並んで歩きたい

75. 将軍閣下と尽きない望み

 この先は徒歩でお願いします、とのお馴染みの口上。秋の宮は馬車から降りた。


 青い空の下の、黒瓦の門。その向こうには、常緑の大木が立ち並び、白砂利の敷き詰められた道が伸びる。

「行こうか」

 振り向くと、同じく馬車から降りてきた二人がぎこちなく頷く。

「筒井君も柳津君も、緊張してる?」

 問うと、二人が顔を見合わせる。

「緊張するなというほうが無理な相談では?」

 眼鏡のつるを指先で押し上げる柳津大尉の声は硬い。

「ですよねー」

 一方の筒井秘書官はいつものように軽い口調なのに、頬は引き攣っている。

「宮様の秘書を務めさせていただいて三年。お供としてとはいえ、すめらみことのお住まいに入る日がくるとは思いませんでした」

「あっ、そう?」

 実兄の顔を思いながら。秋の宮は努めて軽く笑う。

「たしかに、国で一番の方だからね。粗相したらって恐れるのも分かるけど、今日はそんな大仰な催しじゃないから大丈夫だってば」

「私にとっては一大事なんですが」

 呻く声を漏らした柳津大尉に見向く。


 今日は、肋骨服ではない。

 黒と見紛うほどに濃い紺の生地の、丈の長い上着。前身頃には金の釦が二列に並ぶ。皇国陸軍の正装だ。

 両肩についた帯は、皇都鎮台第五部隊を示す松襲と伍の字。襟元では士官学校卒業の徽章が控えめに輝く。両手を覆うのは真っ白な手袋。ただ、本来なら下げていいはずの軍刀が、腰にない。間に合わなかったのだ。


「まさか、退院と同時に禁裏に連れてこられるとは、想像がつかない」

 秋の宮と筒井にしか聞こえないくらいの大きさの、愚痴。

「ですよねえ。心中お察しします」

 筒井も控えめに、でもはっきりと頷く。

「じゃあ、覚悟ができたところで行こうか」

 笑う。歩き出すと、二人は静かに従ってくれた。


 白砂利の上を進みながら。

「退院と同時でなきゃいけなかったんですか?」

 やはり正装を纏っている筒井が言う。

「うん、どうだろう」

 指先をあごに添えて、秋の宮は首を捻った。

「回復次第顔を見せよ、だったんだけどね」

「それは別に、退院と同時でなくても良かったのでは」

「そうかなぁ?」

「私は鎮台の机に溜まっているだろう書類の整理をしたいのですが」

「いいじゃないか。何事も早いほうがいいし」

「それ、宮様がおっしゃいますか……」

 ふふ、と笑う。

 筒井は肩を竦め。

 柳津はゆっくりと銀縁の眼鏡を外して胸の隠しにそれをしまった。顔色はすっかり元通りだ。


 あの日。因縁の魔物との戦闘に決着が付いたその場で、倒れた。もちろん、即病院送りだ。

 傷は塞がっていたが、体力の回復が追いついていなかったのだろうというのが医者の見立て。

 隊に所属する衛生兵、副官、果てにはかんなぎにまで怒られたらしい。聞くところによると、そのほとんどを苦笑いで受け流した彼も、付き合いが始まったばかりの恋人に半泣きで懇々と諭された後には落ち込んでいたそうだ。


――鎮台にすぐに戻りたかったのは、倖奈に会うためでもあったよね。


 ごめんよ、と秋の宮が心の内で手を会わせているうちに。三人とも無口になった。

 正面の木陰に、瓦屋根の建物が見えてくる。

 その前には二人、老齢の男性が待っていた。


 一人は同じように濃紺の軍服。

「良く参った」

 叔父でもあり、陸軍総裁でもある人と。

「主上がお待ちだ」

 もう一人は墨色の上下を着た政治家――三条大臣だ。


「なぜ大臣まで」

「授与の場で意見を述べることになっている。公式の意見をだ」

「意見?」

 首を捻ると、遙かに年上の老獪な翁は目を細めた。

「鎮台と近衛の合併は、理が少ない、と申し上げる」

「はぁ!?」

 そういえばそんな話もあったな、と目を丸くする。相手は変わらず、淡々と話す。

「この度の戦果で政府内の論調が変わった。役目の違う部隊だから、近衛と鎮台は指揮官を別にしていた方が良い、と」

「じゃあ、天音は――一条少将は」

「兼任を解くと伝言が行っていなかったか? 少将にも既に伝わっているはずだ」


 ほっと息を吐く。それから、ちらりと秘書官を見た。

 筒井は首を振って、視線をずらす。その先は柳津大尉だ。

 彼は何も答えない。口元が歪んで閉じられているから、本当は何か言いたいのだろうけど。静かに眼鏡を取り出して、かけていた。

 つい、吹き出した。

 怪訝そうな顔で振り返った、司令が言う。


「本日の勲章、軍刀の授与とは別に、祝賀会も開くとのお話だ。有難く受けよ」

「……軍刀?」

 大尉が目を丸くする。筒井秘書官もだ。

「何故、また」

 代わって問えば。

「顛末をお訊きになって、特にご用意したいとのお達しだった」

 そう返ってきて、頷く。

「君の刀、ご神体になっちゃったもんね」

 柳津大尉は口元を歪めた。そしてまた、眼鏡を外して、かける。


――もしかして、緊張してる?


 悩む間もなく、急かされて、戸をくぐる。臙脂色の絨毯を靴のまま踏みしめて、奥へ向かう。

 一番奥の部屋の入り口。両脇を近衛隊の制服が固めている。

 別に、天音が立っていた。輝くのは萌葱色の肩章。禁裏と至上の身の上の人を護る隊との証だ。

「待ちくたびれていらっしゃる」

「だそうだよ」

「堂々と行け」

 ばしっと天音の掌が柳津大尉の背を叩く。

 かすかに呻いて、彼は眼鏡を真っ直ぐにかけなおした。 背筋も震えていない。

 堂々と、正面の奥――至上の地位にいる人に挙手の礼を取った。





 *★*―――――*★*



 濃紺の軍服は、凜とあるもの。


 だから、言ってはならぬ、と両手で口を押さえる。なのに伝わってしまったらしい。

「似合ってないでしょう?」

 泰誠は頭を掻く。

「体を引き締めるところから頑張らないと」

 倖奈は苦笑いしか返せなかった。

 相手も同じような表情。纏う服が肋骨服に変わっても、柔らかな笑みは変わらない。口調もおっとりとしたまま。

「まあ、第五部隊は抜きん出て訓練が厳しいって言うから、すぐにできるかもね」

 言われた内容に驚いた。

「泰誠、史琉の隊に入るんだ」

「口を利いていただいたわけだし。当然でしょう」

 目を細めた彼に、また笑う。


 病室で絶対安静を言いつけられていたにも関わらず、史琉はあれこれと副官その他に指示を出していた。お見舞いの時に遭遇した颯太が、伝令で忙しい、とぼやくほどに。

 上官である秋の宮とも遣り取りを欠かさず、その中にあったのが、泰誠が軍人に戻る話だったというのだから。


「軍人に戻るってだけでも驚いたのに」

 ね、と首を傾げてみせるけれど。

「そうか」

 彼の表情は揺るがない。

「お戻りになったら、正式に配属の許可をいただくことになってる」

 泰誠は前を向いて、制帽を被り直した。

「もう、臆病でいられないよ。いろいろと」

「いろいろ?」

 瞬いて見せても、泰誠は笑うばかりだ。


 そんな遣り取りを、かんなぎの寮の居間でしていたら。 客だ、と常盤が顔を出した。

「常盤も、もう平気なの?」

「問題ない」

 襟元から立襟のシャツを覗かせた朱赤の着物、つっけんどんな背中を追いかけて。

 玄関でまた叫び声を上げた。


「何をしに来たの、斎」

「取材だよ」

 首から提げたカメラを両手で構え、片目を瞑る。

「英雄が封じた魔物を見せておくれ」


 珈琲色の三つ揃えに鳥打ち帽。変化のない服装と軽い声に、こめかみが疼いた。


「駄目です」

「駄目だ」

 泰誠と常盤がずいっと、倖奈の両側から前に出る。

「どうして」

 斎は眉を跳ねさせる。

「新聞の役目は、世間に正しい事実を広めることなんだよ。何ヶ月にもわたって市中を悩ませた魔物がどのような末路を辿ったか、皆が知りたがっていると思うよ」

「そこに異論はないけれどね」

 泰誠が太い体を反らす。

「最後の騒ぎの一端はあなただから」

 倖奈も声を重ねる。

「それを言われると……」

 すい、と視線だけを横にずらした。

「まあ、反省してる」

 ぽつりと零された斎の声に、溜め息が零れた。

「それもあまねく知らせたらいいのに」

「容赦ないなぁ」

 むっと頬を膨らませた斎の袖を引く。

「あなたが黙っているのならなら、わたしも魔物がどうして眠ったのかは教えない。それでいいでしょ」

「厳しい条件だね」

 せめて、と彼は見下ろしてくる。

「見るだけも、駄目?」

「……どうぞ」


 通す部屋は問題の日と変わらない。

 かんなぎたちの寮の一階、一番奥。対して広くない部屋で、窓も奥の一つしかない。

 酒精の香りと切り花の香りが満ちる部屋。

 その中に設えられたのは、真新しい白木の祭壇。


 祭壇の真ん中に寝かされているのは、一振りの刀――伝統の造りの軍刀だ。


「これ?」

 指さして振り返る斎に頷く。

「柳津大尉がこの刀に納めたんだってね」

「知っているんじゃない」

 口が尖る。相手は肩をすくめる。

「どうしてそれを思いついたかを知りたかったんだけど、喋ってくれないんだっけ」

「そうよ」

「はぁ。つれない」


 わざとらしい溜め息を、ぎゅっと睨む。

 斎は頭を振って、笑い直した。


「その武勲を讃えられて、今日、主上から勲章が授けられるんだって?」

「そんなことまで知ってるのね」

「まあね」


 ふふん、と鼻を鳴らして。斎は、するりとカメラを構えた。その手を叩く。


「それは駄目」

「なんで」

「本当のことでも、伝えたり残したりしたくないこともあるのよ」

「なぞなぞかい?」

「そうね」


 ひっそりと笑って、刀を見つめる。



 彼が北の鎮台にいた時から、数多の魔物を屠ってきて。この都でも振るわれて、彼自身に傷を追わせもしたもの。

 見た目は何も変わらない。

 だが、中にはたしかにシロが眠っている。



 すったもんだの末、斎は常盤に追い出されていった。

 見送って隣の部屋へ。 そこもまた広くない。だが、窓は二つあって、心地よい風が抜ける。

 真ん中に置かれた机では、美波が分厚い冊子を広げていた。


「静かになった?」

 戸をくぐるなり、訊ねられる。首を縦に振ると、彼女はふう、と息を吐いた。

 今も美波は赤い着物だ。だが、袖が小さくなった。豪奢な振袖ではなく、朱赤に四季折々の花が控えめに描かれた付下げ小紋。丈も短めに着熟していて、するりと歩く。

「この山」

 と、眺めていたはずの冊子を押しつけながら、問うてくる。

「本当に全部見るの?」

 ぐるりと見回す部屋の全ては、万桜の屋敷から持ち出しきた。シロの覚書や蔵書。想いの丈だ。

 それを分かった上で、もう一度首を振る。

「まず目録を作るところからかしら」

 突き出された一冊を胸に抱いて。

「今は眠ってくれているけど、いつまでもそうはいかないでしょ?」

「まあね。床下に魔物がいると分かっていたら、皆おちおち寝てられないし」

 ん、と呟いて。

「待って」

 と振り向く。

「それが理由で万桜様の屋敷に越してきたの?」

 すると、美波は緩やかに紅のない唇を綻ばせた。

「さあ?」


 溜め息が零れる。

「とりあえず、今日はもうここまで。帰るわ」

「じゃあ、行きましょうか」

 二人で寮を出る。門に近づくと、喧噪が大きくなった。

「戻られたみたいよ」

 と、美波が言う。

 木立の向こう、馬車から降りてきたのは秋の宮と史琉だ。

「行くの?」

「遠くから見るだけ!」

 走る。だが、通れそうな場所は全て、軍人たちで埋まっている。そのほとんどが肩に伍の字を付けていて、つい吹き出した。

 皆、正装の隊長と、その胸に飾られた記章に目が釘付けになっている。

 もちろん、倖奈も。

 じっと見ていたら。すいっと彼が向いた。

 その一瞬だけ、笑いかけられる。笑い返す。 本当に一瞬で、その後の彼はいつもの仕事の顔だ。

 それなのに。

「あらやだ、恥ずかしい」

 後ろから聞こえた声に飛び上がる。

「美波」

 顔を顰めて振り返る。彼女はつんと顎を上げて。

 その視線を向こうへ。

 史琉はもう此方を見ていない。その横にいた秋の宮が、わずかに此方へ顔を向けた。

 それはすぐに逸らされる。戸惑う間もない。

「心底嫌われちゃったみたい」

 それだけ、美波は呟いた。


 からからと、草履を鳴らす彼女を慌てて追う。

「美波!」

 振り返った彼女は麗しい。

 爪の端まで磨かれた、ほっそりとした手。長く真っ直ぐに伸びた髪は黒く、よく梳られて艶めいている。長い睫が縁取る瞳も黒々としていて、すこし厚めの唇は熟したさくらんぼのよう。

 でも、押したら倒れてしまいそうだ。

「歩いて帰ろう」

 その儚い様をぎゅっと見つめる。

「なんで」

「気持ちいいから」

「仕方ないわね」

 ぶすっと頬を膨らませて。それでも彼女は歩く。

 翻る赤い裾に負けまいと、深緑の袴で音を立てる。


 辿り着いた屋敷では、育ての親であり師である人が待ち構えていた。

「日が落ちるまで出歩くものでないと、何度も言っているでしょう」

 ごめんなさい、は口先だけ。彼女は肩を落とす。

「貴女たちもいずれお嫁に行くのでしょう。それまでに何か起こったらどうするつもりなのですか」

 もっとも、と万桜は目を伏せた。

「そうなったら、この屋敷はまた静かになってしまう」

 瞬く。

「万桜様」

 それから、呼ぶ。

「お寂しいのですか?」


 シロも――良人おっとである人も、眠りについたから。


 じっと見つめても、返事はない。

 だけど。

「大丈夫ですよ、万桜様」

 美波の声が明るく響く。

「わたしは当分行きません。倖奈は分からないけど」

 だからか、育ての親は顔を上げる。

「――柳津大尉ですか」

 思わず悲鳴を上げる

「ええ」

 美波は満面の笑みで、力強く頷いた。

「きっと護ってくださいますわよ? 魔物からだって、へっちゃら」

「そうでしょうね」

 かすかに下を向いて、万桜は笑う。

 開いた口が塞がらない。だけど、二人があまりに笑い続けるものだから、倖奈も吹き出すしかなかった。


 なんでもない顔で笑い合っている。本当は、腹の底で、ギスギスしているのだろうけれど。騙されているよりは、ずっといい。


――本音を知っているほうが、ずっと。


 そこまで考えて。

「美波」

 屋敷の奥へと向かう彼女を呼び止めた。

「知っていて」


 胸を張って、精一杯の笑みを浮かべる。


「わたしは、護られたくて、史流と一緒にいるんじゃない」

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