第30話
世界チャンピオンが少ない小遣いを嘆いた少し前。
リングの上で、息が乱れている弘樹は、倒れたパンチャイを見下ろしていた。
レフェリーの腕が交差され、試合終了を告げるゴングが会場に鳴り響いた。
危険な選手だった。
弘樹は安堵した。
倒れたパンチャイの元に、人が集まっている。状態を確認しているのだろう。幾度か声をかけると、しかしパンチャイはすぐに気が付いた。キョロキョロと状況を探り、負けを悟ったようで、悔しそうにリングを何度も叩いた。
「よくやった。おめでとう」
今江が一人、リングに上がっていた。沙耶と彩含めて、他のみんなはリングの下で待っていた。
「ありがとうございます」
今江は頷いた。
拍手が沸いた。
勝ったんだ。
そう感じる、素晴らしい時間だ。
「やるじゃねーか、色男っ!」
「いよっ、日本一!」
「ねーちゃんにメシを奢らずにすんだなーっ!」
「ぎゃはははは」
飛んでくる野次と賞賛に、弘樹は、腕を掲げて応えた。
強敵だった。最後のフェイント。あれには心底驚いた。ショートアッパーで対応したのだが、今、立っていることが弘樹には不思議に感じていた。それほどまでに鋭い一撃だった。少しでも判断が遅れていたら、倒れていたのはパンチャイではなかったはずだ。
そんな彼にも、今宵の観客は拍手と、それから労いの言葉を送った。
「外国人のあんちゃんも良かったぞー!」
「いい根性だ!」
「次の試合も見てやるからなー!」
「よく頑張ったなー!」
「これからも応援してやるからなー!」
パンチャイが立ち上がる。けれどもふらつき、そのために身体を抱かれてしまう。
だが、支えを手で制し、自らの足でしっかりとリングの上に着けた。
しばらく頭を下げ、そして、誇らしく、腫上がった顔を上げる。
そんな彼はタオルを頭に乗せられて、胸を張って去っていった。
拍手がさらに大きくなった。
弘樹は、後姿の褐色の戦士に頭を下げた。
伝わりました。
あなたの想い。
あなたのボクシングへの愛情。
こちらこそ、ありがとうございました!
顔を上げる弘樹の表情には喜色が浮かんでいた。
レフェリーが腕を取って掲げる。
「勝者、松田弘樹!」
パチパチと、拍手が後楽園ホールを包んだ。
弘樹は観客にも感謝を伝えた。
一際湧き上がる歓声。
スポットライトが眩しかった。
今江も満面の笑みだ。
「終わったな」
「はい」
「強かったな」
「はい」
「お前もな……。いい試合を、ありがとう」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
階段を下りると、浅田と護、それに沙耶と彩がいた。
みんなそれぞれ喜んでくれていた。
嬉しかった。
口元が緩んだ。
ボクサー冥利に尽きるというものだ。
「お疲れ!」
「見てましたよっ」
「お疲れ様。格好良かったわよ」
「すごかった!」
けれど。
一人だけ。
彩が、瞳を潤ませていた。
弘樹はニッコリと笑って言った。
「おぅ。プレゼントだ」
「でも良かった! 死ななくて良かった!」
彩が駆け寄り、抱きつこうとして、……渋い顔をしてやめた。
その上、彼女は汚いものを見ているかのような目つきをしていた。
ちょっくらイラってきてしまった。
「なんだよ」
「いや、なんか……。汗でヌメヌメしてそうで」
「お前………。いや、いいんだけどよ」
「それなら会長である俺が抱きついてやろうか。よくやったぞって」
「やめてください。それは俺がベルト巻いたときにしてください」
「お……、ぉぅ……」
会長が顔を赤らめてモジモジしていた。
何を恥ずかしがってるんだ、このオヤジは。
あ、そうだ。
先輩にもきちんとお礼を言わなくては。
弘樹は、インターバルのときの沙耶の言葉によって救われたのだった。あれがなければ、最後の判断が、遅れていたかもしれなかった。
好きだから、リングに立っている。
好きだから、世界チャンピオンになりたい。
好きだから、ボクシングをしていたい。
純粋な、心からの気持ちだ。
いろんな人のおかげで、今日の試合は勝てたのだった。
「先輩」
「沙耶」
しかし沙耶は甘くは無かった。
弘樹の投げかけに、ぴしゃりと対応した。
勝ったら『沙耶』と呼ぶ。
あの場でのノリを、そのまま持っていきやがった。
一呼吸おいて再チャレンジ。
「……沙耶さん」
「う~ん……。もう少し頑張ってみようか」
「エ゛ッ」
「なによ」
「……いえ」
「で?」
「なんか楽しんでません?」
「いんや。めちゃんこ真面目」
「それならそのニヤニヤ笑いをやめてくれませんかねぇ」
「イヤ」
「そうっすか……」
けれど。
人の心を騒がせることが得意な沙耶は。
魅力たっぷりの、華やかな笑顔に切り替えた。
「頑張ったね。ちょっとだけ、イイ男になったんじゃない?」
少し胸が高鳴ったが、これは、たぶん、試合が終わった直後だからだ。
「ありがとうございます、……沙耶さん」
「はい、NGぃー」
「ハハハ。女神に囲まれて、幸せなこったなぁ」
「それが浅田さん。俺、フラレたばっかりなんですよ」
「ちょうどいいじゃないか」
「んなことねぇっすよ。護はちゃっかり、女の子と電話やらLINEやらしてるらしいんですけどね」
「おおー。やるじゃないか、護」
「んなッ! 弘樹さん! こっちに飛び火させんといてくださいよ!」
「そうか、護。もうそんな歳に……」
「親父っ」
「ほほぅ。お姉さんにも教えてみ?」
「沙耶さんに教えたら、どれだけイジられるかわかったもんじゃないからイヤです」
「え? なになに? もしかして直子? 直子のことなの?」
「あっ! 竹上ぃ!」
「直子?」
「誰だ、直子って?」
「知ってるの?」
「うん。えっとねー」
「あー! いや、本当! 何にもないですから! マジで!」
「えーっ。来週、デートするって喜んでたよ?」
「マジかよ」
「さすが会長の血。スゲーな」
「わぉ。いいわね、青春」
「立派になって……!」
「だーっ、もう! 祝勝会! するんでしょ!?」
こうして、がやがやと、後楽園ホールも真っ青に塗りつぶす勢いで、戦いの場を後にしたのだった。
6戦3勝(2KO)3敗。
弘樹の戦績だ。
B級まで、残り1勝。
さらにそこから2勝すればA級だ。
A級はランカーに挑戦でき、ランカーになれば日本チャンピオンへの挑戦権がもらえる。
どこまでいけるかわからない。
しかし夢は大きくラスベガス。
彼は、新たな一歩を踏み出したのである。
かませ犬に花束を あき @aki-san
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