74. 狂咲(2)
カラン、と下駄の音がした。シロは歩み寄ってくる。
咄嗟に美波の前に飛び出して、両腕を広げた。
「何してんの、あんた!」
叫び声が後ろから聞こえる。
「あんたが魔物を斃せるわけないじゃない!」
突き飛ばされる。土の上に倒れ込んで、息を呑む。
文句より先に。
「また、わたしを馬鹿にする」
恨み言が口を突く。
顔を上げると、鼻白む彼女の顔が見えた。
「本当のことでしょ。わたしはできるけど」
紅緋色の袖からしろい腕が覗いて、掌が開かれる。
知っている、と唾を呑み込む。
美波もかんなぎだ。柔らかな光を産んで、それで魔物を風の中の塵に変えることができる人。
そのはずだったのに、掌から浮いたのは黒い靄。魔物の素だった。
なんで、と呟く。美波は悲鳴を上げる。
「仕方ないなぁ。今のおぬしが産めるのは瘴気だけなんじゃ」
シロは呵々と声を立てて、その場で首を伸ばした。口は大きく開かれて、そこを目掛けて黒い靄が飛ぶ。
しゅるりと吸い込まれていったあと、シロの喉が上下に動いた。
「魔物も、それを祓うものも、人間の身の裡から出づるモノだからな。何が出るのかはその時次第らしい」
「荒魂も和魂も、結局は一つの存在だからってこと?」
問うと、シロは笑みを浮かべた。
「わしが、瘴気を喰らうだけでなく、かんなぎの力を吸っていくのも、それで説明が付く」
彼はくるくると右手を回す。
その指先に浮いたのは、黒い靄でもあり、七色に輝く霧でもあった。
「この通りじゃ。今のわしはどちらも産める」
それなのに、とシロは笑いを止めた。
「
表情を消して、彼は踏み込んだ。
息を呑む。美波が悲鳴を上げる。
「来るな、化け物!」
本来なら柔らかな光のはずのところで、また黒い塊が飛ばされる。
シロはそれも喰らっていく。
「瘴気を止めどなく産むおぬしも、十二分に化け物じゃろうが」
「煩い!」
美波は叫ぶ。
「みんなわたしを悪者にする」
両目を晴らして、叫ぶ。
「どうしてなのよ」
白魚の指先から、零れた涙から、靄が上る。次々と塊になって、飛んでいく。
そのうちの一つが宙返りして、頭から倖奈へと突っ込んでくる。
逃げねばと思ったのに、横から肩を押さえられた。
「困ったもんじゃなぁ」
肩越しに顔を出したシロが、それさえも食べてしまった。
「現実を正面から見据えられない愚か者。あれは如何すれば良いと思う?」
問われ、瞬いて。
「まず倖奈から離れろ」
シロの体が後ろに飛ばされた。
倖奈は腕を掴まれて、立たされる。真っ直ぐになるなり、その腕は肩へと回された。
「史琉」
自分を腕の中に囲い込んだ人を呼ぶ。
「次々と浮いてきたのをぶった斬るのに忙しいとはいえ、目が離せないな」
「ごめんなさい」
「いいんだよ」
彼は、ふっと息を吐いて。
それから、なあ、とシロに視線を動かした。
「触るなよ」
尻餅をついたシロは肩をすくめる。
「おぬし、その格好は仕事中でないのか? 公私混同は良くないぞ」
「これに関してはいいんだよ。警告はしてあるだろう」
「……今は救うために傍におったというのに。簀巻きにされる謂われはないぞ」
頭を振って、シロが立ち上がる。
史琉は喉を鳴らす。静かに倖奈から腕を離すと、ゆっくりシロへと向き直る。
そして、軍刀を横一文字に構えて。
「その状態だったら、斬れるんじゃないのか?」
嗤った。
「人間のようだったあんたは斬れなかった。だが、魔物としてのあんたは斬れた。今までそうだった」
「成る程」
シロも嗤う。
「人と死ねぬ代わりに、魔物として斃されるか」
両手を開いて、体の前に出して。
「それは厭じゃな」
シロは息をはいた。
「我が儘言うんじゃない」
また一つ嗤ってから、史琉が走る。ぶん、と刀が振られる。斬られ、シロの影が揺れる。
呻き声の後、シロは踏みとどまった。
ゆらり、輪郭がぼやけて、固まる。周りを黒い靄が踊る。
「とりあえず、その黒い部分だけは絶対になんとかさせろ」
「何故」
「恨み骨髄に徹すってやつでね」
溜め息を響かせて、彼は通りの先へと視線を動かした。
同時に、警笛が聞こえてくる。軍靴が走る音も。
皇都鎮台第五部隊だ。
「成る程、これはおっかない」
目を丸くして。シロは踵をかえし、走り出した。
だから迫ってくる足音へ振り向いて。
「律斗!」
史琉が叫ぶ。
「追え! 斬ってしまえ!」
「任せろ!」
ぐっと制帽を被りなおして、口の端を上げて。逞しい体躯の副官は、隊長の横を駆け抜けていく。
「他の奴らも続け! 絶対に逃がすなよ!」
高くて良く通る声のあとに、応、という轟きが響く。
あ、と呟くと、笑いかけられた。
「どうにかできるだろ。本当に怒り狂ってる奴らだからな」
額に手を当てて、彼は一度熱っぽい息を吐いた。
「だから、ちょっと待ってろ」
それから、残った部隊へと走り寄る。
指先がせわしなく方角を示す。伝令が走り出す。
そのうち、笛だけでなく、喇叭も聞こえてきた。鎮台の司令官――秋の宮が出てきているという合図だ。
あ、と呟いて、倖奈も袖を翻した。
――そうだ、美波。
高貴な血と重責を負う人を思うと、どうしても赤い着物の彼女を連想してしまう。
だけど、今の自分の役目は、彼女を助けることだろう。
皆がシロにかかりきりになるのならば、なおさら。
――魔物を生み続けるのは、駄目。
捜した人は、先ほどと同じ位置のまま。土の上でへたり込んで、両手で顔を覆っていた。
一歩離れたまま、名前をもう一度呼ぶ。
緩やかに彼女は振り向いてきた。
頬の上には、涙の筋がいくつも残る。紅は剥げて、唇は土気色。目の下は落ち窪んでしまった。
しくりと胸の奥が軋む。
「ねえ、美波」
「何よ」
「立って」
「なんで」
「このままじゃ駄目だと思うから」
軋む音は聞こえないふりをして、彼女を見つめる。
「嘆きたいのは分かったから。そこだけは理解するから。でも、やっぱり納得はできないの」
向けられた視線の弱さに、内心退いて。でも、と口を開く。
「本当は比べる材料にされていただけだって思えば、わたしはあなたを好きになれない。でも、その気持ちを変えてくれるなら、もしかしたら」
――本当の意味で、仲良くなれるのかな。
問いを胸のうちで繰り返している間に。
美波は下を向いた。
「やっぱりわたしを、悪く言う」
するり雫が頬を伝う。背中が黒く揺れるのが見えて、叫んだ。
「だから、それじゃ駄目だってば!」
そのまま、美波へと頭から突っ込む。
ゴッ、という鈍い音がした。倖奈の額と、美波の額がぶつかったからだ。
悲鳴とともに、美波がうずくまる。
倖奈もまた呻いて、額を両手で押さえた。その奥では、何かがぐわんぐわんと揺れている。
「な、なにこれ……」
「あんたがぶつかってきたんでしょう!?」
怒鳴り声に顔を上げる。真っ赤な目で、涙もそのままに、美波が叫ぶ。
「どうして頭突きなのよ!」
だから、こちらも頬が熱いまま叫ぶ。
「美波が瘴気を出そうとするから!」
「止めるにも、もっと違う手段してよ!」
「これくらいやらなきゃ、分かってくれないじゃない!」
「そんなことない!」
「ちゃんと現実を見れてないのに、何言うのよ!?」
怒鳴り合う隙間で、カシャンと音がした。
二人でぎょっとして振り向いて。
「斎」
いつの間にか寄ってきた人を呼ぶ。
「やあ、フロイライン」
片手を上げた彼は、珈琲色の三つ揃いに山高帽。そして首にはカメラをかけた姿。
いつもと変わらない、と頭のてっぺんまで熱くなる。
「何しに来たの!?」
「それはもちろん、軍の活躍を記録しに」
ねえ、と首を傾げられた。
「真実は真実のままに伝えないと」
「図々しい」
ぎゅっと睨む。
「あなた、自分がやったことはちゃんと分かっているの?」
アオが眠っていた勾玉から出てくる切欠を作った一人ではないか、と睨む。
「そのせいで史琉が」
言い差して。口を両手で覆った。
「大尉殿が、何?」
「なんでもない」
「教えてくれないの?」
またしてもの首を傾げる仕草から、目を剃らす。
「あなたの書き方は嫌い」
「なんで」
「なんか、厭」
ぎりり、と奥歯が鳴った。
「金輪際、わたしの周りの人のことを書いてほしくない」
史琉も、秋の宮も、美波もだ。
斎は大げさに両手を挙げた。
「一応反省はしてる。君のいうとおり、近づかないほうが良かったかもね。ついでに言えば、去年のお社の件も、近づかなければ事は起きなかったと今更思ったよ」
「それは良かったわ」
「ってことで、気分一新、真実を伝える役目に励もうと思うんだけど」
と、上げた手の内、右手の先を動かす。
「魔物が生まれそうになっていたのが消えた、も書いちゃ駄目?」
斎が指さす先。あ、と美波が呟く。
両手を開いて、見つめると、ふわりと光が浮く。
真っ黒な、瘴気じゃない。
「魔物を産むのが人であっても、止めることができる。真実は広めていいんじゃない?」
またカメラが鳴る。咄嗟に両手を出して、それを掴んだ。
「痛い痛い痛い、引っ張るな!」
「これを使うのが厭なのよ!」
自分より背が高い相手。見上げた時の感覚が史琉と一緒なのが気に入らない。
その彼は身を退こうとするから、余計に力を込めて引っ張る。ぷつん、と革紐が切れる。げ、と斎が呻く。
「大事な相棒なんだって!」
「そうね、いろんなものを映しているでしょうから!」
夏に咲かせた桜も、取り憑いた魔物が人から出てくるところも、魔物が捕まえられて鏡や勾玉に封じられるところも、全部見てきただろう。
そのカメラを振り上げて。
「壊すなよ!?」
はた、と瞬く。
――魔物が封じられたご神体を祀る神社ってあったよね。
「ねえ、斎」
「借りてもいい?」
「え?」
両腕で抱いて、走り出す。
「ちょっと、フロイライン!?」
「美波を見てて!」
走れば、濃紺の肋骨服の人たちに、すぐに追いついた。
宙を舞い、人を傷つける魔物と刃を交えている人たちに。
魔物は、あちらこちらから追い立てられてきているらしい。立ち向かっている人の中には、かんなぎの仲間も見える。
「泰誠」
一際頼れる仲間を見つけて、鶯色の袖を引く。
彼が目を丸くするのに構わずに問う。
「ねえ、シロはどっち」
「向こうかな」
厚い掌の先で、彼は方向を示す。
「さっき、柳津隊長たちが追いかけていったけど。って、倖奈!?」
礼もそこそこにまた走る。
止まれない。走って走って。
その先で囲まれている、輪郭をぼやかした存在を見つける。
もっとも、囲まれていると言っても、周りは黒い靄を片付けるのに手一杯らしい。
「シロ!」
その中で呼ぶと、振り返られた。
「良く来たなぁ」
笑い声が聞こえる。
「さきにわしを見捨てたのはおぬしではないか」
ぐっと唇を噛んで睨むと、さらに声が届く。
「元に戻れぬと言ったのはおぬしだろう」
「戻れないよ。それでも、変われるでしょう? あなたが願う形に」
両足を踏ん張って。
「ただ静かに眠りたいと願うのならば」
と、カメラを掲げてみせる。
「シロも祀られればいいのではなくて?」
するとシロは、きょとん、とした。
「わしが?」
頷く。
「そうしたら、真実は残る」
言葉を継ぐ。
「魔物の源は人が生み出す瘴気だということも、それを無理に作ることもできるのだと言うことも、集めることができるということも。集めたらどのようなことになるか、も残せるわ。次に同じことを起こさないように」
ね、と笑いかける。
「これは、寸分の狂いもなく記録を残してくれる道具ですって」
「あのなぁ……」
呆れたような声。だが、笑っている。
「人身御供か、わしは……」
呟いて、肩を落とす。
「それも致し方ないのやもしれぬな」
体を揺らして、彼は顔を上げた。
倖奈より幼く見えるようになった顔だ。
どこか素直で、濁りのない顔。
「眠るにしても、その得体のしれぬ工具は厭じゃ」
それと、と腕を振る。
「休むにも、余計なモノは落としてからにしたいの」
ぶわり、と風が唸る。黒い靄が大きく広がって無数に千切れる。
それでも軍人たちが走った。片っ端から斬っていく。
喉を鳴らして、見回す。
「おまえが食われるなよ」
横から滑り込んできた刃が、傍の一つを叩き落とす。高辻少尉だ。
向こうでは、史琉が一つを突き飛ばす。
瞬間、かすかによろめいて。
それから横合いから流れてきた別のものに振り向く前に、高辻少尉は蹴りを放った。
「蹴りは悪手だって言ってなかったか?」
「場合による」
笑い合って、彼らはまた刀を振る。
シロの置いていった靄が減っていく中で、腕を掴まれた。
「待っていろって言ったのに」
苦笑いだ。唇を尖らせる。
「だって」
「できることだから、だろ?」
先に言われて、ますます膨れたら。
「倖奈」
こめかみに、唇が押し当てられた。
「あいつに譲るつもりはないんだよ」
「譲る?」
「ちがうな。欠片も寄越してやらん」
一際高く、笛が鳴った。シロが通りの先へと跳ねていったからだ。
それを追って、第五部隊もかんなぎも動く。
絶対にじっとしてろ、と笑い、史琉もまた走り出した。
部隊が鬨を上げる。黒い魔物が減っていく中を駆け抜ける。
その先には、しっかりした輪郭を取り戻した、人ならざる人。
「おぬしにも世話になるのう」
「俺だけにしておけ。この先は、な」
数多の魔物を斬り、自分の血さえも吸ったことがある、軍刀。それをまっすぐに構えると、相手は笑った。
「痛いのは嫌いじゃ。楽にやってくれよ」
そう言って、シロは土の上に、両手両足を投げ出して倒れていく。
その、倒れ込む上に飛び乗って、叫んだ。
「眠れ!」
刃をまっすぐ突き立てる。
そこから光の柱が上る。
*★*―――――*★*
ふわふわと花びらが舞っている。
その中を歩きながら、颯太は呟いた。
「綺麗だなぁ」
白い光が、通りを、都を満たした後。光の発生した地点はすぐに分かった。戦闘の中心になっていた場所だったから、報告がすぐに届いたのだ。
それを受けての秋の宮並びに吉田曹長の指示は、走って行って、状況を確認してこい、だったのだが。
どうにも、焦る気持ちになれない。
――春が来たって感じだなぁ。
とっくにやってきたはずの季節だけど、馥郁たる香りを吸い込むと、ほっこりしてしまう。
「でも、なんで梅なんだろう」
呟いてから。
脇を駆け抜けていく人に、はっとした。
「あ、やべ」
颯太も駆け出す。だから、並んで走る格好になる。だが、向こうは颯太に向くことはない。
むしろ視線は、前方の女の子に向けられている。
「倖奈」
わあ、と頬を緩めたら、隣の男が叫んだ。
「フロイライン! 返して!」
倖奈は頷く。
「ありがとう。斎」
ふわっと笑んで、両手で黒いカメラを差し出してきた。
「助けられたの。ありがとうございます」
きっちりと腰を折って、頭をさげた彼女に。
「ああ、どういたしまして?」
相対した青年は目をぱちくりしている。
だけど、すぐに、にやっと口の端を上げた。
「お礼ついでに、今日についての話を」
「駄目です」
ふふふ、と彼女は肩を震わせる。そのまま背を向けられて、背広姿の青年は天を仰いだ。
そこから離れて。
「颯太!」
彼女が手を振ってきたから、こちらも片手を上げる。
「お疲れ様」
春らしい黄色の二尺袖に、枯れない緑色の袴の裾を翻して佇む姿をじっと見て。
――やっぱり、可愛いなぁ。
くわえて、綺麗だ、と思った。
それにしては、違和感のある部分がある、と近寄って指先を向ける。
「また怪我してるけど」
額が腫れているのだ。
「吉田曹長のところ行って、診てもらったほうがいいんじゃない?」
「あとでまた、ね」
彼女はふわりと笑って、歩き出す。それを追う。
追いかけて、わっと声を上げた。
道の先、真ん中には、地面に膝をついた人の背中が見える。
「柳津隊長!」
声が弾む。
この辺りが一番香りが濃い。光の正体は、魔物を退治した証だったのかなと思いながら。
「お疲れ様です!」
と笑いかけると。
「……駒場か」
隊長殿は見上げてきた。
肋骨服の襟元からは包帯が覗いている。斜めになった軍帽の端では、髪が揺れる。白い手袋の両手は刀の柄にかけられたまま。そして、顔は蒼い。
「駒場。肩を貸せ」
言われ、目を丸くした。
「なんで?」
「一人で立てないって言ってるんだよ」
「どうして?」
「貧血だ」
「ヒンケツ?」
――ヒンケツ? 血が貧しいって書くヤツ? 体の中の血が足りてないってことだっけ? 血が足りないと、ええっと、どうなるんでしたっけ? ねえ菜々子?
悩む時間が長すぎたか。また隊長殿の溜め息が聞こえた。
「こりゃ駄目だ」
土に突き立てたままの刀から、掌が滑る。体が傾いで、倒れていく。
わあ、と声を上げた。
「隊長おおおおおおおお!?」
「史琉!」
倖奈の悲鳴も響いた。
(第四章・了)
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