2話

 脅かしてごめんね、もうおうちに帰りな。遅くなったら家出か誘拐と間違われて、ケーサツにソーサクされちゃうよ。

 そのカノコの声に押されて、頼りない足取りで家路を辿った、のだと思う。途中の記憶がほとんどない。

 あらあんたまだ帰ってなかったの、暗くなるまで出歩かないでよ物騒なんだから。口やかましく叱る母親の声を聞き流して自分の部屋に戻ったところで、透は例の紙がまだ尻ポケットの中にあることに気がついた。

 その時点ではささいなことに思えた。思えたのだけれど、ひと晩たって翌朝になると、急に憂鬱になってきた。雄大は疑り深い。証拠をたしかめに行くだろう。

 言い訳する自分を、透は想像してみた。

 ちゃんと行ったんだけど、幽霊に会ってびっくりして、紙を置いてくるのを忘れた。

 思わずがっくり肩が落ちた。信じてもらえるはずがない。

 透の知るかぎり、これまで幽霊の噂話で盛り上がることはあっても、自分の目で幽霊を見たと騒ぎたてるやつは、誰もいなかった。それに、カノコは透に「肝試しには早いんじゃない?」と聞いた。ということは、少なくともカノコと会って話までしたやつは、少なくとも透と同じ学校には、ほかに居ないんじゃないか。

 考える。証拠の代わりに、見てきた間取りやなんかを詳しく説明したらどうだろう。いや、だめだ。ほかの奴らから聞いたんだろうと決めつけられれば、それで終わりだし。

 幸いにもその日は土曜日で、学校は休みだった。午前中いっぱいさんざん迷ったあげく、昼過ぎに透は家を出た。昨日は夕暮れ時だったけれど、まだ日の高いうちになら、あのヘンテコな幽霊も出ないかもしれない。なんたって、幽霊なんだし。

 だけど結果から言えば、それは儚い期待だった。

 人通りの途切れるのを見計らって、透が例の廃屋の裏口をそうっと押して頭を突っ込むと、一階の廊下の途中のドアから、カノコがひょこっと顔を突き出した。「あれ? トオルじゃん。あんた昨日の今日でまた来たの?」

 ほんのちょっとでも、そこにおどろおどろしい雰囲気があったなら、即座に回れ右して逃げ出したと思う。だけど、その声の調子も表情も、まるきり従姉の姉ちゃんか何かのような気安さだった。

 昨日よりも室内が明るくて、窓から差し込む日差しに埃が光っていたりして、そののんびりした午後の空気も、透の背中を押した。それでつい、それこそ親戚の姉ちゃんに返事をするような調子で、「あ、うん」とうなずいてしまったのだった。

 そうなったらもう逃げ出すにも間が悪い。昨日と同じく土足できしむ床を踏んで、透はおっかなびっくり廃屋に上がり込んだ。

「ははーん」

 カノコはにやっとして顎を撫でた。「少年、さてはがきんちょのくせに色気づいたな。ユーレイのお姉さんがあんまり色っぽいんで、ついふらふらーっと吸い寄せられるように戻ってきちゃった、と」

「ちげーし」

「照れなくてもいいんだよ、少年。なんならサービスしちゃろうか。生おっぱい見たことある?」

 カノコはニヤニヤしながらタンクトップの裾を持ち上げて、ちらりと腹のあたりまでめくって見せてから、「あ、生じゃなかった」ひとりで可笑しそうにげらげら笑った。

「幽霊のハダカなんか見たくねえし!」

 怒鳴りながら目をそらして赤くなる透を見て、カノコは腹を抱えて笑った。



「ああ、証拠ねー。へえ、よく考えるもんだ」

 二階、昨日と同じ突き当たりの部屋。透が置いた紙の符丁をのぞき込んで、カノコは面白がった。昼間であたりが明るいせいか、昨日見たときよりも、いくらか姿が薄い。

「名前まで書いたら、さすがに大人にばれたときがあれじゃん」

「うんうん。それに暗号みたいで、わくわくするよねこういうの。いいなあ、小学生って人生楽しそうだなあ」

 自分も小学生だったことがあるだろうに、そんなことを言って感心している。窓辺であぐらを掻いて、それこそ自分の家のようなくつろぎようだ。「そういえば、トオルってどこ小? この辺だったら第二?」

「ちがう、緑小」

「あ、なんだ。後輩じゃーん。五つ、違うか、六つ下かな。ね、こんど図書室で三十二回生の卒業アルバム探してみてよ、あたし超かわいく映ってるからさあ」

 自分で言うか。思いはしたものの、ツッコみそびれて透はぜんぜん違うことを訊いた。「てことは、高三?」

「生きてたらね。死んだのは高一んとき……ま、生きてたって、留年しないでちゃんと三年生になってたかどうかは、ちょっとアヤシいかな? あたしアタマ悪くってさあ。学校も途中からあんまちゃんと行ってなかったし」

 けろっと言って、カノコは首をかしげる。「緑小ならさ、もしかして登校するときあそこ通る? 河川敷んとこ」

 透はうなずいた。学校のすぐそばに広い川が流れていて、遊歩道が設けられている。犬の散歩なんかによく使われるコースで、ザリガニもいればカエルもいる。小学生男子にとっては登下校のときの絶好の寄り道スポットだ。

「じゃあ生きてたとき、もしかしたらすれ違ったことくらいあったかもね。中学んときなんか、よく部活であそこ走ってたからさあ」

 懐かしそうに言って、カノコは目を細める。たしかに下校のとき、よく中高生が走っているのを見かける。だけど目の前にいるちゃらい茶髪女と、体育会系の部活のイメージが結びつかなくて、透はへんな顔をした。

「ん?」

「や、運動部っぽくないなって」

「あはは、そうだろね。これでもレギュラーだったのよ。ソフト。途中でいやんなって、やめちゃったんだけどさー」

 いま考えたら、ちょっともったいなかったかな。言って、カノコは頭を掻いた。

「練習はきらいだったけど、あの河川敷走んのは、好きだったなあ。夏になったらさ、川がきらきら光ってさ。部活、やめちゃってからも、ときどき自転車で遠回りしたりして」

 ふうん、と相づちを打って、透はカノコの腕を見た。透けているせいか、そもそもやめて長く経っていたのか、日焼けのあとはよくわからない。

 その腕を見ているうちに、不思議に思って、透は首をかしげた。「カノコは何で、ここにいんの」

「んー?」

「ここんちの人間じゃないんだろ。自分ちとか、河川敷とか、もっといいとこに化けて出りゃいいじゃん。何で、こんなとこ?」

 カノコは軽く首をすくめた。「あたしだって別に、好きでここにいるわけじゃないんだけどさ。なんか、ここんちの建物から出らんないのよ」

「……なんで?」

「さあ。ここで殺されたからじゃない?」

 あっさりとカノコは言った。

 ここって、どこ。

 声にならなかった。髪を逆立てている透を見て、カノコが吹き出した。「ごめんごめん。また怖がらせちゃった?」

「こわ、くない、けど、それって、」

 半泣きになった。近所でそんな事件があっただなんて、聞いたことがない。透が言うと、カノコはうなずいた。「そりゃ、聞いたことないだろうね。見つかってないんだから」

「え、じゃあ」

 透は唾を飲み込んだ。けろっとした表情のカノコを見上げて、おそるおそる続ける。

「まだ、――ここにあんの?」

「うん。あそこ」

 カノコの指さすほうを、つい見てしまって、透は鳥肌を立てた。指のしめす先には、開けっ放しの窓。その先には庭がある。一瞬で頭の中いっぱいに、いやな想像が膨らんだ。

「見る? もうそんなにエグくないよ、たぶん。いいかげんすっかり骨んなっちゃってるだろうし」

 涙目でぶんぶんと首を振る。それを見てカノコがにやりとする。「それこそ友達に自慢できるよねえ、白骨死体発見!」

 自分のことなのに、気を悪くするふうもなく、カノコは楽しげに言った。

 冗談を言っているのではないかと思った。自分をからかおうとしているんじゃないかと。それくらい、カノコの口調は軽かった。透は唾を飲み込んで、窓から視線を外した。

「殺された、って」

「うん?」

「まじ?」

「まじまじ。大まじ」

 やっぱりへろっと言って、カノコは窓枠にもたれた。面白がるような顔のまま、透の反応を見守っている。いつの間にか雲が出て、日射しが陰っていた。

 風が吹いてカーテンを揺らしているのに、カノコの髪がたなびかないことに、透は気づいた。

「……、おれ、通報とか、したほうがいい?」

 あー、と首をかしげて、カノコは考えるようなそぶりをした。「まあ、やめときな。叱られちゃうよ、なんでこんなとこ入り込んだんだーって」

「それくらい、」

 別にいい。言おうとした透を制して、カノコは首を振った。

「へたしたら怒られるだけじゃなくて、疑われちゃうかもしれないしさ。なんで知ってたんだーってね。ま、ちびっこだし、それはないかもしんないけど」

「ちびっこって言うな」

 言い返しながら、透はちらちらと窓の外を見た。座っているので、ここからは空と庭の木の梢と、あとは電線くらいしか見えない。

 ここに入るときにも、裏庭を通り抜けた。ペンキの禿げた犬小屋と雑草だらけの花壇。木が何本も植えられていて、手入れがされなくなって時間が経っているせいか、どの枝も伸び放題になっている。

 あのどこかに、死体がある。

 考えたとたん、鳥肌が立った。すぐそばを通ったかも知れない。下手したら、踏んでたりとか、

 ぶるぶる首を振って、透は窓から目をそらした。その様子を、カノコが面白そうに眺めている。

「だけどさ」声がかすれた。途中で唾を飲み込んで、透は言い直した。「だけど、家族のひととか、探してんじゃないの」

 昨日の夜、カノコが透に言ったことだ。家出とか誘拐とかと間違えられて、警察に捜索されちゃうよ。

「うーん」

 カノコは首をかしげた。「どうだろね。家出だと思ってるんじゃないかな。あんまり心配とか、そういうのしてくれるようなオヤでもなかったし」

 カノコの言葉には、突き放すような響きがあった。むきになっているのでも、拗ねているのでもない。もう、ずっと前にあきらめたような、そんな口調。

「……わかんない、だろ。確かめてないんだったら」

「んー、まあ、そうだけどね。仮に心配してたとしてもさ、それならそれで、わかんないままのほうがいいんじゃないかって、思ったりもすんのよ」

 そう言って、カノコは小さく笑った。本当にそう思っているというよりは、もうあきらめているけれど一応は言ってみた、というような表情に、透の目には映った。

「でも、でもさ」

 透は食い下がった。家族にとってどちらがいいのかとか、その前にカノコ自身は、「……それでいいのかよ」

 殺されたと、カノコは言った。それなのに死体がまだ見つからずに、ずっとこの家の庭にあるというのなら、殺した人間はいまごろ、

「んー? うーん。そうだねえ」

 カノコはあいまいに笑って、答えなかった。長いこと黙って、それからふと気づいたように顔を上げて、窓の外を見た。徐々に暗くなり始めた東の空を。

「あ、もうこんな時間? ほら、小学生は暗くなる前におうちに帰りな。オバケが出るよー」

「……もう出てるじゃん」

 そうだった、とわざとらしく手を打って、カノコはげらげら笑った。


  ※  ※  ※


 週明け、誰かが証拠を確認しにいったらしく、何人かの男子がにやにやしながら透の机に寄ってきた。「やるときゃやるじゃん」雄大がひじで小突いてきたけれど、透は生返事を返すばっかりで、ろくに相手にしなかった。

途中で一度だけ、「なあ、あの家でさ、」雄大にそう訊きかけて、けれど結局そのまま途中で飲み込んだ。

「なんだよ、お化け屋敷でなんか見つけたのか?」

 雄大は好奇心で目をきらきらさせて食いついてきたけれど、透は言葉をすり替えた。「何もなかったよ。お前らヒマだな、あんなとこ潜り込んだってつまんないだろ、ゴミばっかでさ」

 なんだよと唇をとがらせる雄大は、だけどそれ以上つっかかってはこなかった。しらけたような顔をして、ほかの男子のところに行ってしまった。

 その日の授業ぜんぶ、透は上の空のままで過ごした。一度当てられたけれど、答えられずにぼんやりしていたら、丸めた教科書で頭をはたかれて放免された。

 目は黒板や教科書に向いていても、意識は廃屋で見た光景に飛んでいた。窓から射し込んでいた夕日、舞い上がってきらきら光る埃。床に散らかったごみ、腹を抱えてげらげら笑ってばかりいるカノコの、体の向こうにうっすらと透けて見えていた何年も前のカレンダー。庭の茂みの中に散乱する白い骨。

 見てもいないのに、十二歳の想像力は透の頭の中に、くっきりと人の白骨死体の像を結んだ。

 いや、よくないだろ。

 無意識に、口に出していた。は? という顔で雄大が振り返る。いつのまにか授業はとっくに終わっていて、それどころかすでに掃除時間で、気がつけば透は手にほうきを握っていた。ぼーっとしたまま、習慣で体を動かしていたらしかった。

「なんでもない」

「なんだよ。お前、今日ずっと変だぞ」

 薄気味の悪い目で見られても、透は気づかなかった。箒をロッカーに放り込んで、ランドセルを片手につかむと、ぽかんとしている周りを置き去りに、走って教室を飛び出した。

 人目を気にする余裕もないまま、その足で透は廃屋に駆け込んだ。そのままの勢いで廊下を駆け抜けようとして、

「うわっ」

 床が抜けた。

 埃が派手に舞う。尻餅をついた拍子に、足に鋭い痛みが走った。

「いっ、てえ……」

 左足が完全に床を踏み抜いて、ふくらはぎに、割れた床板が食い込んでいた。涙目で足を引っこ抜くと、長く走った擦り傷からじわっと血がにじむ。

「何やってんの」

 近くの部屋からひょこっと首だけを突き出して、カノコが目を丸くした。

 勢い込んで話そうとする透を、カノコは手で制した。「うわ、派手にやったね。この家の水道……は駄目か。水道管、錆びてるもんね」

 傷口をのぞき込んで、カノコは顔をしかめた。

「そこに公園があったよね? いそいで洗っといで」

「そんなことより、」

「話ならあとで聞くから。ほっとくと足、腐っちゃうよ。そしたら切断だよ。痛いよー」

「腐るもんか。子供だと思って、」

 馬鹿にすんなよ! そう叫ぼうとした透にかまわず、カノコはおどろおどろしい調子で続ける。「知ってる? 手とか足とか切断した人ってねえ、すっかり傷口がふさがったあとでも、ないはずの足が、いつまでも痛んだりするんだって。何年も経ってても、ずっとだよ。きっとすごく痛いよおー」

 ひるんだ透に、にっと笑いかけて、カノコは犬でも追い払うように手を振った。「とにかくまず洗っといで。話なら、そのあとでゆっくり聞くからさ」



 足を洗った透が顔をしかめながら戻ってくると、カノコは廊下の同じ場所で、片膝を立てて床に座ったまま、律儀に待っていた。

「お、よしよし。ちゃんと洗ってきたね。バンソーコーある?」

「いいよ、これくらい。つばつけときゃ治る」

 男の子だねえ、笑いながら、カノコは膝を伸ばした。

「で、どうしたの、勢い込んで。ていうか幽霊に会いに二日と開けず通ってくるなんて、アンタも物好きだねー」

 誰でも三回はモテ期が来るとかっていうけど、死んでから来るってひどくない? とかなんとか好き勝手なことをぼやいているカノコに、透は詰め寄った。

「いいわけないだろ、殺されてこんなところに何年も放っておかれて、殺したほうは逃げっぱなしで」

 カノコはその剣幕に押されたように目を丸くしていたけれど、しばらくして、ふっと頬を緩めた。その笑顔は、それまでのおどけた笑いかたとはぜんぜん違っていて、それで透は勢いをそがれた。

「トオルはいい子だね」

「だから、」

 子供扱いするなよ。

 抗議の言葉は尻すぼみに消えた。

 カノコは透に背中を向けて、のんびりひとつ、背伸びをした。どこか外で、道路工事の音がしている。下校中に遊びながら帰る低学年のちびっこたちの声、遠くの踏切の音。窓から射し込む明るい日射しが、透の血が床にぽつりと作った小さな染みを照らしている。

 首だけで振り返って、カノコがいたずらっぽく笑う。

「ね、殺人現場、見てみない?」

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