夜空を駆ける
aoiaoi
夜空を駆ける
今日、彼と別れた。
滲んだ視界で時計を見上げると、深夜0時3分。
——違った。
もう、昨日のことになっちゃったんだ。
冷蔵庫からビールを取り、力なくプルタブに手をかけた時だった。
「こんばんは。
遊び過ぎちゃった。ちょっとここで休ませて」
少しすかした窓の外からそう聞こえ、闇の中から突然人影が現れた。
彼はするりと窓に手をかけると、こともなげに窓枠に腰掛ける。
「ここ、気持ちいいね」
彼はそう言うと、陽菜に向かって微笑んだ。
美しく澄んだ緑色の瞳。細身のしなやかな身体に、黒いニット、黒のパンツ。黒い艶やかな髪。滑らかに白い肌。
二十歳にもならないような、とびきり綺麗な男の子。
陽菜は呆気に取られ……次の瞬間叫んだ。
「ちょっと!? ここアパートの2階よ!? なんでそんなところに、何が目的!? ケーサツ呼……」
「じゃ、そろそろ行こう。今夜はちょうどいい風が吹いてるんだ」
彼は陽菜の動揺には全く取り合わず、その美しい手を差し出す。
「さあ」
「え……」
何を聞く暇もない。
彼は陽菜の手を取ると、しなやかな身のこなしでぱっと窓枠から身を躍らせた。
「あ……っ!」
次の瞬間、陽菜は彼に手を引かれて空に踏み出していた。
吹いてきた強い風に、彼は一気に夜空を駆け登る。
陽菜は彼の手を夢中で握った。どうなっているのか訳がわからない。
わからないまま、風をかき分けて必死に彼の背中を追いかけた。
「待って! ちょっと待ってよ!! 怖い……!」
「大丈夫。風をよく見て。……風が、階段を作ってくれるよ」
確かに、吹いてくる風が微かに輝いて透明な段になり、足元を支えてくれる。
「風を見ながら階段を登るんだ。
少し風が止んだね。ここで次の風を待とう。
……僕が手を引くから、怖がらないで」
彼の優しく穏やかな言葉に、陽菜の恐怖はあっという間に消えた。
足元には、夜の街が光の海のように輝いている。家も人も、もうはるか下だ。
見えない階段に腰掛け、柔らかな風に吹かれながら、陽菜はその輝きに見入った。
「……なんて、気持ちいいんだろう。
今まで、窓の内側から外を見ることしか考えてなかったから」
陽菜の横に座り、彼は微笑む。
「そうだよ。君は狭い場所に閉じこもり過ぎなのさ。空は、こんなに広いのに……上は、もっとすごいよ」
彼に言われて、頭上を見上げた。
「わあ……!」
静かな星の海。無数の星のきらめきに、押しつぶされそうだ。
「不思議だろ?
どの星も、ここからずっと遠い所にある。今ここに届いた光はみんな、気の遠くなる距離をはるばるやってきたんだ……サルからようやくヒトが誕生した頃に星を出発した光だってある。
——その光をたった今、僕らが受け止めたんだよ」
美しい瞳で星を見上げ、彼は静かに呟く。
「うん……不思議」
ひとつひとつの星の輝きの意味を、陽菜は初めて考えた。
「……君?」
星を見上げ続ける陽菜が心配になったのか、彼が問いかける。
「あ、ごめん。
……考えてたの。
この光はみんな、こうして長い時間をかけて旅をするのに——私たちって、ほんの一瞬なのね」
「ん?」
「何でもないわ。自分でもよくわかんないこと言っちゃった」
陽菜は、理由もなくこみ上げた涙を見えないようにごまかした。
「次の風が来そうだ。登ろう。——今度は、あそこにある雲目指して」
その時やってきた風のきらめきに乗り、ふたりは夜の空を駆け上がった。
雲までは、あっという間だった。
彼はすぽっと雲から頭を突き出すと、その上へひらりと身体を乗せる。陽菜も手を引かれ、柔らかい雲に足をかけた。
雲の上は、青白い月の光で満たされている。輝く
「……ねえ。君、誰?」
陽菜はここで初めて、彼にそう尋ねた。
「ん?……君が僕を呼んだくせに」
そう言って、彼は悪戯っぽく微笑む。
「……え?」
「何かあったんでしょ?——泣いてたから」
彼がそれを知っていることに陽菜は少し驚いたが……なんだか細かいことはもうどうでもよかった。
「……そう。好きなひととケンカして……とうとう別れちゃった」
陽菜は、ひんやりと柔らかく光る雲をつま先でふわりと掬った。
「昨日ね……その人と付き合って、ちょうど二年目だったの。
本当は、二人でお祝いしたかったんだけど……気づいたら、一緒に何かしようとする度に、私たちはいつももめてるの」
この男の子に、なぜか少しだけ寄りかかってもいい気がして……陽菜は続けた。
「二人で一緒に何かするって、本当は一番幸せなことのはずなのにね。
二人の気持ちを一つにしようとすると、なぜかずれてしまうの。
人はみんな、考え方も感じ方も違う。
でも……『なら、こうしよう』って、ふたりでひとつの物を一緒に見つめることが、できなくなっちゃったみたい。
最近は、一生懸命手探りをしても、彼の心には触れられなくて……」
陽菜の目に、新しく涙が溢れる。
「不思議よね。……好きなのに、どこかが噛み合わなくなってくるのは、どうしてなんだろう。
一度噛み合わなくなると、何度元に戻してもまたずれて……ふたりとも、歯車を合わせ続けることに、疲れちゃったの」
「——歯車の大きさが、もともと合ってなかったんだ」
前を向いたまま、彼は静かにそう呟く。
「そのままずっと無理し続けたら、やがて
もっと自然に噛み合う歯車を見つければいい。……君の周りに、たくさんあるはずだよ」
彼の声は素っ気なく聞こえるのに……陽菜の胸に、どうしようもなく優しく響く。
涙が次々に溢れ出し、まるでしゃっくりのようなおかしな
彼のしなやかな腕が、陽菜の頭を引き寄せた。
「……我慢するからだ」
彼の肩に瞳を押し付け、陽菜は子供のように泣きじゃくった。
涙が少しずつ止まる頃、彼は陽菜の瞳を覗き込むようにして笑う。
「ね、今度は楽しい話聞かせてよ」
「……それより、君の名前を教えて……じゃないと、おしゃべりだってしづらいわ」
「え?……名前なんて、そんなに大事? 仕方ないな……ならさ、君が適当につけてよ」
「え、いいの? んー、なら……くろ。全身黒ずくめだから、くろ」
「……マジか?……センス0だね」
「君がつけていいって言ったんじゃない!」
「まあいいや」
ふくれる陽菜の顔を見て、くろは可笑しそうに笑う。
「あ、私の名前は……」
「ヒナでしょ。知ってるよ」
「楽しい話? んー……思ったほどないなあ、楽しいことなんて。
普通に学校通って。第一志望の大学は受からなくて……それから、ちょっと恋みたいなのをして。たまたま採用された会社に勤めて。
毎日単純な事務仕事やって。ドタバタ忙しくて……昨日、恋も失くしちゃって」
「……それで終わり?」
「うん。終わり」
「——なら、今までで一番楽しかったことは?」
「……今だわ」
「え?」
「今が、生まれてから一番、楽しいわ」
くろは、静かに微笑んだ。
「じゃ、君を連れて来てよかった。
……でも、これから驚くほどいいことが山ほどあるよ。——必ず」
陽菜も、つられてちょっと微笑んだ。
「そうね。
——さあ、じゃ次はくろが話す番よ」
「え、僕のこと?
んー……困ったな……。
君のこと聞いといて、ずるいみたいだけど………僕は、今までの自分なんて思い出せないんだ、全然。
——僕にはいつも、目の前しかないから。
僕は、今生きるために必要な情報しか蓄えない。
過去には、悲しい事や辛い事が数えきれないほどあった気がする。——でも、それはみんな、どこかに置いてきちゃった」
「……どうして、そんなことできたの?……どうして、くろはそんなに強いの?」
「強いんじゃないよ。
これからの自分に役立たない苦しみを抱えるほど、僕の容量は大きくないからさ。……いらないものはどんどん降ろしていかなきゃ、次の大切なものが入らない。
——ヒナだって、そうだろう?」
そんなことを言って、くろははにかむように笑う。
どうして、こんなに何の飾りもない言葉が、どれも温かくて、嬉しいのだろう。……陽菜は不思議だった。
「次の風がくる。もっと登ろうよ。……あの月まで」
もっと、君と一緒に行きたい。
月よりも、もっと遠くへ——。
この夜空を駆けて。
「……行きたいけど……そろそろ、帰らなきゃ」
「またあんな狭い部屋に戻るの?」
「……そうね。
でも、くろが教えてくれたわ。
空はこんなに広くて。私たちの時間はほんの一瞬で。……いらない過去は、捨ててもいいんだって」
「……そうさ。もっと自由でいたらいい。時間なんてあっという間なんだから」
「……うん。……ありがとう、くろ」
その途端、くろはいきなり陽菜を雲の中へ倒した。
一瞬驚いたが……逃げ出そうとは思わない。
キスされるのかと思ったら、優しく頬が触れ合った。
「——いつも、君の側にいる。
悲しいときは、僕を呼んで」
耳元で、くろが囁く。
そんなこと言ったって——どうやって君を呼ぶの?
おかしくて、ちょっと笑いそうになった。
なのに——その温かな頬の感触に、涙がこぼれる。
陽菜は、黙って彼の艶やかな黒髪を撫でた。
明るい日差しを受けて、陽菜は自分のベッドで目覚めた。
どうやって、ここに帰ってきたのだろう……覚えていない。
はっと時計を見た。10時!
……あ、でも土曜だった、今日。
——風を切って夜空を駆け登った高揚感。
足元の街の輝きと、引き込まれそうに瞬く星の海。
青白く光る、雲の平原。それを踏む足裏の心地よさ。
そして——繋いだ手のしなやかさと、頬の触れた温かさ。
全ての感覚が、こんなにもはっきりと身体に残っている。
ベッドを出て、窓際に立った。
天気のいい、穏やかないつもの景色。
……夢だったのか。やっぱり。
アパートの塀を、この辺に棲みつく猫が歩いていく。
その姿を、ぼーっと眺めた。
猫が、ふとこちらを見上げる。
……猫。
………黒い猫。
緑の、美しく澄んだ瞳。
「———!」
陽菜は、窓から思わず身を乗り出した。
黒猫は、隣家の高い屋根へこともなげにひらりと駆け登る。
あれは——
昨夜、空で追いかけた、しなやかな背中。
黒猫は、こちらを見て一瞬微笑み——
屋根の向こうへひらりと消えた。
夜空を駆ける aoiaoi @aoiaoi
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