76. 満たされてるけど足りない
「一年よく頑張ったな」
北向きの窓を背にして立つ隊長が言った。
ここに連れて来られてきてそんなに経つのか、と颯太は目を丸くしながら、挙手の礼を取る。
左隣には、櫂。一緒に来た仲間。あの時よりも、肩が盛り上がった。胸も厚くなった。取り澄ました表情は相変わらずだけど。
彼と並んで立った、机を挟んで反対側に冷たい表情の副官がいるのも変わらない。
部屋の別の場所で、諸先輩方が慌ただしく動いていることにも、慣れた。
「お褒めに預かり恐縮です」
右手を下ろしながら櫂が言った。
「ですが、この忙しい時間にわざわざ呼び立てられたのは何用ですか」
彼はそのまま視線を、慌ただしいざわめきへ向ける。
わあ、と内心声を上げて、颯太も同じ方を向く。
案の定、吉田曹長が口を曲げている。怒ってる怒ってる、と蒼くなる。櫂はまだ取り澄ましている。
「上官の指示は聞け」
と、副官の低い声。隊長が喉を鳴らすのも響く。
「褒めるために呼んだんだよ。これは必要な任務だ」
その声に、改めて部隊長へと体を向けた。
大出血の重傷から生還した人も、以前のまま。中肉中背のあまり目立たない体で濃紺の肋骨服を着熟し、ちょっと怖い顔立ちに笑みを浮かべている。
腰に下がっているのは、ピカピカの軍刀だ。
これだけは変わっている。聞くところによると、先日、主上から賜った刀らしい。
その刀の鞘をずらして身をかがめ、机の引き出しから何かを出した。
「残留祝いだ」
青海波の紋様が刷られた紙の堅そうな箱だ。
ほら、とそれぞれ一つずつ渡される。櫂と顔を見合わせる。
「甘やかされてるな」
副官が鼻を鳴らす。
「そうじゃない、発破をかけてるんだよ」
隊長が、開けろ、と言うから二人とも紙箱を開く。
「これ、時計ですか?」
櫂が箱から取り出したのは、懐中時計だ。彼の掌がすっぽり握れる大きさの金細工。
颯太の箱の中身もそうだ。鎖に下がった、チクタクと音を立てる円型の時計。ただし。
「蓋が…… ない……!」
声を上げる。
「その表面の硝子、かなり頑丈だから安心しろ。ちょっとやそっとじゃ割れない」
「はあ」
「落としてもぶつけても割れないぞ」
「粗忽者と思われてるんだよ、恥じろ!」
櫂が肘で小突いてくる。
「そういう……?」
泣きそうな声になりながら、正面を向いて。
「じゃあ、櫂は」
と、問うと。隊長は声を立てて笑った。
「見た目重視だな。機能は判らん」
「判らんって……」
櫂が、ぽかんと口を開ける。
隊長は笑うをを止めて、表情を消した。
まっすぐに、櫂を見る。
「見栄を張れ。あと一年、前線で踏ん張れ。そうしたら、士官学校への推薦状を書いてやる」
え、と櫂が呟く。
「隊長、僕は」
「おまえも、こうって決まった目標があったほうが張り切るようだからな」
「僕もですか」
小さく吹き出して。それでも隊長の表情は厳しい。
「理想のために、まずは見合う行動と地位を手に入れろ」
櫂の横顔をそろっと見る。
一度蒼くなって。だけど、すぐに表情を引き締めた。
「精進します」
また櫂の右手が挙がる。
「よし」
と、隊長は笑みを浮かべた。
「駒場。おまえは目の前のことに集中しろ」
急に飛んできた言葉に、つい。
「えー」
と呻く。間髪入れず、櫂に再び肘を入れられた。
「ビシッとしろよ。恥ずかしいな!」
「う、うん……」
頷きなのか呻きなのか分からない声を上げる。
「おまえはまず、口の利き方から考え直したほうがいいな」
隊長殿はまた喉を鳴らす。
「それと、仕事から逃げるな。手を抜くな。あと、人間関係は大事にしろ」
瞬いて。体を起こす。
「はい」
応えると。
「だから会ってこい」
と続いた。
「ほえ?」
――誰に? なんのために?
「釦は全部止めて、襟を伸ばすんですよ。
久しぶりの人に会おうっていうんだから、シャキッとしていってよ。
ああ、もう、恥ずかしいな!」
恥ずかしいのは俺だよ、と言ってみたくても、櫂は容赦してくれなかった。
大騒ぎの末に、寮を蹴り出された。生暖かい目をいくつも背中にうけながら、歩き出す。ぎくしゃくと歩を進める。
後戻りは不可能、内心汗だくで、文句を繰り返す。
お洒落なんて無理だ。できない。気後れしてしまう。
それなのに、視線の先に見つけた彼女は。
――綺麗だなぁ。
装いも佇まいも全部全部が綺麗だ。
――俺もすこしは格好良くなってるかな。
ほおが熱くなって、濡れてきて。颯太は笑うしかなかった。
*★*―――――*★*
「麗しい再会だな」
両手で湯飲みを握り、ほう、と天音が息を吐く。
「やあねえ、菜々子ったらもっと照れてみせたらいいのに」
真希は笑いをかみ殺しているけれど。
「多分、すごい照れてるよ」
倖奈は我慢できなかった。 ニヤニヤしてしまう。
藤色地に松竹梅の柄の二尺袖。それに海老茶色の袴を合わせた菜々子の姿は、遠目からでも凜々しい。
その正面に立つ颯太は薄茶色の一張羅だけど、両手で目元をこすっていて、締まらない。けれど、背中が曲がっていないのはきっと、彼の必死さだ。
茶店の軒先からその様を見つめていた。大通りの反対にいる二人は、こちらに気がついていない。
皆が揃って普段と違う服を着ているからだ。
倖奈は、山吹色の付下げ。地には白い縦縞が入っていて、裾に野薔薇が描かれたこれはお下がりだ。同じくお下がりの、薔薇の刺繍が入った帯を締めた控えめなおめかし。
向かいに座った天音は、鶴が何羽も舞う黒振袖。朱色の帯揚げもその大胆さに負けていない。
そして真希は、洋装だった。襞の多いブラウスに紺碧の上着。上着と同じ生地のスカートの裾はくるぶしが見えるほどの長さで、踵の高い靴を履いている。
腰掛けたまま、その靴で地面を叩いて。
「いいことを教えてもらったわ、有難うね倖奈」
真希が笑う。
ふふふ、と息を零す。
「史琉が仕組んだんだよ」
「人聞きの悪い」
横に腰掛けていた人が、鼻を鳴らす。
「発破をかけたんだよ」
彼もまた、今日は肋骨服ではない。 焦茶色の背広で、白いシャツを飾るのは紐状の襟締と鼈甲の留め具だ。
どこか冷ややかな表情で、彼もお茶を啜っていたが。
「ごちそうさまでした」
空になったお椀、餡蜜が入っていた器に向けて、真希が両手を合わせる。
「すまないな、大尉」
天音が笑う。
「私まで御馳走になってしまった」
「……お気になさらず」
彼は無表情を貫く。
「まあ、ここで払わないわけいかないよな。男が廃る」
天音は声を立てて笑った。
「両手に花なんだぞ。いや、抱えきれないくらい花束だ」
「そのうちのお一方は、軍の上官に当たられる方ですが」
「細かいことは気にするな」
するだろうに、と横顔を伺う。
ひやりとしたままと見せかけて、薄い唇の端が引き攣っている。それに気がついて、倖奈はこっそり吹き出す。
「天音様はどんなご用だったんですか」
誤魔化そうと、問うと。
「真希のお店に寄らせてもらってたんだ。それで一緒に抜けてきた」
天音は上機嫌だ。
「店に伺うのに、軍服では目立つだろう? それでこの着物だったわけだが」
と、鶴一羽一羽を指先で撫でる。
「次は頂いた着物にしておこうと思う。どうにも場違いだった」
苦笑いで天音は言う。
「その時は倖奈も一緒に行こう。皆で着物を選ぶのは楽しいだろうからな」
真希もあばた顔をくしゃくしゃにして、頷いた。
「さて、我々は先に失礼するか」
「ですね」
そう言ってから、真希は足下に置いていた鞄から物を取り出して、倖奈に差し出してきた。
「これは?」
瞬くと、
「今、西洋で流行の最先端なんですって。試作品。使って」
「いつもありがとう」
「いいのよ」
倖奈の色素の薄い、ふわふわの髪の上に松葉色のそれを乗せて、真希はさらに笑う。
「似合う似合う。大尉さんもそう思いますよね?」
皆で振り向く。史琉は目の端に皺を寄せて、倖奈を見向いていた。
じわじわと頬が熱くなる。
天音が体を揺すって笑い出した。
「じゃあ、ごゆっくり!」
真希の声も弾む。
そんな二人は早口で喋りながら去って行った。
通りの反対側の二人もどこかに向かった後らしい。
「俺たちも何処に行くかな。宇治に行けるほどの時間はないが」
懐から取り出した懐中時計を見つめて、史琉がほうっと息をつく。
その盤面を覗きながら、言う。
「時計って、便利?」
ああ、と史琉は頷いて。それから視線を向けてきた。
「おまえも要るか?」
「え?」
「探しに行くか」
「え? え?」
「買ってやる」
「そんな、悪いよ」
「いい、買う。決めた」
二人きりになってから浮いた笑みのまま、彼は立ち上がる。
ほら、と手を出されたら、握るほかない。引かれて、立ち上がる。離さないまま、歩き出す。前ではなくて、鋭い輪郭の横顔を見上げて、進む。
不思議なところで頑固だ、この人は。
ずっと大人のひとだと思っていたのに、今ばかりはとても幼く見える。
だからだ。
「どうして?」
素直に口にできた。
「なんで急に、買うなんて考えたの?」
それは、と顔を寄せられた。
「俺はもっとおまえを甘やかしたいんだよ」
倖奈の耳にしか届かない声に、むっと口が尖る。
「甘やかさなくていい」
ぎゅっと見上げる。
「わたしはもう子供じゃない」
ほほう、と史琉は目を細めた。
口の端が上がる。その顔に、背中に汗がつたった。
「そうかそうか子供じゃないのか」
「馬鹿にしてるでしょう!?」
「まさか」
彼は、するりと繋いだ手を解く。
「ここまでよく変わったなと喜んでいるんだよ」
驚く間もなく腕が伸ばされてきて、その中に囲われた。
柵となっているのは、衣越しでも分かる硬い胸、太い腕。倖奈とは違う、史琉は男の人だ。
体中が熱に包まれる。
顔が真っ赤になっているのが分かる。
「変わった?」
必死に見上げる。
「わたし、すこしは大人になった?」
問うと。
「すこし、なんてものか」
史琉は笑った。
「変わったし、まだまだ変わるんだろう?」
だから、と言って。
彼は倖奈の耳元に唇を寄せて、愛してるよ、と囁いてくれた。
(夢追い人は夢も恋も捨てられない・了)
夢追い人は夢も恋も捨てられない 秋保千代子 @chiyoko_aki
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