第8話 かつての想い人
城の一画にある、オレステスの部屋。
父親へ報告にいったアンドロマケと別れた俺は、そんな場所に招かれていた。
「生前は、本当に申し訳ありませんでした。なにしろ当時、僕は気が狂っていたもので……」
「ああ、それは俺も知ってるよ。だから別に謝らんでも――」
「いえいえ、そういうわけにはいきません。僕は貴方とアンドロマケ様の婚姻の場に、武装した状態で押し入ったのです。これは紛れもない罪では御座いませんか」
「いや、まあ……」
俺の視点で言うならば、彼の行動は蛮行以外の何でもない。
だから俺が怒るのは当然なんだが――逆に、オレステスからの謝罪は変な気分になる。
「……なあ、頭上げてくれよ。お前はお前の信じるところをやったんだろ? 狂ってたとはいえ、さ」
「し、しかし――」
「だったらそれでいいじゃねえか。仲直りしなきゃいけない関係でもないだろ? 俺はお前から恨みを買って、無様にも殺された。それでいいさ」
「……分かりました。話さなければならないこともありますし、この件はお預けにしましょう」
「ああ」
つまり、俺の言い分には納得してないらしい。
まあそれもいいだろう。もともと、オレステスとは親しい間柄でもなかったんだ。次の瞬間に殺し合いへ発展したところで、俺は直ぐに応じられる。
「……」
「――」
会話が途切れて、部屋は無言の空気で満たされた。
俺は足を組んだまま、本命の登場を待ち続ける。俺がこの手で殺したアンドロマケの義父、ブリアモス王の登場を。
「――ん?」
何気なく部屋を見回してみると、一冊の本に目が留まった。
それなりの厚さがある、上下巻らしきタイトルの本。
イリアス、と書いてある。
「はあ!?」
驚くしかなかった。
テーブルを挟んだ向かい側に座るオレステスは、俺の唐突な反応に目を見開いている。
「ど、どうかなさいましたか? 僕に対して残っている恨みがあるなら、なんなりと――」
「違う違う。……あの本は何だ?」
「ああ、イリアスですか?」
そう、その古典。
オレステスは席を立ち、上下巻をこちらへと持ってくる。……間違いない。休日に東京の本屋を見て回った際、見つけた表紙と同一の物だ。
中を確認してみると、これまた同じ。一人の老神官が、自身の身に降りかかった不幸を嘆くシーンから始まっている。
「……どういうことだ?」
「僕が持ち込みました。ちょっと気になってたもんで」
「だ、駄目だろ!? こっちの文明圏に存在しないモン持ち込んでどうすんだよ!」
「いやあ、すみません」
反省する様子はゼロだった。
俺は気分で、そのままページをめくっていく。
これまで読んだことはないが、イリアスのストーリーはほとんど知っている。何せ、俺は当事者に近い。まあ本の中に俺の名前が出るわけじゃないんだが。
代わりに俺の父・アキレウスはこの本の主人公だった。
「地球の方でも有名ですよね、イリアス。なんでも、世界三大叙事詩に数えられるとか」
「らしいな。オヤジがやけに喜んでたよ」
「ネオプトレモス様の父・アキレウス様はイリアスの主人公ですからね。まあその結末については、イリアスに記されていないわけですが」
「ああ、そこはなんかホッとしてたよ。中途半端で良かった、って」
オヤジのアキレウスは、イリアスの中で繰り広げられた戦争で命を落とす。
トロイア戦争――俺が、終わりの引き金を引いた大戦だ。
しかしオレステスが言ったように、イリアスにそのシーンは記されていない。トロイア戦争の終結について、イリアスの中では語られていないのだ。
「当事者としては残念ですか? トロイア戦争の終わりが記されていなくて」
「まあ残念、つっちゃあ残念かね。他のギリシャ神話の本には、戦争を終わらせた一人として俺の名前が出るけどさ」
「亡きお父上の後釜として、呼び出されたんだよね?」
「おう。まあ母上には反対されたんだけどな。だからヘル――」
「そこから先は後にしましょう」
オレステスは、突然話しを遮ってきた。
俺は無理を通す気もなく、要求に従って言葉を飲む。いま口にしようとした名前は、俺達が衝突する原因になった女性のことだ。後悔で一杯のオレステスには、まだ直視できる名前ではないらしい。
なので話題は、イリアスの方へと戻ることになる。
「せっかくだから、最後まで書いてくれりゃあ良かったんだけどな。主人公、俺に交代してさ」
「イリアスはトロイアの将である、ヘクトル様の葬儀で終わりますからね。アンドロマケ様の、最初の夫である方の」
「……」
今度は、俺がマズイ空気を発し始める。
イリアス周りの話は止すべきだな、と俺はこっそり心に誓うのだった。
「――なあオレステス、一つ聞きたい」
「この世界にヘクトル様が転生しているかどうか、ですか?」
「ああ」
もし生前の関係を引き継いでいるのなら、俺も無視することは出来ない。
アンドロマケのヘクトルに対する愛は本物だった。――亡き夫への誓いを守るため、自決しようとするほどに。
「……あの方は、いますよ。アンドロマケ様の婚約者として」
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