3話

 二階の例の部屋、カノコの言うとおりに引き戸を開けると、そこはただの押し入れだった。蜘蛛の巣がいくつも張っている。

「そこ、上、押してみて」

 言われた場所を押すと、天板は透の力でもあっさりと持ち上がった。「ハシゴ、たぶんその辺に落ちてるからさ」

 あった。ステンレスの、二つ折りになるやつ。埃で真っ黒になっていて、どこか部品がさび付いているのか、持ち上げるだけでぎいぎいきしんだ。苦労して広げて、押し上げた天板にひっかけてから、何度かぐいぐい押してみる。力を掛けたら、少しばかり危なっかしい音がしたけれど、とりあえずすぐに壊れる心配もなさそうだった。

 ざらざらする段をつかんで、深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。

「やっぱ怖い? やめとく?」

 カノコに顔をのぞき込まれて、透は唇を曲げた。

「怖く、ねえし」

 一段上るたびにぐらぐらした。ハシゴが壊れそうというよりも、ひっかけている天井のほうが腐りかけている。上っている最中にくしゃみが三連続で出た。

 手探りで頑丈そうなところを探して、体を引き上げる。足をハシゴに残したまま、じわじわ体重をかけてみると、ともかくしっかりした手応えが返ってきた。

 屋根裏部屋は、階下以上に埃だらけだった。ひからびたヤモリ、虫の死骸、頭上にはあちこち蜘蛛の巣が張っている。壁際に本棚があった。針の止まった時計、床には傷んだクッションが三つ。意外に明るい。斜めになった屋根にふたつ、小さな窓。ガラスはすっかり埃に曇って、空がまだらに汚れて見える。

 荒れてはいても、のんびりした光景だった。殺人の生々しい痕跡が残っているのではないかと身構えていた透は、ほっとしながら這い上がった。手も膝も真っ黒だ。

「足元、気をつけて」

 天井板でも踏み抜いたら目も当てられない。透はうなずいて、一歩ずつ確かめながら、ゆっくりと奥に向かう。窓際のすぐそばで、カノコが座り込んだ。

「――ここ?」

「そ」

 カノコはあっさりとうなずいて、この辺かなあと、床を示した。

「タクヤがこの部屋、見つけてね」

 埃だらけの床の上、あぐらを掻いて、カノコは言う。知らない名前が出てきたけれど、透は口を挟まなかった。

「ちょこちょこ来てたんだけどさ。最後らへんはもう、ずーっと喧嘩ばっかり。おまえ浮気してるだろって、まあ、しつっこく疑われてさ。してないっつってるのに。まあ、疑うのも、わかんないでもないんだけどね」

 自分の胸もとを親指でさして、カノコは笑う。「ほら、こんな可愛い子だったら? 男のほうがほっとかない的な?」

 だから、自分で言うな。

 今度も透はツッコミそびれた。カノコが他人事のようにへらへら笑っているので。

「そりゃ、『ほかの男なんかぜんぜん眼中にない!』とかっていうほど、アイツに惚れ込んでたかって言われたら、まあ……ね」

 言いながら、カノコはぽりぽり鼻を掻いた。苦笑の気配を残したまま、小さく肩をすくめて続ける。

「でもね、これでもけっこう根は真面目でさ、ほんとに浮気したことは、一回もなかったんだよ。でも、してないっつってんのに、あんまりしつこく疑うもんだからさ。段々面倒くさくなってきてね。そっちが信じないならもういいよ! って思うじゃん。売り言葉に買い言葉ってやつ?」

 あーもうしつっこいなあ、してたらなんだっていうのよ!

 叫んだとたん、相手の顔色が変わった。表情が抜け落ちたみたいになって、目だけがぎらぎら光っていて、それまでぎゃあぎゃあ喧しく問い詰めていたのが、いきなりぶつんとハサミで切ったように無言になった。一瞬で中身だけ別人に入れ替わったみたいだった。そのまま何もいわずに手を伸ばしてきて、カノコの首を、

「そこで一回、意識途切れて」

 自分の首筋を撫でて、カノコは皮肉っぽく笑った。

 ざく、ざく、ざく。

 次に気がついたときには、すぐそばで土を掘り返す音がしていた。いつまで続くのかと思うくらい、長い間ずっと。タクヤの荒い息、ときどき石にぶつかるがちんという音、遠くで犬の喧嘩の声。

 呆然として自分の体を見下ろした。床の芝生の上、首を変な方向にねじらせて、投げ出されて転がっている。どこから持ってきたのか、錆びた園芸用シャベルで、タクヤが地面を掘っている。ひとりで、一心不乱に、自分の手元だけを見つめて。

「そんで、夜中までかかってあたしを埋めたら、シャベル投げ捨てて、そのまんま逃げてった」

 ぷつりと話しやんで、カノコは窓の外をじっと見た。

 西日が射して、埃がぎらぎら銀色に光る。外で誰かがサッカーボールを蹴りながら歩いている。散歩中の犬のはしゃいだ息、爪がアスファルトに当たる音、原付バイクがエンジンをかける。

 透は唾を飲み込み、飲み込みして、ようやく声を出した。

「……悔しく、ないのかよ」

「悔しいよ」

 カノコは透の目を見て、即答した。さっきまでのへらへらした笑顔をどこに捨ててきたのかというような、無表情。

「悔しくないわけないじゃん」

 急に気温が下がったような気がして、透は無意識に自分の腕をさすった。

「ふざけんなよって思ったよ。思うに決まってるじゃん。殺されたこと自体もだけどさ、ご丁寧に埋めて逃げるって、何だよそれ」

 口を挟めず、透は息をのんで顎を引いた。カノコの目が爛々と光っている。

「そりゃああたしはさ、馬鹿だったし、親だって何の期待もしてなかったし。先に待ってるのも、どうせたいした人生じゃなかったかもしれないけどさ。だけど、こんなとこで、してもない浮気のせいで殺される筋合いなんかないよ。そうでしょ? なのにアイツ自分だけ逃げやがった。逃げて、そんでどうすんの。なかったことにして、自分はちゃっかりまたアタマの悪い彼女なんか作ったりして、いやなことは忘れて、楽しくやろうってのかよ。そんであたしだけこんなとこで、ずっとひとりぼっちで?」

 話すうちに、語調が強くなっていく。うなずきもできず、気圧されて、透は黙り込む。

「腹が立たないかって? そんなもん、めちゃくちゃ怒ってるに決まってるじゃん。もうとり殺してやろうかっつうレベルだよ。あんたに声かけたのだって、最初は骨掘り返して、タクヤんちの近くに持ってってもらおうかと思って」

 透がぎょっとするのを見て、カノコは我に返ったように、声のトーンを落とした。

「そんで、見かけたやつらに、片っ端から声かけてみたりもしたんだけどさ」

 声を聞いて反応したのは、透ひとりだった。

 だからまだ試したことはないけれど、タクヤの家がどのへんにあるのかは知っている。体から遠くに離れられないのなら、骨の一部なりと運べば、それについていけるかもしれない。

「まあそんなことしたって、考えてみたら、もうとっくにあいつも引っ越してるかもしんないんだけどね」

 透の顔色を見て、カノコはふっと、小さく苦笑した。「そんな顔しなくてもいいよ。ほんとに手伝わせたりしないからさ」

 言ってから、微笑みを消して、カノコは押し黙った。そうして視線を逸らして、窓の外をみた。夕焼けに染まり始めている雲のあたりを。

 透は唇を舐めて、ためらった。ためらって、

「あのさ、」

 カノコが振り向いて、目があった。そこで透はまた口ごもった。何度か生唾を飲んで、それから言った。

「手伝っても、いいよ」

 カノコはすぐに返事をしなかった。透の目をのぞき込んで、いっとき黙っていた。

 近くでカラスの羽音が響く。さっきの犬がまだ吠えている。夕焼けの色は紫がかった変に鮮やかなピンクで、なかなか止まない犬の吠え声はどこか遠くて、埃まみれの屋根裏部屋は日常から切り離された異界だった。

 カノコはへの字に唇を曲げて、口を開きかけて、また閉じた。急にせわしなく何度も瞬きをして、うつむき、

「いらない」

 ぽつりと言った。

「なんで」

「いいよ、そんなことしてくんなくて」

 小学生みたいな、拗ねた口調だった。

 透はせいいっぱいの見栄を視線に乗せて、六つ年上のくせに子どもみたいな顔をした幽霊を、正面からにらんだ。

「だって、悔しいんだろ」

「悔しいけど」

「じゃあ」

 なんで、と言おうとした透を遮るように、カノコは呟いた。

「惨めじゃん」

 透が黙り込む番だった。

「小学生に同情されて、オトコに復讐すんの手伝ってもらうって、何よそれ」

 透は瞬きをした。大きく二度、三度。

 言われたその瞬間よりも、何秒か経ってから、時間差で腹が立ってきた。

「何だよそれ、」

「ああ、いや、ごめん」

 ぐしゃぐしゃと茶髪をかき回して、カノコは体育座りになった。さっきまでのいじけた顔じゃなくて、もっと痛いような、泣きだしそうな顔。

「――ごめん」

 かちん、ガラスを爪ではじくような音が鳴って、窓の外で街灯がともった。

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