第27話

 パンチャイがここまで遊ばれるなんて、と福浦は驚愕していた。松田は想像以上に危険だった。基本に忠実なのだが、それが一番難しいというのに、その難しいことを易々と実行してくる。何も、パンチャイの、数少ない勝てる機会のときに戦わなくてもいいじゃないか、と福浦は腹を立てていた。


「もう、あんなチャンスはないぞ」


 インターバルの中、イスに座って休むパンチャイにむかって、福浦が顔を突きつけてアドバイスをした。徳さんは身体をタオルで拭き、水をパンチャイの口の中に入れた。パンチャイは口の中をゆすいだ後、吐き出した。


「すみません」

「いや。しかし松田はどうやら持ち直したようだな」

「ええ。これからが本番らしいです」

「そうか」


 徳さんが言葉を重ねた。


「左のリードジャブに右クロスをかぶせることができないなら、肩や足などでフェイントを使いつつ、的を散らして足で追い詰めるしかない。作戦はその2に変更だ」

「はい」

「ボディだ。しつこく突いていけばガードが下がり、やがてテンプルがお留守になる」

「はい」

「そこを叩け」

「はい!」


 福浦も助言した。


「思ったとおり、打たれ弱い。意外とチャンスが早めにくるかもしれん。隙があればとにかくいけ!」

「はい」

「コンビネーションだ。ワンで終わるな。ツーも出せ。スリーと続けろ。いいか、ワン、ツー、スリー。コンビネーションだ。手数を出せ。リードジャブが少ないぞ。相手をリズムに乗らせるな。自分のペースを作れ」

「はい」

「お前は強い。お前の夢はなんだ? 世界チャンピオンだろう。ここで引いてどうする。ここで怖気づいてどうする。お前は強い。ジムのみんなが知っている。みんながお前の実力を知っている。徳さんだってそうだ。お前の才能を見抜いたからこそ、お前にベルトを巻いて欲しいからこそ、日本に連れてきたんだ。お前は一人じゃない。ジムのみんなと戦っているんだ。お前は俺たちの誇りなんだ」

「ありがとうございます」

「よし、行ってこい!」

「はい!」


 徳さんが立ち上がるパンチャイにマウスピースを渡して、パンチャイの背中をそっと押した。

 徳さんの笑顔に、パンチャイは頷いた。

 それを確認し、福浦と徳さんはリングから降りた。

 リング中央に向かうパンチャイ。そこには同じくリング中央で待ち構える弘樹がいた。


「ボックス!」


 第2ラウンド開始のゴングが鳴った。

 福浦はリングの下で、戦っているパンチャイの姿を見つめた。指示通り、フェイントとして、足を使って飛び込む姿勢を何度も見せることで的を散らし、被弾をできるだけ少なくしようとパンチャイは賢明に努力をしていた。左を連射する弘樹に対して、一歩、一歩と、距離を詰めていく。牽制の左ジャブをパンチャイも見せるも、やはり左の刺し合いでは断然レベルが違う。時折、逆にパンチャイが右クロスをカウンターで喰らっていた。しかし、パンチャイは懸命にもボディを狙い、一発、二発と、確実にダメージを与えていく。


「このままなら、わしはタオルを投げるぞ」

「えっ! でもそれは徳さん!」


 タオルをリングに投げることは、つまり、敗北を認めたことを意味する。試合放棄。これ以上、選手を打たれないように、選手を壊されないように行う、セコンドとしての重要な、もう一つの役割。徳さんは、パンチャイの身体のことを真剣に考えていた。


「お前、パンチャイのあの腫上がった顔を見て何も思わなかったのか?」


 福浦は、ハッと、必死に攻防を繰り返すパンチャイの顔をうかがった。左ジャブを貰いすぎ、右まぶたが膨れていた。あの調子だと、3ラウンド、4ラウンドになるころには、視界が奪われるだろうと容易に想像できた。そうなってしまえば、もう、好きなだけ打たれ放題な、ただのサンドバックである。


「ですけど!」

「でももクソもない。力が違いすぎる。あんな化け物……。素質は完全にお前以上だ。世界のベルトを争ったお前よりも、絶対に。あれは異常だ」

「パンチャイの夢も世界チャンピオンなんですよ!」

「確かにパンチャイの才能も飛びぬけている。お前によく似ているよ。だがな……」


 もう一度、福浦は戦い続けるパンチャイを確認した。明らかに手数で劣り、クリーンヒットをたくさん受けている。立っているのが不思議なほどで、タフなファイトでこちらの要請に、真面目に取り組んでくれていた。コツコツと、ボディブローを。福浦はその頑張りに、少しでも応えてあげたかった。


「たかだか1敗だ。この次に勝てばいい」

「それがどれだけ遠いことか! パンチャイもそれがわかっているから!」

「だったらパンチャイが壊れてもいいってのぇか、ええ!? お前みたいに! 福浦! お前みたいに!」


 過去、福浦による世界のチャンピオンベルトへの挑戦。ハングリー精神を信条として、世界チャンピオンと最終ラウンドまで戦い抜いた結果、敵のパンチを頭で受けすぎた福浦の選手生命は散ってしまった。軽めのスパーリングならばいいが、実戦はもう、できなくなってしまったのだ。その当時のセコンドでタオルを握り締めていたのが徳さんだ。徳さんは、最後まで、タオルを投げなかったのだ。


「何がハングリー精神だ! わしはもう、二度とあんなことを起こしたくないんだ! これからの人生だってある! お前、パンチャイの人生がかかってるんだぞ!」

「ですから! だからこそ!」

「ダウーンッ!」


 パンチャイが前のめりに倒れていた。

 その危険な倒れ方に、福浦の血の気が引いた。


「パンチャイ!」

「福浦!」

「だめです!」

「なぜ!?」

「パンチャイは立ち上がろうとしています!」

「だからこそ!」

「俺は後悔していません!」

「なに?」


 思いっきり全てをぶつけることができて。

 自分自身を、100%の自分自身を観客とチャンピオンに見せることができて。

 俺は幸せだった!


「感謝しています! 俺は、戦えてよかった!」


 渋る徳さん。

 けれども。

 褐色の戦士が震える足で立ち上がった。

 まばらなはずの観客席から、大きな拍手が沸き起こる。


「いいぞー!」

「ナイスガッツだ!」

「がんばれよー!」


 ファイティングポーズのパンチャイに対する声援。

 みんなが、タイ人であるパンチャイの背中を、やさしく押してくれている。

 あのときと同じように。

 世界戦の。

 ボロボロな俺を支えてくれた。

 あのときと同じように!

 福浦は、訴えた。


「ここでタオルを投げたら、今度、強敵とパンチャイが出会ったとき。パンチャイは、前に進めなくなるかもしれません。パンチャイの夢は、あくまでも、世界チャンピオンなんです。それなら、俺たちの仕事もそれに応じた形にならざるを得ないでしょう」

「しかし……」

「徳さん。パンチャイ、笑ってますよ」


 そう。

 初めての強敵と出会えて。

 パンチャイは、笑っていた。


「ボックス!」


 試合再開の合図だ。

 パンチャイは、弘樹のジャブにひるむことなく踏み込んだ。被弾しても、挫けずに。応戦しようと出した拳にカウンターを合わせられても、それでも前に進んでボディを放った。しつこいまでのボディブロー。弘樹は読みきっており、完璧にガードしていた。そうなのだ。ボディは、すでに、全てブロックされているのだ。


「あぁ……、福浦……」

「徳さんの……、言うとおりに……」

「松田のガードが、下がってる……」


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