第28話
ガード越しに弘樹のボディを打つパンチャイの心は、歓喜に震えていた。
第2ラウンド、中盤。
四回戦は、1ラウンドで2度のダウンは許されない。もう一度ダウンしてしまえば、そこで試合が終了してしまう。パンチャイは追い詰められていた。初めての、圧倒的な強者との戦い。しかし褐色の戦士は、弘樹との試合を楽しんでいた。
ボクシング、好きですか。
先ほど、ダウンしたときに、パンチャイが思い出した弘樹の言葉だ。
生まれたときからグローブを握ってきた。ヨレヨレのサンドバックを、子どものころから、同じく小さな友人たちと無我夢中で殴りあって成長してきた。友人たちとの大切な記憶。一緒に、同じ場所で、同じ環境で、同じリングで育ってきた。身体は大きくなっていったけれども、笑顔の中身は常に一緒だった。ボクシング。希望の星。
試合前の計量日に弘樹から質問されたが、答えられなかった。予想外のことに驚き、困惑している間に、徳さんから声をかけられたからだ。いいや、たとえ、徳さんから声がかからなかったとしても、答えることができなかったはずだ。ただの仕事として割り切ってしまっていた、あのときには。
今日、リングの上で。
パンチャイは。
仲間たちと築き上げてきたボクシングに、嘘を付いていない。
全力だ。
けれども。
それでも到達できない高みがそこにある。
ボクシング、好きですか。
今なら自信をもって答えられる。
大好きです。
ボクシング、大好きです。
殴られれば痛い。ケガも絶えない。つらいことだってたくさんある。認めたくないことだってたくさんある。一人で日本に移住して、さみしい想いもしてきた。悲しい想いもしてきた。けれど。だけれど。いつもボクシングはそこにあった。幸運なことに、ボクシングが隣に座っていた。仲間やジムの人たちとの、大切な、ボクシングが。
松田弘樹。
こんな感情になるなんて思いもしなかった。
でも。
伝えたい。
ありがとう、と。
戦ってくれて、ありがとう、と。
いろんなことに気付くことができた。
大切なことを思い出すことが出来た。
新しい発見に、奇跡的に出会えた。
素晴らしいことだ。
弘樹の左ジャブが飛んできた。相変わらず、顔面にクリーンヒットしてしまう。だが、伝わってくる。好きだと。俺もボクシングが好きだと。容赦のない弘樹のジャブが訴えかけてくる。
あぁ、そうだね。100%でぶつかりあうって、こういうことなんだ。
古い自分と新しい自分が熱い奔流となって混じり合い、まだ見たことのない、全く別の自分が作り出されていく。超えていく次元。ほとばしる熱気。激しく紡がれる二つの力は、やがて、一つの芸術へと昇華していく。美しく、煌びやかな、未知の到達点。
スポットライトが彼らを照らし続ける。
その通りだ、松田。
いつもオレは一人じゃなかった。
ボクシングをしている限り、オレは一人じゃなかった。
なぜなら、リングの上には、グローブを握った二人が必ずいるのだから。
パンチャイの繰り出した左のリードジャブに、弘樹が右ストレートのカウンターで対応した。跳ね上がるパンチャイの顔。しかし、続けてパンチャイは左フックをボディに当てていた。一瞬、時間の止まる弘樹。さらに右でボディを殴ると、これは防御されてしまった。左も続けてボディだ。これもまた防御されてしまった。
気持ちイイッ!
全力を尽くす。
それがこんなにも。
気持ちイイことだなんてッ!
吹き上がる情熱!
沸き起こる歓喜!!
松田。
受け取ってくれ。
オレからの。
ベストな。
感謝の印だ!
パンチャイの肩が動いた。右フックをテンプルに。試合で度々見せた、出来得る最高のコンビネーション。シャトルブローと呼ばれるそれは、天国から地獄へ、地獄から天国へ到達させる恐ろしい連打。ボディブローによる地獄の苦しみと、テンプルへのブローによって一瞬で天国へ昇る快感に同時に襲われる、凶悪な必殺ブロー。第1ラウンドで弘樹を追い込んだ、パンチャイが友人たちと築き上げてきた、最高に、重い連撃。
弘樹の腕が動いた。
ブロッキング。肘を前に出して腕を掲げることで防御する、フックに最適なテクニックだ。これでは防がれてしまう!
しかしわかっている!
この優秀な選手は、それすらも読んでいる!
だからこそ。
パンチャイは、右フックをテンプルへと振るわなかった。
肩によるフェイント!
故郷で作り上げてきた拳による虚偽!!
勇者の超越に、弘樹の顔が驚愕で染め上がる。
かかった!
パンチャイはさらに踏み込んだ。
徳さんの言う通りになった。しつこくボディを攻撃し続けることでボディへと意識が集中していき、テンプルへの認識が甘くなる。本当に、そのようになっている。
福浦さんの言う通りだった。一人で戦っているわけではなかった。みんなで戦っていた。故郷の家族や友人と。ジムのみんなや観客の人たちと。本当に、そのようになっている。
そして、松田弘樹。ボクシングは一人ではできない。二人でリングに上がっているからボクシングができる。教えてくれた。試合中、ずっと見ていた。わかっている。お前は、コンビネーションへの警戒を怠っていない。非常にクレバーな選手だ。しかしそれすらも凌駕してみせるッ!
ありがとう。
みんな、ありがとう。
だが。
これで、終わりだッ!
下半身のバランスを使い、左方向に肩を入れて、身体を戻す反動をも利用し、集束してゆくベクトルを横から顔に叩きつける左フック。鋭いそれを、弘樹のガラ空きのテンプルへッ!!
突き抜ける衝撃。
抜けていく力。
そうか。
そうなのか。
松田か。
お前が、松田弘樹なのか。
パンチャイは。
そのとき。
松田弘樹という人物を知った。
そして、崩れ落ちた。
弘樹による、右のショートアッパーを、カウンターでアゴに喰らって。
「パンチャイ!」
意識が別の景色を与えた。
背負ってきた全ての人の顔が浮かぶ。徳さん、福浦、ジムのみんな、晴香、タイの友人に家族……。笑顔だった。暖かい。日差しも感じた。
微かに声が聞こえる。
なにかよくわからないが、真剣に語りかけてくれているようだ。
どこからだ……? あれ、上から……?
それはやがて大きくなり、次第にはっきりとした単語が聞き取れた。
「パンチャイ! しっかりしろ、パンチャイ!」
「ふく、うらさん?」
「あぁ! 福浦だ! 福浦だよ! お前のトレーナーの福浦だ!」
「オレ……、あれ?」
見えにくいが、福浦の顔が近くにあった。
視界がおかしい。みな一様に重力を無視していた。
横に立つなんて、まるで……ッ!?
身体を起こし、周囲を見渡した。
松田弘樹が安堵を浮かべて立っていた。
観客の拍手が聞こえる。
「福浦さん、オレ……」
「がんばった! お前はよくやった!」
福浦の労わる表情が物語っていた。
負けたんだッ!
オレは、全力を尽くして負けたんだッ!
目頭が熱くなる。
ちくしょう!
なにが足りなかった!
オレはベストを尽くしたッ!
尽くしたはずだッ!
持てる限りの……ッ!
……いや、本当にそうなのか?
オレはベストを尽くしたのか?
あの高揚感。
たしかに試合は出来る限りのことをしたかもしれない。
しかし。
だがしかし。
それ以前のことはどうだ?
その前準備のことはどうだ?
トレーニングは?
研究は?
試合に対する姿勢は?
オレは、『日本に甘えていた』のかッ!?
オレは、『環境に甘えていた』のかッ!?
「パンチャイ……」
リングを叩き付けた。
「くそッ! クソッ!」
何度も。
何度も叩いた。
「クソォォォッ!」
オレは……ッ!
「外国人のあんちゃんも良かったぞー!」
思考が途切れた。
後楽園ホールに響く、野太い声。
誰だ?
探していると、発見した。
知らない人だった。
お客さん……?
パンチャイは何が起こっているのか理解が出来なかった。
「いい根性だった!」
別の方角から、またもや声援が飛んだ。
この人も知らない人だ……。
パンチャイは呆然としていた。
「次の試合も見てやるからなー!」
みんな見たこともない人ばかりだった。
パンチャイの流れる雫が別の色に染まる。
「よく頑張ったなー!」
ここにきて。
ここまできて。
敗戦してしまった。
でも。
「これからも応援してやるからなー!」
オレは。
パンチャイは立ち上がった。
ふらついてしまう。
支えてくれた。
徳さんだった。
徳さんが頷いてくれた。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。立てます」
パンチャイは頷き返し、そして、徳さんの手がパンチャイから離れた。
堂々と胸を張った。
身体を斜め45度に傾ける。
徳さんから教わった、『おじぎ』だ。
万感の想い。
直立し、堂々と胸を張った。
福浦からタオルを頭にかけられる。
オレは負けた。
でも。
前に歩いてみせるッ!
リングを下りると、一際拍手がわいた。
その中で一人だけより大きな労いを贈ってくれる観客がいた。
視線を送った。
晴香だった。
「晴香さん……。オレ……」
パンチャイの瞳に闘志が再び甦る。
待ってろよ、松田弘樹。
次は勝つからなッ!
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