第29話

「終わってみれば、圧勝か」


 拍手と野次が止まない中、里崎が一人、呟いた。

 リング中央でレフェリーが腕を交差しており、勝利を観客に伝えていた。

 弘樹からは安堵の表情が浮かんでおり、心情的にはおそらく「なんとか勝てた」といったところなのだろうが、内容はそんなものではなかった。ほとんど打たれていないことから綺麗な顔の勝者と、打たれまくって顔が腫上がった敗者。圧倒的だった。そして、最後の右ショートアッパー。あれは確実に狙っていたはずだ。なにより、自身のアゴが、その脅威を知っていた。

 スパーで思わず頭に血が上ってしまった一撃は、その実、瞬間的ではあるが、世界チャンピオンの意識をスパッと刈り取ってしまっていたのだ。あのカウンターを、試合用のグローブで、しかも疲労がたまり、その上ダメージを受けている状態では、あのタフなタイ人も、とうてい耐えられなかったに違いない。

 里崎は、素直に、そのようなテクニックレベルを持つ弘樹を賞賛し、また、そこまで追い込んだパンチャイの執念を賞賛した。


「あのタイ人も強かったな。最後のアレ。お前らが相手ならダウンしてたかもな」


 日本ランカーと日本屈指のハードパンチャーは、苦虫を噛んだような顔をした。

 二人で語り合っていた松田弘樹の攻略法。ボディを叩いて弱らせたのちに、頭を狙った最高の一撃に賭けるという一堂の戦法。弘樹との読み合いにおいて、裏をかくという柴田の戦法。パンチャイは、二人が見出している勝機を、一人で、同時にやってみせたのである。それだけでもパンチャイの力量が推し量れるというものだ。しかし結果はKO負け。その、さらに上の攻防を、弘樹は成功させた。素晴らしい技量だった。


「パンチャイっていうらしいっす」


 一堂が、本日のプログラムが書かれた用紙をくしゃくしゃに握り締めていた。

 そのパンフ、俺のなんだけどな……。

 里崎が頬を掻いていると、柴田も試合から何かを得たようで、ボソリ、と呟いた。


「原石は、どこにでも埋もれてるんだな」

「お前にはどう映った?」


 一堂が柴田に疑問を投げかけた。

 柴田は一堂の持つひしゃげたプログラムをしばらく眺めて、言った。


「いや。とはいっても、上がってくるまでには時間がかかるはずだ。実力はあっても、厳しい環境は変わらない」

「まぁ、そうだろうな。それはアイツも変わらねぇ」

「だな」

「でもな。これで3勝。もう一回勝ちゃあ、B級だ。それなら俺と対戦できる。俺はアイツともう一度殴り合いてぇ。あんな勝負、無効だ無効。完全なKOで勝たなゃ気がすまねぇ」

「ふん。またあのパンチャイのようにならなきゃいいがな」

「ならねぇよ。そのときは、俺も。もっと強くなってっから」

「オメー、それ、アイツにも言える事じゃねぇか」


 柴田の指摘に、一堂は「んー……」としばらく考えたあと、


「気合と根性だ!」


 と力強く答えた。

 柴田は呆れたように、頷いた。


「そうだろうな」

「というわけで、俺、ジムに行くわ」

「なんだ? 見ていかねぇのか?」

「十分だ。後は雑魚どもだ」

「オメーなぁ」


 黙って話を聞いていた里崎は、一堂に尋ねた。


「帰るのか?」

「えぇ。チャンピオンによろしく伝えとってください」

「なんて言えばいいんだよ。雑魚扱いしてたよ、とでも言ってやろうか」

「それで構わないっす」

「お前はすげぇよ」

「んじゃ。柴田も、またな」


 手を上げて、足早に去っていく一堂を見て、里崎は、ボクシング界のこれからが、さらに楽しくなっていくことを確信した。


「あっ、おい! 一堂! あー、なんてヤツだよ……」

「はは。いいじゃねぇか。触発されたんだろ、二人に」

「そうでしょうけど」

「で、お前はどうするんだ?」

「すいません、俺も、失礼します」

「なんだ。柴田も帰るのか」

「はい。ジムに行きます。俺も、納得してないことがたくさんあるんで」

「思ってたよりもレベルが上がってたか?」

「はい。でも俺、ランカーなんですよ」

「遠いな」

「はい。でも、上がってくるでしょう?」

「上がってくるな。確実に。三人とも」

「その前に、ベルトを巻いときたいんですよ」

「なんだ? 逃げ腰か?」

「いいえ。ふんぞり返って見下して、防衛戦をしてやります」


 里崎の挑発的な言葉への柴田の見事な切り返しに、里崎は大笑いした。


「それはいいな。気分がよさそうだ」

「でしょう? なんで、俺、帰ります」

「おぅ。チャンピオンに何か伝えることでもあるか?」

「何もありません」

「お前らは揃いも揃って……」

「それでは、失礼します」

「おぅ。元気でな」


 そうして、柴田も、瞳に力を宿して歩いていく。

 新たなライバルも出現。イイことだ。やっぱり、こうでなくちゃな。

 けど。

 自分勝手なヤツラで助かったな……。

 薄い財布から、お茶の一つでも奢らずに済んだことをホッとしながら、世界チャンピオンは後楽園ホールの雰囲気と同化していった。

 300円だって、世の中の親父たちには、バカにできないのだ。


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