗っておる胡麻のような種子がそうじゃ」

「なるほど――と言いたいところですが、『種』ではなく『実』とありますね」

「ふーむ。ということは、アヘン・カレーの可能性も残されておるというわけじゃな」

「もしアヘン入りのカレーだったとするならば、食事時はさぞかし賑やかだったのでしょうね。花の大江戸のドラッグ・パーティーといったところでしょうか。これを食べた人の感想、残っていたら面白いでしょうに」

「いや、それがあったんじゃよ。羅山の門下生に石崎某という者がおっての、今回、この者が書いた『石崎徒然一代記いしざきつれづれいちだいき』という日記をも発見しておる。慶安三年(一六五〇年)一月二十二日の出来事じゃ」



【原文】

(前略)しかるに、の日朝四つ時ばかり、信勝のぶかつ、にわかに学寮に来たりて、「今日はなんじ等に世にまれなる南蛮が料理をさん」とひて、門下の者ども廿にじゅう人ばかりを連れ、師の住みたる屋敷へ行きぬ。

 屋敷に着きたれば、師、「しばし待て」とて、一人内に入りたり。しかる間、屋敷の前にて話どもしてゐたる程に、師、出で来て手招きし、「入り給へ」と云へば、皆入りて、東西に向座むかいざに着きぬ。暫しばかりありて、若き女ども、台を持ち参りて我等が前にゑつ。れに据うる物を見れば、大きなる漆造うるしつくりうつわに、薄黄色なる汁に飯を合はせたるなり。さらに見知りたる食物にあらざれば、若き者ども、「こは何ぞの飯にかあらむ」と騒ぎたれば、師、「これは和蘭オランダ国の薬膳なれば、いといみじき物なり」と咲ひて、この汁飯をいとよく食ひつ。

 はしを取りて湯漬ゆづけをすすりたれば、其の汁、いと辛く、烈火れっかごとき味なり。者ども、「あなや、いと辛き飯なり」とて、末の座に至るまで汗水になりて、皆湯など飲みたれば、師、いとをかしがりわらふ事限りなし。見れば、師、既にみなひ果てて、涼しげにゐたるなり。

 りざりけるにやあらむ、師、しばしば我等を招き、其の飯を食はさせけれども、極めて嗚呼おこなる味なれば、門下の者ども、の湯漬を林飯はやしめしとぞ恐れたる。


【現代語訳】

(前略)その日の十時頃、突然、羅山らざん先生が学寮に現れ、「今日はお前たちに珍しい南蛮の料理を食べさせてやろう」と言って、門下生を二十人ほど引き連れて、先生の住んでいる屋敷に行った。

 屋敷に到着すると、先生は「少しそこで待っていなさい」と、一人で屋敷の中に入っていった。その間、屋敷の前で雑談をしていると、やがて先生が来て手招きをして「入りなさい」と言ったので、皆で中に入り、座敷で東西に向かい合って座った。しばらくすると、若い女中たちが台を持って現れ、我々の前に置いていった。その上に載っているものを見ると、大きな漆塗りの椀に、薄黄色の汁とご飯を合わせたものが入っている。見たこともない食べ物であったので、若い者たちが「一体、これは何の食べ物なのだ」と騒ぐと、先生は「これはオランダの薬膳料理であり、とても美味しいものだぞ」と笑いながらおいしそうに口に運んだ。

 我々も恐る恐る箸を取ってその食べ物を口すると、その汁はとても辛く、まるで火のような味がした。皆は「これはとても辛い飯だ」と騒ぎ、末座の者まで汗だくになり、湯などをがぶ飲みしたが、先生はその様を見てさもおかしそうに笑った。見ると、先生はその飯を全部平らげ、涼しげな顔で座っていた。

 その後も懲りなかったのだろうか、たびたび我々を招いてその西洋薬膳を食べさせたが、とても酷い味の飯であったので、門下生たちは密かに『林飯』と呼んで恐れたのであった。



「麻薬疑惑に関する証拠がないのは残念ですが、なかなか面白い日記ですね。予備知識なしに激辛カレーを食べさせられたら、きっとこんな風なのでしょう。――ところで博士、気になったのですが、この文献に出て来る『林飯はやしめし』ですが、ひょっとして……?」

「よくぞ気付いた。彼の言う『林飯』こそが『ハヤシライス』の語源なんじゃよ」

「どしぇー、こ、これは驚きです」

「カレーライスとハヤシライスは、元は同じものだったということじゃ。考えてもみたまえ。野菜や肉を煮込んだスープをライスの上に掛けて食べるという点はどちらも同じであり、そのスープ自体も材料や調理方法などに幾つも共通点がある」

「目から鱗が落ちるとは、こういうことを言うのですね」

「以上をまとめる。江戸初期の儒学者・林羅山が作った西洋薬膳、その名も『林飯』が日本でのカレーライスの祖であり、なおかつその名は『ハヤシライス』として現代まで生き続けている――ということじゃ」

「……あの、博士。綺麗にまとめられた後で申し訳ないのですが、この『蘭食事始』の最後に変な記述があるので、見てもらえませんか?」

「なになに――『初版、平成拾二年菊月』?」

「江戸時代に『平成』なんて年号、ありましたっけ」

「いや、和暦はダブることはない」

「…………」

「…………」

「…………」

「……というように、贋作には十分注意する必要があることが分かったかな。ちょうど時間が来たようじゃ。本日はここまでにしよう」

「本日はためになる講義、ありがとうございました」

「では諸君、ごきげんよう」


              ★


 その後の調査で、文中で引用しておりました「蘭食事始」「林翁記」「石崎徒然一代記」がすべて贋書であることことが判明しました。読者の皆様、並びに関係各位に多大なるご迷惑をお掛けして、誠に申し訳ございませんでした。この場を持ちまして二人に代わり、深くお詫び申し上げます。

 なお、ハヤシライスの語源に関しましては、和製英語「ハッシュ・ライス(hash rice)」が訛ったという説と、日本橋丸善の創業者「早矢仕有的はやしうてき」を由来とする説が有力です。(作者)



【主な参考文献】

 「カレーライスと日本人」森枝卓士 著

 「カレーライスの誕生」小菅桂子 著

 「蘭学事始」杉田玄白 著

 「西洋料理指南」敬学堂主人 著

 「カレーの日本史」(ハウス食品) https://housefoods.jp/data/curryhouse/know/world/j_history01.html


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カレーでGO! 水谷 悠歩 @miztam

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ