4話
次に透が廃屋に入り込めたのは、三日後の放課後、雨のざあざあ降る夕方だった。
毎日家の前まで向かってはみるのだが、まだ肝試しに飽きないらしい同級生と鉢合わせかけたり、通行人の目が途絶えなかったりして、タイミングを見つけきれなかった。
三日ぶりに透の顔を見て、カノコは目を丸くした。
「もう来ないかと思った」
来なかった二日のあいだで、二階の奥の部屋には、さらにゴミが増えていた。度胸試しの証拠の紙も、透の置いたものの上にさらに、隣のクラスのやつだろう、知らないマークの書かれたぶんが乗っている。
雨は強まったり遠のいたりしながら、音を立てて窓を打っていた。ガラスの割れたところから雨が降り込んで、埃が流れてぐちゃぐちゃになっている。
このあいだはごめんね、と言って、カノコは拝むような仕草をした。それから首をさすって、
「ほんとはさ、もう、そんなに本気でフクシューとか、したいわけでもないんだよ。や、悔しいのは悔しいし、思い出したら腹は立つんだけど。でも、とり殺してやるぞーみたいなのは、さ」
そこで言葉を切って、カノコは急に笑った。
「トオルがさ、最初の日、」くつくつと思い出し笑いをしながら、カノコは鼻を擦る。「あたしが声かけたときにさ、びっくりして腰抜かしたじゃん」
「抜かしてねえし」
透の反論を、カノコは笑って聞き流した。「あんときの顔がね、タクヤとそっくりでさ」
自分で掘った穴に、カノコの遺体を投げ落として、土を埋め戻している間、タクヤがちょうどあんな顔をしていたと、カノコは言った。
人殺しに似ていると言われて、いい気がするはずがない。透は歯をむいていやがったけれど、カノコはかまわずくすくす笑った。
「そんときはむかつくばっかりだったけど、いま思い出したら、ちょっとウケる。あいつ十八だったんだよ。ユーレイにびびる小学生とおんなじ顔って、どうよ」
ひひ、と笑って、カノコはあぐらを掻いた。
「なんもかもなかったことにして、知らん顔でさ、自分だけ楽しくやるつもりかよーって、最初は思ったんだけど」
ざあ、と雨の音が強まって、開けっ放しのカーテンが揺れた。空に視線をやれば、低く垂れ込めた雲が、見る間に流れていく。
「でもさ、よく考えたら、あのビビリ男に、そんな神経あるはずないなって」
カノコは窓の外に目をやった。やっぱりその顔は、笑っていた。普段のおどけた笑い方じゃなくて、笑っているのに、寂しいような表情。
「いつか見つかるんじゃないか、ケーサツがやってくるんじゃないかって、ずーっと、ビクビクしてんじゃないのかなって。あたしに似た子見るたびに、びくっとしたりしてさ」
あたしもアタマ悪いけど、あいつもけっこう馬鹿だからさ。
カノコは窓のそばに立って、外の道路を見下ろした。そこに誰かの姿を探すように。
「あのさ」
透は声を上げた。カノコが振り向くのを待って、目が合ってから、続けた。
「河川敷、好きだったって言ったよな」
梅雨の晴れ間、学校をさぼって、透は裏庭を掘った。
夜中に家を抜け出してきてもよかったけれど、夜更けに静まりかえった住宅街で物音を立てるほうが、よけい目立つのではないかいう気がした。カノコを埋めた男は、よく誰にも気づかれなかったなと思う。
梅雨入り前に終わらせきらなかったらしい工事を、まだ近くの家でやっていた。その音に紛れることを願って、シャベルを突き立てた。人が近づいてくるような物音がするたびに、作業の手を止めて、透は庭木のかげに隠れた。
ざく、ざく、ざく。
透が地面を掘り返す間、カノコは黙って近くにいた。落ち着かないような顔でそのへんをうろうろしたり、戻ってきて透の手元をのぞき込んだりした。
ある深さまでたどり着いたところで、錆びたシャベルがそれまでと違う手応えを捉えた。
シャベルを放り出して、あとは手で土を掻く。
出てきてみたら、拍子抜けするくらい、あっけなかった。
化学繊維のせいだろうか、服はちょっと色あせてはいたけれど、あんがい元のままだった。そこから垣間見える骨は、なんだか枯れたような色をしている。おおむね生きていたときの形を残して、丸まるように横たわっていた。
人間って、死んじまったら、これくらいしか残らないんだ。
透にとって、本物の人骨を見るのは初めてだった。母方の祖父は早くに死んだけれど、そのころ透はまだ小さかったから、葬式の様子もまったく覚えていない。
カノコはかがみこんで、不思議そうに、自分の頭蓋骨をつつく。もちろん幽霊の指は骨を突き抜けるばっかりで、触れはしない。
「――」
「え?」
透は振り返って、耳を近づけた。この頃、カノコの声が遠く聞こえる。聞こえるというよりは、実際に遠くなっているのかもしれなかった。
「――怖かったら、無理しなくていいんだよ」
「ぜんっぜん、怖くねえし」
透は笑って、土のついた手で鼻を擦った。
このごろ会うたびに、少しずつ、カノコの影が薄くなっていく。最初に会った日には、よく見ればうっすら透けているというくらいだったのに、いまでは屋外の明るいところで見たら、一瞬気がつかないかもしれない。
最初にそのことに気がついたのは、屋根裏に上ったあの夕方から、数日が経ってからだった。
「なんだろ。トオルにいろいろ話して、ちょっとは気が済んだからかな」
首をかしげながら、カノコはそんな風に言った。やっぱり他人事みたいな無責任な調子で。どこか遠くから響くような声で。
「ところで、あれ、本気?」
透はうなずいた。
長く放置されているこの廃屋も、いつかは取り壊される。そのときに、遺体が発見されるかもしれない。あるいはいつかタクヤが気が変わって、掘り返しに来るかもしれない。
だけどそれは、何年後になるかわからない。何十年後かも。それまでずっと、あの廃屋の中に閉じ込められたままでいることはない。
「そりゃ、どうせならここよりは、あっちのほうがいいけどさ」
カノコは言って、とまどうように首をかしげた。「でも、トオルがそこまですることないよ」
最初は、復讐の手伝いなんかさせようとしてたくせに。透が呆れると、カノコは笑って頭を掻いた。
じゃあ、夏になったらね。カノコは言った。
「――夏って、いつ。暦の上じゃ、もう夏だろ」
「お、さてはトオル、ちゃんと先生の話を聞くタイプだな?」
にやにや笑いで茶化してから、カノコは言った。「梅雨が明けたらかなあ」
透は窓越しに空を見た。その日は朝からずっと雨が降っていた。同じように雨模様を見て、カノコはうなずいた。
「梅雨時で増水してるときに、川べりで作業するのも危ないしさ。――ま、それまでにトオルの気が変わって、面倒くさくなったら、そのときは無理しなくていいよ」
変わるもんかと透は言ったけれど、カノコは引かなかった。夏になったら、と繰り返した。
「だけど、河川敷かあ。台風なんかのときに、そのまま流されちゃったりして?」
どこか面白がるような口調で、カノコはそんなことも言った。そこまで考えていなかった透の方が、不意をつかれてうろたえた。
「考えてなかった。ほかの場所にしとく?」
「うーん……。だけどもし流されたら、行き先って、太平洋だよね? それもいいなあ」
うんうんとうなずいて、カノコは海のほうを見通すような目をした。こんなところから、海が見えるはずもないのに。
骨をすっかり掘り出してしまうと、透は少し迷って、祖母の家の仏壇の前でそうするときのように、手を合わせた。薄くなったカノコがおどけて、その目の前でひらひら手を振ってみせる。
林間学校で使ったきり押し入れの奥でカビをふいていたスポーツバッグを、家から持ってきていた。その中に、透は慎重な手つきで骨をひとつずつ入れていく。途中でふっと、顔を上げて、カノコのほうを振り返った。
「全部、持っていく?」
カノコは少し考えて、いたずらっぽく笑った。
「ちょっとでいいよ。あと残しといて。もしかして、いつかタクヤが自首する気になったりしたときに、掘り返しても何にも出てきませんってのも、ちょっとしたホラーだしさ」
「化けて出てる時点でもうホラーだろ」
まあそりゃそうなんだけど。カノコはひひっと笑った。
透はスポーツバッグのファスナーを閉めて、首をひねった。「一部だけ持ってったら、カノコが二人に分裂したりしないよな」
「人を何だと思ってんの」
口では文句を言いながら、どんな場面を想像したのか、カノコは可笑しそうにげらげら笑った。
それが七月のはじめのこと。
※ ※ ※
前の日までずっと雨続きで、一日中どんよりした雲が垂れ込めていたのに、あるとき雷が鳴ったと思ったら、次の日には魔法のように、いちどきに夏がやってきた。空は真っ青、雲はカタマリでもくもく湧いて、蝉がひっきりなしに合唱して、隣の家の軒先には風鈴。
それだからその次の日の夜明け前、透は真っ暗な空の下、自転車を漕いで、漕いで、掻いた汗が端から吹き飛ぶようなスピードで、廃屋に向かった。
これって、やっぱり、犯罪になるのかな。
一瞬頭をよぎったその考えを、だけど透は、口に出しはしなかった。
怖くはなかった。誰かに見つかって、説明を求められたら面倒なことはわかっていたけれど、自分が悪いことをしているとは思わなかった。
たまに遠くでトラックの走行音がかすかに響くほかは、人っ子ひとり表に出ていない。それでも念のため、きょろきょろあたりを見まわしながら、廃屋の中に隠しておいたスポーツバッグとシャベルをつかんで、自転車に戻った。
ここ数日、カノコはほとんど姿を見せなかった。一昨日来たときには、このスポーツバッグの上に腰を下ろしている姿が、ほんの一瞬、うっすらと見えた。けれどそれは、気のせいだと言われてしまえばそうとしか思えないような、かすかな影だった。
今日はその影さえ見えない。
「飛ばすかんな」
それでもスポーツバッグに向かって声をかけて、透はまたペダルを漕いだ。通り過ぎざまに自動販売機に話しかけられながら、コンビニのある通りを避けて裏道へ。住宅街の細い路地を抜けて、河川敷に向かう下り坂を、ノーブレーキで下る。タイヤが危なっかしく鳴く。
川が見えてから、ようやくスピードを緩めた。息が上がっている。顔がほてって、汗が背中を伝う。Tシャツがぐしょ濡れになっている。カノコが汗臭いと怒りそうだ。
自転車を歩道において、階段を降りた。肩にはスポーツバッグ、手にはシャベルと、強力ビームの懐中電灯。
目星は早くからつけていた。川が緩やかにカーブして、見晴らしのいいあたり。そこでちょうど、遊歩道の幅がいちばん広くなっている。
海に流されたりしてとカノコは笑ったけれど、ずっと昔に氾濫したあと、ものすごく広く整備し直されたとかいうこの川は、どんなに雨のひどいときにも、あふれるというほど水が増えるのを見たためしがない。
斜面に低木が定間隔で並んでいる、そこから少し離れた場所に懐中電灯を置いて、シャベルを突き立てる。道路からは木に遮られて見えづらいあたり。それでいて、川を見晴らせるポイント。
念のため、かなり深く掘ることにした。何かを植えるとか、そういうので掘り返されても何だから。
体を動かしている間は、無心だった。ただ手を動かして、自分の呼吸の音を聞いていた。そんなに長い時間はかからなかったような気がしたけれど、顔を上げたときには、空の端が白みがかっていた。
穴の底に、そっとスポーツバッグの中身を並べて、掻きだした土を、ゆっくり戻した。
表面を均したあとで、まわりに落ちていた石や木ぎれや落ち葉を集めて寄せる。ちょっと離れてから、あらためて見下ろして、透はひとつうなずいた。カムフラージュはいい出来だった。言われなければわからない。
泥だらけになった手をTシャツの裾でぬぐう。放り出していたスポーツバッグを引き寄せて、土を払ったシャベルと懐中電灯を中に放り込むと、そのまま斜面にあぐらを掻いて、夜明けを待つことにした。
始発の電車がもう動いているのか、遠くで踏切の音がする。雲は遠くに二つ、ぽつんと浮いているだけで、あとはすっかり晴れ渡っている。
川の流れてゆく先、海に続いているほうから、見ているうちにわかる早さで、空が明るくなっていく。
ビルの向こう、光が射した。
川面が朝陽を受けて、銀色に光る。
なにげなく振り返ったら、ちょうど埋めた場所の真上に、カノコが腕組みして立っていた。
透のほうを見て、笑っている。目を凝らさなければわからない、ぼんやりした姿だったけれど、それでも、その唇が動いて何かを言おうとしているのが、透には見えた。
「聞こえねえし」
怒鳴るように言ったけれど、向こうにも、透の言葉が聞こえていないのかもしれない。カノコは遠くに向かって叫ぶときみたいに口の横に手をあてて、さらに一言二言、何かを言ったようだった。
それもじきに、すっかり見えなくなった。
いっときして、透は川面のほうに視線を戻した。水面が風にさざ波だって、ぎらぎら光る。魚だろうか、ときどき思い出したように小さな影が跳ねている。
川面の乱反射があんまりまぶしくて、透は顔を背けた。
帰り道には、もうちらほら車が通り始めていて、犬の散歩と何組かすれ違った。
途中で急に蝉が鳴き出した。雲は手で触れそうな質感で、吹き付ける風は乾いていて、道行く人のシャツは半袖だった。二日前までが嘘のように、世界は夏だった。
来るときにはノーブレーキで下った坂を、意地になって、一度も休まずに自転車を漕いだ。息が切れる。顔が真っ赤になっているのが自分でわかる。いったん引いた汗がまた噴き出して、Tシャツをぐっしょり濡らす。
歯を食いしばってペダルを漕ぎながら、透は少しだけ泣いた。
夏になったら、 朝陽遥 @harukaasahi
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