二節 維摩 二日目 五 禁軍

 禁軍衛府。


 昨日と同じように門前に立って、狽の紋章と相対する。思い返せば昨日も同じくらいの時間であったか、再び見えた狽の意匠の見事さに気付いて、まじまじと見つめてしまった。


 この建物、維摩が起居している部屋と同じ親那様式である。しかし、こちらはもう少し近い時期に建てられたものである。というのも、色合いが自然色ではなく人工色を基調としており、これは近代に築造されたという特徴を示している。


 しかしやはり親那様式でだけあって、概観は益荒男が飾り気のない服を着てそこに立っているかのように真っ直ぐな印象を見る者に与える。その一方で内装を能々観察してみると、所々で細緻、且つ美麗なる装飾が、金物、石柱、欄干、欄間に、全体の威厳を失わないよう絶妙な均衡の下に施されていた。本質は質実剛健であるが、よくよく監察すると粋な一面を持ち合わせた柔軟な人物を表現しているようである。まさに近代親那様式の見本のような建築物であった。


 然う斯うしていると、取り次ぎを依頼した門兵が戻ってきて、うきうきとして「案内します」と、これから慰安に向かうかのような様子で維摩の先導を買って出た。


 維摩は静かにその後を付いて行く。その途中、彼は辺りに人が居ないのを見計らっては維摩に話し掛けるのだが、応対に面倒を感じた維摩は無視を決め込むと、何を言っても石像を相手しているように無言しか帰らないので、前を行く彼は落ち込んでしまい、とぼとぼとした歩きになってしまった。


 それにしても、人とすれ違う度、軍人達が振り返ること振り返ること……。話し掛けられては面倒なので黙然としていたが、何人が振り返ったかも解らないぐらいであった。


 やがて、『禁軍帥』の札が下がった部屋に差し掛かる。門兵は「ここです」と言って呼び鈴の押し釦を押下した。


 ここで維摩は精一杯の作り笑顔をして、「ご案内、どうもありがとうございます」と、彼の善意に礼を以て答えてやると、彼は途端に寡兵が大援軍を得たような気持ちになって、「いえ、任務ですのでお気になさらず」と誇らしげに胸を張って、男の甲斐性を誇った。その時、維摩は心の中で、当たり前のことを、と呟いたのだが、当然ながら彼はそれを知る由も無い。


 直後、扉の電子鈴が鳴って、赤に点っていた光が隣の青に移った。その電燈の下には『可』と表示してあった。


『入室許「可」ということか』


 維摩は扉を開けて中に入ると、そこには副官と思しき者が一人。津斐の居た部屋と同じで、廊下と部屋の間にもう一部屋を挟んだ造りになっているようで、その推測通り、副官は反対側の扉を二三叩いてから中に体半分を入れ、「アグリ斎王様の侍者、イヅマ宮が参られました」と来訪者の名を告げた。すると、即許可が下りたようで、維摩は奥の部屋へと足を運んだ。


 中に入るや否や、「ようこそ」と一向に愛想を感じることのできない挨拶で迎えられる。


『……見た目、四十後半ば、といったところですか』


 ほぼ白髪の薄い頭に顔全体の肉が垂れ下がっている。食が細いのか痩身で杖をついていそうなくらい華奢な体つきで、声も力に乏しい。


『老けている。それとも、元々こういう見た目なのか』


 これが彼をみた率直な感想であった。彼の年齢は三十後半である、と蹄笳からは予め聞いていたのだが。


「はじめまして。禁軍の統帥を務める団帥、坐画麻塔と申す」


 ここで彼の名を初めて聞いた時、維摩は、ん、と頭の中で引っ掛かりを覚えた。しかし、何に当たったかは俄かに覚えることができなかった。


「アグリのマヤ斎王宮下が臣、グイ・イヅマ・維摩と申します」


 彼は「うん」と、ただ呟いて侮るでもなく畏まるでもなく、窪んだ眼球をただ維摩の方へ向けていた。その光も、やはり鈍くて、何か病を持っているように思えた。


「今日は貴姉の先任ついて、話が聞きたいと窺っているが」


「はい。私の先任が犯した失態について。何故かといいますと、その子細を本国が寄越すように求めているからであります。私事であり、まことにお手数かと存じますが、どうかご協力を願います」


「一向に構わない。聞きたいことを言いたまえ。私が答えられる範囲で応答しよう」


 彼の前向きな姿勢に維摩は一先ず安堵した。


 さて、ここでの目的は、ライナが処刑された経緯を聞き出し、またそれが親那帝であるという確証を得る事である。だが、単刀直入にそれを聞くのは相手の良くない憶測を生み出す恐れがある。よって、端緒として、死に際に立ち会えなかった凡その者が、手始めに問いそうなことから聞いてみた。


「団帥殿。まずは、私の先任であった白楼閨と云うものが、彼女は死に際で何か言葉を遺してはおりませんでしたか。呟いた一言、または言葉でなくとも何かを示唆する動作など、些細なことでも構いません。どうかご教示願います」


 彼は視線を落とす。一見すると記憶を呼び起こしているようで、時を置かずに向き直った。


「私は『お世話になります』や『失礼致します』といった常套句のようなものしか聞いていないよ。兵からも特別な事は聞いていない」


「では、白楼閨の様子は如何でしたか。恐れや、怒りといった、何らかの感情に強く染まった様子はありませんでしたか」


「無い。神妙な様子であったと、付き添っていた兵は報告している」


「そうでありましたか」


 ああ全くもって彼女らしい。はじめ、彼の証言はすとんと維摩の腑に落ちた。じたばたせず、自身の身を運命に委ねきっているライナの姿は、維摩が思い描く彼女の姿と矛盾せず、ありありと目に浮んだからだ。


 しかし、その彼女らしさを認めつつ、姫御子のあの嘆きようを思い返すと、些か首を傾げたくもなる。それは姫御子を一人残したことである。


 餓死して臣下の後を追おうなど、王侯にしてみれば沙汰の限り。それだけ二人の間には君臣の間を越えた絆があったためであろうが、ライナはそれを感じ取っていなかったのであろうか。あの、ライナが。淡い疑雲が維摩を包む。


「加えて、白楼閨が拘束された経緯について、お聞きしても宜しいでしょうか」


「それはどの程度まで話せばよいかな」


「概況で構いません。この事件については禁軍が詳しいと、伺候府から聞きました故」


「伺候府の誰が言っていたのかね」


「伺候府長殿がそう仰っておりました」


「後で伺候府に確認しても良いかな」


「結構でございます」


 彼は忘備のため、机上の紙に金筆を走らせる。


「知っているとは思うが禁軍は帝宮内の治安についても任としている。特に陛下の御身については、我々の全命に代えても守護奉るのが務めである。その聖体に君の先任は一体全体、何をしたか。知っての通り、恐れ多くも大皇陛下の御身に傷を負わせたのだ」


「その件については、あまりにも恐れ多きことをしてしまったと、同じアグリの者として、恐れ、深く恥じ入る次第です」


「恐れ多くも玉体に湯を掛けたと聞く。これが十日前の夜の話である」


「はい」


 神妙極まる様子で聞き入っていたが、勿論それは維摩の演技の成せる技である。


「私がこの件を耳に入れたのはそれから三日後である。事情を伺候府へ問い合わせたところ、伺候府長殿はこの事態を不問とすると仰った」


 これについて維摩は初耳であった。彼が見せた苦悶は真実から出たものであるらしい。


「だがしかし、我々の目的は帝室の絶対守護である。この一点が破られたのであれば、見過ごす訳にはいかない。解るだろう。例え伺候府長殿が不問としたとしても、事情を具に調べ上げ、問題を明らかにし、斯かる事態を事前に防がなければならない。それが禁軍の務めなのだ」


「同じく主君に仕える者としてそのお言葉、疑問の余地はありません」


「うむ、そして同日の十三刻に御婦人を拘束した」


 維摩は、ここまで彼が吐いた一言一句を記憶に刻みつつ、同時に彼の挙動についても見逃さないよう注意を払っていた。為に、彼の疲れた呼吸が止み、維摩の方へ単に向けられていた腐臭を放ちそうなほど死んでいた瞳が俄かに息を吹き返したように据わったのだ。


 これは、これから語るに慎重を期すことを本人が自覚し、またそれを相手に悟られないよう意識したときの動作である。


 勿論、本人は冷静な自分を保とうと意識しているため、維摩が特別の反応を示さない限り、彼女は動かぬ雲を変わらずに眺めているのに等しいと思っていた。


 だが拙い。頭脳が下した命令を体が上手く受容できていない。それ故に態度が粗雑となって、感知の度合いを敏感にしていればその真贋を容易に見分けることができるのである。故に維摩は、彼の意識によって作られたその動きから、これからが問題の核心であることが察せられた。


「御婦人の拘束から三刻後、監安から連絡があった」


 監安、正式には監安衛と言う。この組織は親那が布く法規を施行するための機関である。平たく言えば法規の番人であり、権力の尖兵だ。


「彼女を銃殺所まで移送するようにとの命令が下った。間を置かず、迎えの自動車も子殿に到着したので、それに乗車して頂いた。これを以て、御婦人の管轄は禁軍から離れた。それ以後のことについて、貴姉の知り得ていることと、私が知っていることに相違は無いだろう」


 なんだろう。随分と話を端折られた感があった。また、声は小さく、急いでいる。維摩はこれを訝しんみ、幾つかの質問を投げ、内容の補足を促した。


「幾つか詳細にお聞きしたい点がありまして、まず一点。彼女を移送する命令は何処からのものなのですか」


「監安から出ておりますな」


「言葉が足りませんでした。監安の何方から、団帥殿に伝達されたのでしょうか」


 僅かな逡巡があってから回答が返って来た。


「忘れ申した」


 この言葉に維摩は自身の耳を疑った。


「申し訳ありません。今のお言葉聞き漏らしてしまいました」


 彼は言葉を押し付けるように再度、吐いた。


「忘れ申した、と言ったのです」


 これ以上聞くなと言わんばかりの口ぶり。要は『聞くな』と言葉の裏で維摩を牽制しているのだ。


「では彼女を銃殺所へ移送したのはどなたですか」


「監安の者以外に誰かいるのかね」


「その子細を教えて頂く訳には」


「引き渡したのは私では無い。部下から『移送の者が来た』と報告があったのでそのまま引き渡したのだ。何処の誰かまで解りませぬ」


「それを後になっても確かめなかったと」


「参殿予定の者は伺候側も知っている。私が改めて確認する必要は無いと思われますが」


「事前に伺候府には問い合わせたのでしょうか」


「有罪か無罪を決めるのは伺候府でも禁軍でもなく、監安と法規の審判機関です」


「監安からの令状あるのでしょうか」


「貴姉は目の前で犯罪があった場合、監安からの捕令状を待ってから捕縛するのかね」


「捕縛の件ではなく、引き渡しのための令状にございます」


「嫌疑人の処断は監安の仕事となります。引き渡しが終われば、禁軍の関与を離れます」


 維摩はこれを聞くと、心の中で呆れてしまった。ここは親那の枢軸である。誰が何時、如何なる用事で入城するか、それが日々の報告に入ってはいなくとも記録はしている筈である。


 しかも、監安からの引き渡し令状を受け取ってないという。犯罪嫌疑人を捕縛するための要請書状も,彼の口ぶりからすれば発行されていない様子である。つまり、禁軍は監安の要請を突っぱねたとしても親那の法規上、何の問題もないのである。


 恐らく親那帝を庇ってのことであろうが、彼の態度は親那帝の独断を肯定する恐れがあった。これは親那の法規上において重大な問題となる恐れがある。


 ましてや、それらを惚けたふりをしてはぐらかすのだ。それも、あからさまに。

このような適当な男が、禁軍の頭領としてよくも据えられたものである。今まで誰からも咎めを受けなかったのだろうか。


 それとも、彼は情報を提供する代わりに何らかの見返りを寄越すよう、暗に維摩に要求しているのか。それとも、他に何か理由があるのか。限定された情報から大樹の枝葉のように多方へ筋道を立てるが、合点は得られることはなかった。


 しかし維摩は食い下がる。


「私は伺候府長様から、禁軍にて子細を教えて貰うようにと言われてここにおります。また、お尋ね申し上げていることは私的な興味からではありません。全て公務のためにございます」


「承知している」


「ではどうか、ご助力を。どういった経緯で、一体誰が彼女を銃殺に処したのでしょうか」


「……」


「どうか」


「樗才といえども私は軍人です。言葉を違えることはありません」


「禁軍は神城において、伺候府の管轄にあります。その府長が申しておるのです」


「誰であろうとも、私は同じように答えるだけです」


 しきりに蹄笳の権威を矛にして攻め立てるが、知らぬの一点張り。こう相手に防御一徹でこられると、これ以上の攻め立てる材料もなく、相手を誘き出す餌も無い維摩としては、少なくとも今ここで用いることのできる手段は無かった。


『しかし解らない。私ならば兎も角、彼の言っていることが真実とすれば、伺候府は、蹄笳はどうして禁軍を咎め無いのか。先日の口ぶりからすると、かれは随分と口惜しそうな様子であったのに』


 何か、両者の間で合意があったのだろうか。それも維摩にとって不都合なそれが。


『考え過ぎであろうか』


 もっと単純に考えて、維摩という人間に不信を抱いているのかもしれない。


 それはそうだろう。維摩は帝宮に入って昨日今日の身。伺候府では蹄笳が随分と信用を置いてくれてはいるが、禁軍はそうも思ってくれていないのかもしれない。


 何れにしろ、これらは想像の域内だし、材料の少ない維摩が勝手に思惟したところで、物事の核心を得られる訳ではない。


『これ以上問答を繰り返しても、埒が明く事は無い、か』


 彼我の間から何も生まれないと判断した途端、彼女の抗議めいていた難しい表情が一転して、にこり、と駄賃を貰った子供のように微笑む。


「承知しました。大変、参考になりました」


 それは多分の嫌味を含んでいたが、坐画麻塔はそれに微塵の反応も見せなかった。


『味気のない』


 むしろ彼は呆れから維摩が顔を僅かに弛緩させたことから安堵を覚えたようであった。そして、「貴姉の力になれたら幸いだよ」と、当たり障りない言葉で締めくくる。


「それでは、禁軍統帥坐画麻塔団帥殿。これにて失礼致します」


 維摩は彼の苗氏を口にすると、ここに来て初めて彼の名を聞いた時の違和感が再び起こり、妙に自身の記憶が刺激された。


「確か、そういえば……」


「ん、どうしたのかね」


「初めて御尊名を耳にしたとき、失礼ではありますが随分と珍しい姓をお持ちでいらっしゃると……確か……」


 維摩は短く深く思案する。そして幾秒もしない内に自身の脳内に並んだ知識の箪笥から一つの答えを引き当てた。それは実に古い記憶から、幼少の頃合いに親那の瀚史府で親しんだ書物の、大陸における小邦の特殊文化を連ねた文献であった。


 維摩は彼に等閑視されたからといって、ささやかな仕返しをしたいとも、書物に嗜んで久しいことを衒気せんという小児的な衝動に駆られた訳でもない。ただ、ふと、蓄えた知識を反芻したいと、単純に思っただけであった。


「ああ、思い出しました。確か、ご将星の姓、いや、姓氏と云うべきでしょうか。坐画麻という子音が全て同じ音の文字で成る姓と塔は家の名を指す氏。これは多多邦光縷地方のある少数の部族が、伝統として名に冠するものではありませんでしたか。彼の地はあまり豊かではないと聞いております。そこから身を立てられたのですから、お邦許ではさぞ才人として称えられて……」


 そう心に無い賛辞を述べながらゆっくりと振り向いていって、坐画麻塔と視線が合った。


 ここで、維摩が表情を崩さなかったのは彼女が常時、緊張感に縛られながら勤めをしていたからだろう。他の者ならば、息を呑むか気味が悪くなって、その怪訝を顔に出していたかもしれない。何故なら、維摩が見た彼の表情が、胸に手を押し込まれて心臓を鷲掴みにされたような、そんな苦悶と緊迫を満杯にしたような面持ちであったからだ。


「……おられるのではありませんか」


 維摩は肌をぴくりともさせなかったため、坐画麻塔は彼女がとりとめのない話をしているとは察すると、顔を無理に拉げて表情をつくった。


「いや……それ、程でも……ないよ」


 湿った雑巾から一滴の雫を絞り出したような擦れ声。加えて、無理に微笑もうと口を横に広げるが、押し退けられた頬肉は痙攣しているかのように小動し、眉間には皺が寄っていて、何より坐画麻塔の狼狽眼が全てを語っていた。


「御謙遜を。我邦であれば英雄として称えられるに違いないでしょう」


 維摩は彼とは違って完璧に笑顔を形作ると、坐画麻塔は自信の表情に応じたものと勘違いをしてやや平静を取り戻したようだった。


「いやいや……時世時節というものさ……それに、私は蛙夜羅の出身だ……姓氏の由来なぞは親も知らないと言っていたし、私も初めて聞いたよ。はは。知嚢が大きいのは解るが、その、勘違いしないでくれたまえ」


「これはご無礼を。余計な推考でした」


「いや、いいんだ、いいんだ」


 手を維摩の方へ翳し、猛獣を宥めるようにそれを上下せる。推理推考の対象が自分自身へ向けられるは勘弁願いたいと、そう必死に訴えているようであった。


「それでは失礼いたします」


 部屋から出た維摩は戸をそっと閉める。


 維摩がさっきまでの作っていた笑顔の面影は微塵も無く、その時の維摩は打って変わって真剣に何かを考え耽る顔付きとなっていた。

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