第9話 敵の名前

「そうか」


「記憶も引き継いでます。アンドロマケ様が転生体であることも知ってますし、以前と変わらない愛情を向けてるんじゃないかと」


「……」


 ここに来て、俺の心境は一気に複雑さを増した。

 ヘクトルという男の素性については、噂程度に聞いている。知恵に長けた人格者である、と。その人柄は妻を始め、多くの者達に慕われたと。

 生前の、忌々しい葛藤が俺の脳裏に蘇る。というよりも、必然的に考えるべき問題が。


「大人しく手を引け、って忠告かね。こりゃ。あの人が出てきたんじゃ、俺の出る幕なんて無いだろうに」


「……やっぱり貴方は、今度こそ彼女を幸せにしようと?」


「まあな。惚れた女のことは、やっぱり自分の力で幸せにしてやりたいもんだろ」


 でも、難しいもんだ。

 ちょっと考えれば分かることだが、俺とアンドロマケの間には希薄な愛情しか存在しない。愛情が無いと言っても過言ではない。

 俺の気持ちは一方通行で、彼女がまともに答えたことなどなかった。

 にも関わらず幸せにしてやりたいだなんて、傲慢にも程がある。


「まあ近いうちに、ヘクトル様には会えると思います。その時、改めて考える方がよろしいのでは?」


「――俺を殺した人間からアドバイスをもらうとは、なかなか妙な展開だな」


「あ、あはは」


 俺は心からの、オレステスは引きつった笑みを浮かべる。まあ自分の黒歴史を直視するのは、ちょっと大変かもしれないな。

 廊下から新しい足音が聞こえたのは、それから一分も経たない頃だった。


「すまんすまん、客人だというのに遅れてしまった。久しいな、で構わんかのう?」


「でしょうね」


 口調を敬語に切り替えて、俺は老王の姿を認めた。

 白が少し混じっている立派な顎髭。人が良さそうな雰囲気は、息子のヘクトルにも通じているものがある。


「お久しぶりです、ブリアモス王」


「うむ、久しいなネオプトレモス。ワシを殺した男よ」


「ああ、その件はどうも」


 俺は何となく頭を下げる。……いや、どうして頭下げる? これじゃあまるで謝罪してるみたいじゃないか。

 一方、当のブリアモスは俺の反応が気に入ったらしい。呵々大笑かかたいしょうして、空いている椅子に腰を下ろした。


「いやはや、良いタイミングでお主と再会できた。生前の対立は忘れて、ワシらと共に戦ってはくれんかのう?」


「……えっと、何とですか? 俺、この世界に来たばっかなんですけど」


「女神から話は聞いておらんのか?」


「こっちに来てから、落ち着いて話す機会がなかったもんで」


 オヤジの槍追ってくれやがったしな、ちくしょう。


『アレは貴公の所為だと言ったろう』


 噂をすれば何とやら。頭の中に、気品で満ちた声が響く。

 さて女神様、説明してくださいな。


『はあ? なぜ私が貴公に説明せねばならんのだ。現地人の方が多くの情報を知ってるに決まってるだろう? そこのジジイとヘタレ小僧に聞け』


 まあ、それもそうか。

 いつも通りの塩対応から意識を逸らして、俺は二人の男へ目を向ける。


「アテナ様が、そこのジジイとヘタレ小僧に聞け、と仰っています」


『おいこらっ! どうして私の台詞をそのまま使うんだ!? まるで私が彼らを嫌ってるみたいじゃないか!』


 まあまあ、気にしないでくださいよ。

 ブリアモス王とオレステスは、何食わぬ顔で頷いていた。


「ふむ、承知した。我が国にかかる困難が如何なるものか、ざっくり説明しよう」


「それは?」


「ヘクトルが敵国に渡り、この国を滅ぼそうとしておる」


 ふうん、なるほど。

 あれ? でも彼、アンドロマケの婚約者なんじゃないか?


「ど、どういうことですか?」


「どう、と聞かれてもな。ある日突然ヘクトルが、私は敵になりますね、じゃ、と言って国を出ていったんじゃ。いやはや、生前と同じようにはいかんな」


「な、なにがあったんですか? 記憶を継承していなかったとか?」


「それはない。きちんと確認はとったぞ? 継承が行われていないのは、ワシの知る限りではアンドロマケだけじゃな」


「彼女だけ……?」


 それが、裏切りの理由に繋がるのか?

 ヘクトルが真面目な性格だと聞いていただけに、俺は違和感を隠せない。仲の良い妻だって、この世界に転生しているんだぞ。記憶継承の点で不満があったとしても、敵対を選んだりするものだろうか?

 分からん。まあ、他人だから当り前だけど。


「ネオプトレモスよ、とりあえずヘクトルを捕えてくれんか? 神々の用意した台本には、あやつが裏切るような展開が記されておらん」


「場所は分かるんですか?」


「ここから東へ行ったところに砦がある。やつはそこにいる筈じゃ」


「……ひょっとしなくても、敵の前線基地?」


「決まっておろう?」


 ハードな仕事だな、おい。

 まあ文句を言っても始まらない。ヘクトルが父親を裏切っている事実は、俺の興味を十分引いてくれる。

 前々から、話をしてみたいとも思っていたのだ。


「いいですよ、行きます。でもその代わりオヤジの槍、治してもらえます?」


「うむ、構わんぞ。5万ドルクで手を打とう」


「……ドルク?」


「この世界の単価じゃよ。あ、タダで治すのは無理じゃからな? 腕のいい鍛冶屋を紹介せねばならんし」


「……」


「ぼ、僕が払っておきますよ。ね?」


 苦笑するオレステスと、紐化にうなだれる俺。

 ああ、早く両替しないとな。

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