第7話 無明
校舎じゅうが暗闇に包まれていた。
廊下の果てに、電池を内蔵する緑の誘導灯が点いてはいるが、それ以外に明かりはいっさいない。
前もって、校舎内の見取り図を暗記していたことが功を奏す。
職員室――だれかいるはずだ。教師か、学校警備員かが。
助けを乞おう。あいつは、あの盲人は、ふつうじゃあない。
手さぐりでドアを探し当てる。大きな音を立て、引戸を開けた。
職員室は、やはり、真っ暗だった。だれの声もなかった。蛍光灯のスイッチをカチカチと動かすが、それも一向、つく気配もない。
無人――なのか? そんなはずはない。校舎に生徒だけが残っているなんて、そんなことはありえない。
では、別の部屋にいるのか? しかし校舎は残らず、闇に呑みこまれている。明かりの灯った部屋は、ひとつもあるようにはみえない。
いや――、奇妙なことはそれだけじゃない。
忍足は呼吸を整えながら、考えていた。
あれだけの銃声が鳴った。
校内にだれかいれば、だれも警察に通報していないはずがない。
警察は来るはずだ。すぐにでも来なければおかしいのだ。
もう、この血腥いゲームが始まって、十分以上がとうに過ぎている。
なのに、警察は来ていない。来る気配もない。来ないはずがないのに、来ていない。
いったい、どういうことなのだ。
忍足の呼吸はふたたび乱れはじめていた。整えようとすればするほど、
職員室のようすは、なにも視えない。
だけど、なにかが異常だ――なにかが奇妙なのだ。視えなくとも感じるものがある。禍禍しい雰囲気が、部屋に充満している。これ以上立ち入るな、と警告でもするかのように。
忍足は、ゆっくりと、ポケットから、スマートフォンを取り出した。
わずかな灯りを掲げ――そっ、と職員室を見渡す。
瞬間、心臓を掴まれたような衝撃が背中を貫いた。
闇のなか、中年と思しき、スーツを着た教師がいた。かれは、デスクに突っ伏すように、仆れていた。
呼吸の乱れが加速する。背すじに冷たいものが走る。けっして近寄ってはならない、不吉な臭いが鼻をつく。
まとわりつく重い空気に逆らい、一歩、忍足は教師の影に踏み寄った。
心臓をぎゅっと掴まれた気がした。
青白い光に浮かび上がる教師の顔には――両眼がなかった。
空洞だった。眼窩から溢れる血が、顔じゅうを覆い尽くしていた。
忍足は恐る恐る、辺りを見渡した。年増の女教師が床に仆れていた。
壁にもたれかかるように、ジャージを着た大柄な教師がいた。
大学を出たばかりのような、まだ年端もいかない細身の教師が仰向けになっていた。
あろうことか――そのすべてが両眼を抉られ、ただ無言のまま血の涙を流しているのだ。
死んでいる――、
おれと三助が来るより先に、全員、すでに殺されていた。
じぶんたちのボスはこの世のすべてを憎んでいる――土方はそういっていた。
晴眼者ならなおさらだ――そういっていた。
闇のなか、カチカチと歯が鳴りだした。躰の震えが止まらない。
悲鳴が咽喉を震わせようとしたその刹那――、
闇のなか、忍足の躰を黒い亡者が抱くように捕えた。
チェ……ッ!
チェ……ッ!
不気味な舌打ちの音が、耳もとで響く。そのときにはもう遅かった。
声を上げる暇さえなく、両脚を抱えられた。手品のように鮮やかに床に打ちつけられた瞬間、呻きとともに呼吸が止まる。
抵抗ひとつできないまま、黒い野獣の全体重が忍足の胸もとに圧しかかる。
背すじが凍りついた。
マウント・ポジション――一瞬で、馬乗りの体勢を取られたのだ。もう、忍足の得意な蹴り技も突きも使えない。
しかも、それはただのマウントではなかった。体格で遥かに優る忍足の力を以ってしても、まったく身動きがとれなかった。通常のマウントよりも前傾しているのであろう、首もとが完全に抑えられている。梃子の原理――これではいくら体格や体力で優っても、形勢を変えることなどできない。しかもその首もとに圧しかかる丸太のように太い両膝は、忍足の肩と腕を完全に極めている。身動きどころか、叫ぶことさえできない。内股の締めつけにより、気道を塞がれ、顔が真っ赤に膨れ上がっていくのがわかる。
この技は――、
柔道じゃない。
レスリングのそれともちがう。
「コマンド・サンボだ」
忍足の頭上でそう声がした。まるで暗闇が言葉を発しているようだった。夜陰が重みを増しながら、忍足の全身に圧しかかっていくようだった。
闇が忍足の頬にゆっくりとその右手を伸ばす。
確かめるように、粘りつくように、ゆっくりと五匹の蛆が、忍足の顔の上を這いずっていく。
「品川先生はいい女だったなアァ……」
しゃがれた声。チェ……ッ、とひとつ、また舌打ち。
「肌なんかしっとりと吸いつくようでよォ、とッ……ても綺麗だった。髪の手触りなんて絹みたいでよオ。視えなくッても、触っただけでわかるんだ……この女ァ美人だな、ってよ。どんな声で啼いたか聞きたいか? いや、あんたも毎晩のように抱いてたんだっけ? でもな、おれはいわせたぜ。『彼氏よりもあなたのペニスのほうが気持ちいいわ』って、たしかに泣きながらそういわせたんだぜ。震えながら、涙を流しながら、悦んでいたよォ、彼女。どうやっていわせたかわかるか? おれがどう犯してやったかわかるか? あそこにペニスを突っこみながら、別の穴にも指を突っこんでやったのさ」
仔猫がもう一度、遠くで力なく啼く声がした。そのとき忍足は、ようやく理解した。
なぜ香織が踏切に飛びこんだのか。彼女はじぶんより他人を優先できるやさしさを持った女性だった。なのに、なぜ、死ぬときに限って、線路に飛び込んだりする? いちばん他人に迷惑がかかる死にかたを、あえて選んだりする?
簡単だ。それ以外、死ぬ方法を選べなかったのだ。
彼女はそのとき、すでに眼が視えなかった。
だから、警報機が鳴らす音だけを頼りに、よろよろと頼りなく歩を進め、踏切に飛びこむほか、じぶんの存在をこの世から消す方法を思いつけなかったのだ。
「動くなよ」闇がいった。「なに、両眼を抉るだけだ。品川先生にそうしたのと同じように。じッとしてな、まちがって鼻やら耳やらまで、持っていかれたかねエだろう?」
ふいに、いちばん太く強靭な蛆が、忍足の右の眼窩に力を込めはじめた。声にならない声が、かすかに闇に漏れ響き、溶ける。
弄ぶように、嘲笑うように、闇は忍足の首を絞める膝の力を一瞬、ゆるめた。
瞬間、なにかが潰れて破裂するような音が響く。
痛みはなかった。景色は闇だった。ずっと闇のままだった。
なにもなかった。視えなかった。ただ、戦慄だけがたしかにそこにあった。
「もうわかってるンだろ?」楽しげな嗤い声が闇を震わせた。「おれが馬喰だ」
夜の盲学校じゅうに、その日いちばん凄まじい苦悶の叫びが響き渡った。
(了)
原稿用紙換算90枚、2009年
盲人狩り D坂ノボル @DzakaNovol
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