二節 維摩 二日目 六 自戒
マヤの客室『雪驥』の居間にて。
「ありがとう。食膳の片付けは他に任せて、貴女はしっかり休んで下さい」
「解りました。では上番、よろしくお願い致します」
森虞は一礼して客室を出ていった。薄暗くなった部屋には維摩のみで、中央の白い木卓には四角い皿が二つ。一つは馬肉の燻製と生の葉菜を香辛料で味付けしたもので、もう一つは親那の主要穀物である穡を豆と一緒に炊き込んだもの。何れも親那の伝統ある軍餉から発展した料理で、今では新鮮な食材が使われているが、昔は日持ちする鱗茎菜や屯田に向いた生命力のある野菜が使われていた。
卓上から目を逸らした維摩はマヤのいる寝室の扉を見つめた。何かあった時のために音が届くよう、拳一つだけ隙間を開けてある。
不謹慎ではあるが、助けを求める声の一つでもしないかと、ほんの少しだけ期待してしまった。それがあれば、維摩を頼ってくれる声一つあれば、姫の背負うものを少し肩代わりできるのではないか。そんな気が、ふと、したからだ。
『こんな訳の解らない希望を抱くなんて……維摩、貴女は少し疲れているのでは』
禁軍府から戻ってから、蹄笳への報告、明日の予定の調整、後回しにしていた親殿の案内や作法の受講、等々。これら全て夕餉を後回しにして熟し切り、今に至っているのだ。
加えて、思い返せば親那に到着したのは昨日の午後である。それまでは汽車に揺られること一日で、あの堅い寝台での移動はそこそこの倦労を伴った。加えて、アグリでも親那出立の準備で丸一日忙殺されている。つまりは四日前から今まで、ゆるりと過ごした日は無かった。
森虞はそのことを知ってか、今日の上番も自ら買って出た。しかし、そうなると彼女は朝から昼に睡眠をとることになり、その間は覚羅一人となる。これは結構な心配であったため、維摩は善意のみを受けるに止めた。
維摩は卓の前の椅子に腰を落ち着け、皿の上に乗った料理に箸を下し、口に物を食みながら、今日の事を整理していった。
まずは維摩自身が一番に確認したかったライナ死亡の証明であるが、これは津斐から頂戴することができた。ライナが殺されたことについて大きな証拠を得られたこととなる。
次に禁軍府での聞き取りだ。親那帝に処刑されたという事実とその経緯を明らかにするためのものであったが、これは失敗で大した情報を得る事ができなかった。
維摩は当初、親那の法規的手続きが踏まれており、そこに親那帝の意向が働き、それに基づいて監安衛が禁軍府にライナの引き渡しを要求したとそう思い込んでいた。
だが、坐画麻塔はその点についての言及を、明らかに回避していた。親那で学を修めた者であれば、この国で手続きを踏まずに誰彼が処刑されるなどということは考えられなかった。これが戦時や親那の外であるならまだしも、ここは平時の、しかも首都たる神城である。
親那は理知によって統治される国家であり、それは国是である。君主といえども国是の前には伏すのが親那である。親那帝の一存はこの大陸で非常に尊いものであるが、それは絶対的な権力を有する君主が下す、神裁のような威令には及ばない。
例えそれが詔勅であろうとも、それが理知に敵うものでなければならない。これは親那帝の始祖が提唱した国家理念の一つである。これは帝脈と並んで受け継がれてきているのだ。
嘗て、武人と理知を司る学者が集う瀚史楼との間で幾度も紛争があった。武人が瀚史楼に乗り込んで学者を無用で切り殺すようなこともあれば、瀚史楼が袞衣の袖に隠れて讒陥に勤しんだこともあった。喧喧諤諤の激論などは数えるに能わず、その激しさ如何を問わなければ論争は現在まで重ねられている。
そういった紆余曲折の末、互いが互いを処断するにはその経緯を明らかにしようと、親那帝の下で合意がなされ、それが法規の思想として採用、または応用され、そして制度化されてきた歴史があるのだ。
故に、ライナが処刑されたことは納得できても、監安が手続きや令状の発行も無しに処断されたことについて得心するのはとても難しかった。
『監安から令状が出ているかは簡単に調べがつく。あの男が令状の有無を明言しなかったことは、やはり発行がされていないためなのではないか』
では、令状が発行されていない。正式な手続きが踏まれていないと仮定した場合、一体全体どうしてそのような状況になったのかが問題だ。
『恐らくは親那帝が姫御子を凌辱したことを秘匿したいがための配慮であろう。令状が発行されることで、誰かが帝宮の内情を怪しむかもしれないと、そのことを危惧したのではないか……が、しかし、推論の域を出ない』
維摩は卓上の燻製料理を口の中へ放った。冷燻された肉の柔さと生野菜の歯切れ良さが面白く、塩味と乳酪に絡めた香辛料のしつこさを無味の菜っ葉が上手いこと中和して、互いの長所を楽しめた。この料理は『番』と呼ばれており、生野菜などで包むようになったのは庶民の味として定着するようになってからであった。
『美味しい』
維摩は番をもう一つ食んだ。空腹が食欲を後押ししたこともあるが、何より嚥下した後の好味の余韻が薄れていくのを惜しんだためである。
食指は動く。しかし、維摩の推考は止まったまま。ものを噛めば集中力が高まると世間は云うが、それでも何かが閃くことはなく、ただ咀嚼が進むだけであった。
『何れにしろ、親那帝がライナを処刑するよう命じたことの証言は得られなかった。ここの経緯を明らかにしてから諸侯に姫御子様の窮状を訴えるようにすれば我々の証言の真実味が増すのだが。どうにか証言を得たいものである……』
いっそのことを蹄笳に問い質してみようか。
『いや、彼は事を穏便に済ませたい様子であった。それに彼は姫御子様に同情している。彼に疑念を生じさせて、数少ない味方を失いたくはない』
禁軍以外で事情を探れる場所といえば、ライナを収監した監安衛、そして処刑場である。ここでライナのことを尋ねつつ、事の経緯を聞き出さなければならない。
『しかし、やはり私では権威はなく地位も高くはない。たかが一女史と邪険にされるかもしれない。ともなれば、他に頼れるのは諸侯となってくる、か』
維摩の思惑は、信頼のできる諸侯に掛け合い、その侯領の出身であり、且つ事の経緯を調査できる地位にある者と接触しようというものだった。
以前は親那の高級官僚になれるのは親那直轄領の出身だけであった。しかし、五十役程前に軍と文を問わず、優れた才能があれば親那直轄領外の産であっても登用すると人事の方針を改めていたのだ。勿論、そういう者等は諸侯とのつながりが強い。
しかし、勿論ながら情報の統制は国家の大切な職分である。よって、維摩が目論むのは情報の漏洩であり、この考えは親那の法規に照らすと明らかに違法で、悪くすれば死罪ある。
『ただ一国の幼い姫君に御前を召し上がって頂くため、これほど苦労することとなろうとは……過去に誰が想像したでしょうか』
そう今の自分を皮肉って苦笑した。しかし、姫御子の家臣を皇帝が処刑したとの事実を掴み、併せて姫御子が虐げられている現状について、烏汰雅侯をはじめとする北西諸侯に訴えれば協力を得られる公算は大である。そうすれば謝罪の一つや二つ、容易に引き出せる。
『容易い、容易い。まさに乱世様様です』
大笑して、世の理は味方であることを密かに楽しんでやろう。そう、強がってみせたかった。心底確信して、そうできたらどれだけ優越感を得られたであろう。維摩の頭脳はそれに値すると、理を得ているとそう告げていた。
だがしかし、後頭のあたりに何かじくじくと障るものがあって、まるで見えない一匹の小さな虫に苛まれるように、やたら維摩の関心を引くものがあった。
『あの顔……』
坐画麻塔が見せたあの表情ことだ。あれを一言で表現するならば『恐怖』が適当であろう。そして、彼は一体、何に慄いていたのだろうか。
単純に、あれが彼の驚きを表現しているだけなのだろうか。確かに、維摩が指摘した彼の姓氏の由来については誰もができることではない。知る者は少数で、文化、氏族の研究者ぐらいであろう。維摩自身、ある一冊の書物、その一頁にも満たない説明の外に、このことに触れた文献を知らない。後知るものといえば、文化を受け継ぐ多多邦光縷地方の住人だけであろう。
光縷の地は北西に位置し、荒地が大半を占め、嘗て人は住んでいなかった。そこに、親那に抵抗した国の小民族を開拓民として移住させたことにより、彼の地の歴史がはじまったのである。坐画麻塔はその民族を構成する一部族の出身である。
開拓といっても、それは光縷の地に見込みがあって移民させた訳ではない。親那に抵抗したらどうなるか、その見せしめのための移民である。実際、与えられたのは植物も動物もまばらな悪地で、地力も鉱物も貧しかった。そのため産業を興すことも叶わず、小さな集落を形成しながら細々と牧畜と農業を営むしかなかった。しかも、亡国の民。棄てられたようなものだった。聞けば、元貴族の妻でさえ、種籾を得るために体を売ったそうだ。彼らは物質と精神の双方において、骨を刻み、腸を断つに等しい、塗炭の苦しみを味わったのだ。
ただ、近年においては軽工業や酒造業が盛んになり、かつてほど貧しい土地ではなくなっている。しかし、大陸において所得は平均を下回っていることから、豊かとはいえなかった。
彼は烏汰雅の出と言った。彼の祖先があの貧しい土地を出て、近隣の豊かな邦である烏汰雅に移ったとしても何ら不思議ではない。
『まあ、それ程珍しい話ではないですね。困窮のため、他邦へ移住する話は。それに、光縷の地に定住したのも親那が大陸を統一する前のこと。過去の遺恨は既に光陰の彼方。到底、過去に怯える理由があるとは思えない。それとも彼は一寸の驚きでも、あのような狂れた表情なのか……いや、それにしては尋常ではない吃驚ぶりで、言葉もひどくたどたどしかった……しかし、彼は烏汰雅の産と言った。そう自分で明かしたのだから、実際の履歴も間違いないであろう……否、もしかしたら訳あって出生地を秘匿しているのでは』
否定、そして、その否定。負の数を一つずつ掛けていくように、肯定と否定が頭のなかで忙しく立ち替わっていった。果たして、維摩が言い当てたのは彼の姓氏とその由来だけなのか、そうではないのか。
しかし、情報が僅かな中でいくら考えをあれこれと捏ね返したしてみたところで新たに可視できる事実は何もなかった。ただ彼女の直感だけが、背筋をぞわぞわとさせるだけで、理性は何も告げていなかった。
『だがしかし、直感とは、経験と知識に依る無意識での思考の結果……全くの根拠なしに生まれ出てくるものでは無い』
師の言葉を反芻する。現実と直感を結びつける何かがあるはずだと、自分に言い聞かせ、再び思索を巡らそうとした。意識を脳髄へ。頭蓋の中に大きな空洞ができるような感覚。情報を消化できる知識の嚢が瞬時に広がって、その中を光が駆け巡るように思考が飛び交った。
しかし、維摩はその嚢内に描かれた模様に、今さっき巡らせた思考と同じ軌跡が描かれていることに気付くと、さっさと嚢の口を締めてしまった。
『駄目だ。逸っている』
維摩はすらりとした指で蟀谷抑えると、天を仰いだ。
『維摩、気持ちを落ち着かせなさい。焦って、感情で思考を騙すことを恥としなさい。貴女は刀剣。王の刀剣だ。刃筋の先にある何者も、無情に、そして確実に切り裂くための刀剣なのだ……。刀剣は切る者を選ばない。そう。即断は避けるべきだ。今は坐画麻塔の情報の収集に務めることにしましょう……急がば回れよ、維摩』
自戒した後、迷いをも一緒に呑み込まんとするような勢いで、目の前の食膳を一気に平らげ、空腹を満たした。それから隣接の洗面所で顔と歯を清潔にした後、小さな灯り一つを残してから、たっぷりの綿を皮革で覆った寝椅子に腰を落ち着けて、上等の毛織毛布に体を包み、目を瞑った。すると、睡魔がゆっくりと、維摩の意識を呑んでゆく。
本来なら上番という、夜通し主君の側に添う役回りの者は、不慮の事態に備えるため、深い眠りに入るようなことは避けるものだ。しかし維摩は、幼少から浅い眠りのまま一夜を過ごせるよう訓練されており、足音一つで警戒心の強い小動物並みにばっと起き上がる事ができた。
『昔から色々と躾けられてきましたが、仮眠の訓練は泣くほど嫌でだったなぁ。何より、音の判断には参った。鼾や虫の音は無視し、人の足音には気づけとは……しかも判断を間違えれば教鞭で叩かれる。その頃は、できるものか、と思って空寝をして誤魔化していたら、予告なしに何日もやらされ、三日もすれば空寝がすぐに熟睡になってしまって叩かれ、当然、夜は眠れないので昼間に居眠りをしてまた叩かれ、昼間の僅かな休息時にちょっとだけ仮眠をとろとするも、結局昼寝になってしまい、これまた叩かれ……。これが続くと心身が寝かせてくれ、寝かせてくれとそればかりを執拗にせがむので頭が変になるかと思いましたねぇ。最後はどうしても寝かせて縋りついたなぁ……それでも叩かれたけど……ふふ』
知らない内に思い出に耽り、懐かしさに顔が緩んでいるのが解ると、今更何を思い出しているのやらと、自分に呆れてしまった。
『疲れているのだろうか。明日もあることだし、早めに休みますか』
小さな明かりが一つだけ灯る薄暗い部屋の中、それに溶け込むかのように、意識の灯を幽かなものにしていった。
ユイマの記録 上方 楼 @KamikataRou
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