二節 維摩 二日目 四 誘い
日輪は一日の一番高い所にあって燦々と輝いて維摩の白い肌を照らした。平素であれば昼食の時間ではあるが、維摩は津斐の元を出たその足で禁軍衛府へと向かった。見えんとするのは禁軍衛府の衛府長である。
禁軍とは親那帝直属の部隊で、衛府とはその司令部であり、その構成は大陸選り抜きの士卒で編成されている。平素は帝室の警護や儀仗を専らとしているが、一度戦詔が下れば最前線で敵と干戈を交わし、精兵として恥じぬよう努めなければならない。親那帝は神城に在るために、禁軍の総力ではないがその半数近くは、この瞬間も最前線にて敵と対峙しているのである。
戦争の時代、君主が剣を佩いて兵を率いていた時代、禁軍衛士は親那国内の者だけで編成されていた。そして勿論のことではあるが、彼らは親那帝室への篤い忠誠心を懐いていた。
だが、平和な時期が長く続いたせいであろうか。将又、大陸を全て我が物という自負がそうさせたのであろうか。
昨今の親那は、諸邦から優秀な士卒を選抜するという方針に転換していて、異邦の生まれや育ちであっても親衛として務めることが許されるようになった。その中には士卒の長という名誉ある地位に昇進した者もいたのである。
実のところ、維摩がこれから面会しようという禁軍衛士の長も、名前から察するその可能性が高かった。彼の名が親那より北西の、とある地域に見られる特徴を持っていたからである。
慎重であった時期もあったが、異邦の逸材を求めて門戸を開いてきた歴史を持つ親那には珍しくないことではある。しかし、それは親那の金科玉条ではない。親那の国是である先師思想を実現されるための手段であり、親那三色の一つ漆黒を現す『智』を万国より集めるためであった。
親那は召し抱えた大陸の逸傑を、その才能と情熱の趣くままに働かせ、その成果を親那ただ一国が占有、集積し、それらの叡智が君臨するに足る資格を授けたのである。
だが、例え三顧の礼を尽くしたとしても、愛や忠から発した信念はひどく強固で容易に曲げられるものではない。戦争で国を滅ぼしたがために、どれだけの忠臣、愛国者からの宿根を晴らさんと誓われたことか。また、これとは逆しまに財や色への執着が強く、忠恩に薄い者も居る。こういった者等を才があるからといって要職に就けるであろうか。むしろ遠ざけるのが常識というものである。
この親那の政策、果たして理に適っているのであろうか。過ぎた能力主義でありはしないか。時代の要請のためか、単なる勇み足か。杞憂なのか。やはり危険か。
アグリからの視点ではこれをどう捉えるべきであろうか。長らく、親那の庇護を受けてきたアグリとしては、宗主国のこの状況を憂えるべきなのか。いや、アグリも同じように他国から才人を広く招聘し、職を問わず登用すべきか。いや、そもそもアグリと親那ではその政策を受け入れる素地が違い過ぎる。アグリは親那より保守的であるのだ。しかし、維摩自身が親那で修学したという過去もある。親那が維摩の才覚を認めた事実は、彼女の中で親那への恩として存在していた。そのため、一概に否定もできなかった。
それにこの状況は、今の維摩にとっては親那帝に対抗する良い材料となるかもしれなかった。従属する邦同士、何か通ずるものがあれば、苦境で喘ぐアグリに何らか支援してくれるかもしれないし、公私を混同するような輩であれば工作が容易である。
このことを思うと、政策が生み出した状況が未来においてどう転ぶか、その予測が難しいことを学ばせてくれる。そう維摩は痛感した。
……そういったことをぐるぐると考えながら禁軍衛府へと孤歩する。
移動する経路は、初めて親殿へ来たのと違って、伺候の詰める伺侯府と禁軍衛府を直通する通路を通らずに子殿の南門から禁軍衛府へ向かう路を進んでいた。帝宮の内部を少しでも多く目にしておきたいがためである。
維摩は伺侯府を出てから、親殿と子殿を隔つ城壁に添って歩いた。面白いことに、この城壁は土色でも赤茶け色でもなく、黒っぽい色をしていた。この城壁の煉瓦であるが、親那平野のある泥濘地から産出した粘土を材料としていて、これが黒いのである。
親那の、特に神城の者にとっては皇国三色の一つで、見慣れてもいるためにそれ程の抵抗は感じないが、黒色に負の印象を持つ地域の者にとっては、死後の世界にでも通じているかのような異様な情景として映ることが大半であった。
『これも先師思想の賜物でしょうか』
緩やかな弧を描く城壁を歩いてなぞっていると、それを穿ったような穴が目の前に現れた。これこそ南門であった。さてそこを潜ろうと思ったが、巨大な鉄製の城門はぴったりと閉じられていた。維摩は、あれ、と首を傾げる。伺候府を出る時、府員は貨物搬入出用で人が常駐する生きた通路である教えてくれたのだが。
しかし、よくよく確認してみると、門の直ぐ横に人の背丈の倍くらいの高さの口があり、伺候府の警手が警杖を握って暇そうに立っていた。聞けばここは通用門で、警手の詰める事務所が併設されており、誰が何時、何のために通ったかを記録していた。早速、係の者に事情を申告してこれが承認されると、何やら絵の描かれた木片を手渡してきた。
割符であった。これは掌に収まる程度の加工品で、中央に切れ目が入れてあり、更にその上に文字や絵が描かれている。用いる際は切れ目に通りに割って人が互いに持合い、後で合致させて証明とするのだ。これは絵柄と割目が微妙に違っていて、一つとして同じものが無いようになっている。ここの場合は通行証明として渡されたので、子殿から親殿へ戻る際は、この通用口にて割符を照合しなければいけないということだ。
維摩は彼らに、しかし帰る時は禁軍府と伺侯府を繋ぐ直通の通路を通るので返却できない、と伝えたのだが、規則だからと聞く耳を持ってくれなかった。仮にこれを返さなかった場合、どうなるかと問うと、四日後に伺侯府と禁軍府に報告が行き、調査の対象となり、正当な理由があって通過しなければ沙汰なし、不正な理由があれば処罰とのことであった。
面倒を回避したい維摩は、今から引き返えそうかとも思った。だが、時間の関係と折角ここまで来たのだからと思いがあって、仕方無しに割符を受け取った。渡された割符を手に取ると端に穴が開いており、そこに柔靱な紐が通してある。維摩はそれを首から掛け、外から見えないようにと服の中へ割符を仕舞い込んだ。
門扉は壁を貫くような形で設けられており、詰め所に控える伺候府員がこれを引いて開門した。通用門の中は薄暗く、奥行きがあった。それだけ壁が厚いのであろう。抜けて子殿側へで出ると、やはり警手が立っていたが服装が違って禁軍の軍服であった。彼らからは、割符を渡されることはなく、入る時と同じように通行簿に必要事項を記入して、渡された割符を示せば通行を認められた。
維摩は出口から東の方へ、壁を挟むように来た時と同じ方角を進んだ。禁軍府はこの先で、そのある。その甍の一端が路木の葉枝から覗いたくらいの所で、禁軍衛士のだろうか、それも高級軍事学校出の所謂『校官』であるらしい青年であった。その姿は彼らの世代の白眉を絵に描いたようで、まことに凛々しかった。
その青年二人が脇道を維摩の方へと歩んでくる。彼らがきた方角には、壁が朱色に塗られた親那の近代装飾を施した建物が洒然とあった。維摩が脇道と繋がる丁字前に差し掛かると、丁度彼らの正面を通り過ぎる形となり、親殿の、それも帝宮の人であると彼らに認められると荘厳なる敬礼を受けた。維摩も会釈で応え、よくある路傍の小事としてその場を過ぎ去ろうとした。
維摩は彼らに対して気を留める理由はなかった。しかし相手はそうでなかったらしい。先を急ごうとする維摩に、青年校官の二人は実に爽やかな笑顔を作ってきた。
「今日は」
維摩も「今日は」と返す。しかし、それだけだった。羽虫の音や、小鳥の囀りを聞くに似たものとして歯牙にもかけなかった。
しかし、その素振りも彼らにしてみれば予定されたことであったようで、二人は維摩を挟むようにして並行し、朗らかな声で、まるで刀工が相槌するよう交互に快弁を繰り出し、以て維摩の関心を誘おうとした。
「親殿の女官とお見受けします。どちらかに御用ですか」
「子殿は広いですよ。迷わないよう案内しましょうか」
心外な。そう思って無視するが、二人は気にも留めない。
「お名前は。何処のご出身で」
「その美しき佇まい、良家の出とお見受けします。是非とも御挨拶を」
二人から浴びせられるこの取留めのない質問に、このような他愛ないことを聞いてどうするのだろうかと疑問に思った。だが、維摩は澄まし顔のまま歩みを止めない。これでも維摩はアグリの上臣である。例え名のある諸侯の子弟であろうとも、名門学校出の優駿であろうとも、彼らは低級の校官である。対して維摩は王侯の陪臣で、親那より叙せられた位階も彼らより上である。ここで彼らに愛敬を振り撒く義理も理由も無い。
「幾つの頃からお勤めをしているのですか。最近、神城に来られたのですか」
「親殿に住み込みで、どの御方にお仕えしていらっしゃるのですか」
何を繰り出そうが、風に吹かれたとも、陽に照らされたとも思わなかった。それでも食い下がってくる彼ら。維摩はここでようやく得心した。私は言い寄られている、と。維摩は歩みながら二人に向かってにこやかにほほ笑み、言った。
「急いでおりますので」
だが二人は引くどころか、、維摩の笑みに、得たりや、と悦に入ったようだ。
「綺麗な肌だね。北国の出身かい」
「いや、西だね。髪の艶が美しい。これは西国の産だ」
次第に言葉付きが円やかになり、まるで友人にでも話し掛けているかのような調子で、食べ物に集る蠅のように離れない。無礼と不愉快が相俟って、維摩を苛立たせた。維摩は歩みを止め、振り返って彼らの口上を手で制すと、厳しい眼差しを向けながらぴしゃりと放つ。
「静かに」
そして彼ら一人ずつを敏捷、且つ刺すように視線を配ってから、この一瞬の沈黙を機に先んじた。
「今からこれより、先に声を掛られた方とは別の方とお話させて頂きます」
さっきまでよく回っていた二人の口は、閉じた貝のように固くなった。更に維摩はこう続ける。
「因みに、先の方とは今後一切、言葉を交わすことも無ければ目を合わすこともありませんのであしからず」
彼らは戸惑って、暫く維摩を見つめていたが、やがて目を見合わせた。そして、一方がもう一方の青年に対して顎をしゃくった。
『話し掛けろ』
そう暗に示していた。それをされた方は納得できない様子で、同じ仕草を返すと、元の方が声を出して抗議し始めた。
「なんでだよ」
「なんで、だと。貴様が言い出した事だろう」
「なら協力を惜しむな」
「言い出した方が先陣を切れ」
二人は睨み合うが、直ぐに一方がにやりとする。
「お前、此の間、星器でいい子見つけた、とか言っていたな」
星器とは神城に幾つかある歓楽街の一つである。
「言ってねぇよ」
「はっ、嘘吐くな」
「ならなんだ。貴様、彼女を一目して夢中になったのか。彼女と二人にさせろと、そういうことか。下心が在り在りだなぁ」
これを言われた方は「おい」と額に青筋を立てて、「もう一度言ってみろ」と指さして相手に凄むも、相手は余裕綽々といった感じで、「図星か」と挑発を止めなかった。こうなると、さっきまでの凛然さはどこへやら。精華の欠片も無く、俗念を塗りつけ合う二人はまるで幼子の諍いそのものであった。
維摩は心の中で欠伸をした。ただ自己満足のために版された、中身の無い本の文字を追っている程に気怠かった。
不意に得た低俗を、迷いも無く屑籠へ投げて捨てるように、さっさとこの場を切り上げようと、我関せずの表情緒を決め込みながら立ち去った。
「あ」
維摩の細腰が遠ざるのを見て、彼らは冷や水を浴びたように我に返ると焦燥に駆られて、何かを囁き合った後、片方が手帳を取り出して何かを書き出してからそれを引き破り、その間の抜けた様子を恥じ間も惜しんで維摩の前に駆け出て拝跪した。
ひどく迷惑である。表情に窺わずとも、声に聞かずとも、纏わりつく湿気のように肌でわかることができた。しかし彼らは僅かではあったものの、若いが故に気高い自尊心を捨てて、憐憫を請うように維摩の表情を窺った。
維摩は深い溜息を吐いて「なんです」と、物凄く嫌そうな表情をしてやった。すると、片方が礼をしたまま紙切れを維摩に差し出すと、二人はほぼ声を同じくして「悪かった」と調子を合わせた。
「お二人が同時。ということは、お二人と私の間には何の縁もゆかりも無くなった。そういう事で宜しいですね」
二人の頭を見下ろす維摩の瞳は氷より固く凝っていたようだったが、片方が「それでもいい」と言った。
「ただ話だけは聞いて下さい」
そう懇願する。維摩は何も言い返さなかったので、彼らはひとりでに話し始めた。
「見て頂いてわかると思うが、我らは禁軍。普段は近衛として勤めを果たしているが、東方の乱に接し、その鎮撫ために禁軍師の半分は出征し、前線で奮闘している。だが幾度かの激戦で激しく損耗し、交代や補充のために残り半分も続々と戦地へ赴いている。そして、我々の同期生もまた、その一人となったのです」
「我が軍が負けるとは思わないが、この戦、近年稀に見る烈しさで損耗率がとても高い。それに我々は親那の精鋭としての矜持を示すことを負っている。弱々しい戦いを見せることはできないのです。一度干戈を交えれば戦死しても全く不思議ではない」
二人は気持ちを一緒にして頭を下げる。
「そいつは真面目でいい奴なのですが、寡黙で奥手で、だからせめて、貴婦人と杯を交わさせてやろうと。そうやって壮行してやろうと思って」
「本当なら宮殿の外で催すべきなのだが、今日から三日後には東域へ征ってしまう。壮行会を企画したのですが勤務上、それまでに城外に行く事はできないのです。だからこの子殿で壮行してやろうと。ですが、素性の怪しい人間を子殿に呼び入れる訳にはいかない。だから神城内の人に頼むしかないのです」
紙片を持った手がずいっと維摩に近づく。
「我等は貴女の事情をよく知らない。だから難しいかもしれないし、無理かもしれない。けれど貴女に頼る他無いのだ。少しでも見込みがあるのならば、どうかこれを受け取って頂きたい」
維摩は少し迷った。というのも維摩自身がこの親殿に来て日が浅く、ここの事情に詳しくないし、禁軍の、軍人の風俗について知る由も無い。だから彼らの言葉が、何か裏の意味を含んでいるのではないかと、丹念に疑っていたのである。
しかし、操を頑なに守ろうとする生娘が男を恐れるかのように、彼らの頼みを無下にするのは勿体ないように思えた。勿論それは、色恋の情からではなく、自らの謀計の資源として彼らを上手い事利用できないかと思慮した結果である。受け取っておけば後で好きなように料理できるのだから。
一応「十中八九、駄目だと思います。それでも後腐れしないのであれば」と断っておいて、「それでも良ければ」と続けた。すると、「お願いします」と最後の一押しがあったので紙片を引っ張るように手に取ると、二人は頭を上げ、真摯な面持ちで「ありがとう」と礼を述べた。
維摩はそのまま、未練も何も無いように二人の元を後にし、対し彼らはその場で維摩を黙って見送った。維摩は二人の姿が見えなくなるぐらいまできてはじめて、受け取った紙片に目を通した。紙片には『陽五の修、十二刻、禁軍議館伍・狂簡、魯羽呂』と走り書きされていた。
陽五の修は明後日。その十二刻となると日がすっぽり隠れたあたりである。参加するには難しくはない時分ではあった。
『果たして、彼ら使えるだろうか』
しかし、有益な情報を引き出せるとは思えなかった。子殿に勤めているとはいえ、彼ら階級も高くなく、反面、男と密会していたといったような醜聞が立つことを危惧すれば、果たしてそれだけの価値があるかは疑問であった。
『これが誰かの目に留まる前に、捨ててしまおうかしら』
拾うには嵩張り、捨てるには幾許か惜しい。
しかし、奇貨居くべし、と云う。ここは故人の言葉に倣おう。
維摩はさっと辺りを見回して人影の無い事を確認すると、紙片を手早く四つ折りにすると衣嚢の深くに仕舞った。
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