夏になったら、

朝陽遥

1話



 夏になったので、約束どおり、彼女を河川敷に埋めることにした。



 梅雨が明けたとたん、手品のようにいっぺんに夏がやってきた。空は絵の具で塗りつぶしたようにくっきりした青、雲はもくもくカタマリで湧いて、まるきり手で触れそうな質感。蝉がわんわんがなり立てる。向かいの家の軒先にさっそく風鈴が吊られて、風の吹くたびに音を立てる。梅雨明け宣言はまだ聞いていないけれど、もう疑いようはなかった。まごうかたなき、夏だった。

 それだからとおるは、その次の日の夜明け前、音を立てないように、息を詰めて自分の部屋の窓を開けた。

 早朝というより夜の続きというほうが正しいような時刻。空が明るむ気配はまだ遠い。ランドセルに突っ込んであった懐中電灯をつかみ出し、押し入れの壁に吊してあった去年のバッシュを床に置いて、部屋のなかで履きこんだ。サイズが小さくなってしまっておいたやつだから、素足に履いてもぎゅうぎゅうだ。息を止めて、耳を澄ます。家族は誰も起きている気配はない。

 桟をつかんでから、三秒迷った。深呼吸をひとつ。勢いをつけて体を引き上げる。身を乗り出して、外壁に足をかけてしまったあとで、先にあたりの様子をたしかめるべきだったと思った。

 だけど幸いなことに、人通りはまったくなかった。手に体重をかけたまま、ゆっくり足元の手応えをさぐる。昼間ならいっぺんに飛び降りるところだけど、物音を立てるわけにはいかない。それで雨樋につかまりながら、じりじり降りることにした。

 妹が夏休みの宿題で持って帰った朝顔を、着地のまぎわで蹴ちらしそうになる。あわてて足をずらしたら、ちょうどそこに落ちていた蝉の抜け殻を踏んだ。くしゃりという音が、思いがけずはっきりと響いて、びくっとする。とっさにあたりを見回して、自分に言い聞かせる。大丈夫。これぽっちの音で誰も起き出してきたりはしない。

 透の家の車庫にはシャッターがない。空き巣のようにきょろきょろしながら、父親の乗っている銀色のワゴンの裏に回って、自分の自転車のロックを外す。すぐには乗らず、なるべく音を立てないようにいっとき押して、家から二十メートルばかり離れたところで、弾みをつけて飛び乗った。

 ずっと前から切れかけている街灯が、かちんかちん、ひっきりなしに明滅している。この時間だとさすがにまだ空気が冷たい。それでもつい二、三日前までじめじめしていた風は、もうからりと乾いている。その中を、ペダルを力いっぱい踏みしめて、漕ぐ、漕ぐ。しばらく切っていなかった前髪が流れて、額がむき出しになる。ぶかぶかのTシャツの裾が風にはためく。

 やっと梅雨が明けたばかりだというのに、気の早いビーチサンダルが片足分、どういうわけでか道ばたに捨てられている。避けて蛇行すると、タイヤが危なっかしく鳴いた。

 ときどきちらっと視線を上げて、空の端がまだ白み始めてはいないのを確かめる。あたりが明るくなる前に、何もかも済ませたかった。


  ※  ※  ※


 もとはといえば、肝試しが発端だったのだ。

 小学校の近くに、廃屋がある。豪邸とまではいわないが、透の家が丸ごと二つは入りそうな、なかなか立派な建物だった。四年ばかり前までは上品な夫婦が住んでいた――と大人たちは言う。何の事情があったものか、いつのまにか越していって、誰もあとの様子を見に来ない。売家の看板もないし、いつになっても取り壊される気配もない。

 庭の草はぼうぼう繁り放題、もとは立派だった玄関扉は釘が打ちつけられて、積もった埃とラクガキとで見る影もない。そのうちに近所の高校生が窓を割ったり、裏口の鍵を壊して侵入するようになった。大人たちはしょっちゅう眉をひそめて自治会に抗議するのだけれど、権利関係がナントカカントカで、反応はなしのつぶてという話。

 ここまでくればもう、必然といってもいいだろう。いつからか、幽霊が出るという噂が立った。誰も住んでいないはずなのに、窓辺に顔色の悪い女がぼうっと立っていた。夜中にすすり泣くような声を訊いた。窓の奥で鬼火のようなものがゆらゆら踊っていた。エトセトラ。

 そこに、この春先あたりから、透と同じクラスの男子が忍び込みはじめた。

 透自身はというと、行かなかった。誘われても馬鹿らしいといって取り合わなかった。だけど次から次に、肝試しを済ませたやつらがからかいにくる。

 弱虫あつかいされたからって、はじめのうちは気にもしなかった。ああいうのは六年生にもなって分別のないガキのすることだ。夜になればときどきがらの悪い高校生がたむろしていたりする。幽霊がどうというよりも、そういう連中のほうがやっかいだ。

 だけどあるとき、雄大が調子に乗って囃したてた。透のびびり、玉なし、ナツミでも平気だったってのに。

 女子を引き合いに出されたら、さすがに聞き流せなかった。たとえ相手が男勝りの乱暴者であってもだ。あんなの女子のうちに入るかと言い返しそうになったのを、ぎりぎりで飲み込んだ。それを言ってはいくらなんでも男がすたると思った。

 それでもうじき梅雨入りかという六月半ば、学校が引けたあとで、透はとうとう懐中電灯を手に、くだんの廃屋へ向かった。山登りが趣味の父親から去年譲り受けた、強力ビーム防水加工。

 肝試しにはルールがある。クラスの符丁がわりのマークと、自分の出席番号を書いた紙を持って忍び込んで、二階のつきあたりの部屋に置いてくるのだ。最初は出席番号だけだったのが、途中から隣のクラスのやつらが真似をしはじめて、ひとしきりもめたあげくそういう協定ができた。

 ポケットの中を探って、そこに用意したはずの紙があるかをたしかめてから、透は柵を乗り越えた。噂どおり鍵は壊されていて、勝手口はあっけなく開いた。

 いくら人が住んでいないからといって、土足で上がるのはさすがに気が引けた。だけど懐中電灯で照らした廊下はどこもかしこもほこりだらけ、ささくれだらけで、ところどころガラスの破片まで落ちている。迷ったあげく、結局は靴のままで上がりこんだ。

 最初の一歩目から床がぎいっと薄気味の悪い音を立てて、首をすくめた。幽霊なんてばかばかしい。窓辺の人影なんて、侵入した高校生に決まってる。鬼火もそうだ。中でそいつらが火遊びでもしてるんだ。

 廊下は一歩歩くごとに、騒々しくきしんだ。

「人が住まない家は、傷むのが早いからねえ」

 いつだったか、この家の前を通りながら祖母がそんなふうに話していたのを、透は思い出した。廊下の床板はやけにでこぼこして、ところどころ柔らかく沈む。腐っているのだ。

 遠くでだれかの咳払いのような音がして、透は飛び上がりそうになった。

 心臓がばくばく鳴っていた。

 落ち着け。幽霊が咳払いなんかするもんか。近所の別の家から聞こえたに決まっている。自分に言い聞かせながら、出来るだけ足音を立てないように、そろりと次の一歩を踏み出した。だけどそんなものは無駄な努力で、やっぱり床板はぎいぎいうるさく鳴った。

 なかなか廊下の端にたどり着かない。外観から想像していたよりも、なんだか広いような気がする。前に読んだホラー漫画の展開が、透の頭の隅をよぎった。異空間に迷い込んだ主人公の、恐怖にひきつった表情のアップ。

 透はぶんぶん首を振った。廊下がやけに長く思えるのは、日暮れ時が迫ってあたりが薄暗いせいだ。

 ようやく階段を見つけて、おっかなびっくり足を掛けた。家の中にどうやら人の気配がないのは幸いだった。幽霊なんかちっとも怖くないけれど、高校生が入り込んで騒いでいるところに出くわしたら面倒だから。

 そう、怖がってなんかいない。六年生にもなって、幽霊なんかが怖いはずがない。

 手のひらの汗をズボンでぬぐって、深呼吸をひとつ、ふたつ。そろりと一段ずつ、慎重に階段を上る。足取りが遅いのは幽霊が怖いからじゃなくて、腐った階段を踏み抜かないように気をつけているからだ。姿勢を低くしているのは、あくまで万が一誰かに見つかったらまずいから。怖いからじゃない。もっともこれだけぎいぎいうるさく音が鳴っていれば、たいした意味はないんだけど。

 ほとんど四つん這いに近い格好で、一番上の段までたどり着いた。左手にまっすぐ廊下が延びている。

 右手に二つ、ドアが見えた。どっちもなぜだか、半開きになっている。中は薄暗くてよく見えない。

 なんで開いてるんだよ。透は口の中で毒づく。いや、開いてたって怖くなんかないけど。胸のうちで言い訳をしながら、頭の隅にはゾンビの出てくるサバイバルゲームの画面がちらついている。

 廊下の突き当たりには噂どおり、もうひとつのドアがあった。こちらはしっかり閉まっている。

 むりやり姿勢を正した。胸を張って顎を引く。懐中電灯の光をするどく廊下の先に突きつける。レーザービームのつもり。

 歩きながら、視線はまっすぐ正面に固定している。開いたドアの横を通り過ぎるときに、中をのぞき込まないように。だけど通り過ぎざま、誘惑に負けてちらっと見てしまう。暗くてよくわからない。何かが動いてびくっとしたら、開けっ放しの窓でカーテンがはためいているのだった。

 ふいに風が強まる。ガラスががたがた鳴って、すきま風が、人のうめき声そっくりの音を立てる。

 怖くないったら、怖くない。

 突き当たりのドア。懐中電灯を左手に持ち替えて、深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。ゆっくりと、ドアノブに手を伸ばして、

「誰?」

 急に背後から女の声がして、透は尻餅をついた。

 振り返れない。

 足音はしなかった。透はへたりこんだまま、取り落とした懐中電灯を手で探る。あわてすぎて、せっかく探り当てたのをはじいて転がしてしまった。唇をぱくぱく動かすけれど、声が喉でつっかえて出てこない。

 誰かが近づいてくる気配。顔を上げるのも怖かったけれど、見ないでいるほうがもっと怖かった。意を決して視線を上げ、威嚇のつもりで懐中電灯をかざそうとした。手が震えてまたしても取り落とした。

 透がふたたび懐中電灯をつかみなおすよりも早く、相手のほうが近くまでやってきて、すぐ正面にかがみ込んだ。

 女だった。声の印象よりも若い。私服だからはっきりとはわからないけれど、たぶん高校生。まだ六月だというのに気の早すぎるホットパンツから、惜しみなく生足を出している。明るめの茶髪にピアス、化粧もしている。ちょっと濃い。面白がるように笑いながら、透の顔をのぞき込んできた。

 なんだ、人間じゃんか。

 そう思ってほっとしてから、透はあわてた。「あ、あの。ここのうちの人? 勝手に入ってごめんなさい……」

 謝りながら、何かが胸の隅に引っかかった。

 足音がしなかった? 透の軽い体重でさえ、あんなに一歩ごとにぎいぎいきしんだ廊下で?

「あ、違う違う。あたしもここに忍び込んだくちだし」

 けろっと答えて、女は首をかしげた。ショートカットのさらさらの髪が、その動きに合わせて流れる。

「それより大丈夫? 怖すぎて腰ぬけちゃった?」

 聞き捨てならない、と思う余裕は透にはなかった。女は立ち上がって、透に手をさしのべた。その手が、うっすらと透けていた。

 透は口をぱくぱくさせて、女の顔を見た。ん? と首をかしげるその顔の向こうにも、やっぱりかすかに廊下が透けていた。

「あ、そっか」気づいたように、女は自分の手を見つめて、ひょいと引っ込めた。「ごめんごめん、掴まれないってね。大丈夫? 自分で立ち上がれる?」

 立ち上がれなかった。「ゆ、ゆ、ゆ」

「ゆ?」

「ゆうれい……?」

 透の震え声を聞いて、女はさも可笑しそうにげらげら笑った。

「どーもはじめまして、幽霊でーす。あ、名前はカノコだよ。少年、君はなんての? 何年生?」



 まあまあこんな廊下で立ち話でも何だしさ、と幽霊は言った。

「ささ、遠慮なくどうぞ、ってあたしの家じゃないんだけどさあ」

 やっぱりげらげら笑いながら、カノコは頭からドアに突っ込んだ。幽霊だから扉をすり抜けられるらしい。いったん完全に姿を消したあとで、上半身だけひょこっとドアから突き出して、手招きをした。

 このまま逃げようかと、たっぷり十秒は考えた。けれど結局、透はおっかなびっくりドアノブに手を掛けた。だってなんか、逃げたらかえって後ろから追いかけてきたりしそうだし。

 床以上に派手にきしみながら、ドアは開いた。開け放たれた窓から、湿った風が吹き込んで、白いカーテンを揺らしている。床にはごみが散乱している。入り込んだ連中が散らかしてそのまま行ったのだろう。菓子の空き袋だのタバコの吸い殻だの飲み残しのペットボトルだの。たぶんエロ本だろうという色の雑誌が視界の隅に掠めて、あわてて逆方向に首をねじ曲げた。

 壁に五年前の八月のまま止まっているカレンダー、上半分の写真は夏真っ盛りの海水浴場と割られたスイカ。その真下の床に、見覚えのある紙が何枚も重ねて置いてあった。クラスの連中だろう。

「その辺、テキトーに座ったら。怖がらなくても、取って食ったりしないよー。お腹もすかないし。幽霊だから」

 カノコに促されて、透は床の上に座った。埃だらけだったけれど、もういまさらだ。

「あの、カノコ、さん?」

「あー。呼び捨てでいいよ。カノコさんってガラじゃないし。あたしもトオルって呼ぶしさ」

「あ、うん……」

 うんうんとうなずいてから、カノコは首をかしげる。「それにしても、肝試しにはちょっと早くない? まだ夏じゃないよ?」

 透は腰のひけたまま、小声でぼそぼそ答えた。「いや、クラスのやつらが……」

 完全に言い訳の口調で、透はことの経緯を説明した。ひととおり聞いて、カノコは首をかしげた。

「じゃあ、いじめられてるとかじゃないんだ?」

「ちげーし」

 思わずむっとして唇をとがらせた透を、遠慮なくカノコは笑った。「変な顔!」

 よく笑う幽霊なんて、へんなのと、透は思った。ふつう幽霊っていうのは、もっと暗くて、恨みがましい顔をしているものなんじゃないのか。

「このごろ、やけにちびっ子どもがうろちょろしてるなあとは思ったんだよ。度胸試しねー。男の子ってそういうの好きだよねえ」

 うんうんとひとりうなずいて、カノコはにやりと歯を見せた。「だけどまあ、結局来たんだから、勇気あるじゃん? 男の子だね」

 カノコの手が透の頭をぽんぽんと叩こうとして、すり抜ける。冷やっこいような感覚がして、透は首をすくめた。

「あはは、だからあー、怖がらなくっても平気だってば」

「怖くなんか、」

「うらめしやー」

 カノコが突然、がくりと首をあらぬ方向にねじ曲げた。頭がぶらんぶらん揺れる。どう見ても首の骨が折れている。

 悲鳴を上げることもできずかちんこちんに固まってしまった透を指さして、カノコはげらげら笑う。折れた首をもとに戻しながら、

「ごめんごめん、反応が面白くってつい……て、あれ? おーい?」

 カノコは透の顔の前で、透けた手を振る。涙目で固まったまま、透はぴくりともしない。

「あらら、怖すぎて気絶しちゃった? おしっこ漏らした?」

 どっちもしてない。

 反論が声にならない。完全フリーズだった。びびりすぎて舌もまわらないし指一本動かせない。

「ごめんごめん、もうやらない! 小学生相手におねーさんちょっとチョーシのりすぎた、大丈夫だよー怖くないよー」

 もともと子供好きなのかもしれない。カノコは一生懸命おどけた顔をしてみせる。だけど透のフリーズはなかなか溶けない。

 風でカーテンがばたばたはためく。窓の外で犬が吠えている。


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