73. 狂咲(1)

――花を咲かせるだけで、おまえは十分なんじゃないのか?


 始まりはきっと、彼のあの言葉。花を咲かせることだけしかできないからと言われていた自分が、今はどうだ。

 花が咲けば、魔物は寄ってこない。祓うことができる。

 それを知ったから、魔物に向かっていくことができる。人を傷つけて、時には死に至らしめる、忌まわしい存在と知っていても。立ち向かっていける。

 誰かが苦しまないでいられるようにできると云うならば、自分が為せることがあるならば、逃げることは選ばない。


 ――あの人が、夢のために進んでいくというのなら。わたしも、わたしが望むことのために、戦うの。



 びよん、びよん、とシロが通りを跳ねていく。人々は声を上げて、背を向けて走り出す。

 だが、走りきれず転ぶ人、動けずに倒れ込む人、訳も分からないまま立ち向かって行こうとする人もいる。

 その人たちから、大きさも形も様々な黒い靄が上がる。

 あれらが集まって別の人を傷つけてしまう前に、と倖奈は叫んだ。

「力を貸して!」

 応えてくれたのは立ち並ぶ桜の木。芽という芽が一気に育つ。蕾へと変じて、ぱっと開く。


 薄紅に染められる道をさらに進みながら、残された靄の一つ一つを撫でる。

 すると、竜胆に向日葵、水仙と、季節外れの花が次々に咲いた。

 足下には葉牡丹、風に乗ってきた花びらは藤。

 そして、躑躅も咲かせてから、はっとする。


「どうして此処に咲くの?」

 呟いて、一度足を止めた。


 ざあ、と風が吹き抜ける。

 そんな通りの両側には町家が、白い塀が並ぶ。藤棚も見当たらなければ、向日葵の種が蒔かれているかもしれない鉢もない。

 カサと鳴って滑っていく枯れ葉は、きっと椎の葉だ。

 見回しても見回しても、答えはない。ただ、ざわめきが響くだけ。


「なんだ、これ?」

「お花見には早いのにねえ」

「山茶花と木槿と桜がいっぺんに見れるなんて素敵」

「ちがうぞ、異常事態だ」

「喜ぶことじゃない」

 色とりどりの声を聴きながら、さらに視線を巡らせて。


 あ、と呟く。

「シロを見失っちゃった!?」

 本来の目的を忘れるところだった、と頭を振った。

 先ほどまで向かっていた方角を向く。警笛が聞こえてくるから、シロでなくとも魔物はいるのかもしれない。


 行こうと踏み出す。

 途端、視界が揺れた。

「あれ?」

 膝がかくんと折れる。

 土の道が顔に近づいてくる。

 転びそうになっているのだ。せめて、手をつこう。一瞬のうちにそれだけ思った。

 だけど腕が動かない。ぎゅっと目を瞑る。

 痛みを覚悟した瞬間に、体は柔らかいものに包まれた。


 斜めになった体がしっかりと支えられている。

「どうして」

 と呟く。

「見つけた」

 聞こえた声に、瞬く。顔を上げる。


 自分を腕の中に抱きかかえている人と目が合った。

「史琉」

 呼ぶと、相手はふっと口の端を上げた。

 そのまま、ひょい、と倖奈は抱き上げられた。

 わ、と声を上げる。

「何するの!?」

「何って、おとなしく運ばれてろよ」

 倖奈を横抱きにして、史琉は歩く。人波を器用に抜けて行く。


「でも、歩けるし」

 揺らされながら、声を絞り出す。

「倒れそうになっておきながら、何言ってるんだよ」

「わたしは平気。あなたのほうこそ」

 くしゃ、と頬が歪む。そろりと指先を伸ばして。

「傷」

 と、すぐ目の前の彼の頸に触れた。


 いつもならきっちりと閉められている肋骨服の襟元は、わずかに開きっぱなし。その隙間から白いシャツが、さらにその奥の包帯が見える。

 触れたのは、その包帯だ。


「傷からたくさん血が出てた」

「そうみたいだな」

「あなたが、自分で」

「自分で切った。分かっているよ」

 そう話しながら進んで、道の端、塀の蔭。人並みから区切られたところで、やっと足を止めた。

 喧噪が遠くなる。それでも、彼は倖奈を抱えたまま。


 降りると、何となく言えなくて。

「どうして、あんなことしたの」

 問いかける。

「魔物をどうにかできるかと踏んだんだけどな。とんだ失態だった」

 彼は喉を鳴らした。


 一度唾を飲み込んでから、その首元を通り、首の後ろ側へと両腕を回す。だから、震えが直に伝わってくる。

「吃驚した」

 そう言うと、頷かれた。

「あなたが死んじゃったらどうしようと思って」

 さらに言葉を重ねると。

「分かってる」

 ぎゅ、と彼の腕にも力が入る。

「だからとは言え、おまえに助けられるなんて、自分に腹が立つな」

「そんなこと思わなくていいから」

 さらに縋り付く。


「無事だったから、なんでもいい」


 じわ、と目の奥が熱を持つ。瞼の裏が濡れる。

 包帯が巻かれたままの彼の首に顔を埋めて、息を吐く。


「あなたが無事で、良かった」


 すると。

 ぐい、と姿勢が変えられた。

 体が真っ直ぐに立てられる。だが、足の先はも地面に届かない。彼の腕に腰掛けるような体勢で、やっぱり抱き上げられている。

 親が子供をあやすような格好に、顔が火照る。見上げられて、身を縮める。


「無事で良かった、は俺も言いたいよ」

「なんで?」


 聞こえた言葉には瞬く。彼は目を細めた。

「吉田に聞いてないのか」

「何を?」

「おまえには傷を治す力があるんじゃないかって話」

 鋭い声を受け止めて。そろりと頷く。

「聞いた」

「じゃあ、それはおまえ自身を犠牲にしているかもしれないという可能性は?」

「……そうなの?」

「そうだろう?」


 眉がぎりりとつり上がっていくのが見えた。


「何度もおまえが花を咲かすのを見てきた。小さな花、すこしだけならなんともない。だが、夏に、通りの木を一度に全て満開にした時も倒れただろう? 神社で人に乗り移った魔物を追い出した時も、不自然に倒れそうになっていた。

 くわえて、この俺の不始末だ。俺はさっさと目が覚めたのに、おまえは眠り続けていると聞いて、どれだけ肝が冷えたと思うんだ」

「それは」


 唇を噛む。目を伏せようとしても、彼は見上げてきて、視線をそらしてくれない。


「もう花を咲かすのは止めろ、と言いたくもなる」

「それは厭」


 即答。彼の顔が歪むのを見ながら、倖奈も眉をつり上げた。


「これがわたしの力なの。これができるから魔物に立ち向かえるの。誰かが傷つけられてしまうまえに祓うことができて、もしかしたら」

――荒らぶっているものを鎮められるかもしれないのに。


 顔が真っ赤になっている気がする。それでも声を絞り出す。


「あなただったら、魔物に立ち向かっていくでしょう? ぜったい逃げたりなんかしない。魔物が人を傷つけることを赦さないから。自分の力で防げるものと知っているから。だから、わたしもそうする」


 じっと見つめ合って、先に目をそらしたのは彼だった。


「降参だな……」


 溜め息が響く。

 そこでやっと下ろされた。

 足裏が、下駄越しに、柔らかな土の感触を捉える。

 ほっとすると同時に、すっぽりと包まれた。また抱きしめられた。

 硬い腕、広い胸に囲まれる。今度は、恋人同士の抱擁だ。気がついて、慌てて名前を呼ぶ。

 くっくっと彼は喉の奥で笑っている。


 そうして、ふわ、と倖奈の前髪を指で梳く。くるりと指先に巻いて、持ち上げて。

 あらわにした額に唇を寄せてきた。

 湿った熱が伝わってきて、声が喉に詰まる。


「たしかにな。軍に入った理由は、今だに消えないあおくさい夢は、そういうことだが」

 額に唇を押し当てたまま、彼は言った。

「俺は贅沢者でもあるんだ」

 一度、息を切って。さらに強く唇が押し当てられる。


「贅沢者だから、夢も恋も捨てられない」


 聞こえた言葉に瞬く。何度も瞬く。

 その合間に、額だけでなく、こめかみにも、頬にも、鼻の先にも唇が触れてきて、熱が広がる。

「待って」

 どうにか声を絞り出す。

「お願い、待って。よく分からない」


 指一本の隙間しかないまま、見つめ合う。


「捨てられないって。何が、なんで」

「おまえなぁ……」


 今度は耳に唇が押し当てられる。

 聞こえたのは彼の声。でもいつもと違う、小さくて、はっきりしない声だった。


「ねえ」

 もどかしい、と眉を寄せる。

「もう一回、言って?」

 すると、彼は顔を離した。

 見上げれば、真っ赤だ。彼の頬も耳も、朱に染まっている。


「勘弁してくれよ」

 つられて、倖奈も顔が熱くなる。

「いやだ」

 それでも抗議する。

「ちゃんと聴きたい」


 はぁ、と彼は大きな溜め息を吐き出した。

 それからもう一度、倖奈を抱きしめ直してきた。顔を胸に押しつけられて、唇が耳朶に近づく。


「おまえが好きだ」


 聞こえた言葉を頭の中で繰り返すと、じわじわと、体の芯から温もりが広がっていく。

「ねえ」

 頬を緩めて、自分から史琉の胸にすり寄った。

「もう一回言って」

「なんでだよ」

「聴きたいから」

 つい、くすくすと笑みを零した。彼もまた笑い出す。抱きしめてくる腕の力は緩まない。


「好きだ」

 頷いて、倖奈も両腕を彼の背に回す。

「心底惚れてる」

 腕に力を込める。

「離すつもりはない」

 もう一度頷いて、笑う。

「わたしも、史琉が好き」

 そう言って、つま先立って、彼の顎に口づけた。


「大好き」


 唇に、ざらりとした感触が残る。それがうっすらと伸びている鬚の感触だと悟って、目を丸くした。

 鋭い輪郭につり上がった眉、それなりに背が高く、がっしりと鍛えられた体をしている。史琉は、倖奈とは違う、男の人だ。


 その彼も目を丸くしている。

「やっぱり大胆な奴だな」

 ええ、と声を上げる。やっぱり、というのはどういうことだろう、と頬を膨らませると、そこをつつかれた。

 それからやっと、静かに体が離されて、息を吐いた。


 ぎゅっと一度目を瞑り、開く。

 わずかに屈んで、彼が顔を覗き込んできた。

「無理するなよ」

「へいき」

「倒れたら怒るぞ」

「うん」

 ぱんぱん、と両手で自分の頬を叩く。


 それから手を引かれるままに歩き出す。

「何処に行くの?」

 引く人は、振り返ってきて、言った。

「通りの向こうに宮様たちが布陣の中心を作っている。そこに情報も集めろと指示しているから、まあ何かしら分かるだろう」

「シロが行った先も分かるかな?」

「……今回もやっぱりあいつなのかよ」

 鼻に皺を寄せた彼に、倖奈は首を振った。

「シロとアオが元どおりに一つになったの」

「それは厄介そうだな」

 史琉は舌を打つ。つられて息を吐く。


 進んでいく間にざわめきが減っていく。何色もの着物が行き交っていたのが減る。その代わり、走り抜ける軍人が多くなる。

 濃紺の肋骨服だらけの中で、その赤は目を引いた。

「美波」

 気付いたから、足を止める。手をつないでいた人も立ち止まって。

「何を睨んでるんだ」

 小さく言って、倖奈の隣に立った。

 先ほど、屋敷で別れたはずの人。着物は、薔薇の花籠が染められた紅緋色、その時のまま。

 ただ、また髪がもつれて。頬がずっと削げている。

 瞳だけがギラギラと目立つ。

 その顔で、なんで、と言って。


「どうして、わたしは喪ってしまったのに倖奈にはあるの」


 彼女は正面に来た。

「どうして、倖奈には恋人がいるのよ」

 宮様はどうしたの、と問いそうになって、口を噤む。

「本当に嫌われてしまったわ」

 彼女が先にそう言ったから。


「触るなと言われた」

 紅の剥げた、乾いた唇が動く。


「どうしてかしら。あんなに慰めて、尽くしたのに。どうして、宮様はわたしを嫌いになるの?」

 一度息を吸う。

「それは、宮様のお考えは、わたしに分からないよ」

「酷い」

 美波の声がぽつんと響く。


「誰もわたしが苦しいのをわかってくれない」


 それが胸を揺らす。

 本当にそうか、と問いかけたくて堪らない。

 代わりに、じっと見つめているうちに、美波の伏せた目の端から、ぽろっと雫が落ちた。

 ぽつん、と土の上に染みが広がって。それが黒くなって、立ち上る。


「魔物だ」

 また史琉が舌を打つ。

 緩やかに繋いでいた手が離された後。ぎん、と音を立てて、軍刀が鞘から滑り出る。


「あれは斬っても平気だろうな?」

「え、え?」

「斬っても、どっかの誰かみたいに、あの子か引っ繰り返ることにはならないなってことだよ」

「それは」

 ないとは言い切れないかもしれない。

「でも、魔物だもの。他の人を傷つけちゃうかもしれない」

「そうだな」


 史琉が刀を構える。

「堪忍してくれよ、お嬢ちゃん」

 応えるように靄は吠える。宙を滑り、向かってくる。

 それを彼は、一振りで断った。

 下半分だけが、風の中に消えていく。

「ただの魔物だな」

 笑って、踊る上半分を追い、史琉は走る。


 倖奈もまた駆けて、土の上にへたり込んだ彼女の横に行く。

「美波」

 膝をついて、顔を覗き込むとま。

「なに、あれ」

 と、乾いた頬の彼女は言った。


「魔物だよ」

「わたしの中から出てきたの?」

「そうね」

 ぎゅっと目を瞑ってから、まっすぐに彼女の顔を見る。


「魔物は人が産むの。怒りだったり妬みだったり、人の荒ぶる部分から生まれるの」

「じゃあ」

 と美波は、また泣いた。


「そういうみっともない部分がわたしにはあるって。わたしは悪い人だって言いたいのね」


 首をどう振ろうかと迷った。

 彼女に荒れた部分があるのは倖奈でも否定できないけれど、はっきりと示してしまったら、美波はどうなってしまうだろう。

 そう悩んだのに。


「そうじゃよ、おぬしは悪いんじゃよ」


 割り込んできた声に肩を揺らす。

 二人で顔を向ければ、知った人が居る。


「シロ。戻ってきたの?」


 相変わらず、輪郭をぼかしたまま。でも、目と鼻はしっかりと見分けられる。唇の動きもはっきりしている。

「戻ってきやすかったのでなぁ」

 そう嗤っているのも伝わってくる。


「アオが――わしが好きな黒いものがしっかりと溢れてくるのでな。それを喰らいたいと思うのじゃよ」


 それは、本気なのだろうか。じっと見つめていたら。

「倖奈」

 呼ばれた。身を固くする。

「おぬしのいうとおり、わしは瘴気だけを離すことはできないようだ。全てひっくるめて、わしという存在。人ならざる人らしい。

 そうあれば、願いは叶わぬ。わしは直人ただびととして死ねぬようだ」


 どろりと、黒く周囲に溶け込めないまま、彼は嗤う。


「死ねぬならば、どうしたら良いと思う?」

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