キャベジン

 新キャベジンコワS錠を、きっかり三二〇錠数えて薬瓶に詰めること――それが僕らの仕事だった。

 工場のベルト・コンベアでひっきりなしに運ばれてくる大量の白い糖衣錠を、まいにちまいにち手作業と目算で一錠一錠ひたすら地道に数え上げ、三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。効能は、胃痛、胃もたれ、消化不良、胃酸過多の改善。それをまいにち、三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。主成分メチルメチオニンスルホニウムクロライド、水酸化マグネシウム、炭酸水素ナトリウム、ソウジュツ乾燥エキス、リパーゼAP12。一日八時間、三勤交代の二十四時間体制で、三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。日本人の胃腸の弱さを、僕は怨む。三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。いやんなるぜ。

 同期で入った工員のいくらかは、あまりの単調な作業に嫌気がさして退職した。残りの同期のほとんどは、精神を病みながら、はした金のために続ける道を選んだ。作業中に発狂してスパナを片手に暴れだした工員もいる。「この作業、機械で代替できないのか……?」と、ふと、素朴かつ哲学的な疑問を洩らした工員もいた。そいつは翌日、不穏分子として解雇された。デモクラシーの、夜明けは遠い。三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。死にたい。

 僕はじぶんに与えられたこの仕事に、たしかな誇りを持てないでいた。やりがいなんて、みじんもなかった。あるのは疲労とやるせなさだけだ。給料明細を見るたび、じぶんという人間の価値が如何に低いのか、数字でもって明確に痛感させられた。生活するだけで、赤字が出るような給料だった。娯楽もなかった。未来もなかった。三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰めする未来しか。銃って、いったい、どこ行けば売ってもらえるんだろう?


「僕は、いつか小説家になりたいんだ」


 作業中、僕はぽつりとそう呟いたことがある。

 その場での、ほんの思いつきだった。僕は中学を出たあと、すぐ工場に勤めはじめた。小説なんて、書いたことも、まして読んだこともなかった。僕の人生はからっぽで、未来もなければ今もなく、寄りかかる思い出すらもなかった。書きたいことも、人に伝えたいことも、あるはずがなかった。でも、「小説家になりたい」、そういわなきゃ、息が詰まって死んでしまいそうなほど、その工場にはすべての希望が失われていた。

 僕の目の前には、ひとりの同僚がおなじ作業を黙々と続けていた。

 痩せっぽちの躰に青白い肌、表情のない童顔にはにきびがうっすら浮かんでいた。灰色の地味な作業着が、世界一似合う男。僕と同い年か、もしかしたらもっと若いかもしれない。おとなしかった。存在感があまりなかった。眼を離すと、どこかに消えてしまいそうな青年だった。

 かれは、なにも答えなかった。手を止めず、機械のように正確に、素早く、新キャベジンコワS錠を、きっかり三二〇錠数えて、薬瓶に詰めていく。ひたすら、ひたすら、ただひたすら。その手並みは職人芸の域にまで達していた。そしてそれは切ないことに、なんの褒め言葉にも、なりゃしなかった。

 僕はかれの名まえを知らない。いつからそこで働いているのかも知らない。朝、だれよりも早く仕事を始め、夜、なにもいわず、知らない間に消えていた。そんな男だった。

ただひとつ確かだったのは、かれがすこぶる優秀だったことだ。

 その仕事ぶりは、だれよりも速く、だれよりも精確。ひたすら実直に、休憩も入れず、ランチ・タイムにさえも仕事を続けていた。だれかのミスで仕事がつまずいたときも、怒ることさえ、しなかった。人手が足りないときなどは、五十六時間ぶっとおしで作業に従事していた、なんて伝説もまことしやかに語り継がれている。超人だ。パーフェクト・工員だ。三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰めするためだけに生まれた、単純作業の申し子である。

 だけど、かれは同僚のなかで、けっして好かれてはいなかった。それどころか、まったく、うちとけないのである。仕事中や休み時間、かれが同僚たちの雑談に応じるところを、僕はいちどもみたことがない。プロ野球の話を振られても、ワールド・カップの話を振られても、ただただ無言。かれが笑っているところに関しては、想像もできないほどだった。

 かれは、工員として完璧すぎた。ただ、仕事だけを淡々とこなす、マシーンのような男だった。

 挨拶をしても返事がないので、そのうちみんな、かれに挨拶をするのをやめてしまった。仕事のあとに、飲みに誘うこともしなくなった。名も知らないかれは、別段それを気にするようすではなかった。時計のように正確に職場に現れ、定時になれば時計のように正確に帰っていった。一分一秒の、狂いもなく。

 かれには、友人もないようだった。恋人もいないようだった。家族がいたのかどうかさえ、疑わしい。もしかしたら、工場で生まれたのかもしれなかった。

 あいつは「ロボット」だ、とだれかが笑いものにした。

 人間の心のない「ロボット」。機械のようにひたすら無言で働き続ける「ロボット」。胃腸薬を 三二〇錠数えて瓶に詰める「ロボット」。

「ロボット」は、どんなに優秀でも、どんなにみんなに貢献しても、他人から敬意を払われることはない。それは悲しいことだけど、同時に当たり前のことだ。それに尊敬されようが軽蔑されようが、「ロボット」にとっちゃそんなこと、どっちにしたってなんの関係もないことだった。

 三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。そんなふうに僕らの工場での灰色の日々は過ぎて行った。



       ☆



 工場のなかでさえうだるように暑い、夏のある日のことだ。

 僕らはいつもと同じように、いつもと同じ作業に当たっていた。暑さで頭が朦朧としていたけど、必死に神経を集中させて。


 どの瓶にもどの瓶にも三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠。

 共産国家よりも平等に、三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠。

 大家族の親が子供を愛するように平等に、三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠。

 一夫多妻制のイスラム教徒が嫉妬深い十人のワイフを愛するように平等に、三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠。

 それはまるで神の無限の愛アガペーじゃないか。三二〇錠、三二〇錠、三二〇錠、瓶詰め。

 死にたい。


 高らかな靴音が鳴った。僕らはいったん作業を止め、作業帽を脱いだ。

 僕らの看守、もとい、部門長閣下が視察にやって来たのだ。

く っちゃ、くっちゃと、ビーフ・ジャーキーをかじりながら。ブルドッグのようないかめしい赤ら顔。でっぷりと突き出たお腹。風にそよそよと揺れる、まばらな髪の毛。十本の指すべてには、金色の指環。

 かれこそ僕らの愛すべき独裁者。僕らの尽くすべき飼い主。

 ハイル! 僕らは、部門長に向かって一斉に敬礼した。

「錠剤の数が、一錠合わん」

 部門長は眉間に皺を寄せ、一同を睨みつけた。

「一錠多く、瓶に詰めたやつがいる!」

 遠大な工場じゅうがしんと静まり返った。

 三二〇錠、瓶に詰めるという作業は、この工場では厳粛な儀式であり高潔な教義だった。

 錠剤の数が一錠合わないというミスは、この工場では死罪にも値するのである。

「だれだ? ミスを働いたまぬけは? もうすでに出荷されてしまったぞ。責任は重大だ! 新キャベジンコワS錠は三二〇錠だからこそ新キャベジンコワS錠たりうるのだ! いったいだれだ、新キャベジンコワS錠を冒涜する者は! 名乗りをあげないなら、ここにいる全員を解雇する!」

 僕らは顔を見合わせた。みんな蒼い顔をしていた。どんなにくだらない仕事でも、どんなに人から蔑まれる仕事でも、僕らにとっては、それが人生のすべてだった。

 重苦しい沈黙が、工場を支配する。

 ミスをしたのは自分かもしれない――だれもがそう思っていた。

 ひとつの瓶にだけ三二一錠詰めなかったと、だれが断言できる?

 たった一錠を詰めまちがえなかったと、だれが自信を持っていえる?

 緊張で頭がどうにかなりそうだった。なんだかだんだん、じぶんが犯人であるかのように思えてきた。記憶があやふやで、頭に靄がかかっていた。

 僕が手を挙げるべきなのだろうか? だけどたぶん、手を挙げても、挙げなくても、僕はきっとお払い箱だ。あしたっからどうやって生きていこう。母さん、きっとがっかりするだろうな。工場に就職が決まったとき、いちばん喜んでくれたのが、母さんだったから。

 そんなときだ。場が一瞬、奇妙にどよめいた。

 どうした? なにかあったのか――?

 僕は周りを見まわし、言葉を呑んだ。

 勇敢といおうか蛮勇といおうか。たったひとり、手を挙げた工員がいたのである。しかもその工員の正体に、僕は驚いた。

「ロボット」だった。パーフェクト・工員の異名をとる、あの童顔の痩せっぽちだったのである。

「ロボット」は一歩、前に出た。

「僕です。それは、僕のミスです。まちがいありません」

 どよめきはさらに大きくなった。パーフェクト・工員であるかれがそんなミスをするなんてその場にいるだれにとっても意外だったし――なにより、かれが口を利いたのは、それが初めてだったから。

「きさまか」

 パァン! 高い音をたてて、部門長は「ロボット」の頬を平手で打った。

 その場にいた工員たちは、みな息を呑んだ。

「きょうでクビだ。荷物をまとめて出て行け!」

 部門長の怒声が工場じゅうに響き渡った。いや、きっと、大気圏外まできこえたんじゃあないかな。

「ロボット」は深々と頭を下げた。

「長い間、お世話になりました」

「ロボット」はそういって、ただ、いつもどおり仕事を引き受けるように、素直に最後の命令に従うだけだった。

「ロボット」に救いの手を差し伸べるように、昼休みを告げるベルが、やさしく工場に響き渡った。



        ☆



「いままでお世話になりました」

 工場の片隅で弁当を食べていると、「ロボット」がそう話しかけてきた。

 僕は驚いてかれを見た。かれは笑っていた。その蒼白い童顔を、ぎこちない、引きつった微笑でゆがめながら。

「初めて口を利いたね」

 僕はいった。

「ロボット」は、顔を真っ赤にしながら頷いた。

 僕は、かれのことが少しわかった気がした。かれは、悪意があっていままで口を利かなかったんじゃない。ただ単に、とてもシャイだったのだ。話しかけてきたということは、できるなら良好な関係を築きたかったということだ。それがいままでできなかったぐらい、並外れてシャイだったのだ。

 僕はかれの過去に思いを馳せた。思いを伝えることができず、誤解され、疎まれ、厭われ、弁解しようにも、うまく言葉が出てこない。かれがどれほど生きづらい思いをしてきたかは、想像に難くない。人間って生き物は、個体としてみればこの地上に生きるどんな生き物よりも脆くて弱い。他人と関係を築き、集団生活をすることで、初めて生きられる存在だ。それがうまくできないということは、翼を失って飛べなくなった鳥もおなじだ。溺れる魚だ。暗所恐怖症のコウモリだ。閉所恐怖症のヤドカリだ。生きづらい。やりきれないほどに、それは生きづらいにちがいない。

 そしていま、かれはようやく勇気をふり絞り、口を開いた。皮肉にも、かれが工場を辞める、その当日に。

 あきれたはにかみ加減である。シャイにも限度があろうというものだ。

「きみも、あんなミスをするんだな」

 世界一シャイな工員を前にして、言葉に困りながら、僕はいった。

「いままで機械みたいに、正確だったのにさ」

 いい終えて、しまった、と思った。かれの気を悪くしやしないかと思ったのだ。

 かれは気にしないようすで、なおも笑っていた。

「じつは、わざとなんです」

「わざと?」

 顔を真っ赤にしながら、「ロボット」は頷いた。

「わざと一錠、多く瓶に詰めたってのかい? なんでまたそんなことを――」

 かれはなおもはにかみながら答えた。

「恋をしたからです」

 あまりに予想外のフックに、僕は一瞬、耳を疑った。

「恋っつうと、なに、恋人ができたってことかい?」

「いえ」かれは耳まで赤くなりながら続ける。「名まえも知らないし、住んでいるところもわからないんです」

「えっと……それ、垢の他人ってことだよね?」

 かれは力いっぱい頷く。いっこう気にしないようすで、かれはその突拍子もない話をなおも続けた。

「通勤途中の電車のなかで、見かけただけなんです。でも、とてもすてきな女性なんです。とてもきれいで、僕なんかじゃ、とても釣り合わないような。利発そうで、だけど穏やかで。いままで生きてきて、こんな気持ちになったのは初めてなんです。僕は、いままでの人生を、できるだけ他人を避けて、狭い部屋の隅で物思いに耽りながら過ごしてきましたから。彼女に逢って、初めて朝陽をみたような気がします。なにも起こっていないのに、彼女がじぶんとおなじ世界に生きている、そう思うだけで喜びが胸いっぱいに広がっていくんです。いままで負った心の傷が、手足に重く圧しかかる疲れが、すべて癒えていくようです。

 でもね、ある日、ぼくは気づいてしまったんです。彼女が、ふと悲しそうに自身の左の手首をみたのを。

 その白く華奢な手首には、真新しい切り傷が無数にきざまれていた。いくつもいくつも、まるで虎目のギブソンレスポールみたいに。

 白い肌に映える赤い傷があまりにも痛ましくて、ぼくは言葉をうしないました。胸がひどく痛みました。心臓がキリキリ、針で傷つけられたみたいに。

 リストカット――自傷癖。

 どんな気持ちで、じぶんのそのきれいな手首に傷をつけるっていうんでしょうか。痛いにきまってます。たくさん血が出るにちがいない。あたりまえのことだ。それでも切らなければやりきれない、っていうのは、どれだけ深い悲しみなんでしょうか。

 なにかが、彼女を苦しめているんです。それがなにかはわかりません――悪い男に捕まって、毎晩暴力にさらされているのかもしれない。美しさを妬まれて、周りの女たちにいじめられているのかもしれない。両親との仲が絶望的にうまくいかなくて、牢獄みたいな家庭で過ごしているのかもしれない。ひとり暮らしが長すぎて、このまま他人と暮らせない人間になることに不安を感じているのかもしれない。

 わかりません。僕にはわかりません。なんにせよ、彼女はとても寂しそうでした。だれも助けてくれない、じぶんは世界でひとりぼっちだ、六十億人も人間がいるこの世界で、それでもたったひとりぼっちだ、そういっているようでした。

 僕がピアノ弾きだったなら、彼女のために一曲のソナタを贈ったでしょう。僕が銀細工の職人だったら、彼女のために指環を作ったにちがいありません。ぼくが詩人だったなら、『オデュッセイア』よりも長い叙情詩にありったけの想いを、言葉をささげたことでしょう。ぼくが王さまだったなら、世界のすべてを彼女にあげることさえも、惜しむことはなかったはずです。

でも、僕はただの工員ですから。お金もないし、地位も名誉もない、ださくて、しがない工員ですから。

 守ってあげたいのに、守ってあげることも、助けてあげたいのに、助けてあげることもできなくて。彼女のためになにをしてあげられるだろうと本気で考えぬいたとき、してあげられることが絶望的なぐらいになにもなくて。

 でも僕、すごく好きになったものですから。彼女のために、なにかを、たとえそれがどんなことでもしてあげたくなったものですから。そんなとき――」

「そ、そんなとき?」

「テレビのニュースで観たんです。飛行機事故に遭って、無人島に漂着した若者が、瓶にラブレターを入れて、海に流し続けたって。恋人に届くことだけを、ただひたすらに祈りながら、広い海に瓶を投げ続けたんだって。何本も、何本も、おなじ文面のラブレターを入れて。

 莫迦みたいでしょう? でも、無人島に隔離されたかれには、それしか恋人のためにできることがなかったんです。かれは、じぶんにできることを、ただ愚直にやり続けた。ほんのわずかな可能性を信じて。

 結果――その瓶のひとつが、海を越えて、恋人に届いたっていうんですよ。それで、若者は救出されたんです。奇跡です。奇跡が起こったんですよ。いや、若者の一途な想いが、奇跡を起こしたんです。

 僕はそれを観て、これだと思いました。感動して、泣き叫びました。

朝、いつものように工場に来て、作業着に着替えました。そして、新キャベジンコワS錠を――一錠多く、瓶に入れたんです。ひと瓶だけ、三二一錠にしたんです。テレビで観た若者が瓶に手紙を詰めたように、僕もその一錠のよぶんな白い糖衣錠に、すべての想いをこめて。出荷されて、市場に出て、愛する彼女が手に取ってくれますように、そう願いながら。特別な人のために、特別な新キャベジンコワS錠を」

 あまりのことに、僕は面食らった。

 それはきっと、世界でいちばんシャイな愛情表現だ。工場から出荷されたそのひと瓶が、薬局に並べられ、かれの愛するという女性がそれを手にとる可能性は、ほとんど、いやいや、限りなくゼロに等しい。

 しかも、仮に奇跡的に当の本人に届いたとして、その余分な一錠に気がついて、かれの想いを汲みとれるなんて、到底思えない。いや、女性ってやつは第六感が優れているというからひょっとすると――いやいやいや無理。どう好意的に考えても、無理なもんは無理。

「きっと、届くと思うんです」

 かれは目をきらきら輝かせながらいった。まっすぐな眼だった。疑うことを知らない、無垢な表情だった。

 えーっと。こういうとき、なんていえばいいんだろう? 僕は知らない。いやあ、世界じゅうのだれだって知るもんか。つっこみたくても、つっこめない、長い間生きていれば、そんなムチャ振りに出くわすことだってある。

「きっと、届きます。いままで、僕の人生は、いいことなんてなにひとつなかった。ほんとです。悲しいことばかりでした。たったひとつぐらい、こんなちっぽけなことぐらい、せめて思い通りになってくれたっていいじゃありませんか?」

 あまりにも莫迦げている。そんなに好きなら直接、告白でもなんでもするべきだ――そう思った。

 でも――僕は思い直した。

 きっと、告白なんてしても、相手になんてされないだろう。かれは悪い人間ではなかった。だけど風采も上がらない、ただのしがない工員だ。特別醜いというわけでもないが、魅力という点ではそのへんの女に暴力を振るって平気でいるようなちんぴらにさえも劣る。ただ、迷惑がられるのがおちじゃないか。困らせるのがおちじゃないか。他人に好かれる要素をなにひとつ持ち合わせていないとすれば、思いを打ち明けなくとも、結果はだいたい予想がつく。

「その結果がクビ、か。あんまりだな」

 僕は口を尖らせて、ただそういうほかなかった。「ロボット」は、ただ笑っていた。童顔を真っ赤に染めながら。

「でも、気持ちはとても晴れやかなんです。何年もこの仕事をしてきました。ミスを起こさないように、ただそれだけを考えながら。まるで機械になったみたいに。

 でも、やっと、たったひとつ、人間らしいことをした気がします。死んでいた心が、生き返ったような気分です。莫迦げたことをしたのかもしれない。たぶん同僚は哂うでしょう。けど、後悔はないんです。そう、後悔なんて、ひとつもありはしませんよ」

 そういってかれは僕の手をぎゅっと握った。汗まみれの手のひらで。

 かれは、嬉しそうだった。クビになるっていうのに、なにひとついいことなんてありゃしいないのに、どういうわけか嬉しそうだった。

 それは――恋をする青年の顔だった。

 なんて希望のない恋だろう――そう思った。

 だけどつぎの瞬間、急にじぶんが恥ずかしくなった。

 たとえわずかでも、

 たとえほんのすこしでも可能性があるのなら――、

 なにひとつ希望のない僕の人生よりは、ずっとましではないだろうか?――そのことに気づいたからだ。

 そう、たしかに、かれには希望がある。想いをこめた薬瓶が愛する人に届くかもしれないという、ちっぽけな希望がある。

 もちろん薬瓶が彼女のもとに届いたところで想いはみじんも伝わりゃしないんだが、それはまた別の話である。

 そこに希望は、きっとある。



 瓶詰めの糖衣錠はきっと

 クリスマスのスノードームみたい

 ひとつまみの糖衣錠はきっと

 仕事明けのカタラーナみたい


 愛するきみの胃腸が

 いつまでも健康でありますように

 愛するきみの胃もたれが

 夜通しきみを苦しめませんように


 呑みすぎたときも

 食べすぎたときも

 いつでもキャベジンはきみのそばに

 死がふたりを分かつその日まで!



 かれは歌いながら午後からの仕事を続けた。その仕事ぶりは楽しそうだった。クリスマスの日のかれよりも。いや、世界じゅうのどんなカーニバルを楽しむ、世界じゅうのどんな工員よりも。

 僕はただ無言で作業を続けた。物憂げで陰気な表情で、溜息をつきながら。

 もしかしたら一生、胃腸薬の数を数えて生きて死ぬのかもしれない。そう思ったら、涙があふれそうになった。

 そうして僕は気づいた。「ロボット」はじぶんのほうだった。きょうでクビになっちまうかれのほうが、ずっと、僕なんかより人間らしいのではないだろうか、と。

「つぎの仕事のあてはあるのかい」

 作業を続けながら、僕はかれに訊ねた。

「さあ。この不況ですからね。それに僕はこの仕事しかできない気がします。なんせ、「ロボット」ですから」

 かれは自嘲的に笑った。なにも答えられなかった。

「いつか、小説家になりたい、っていってましたね」

 ふいにかれはそういった。

 僕は言葉を失った。いつかのあんな独り言、ただの思いつきのひとことを、かれが憶えていたことに、驚きを隠せなかった。

「きっと、なれますよ。そんな気がします。根拠はなにも、ないんですけど」

 かれはそういって恥ずかしそうに目を伏せた。だけど、そんなこといわれて、恥ずかしいのは僕のほうだ。学もないし本をまともに読んだこともないなんて、いまさらかれに打ち明けられない。

「ありがとう」

 僕はただそう答えた。答えるしかなかった。

「きみも、これからどこに行っても、きっとうまくやれるよ。そんな気がする――やっぱり、根拠はないけど」

 僕は、嘘を、ついた。

 かれはにきび面を赤くして、ただ眼を伏せたまま、子どものように笑っていた。

 終業のベルが鳴った。

 気づかない間に、かれは跡形もなく、その姿を消していた。

 挨拶はなかった。影さえもなかった。まるで最初から、存在していなかったかのように。

 ただ、ロッカーに作業服だけが、寂しげにひとり残されていた。二度と戻らない主人を待ち続ける、忠実な従者のように。

 いつか、別のだれかがこの作業服を着ることになるだろう。それは僕にとって耐え難いことだ。

 その作業服は、世界でいちばん優秀で、世界でいちばんシャイな工員しか着てはいけないものである気がしたから。



        ☆



 かれはいったい、どこに行ってしまったのだろう。

 かれはいま、どうしているのだろう。

 僕は知らない。知る由もない。

 かれが愛した女性というのが、どこのだれだかも、僕は知らない。

 通勤電車で見かけたってなら、どこかのOLさんかもしれない。

 制服姿の、女子高生かもしれない。

 笑顔が愛らしい、ハンバーガー・ショップの店員かもしれない。

 いまもどこかで甲斐甲斐しく給仕をする、カフェのウェイトレスなのかもしれない。

 夜勤帰りの疲れた看護師かもしれない。

 朝までバーで働いていた、年増のバーテンドレスなのかもしれない。

 世界一シャイなかれは、その生涯でたったひとり愛した女性について、詳しいことはなにひとつ教えてくれなかった。

 だけど、僕はいまでは信じている。かれがいったとおり、奇跡は起こるであろうことを。

 かれが市場という名の海に流した、たったひとつの小さな薬瓶は、かれが愛した女性の手もとにきっと届くであろうことを。

 紆余曲折はあるだろう。ひょっとしたら、別のだれかに買われるかもしれない。

 だけど、それはかならず届く。運命がきっと味方する。薬局を出るときに肩と肩がぶつかって、お互い持っていた新キャベジンコワS錠をその場に落とす。互いに入れ替えるように拾い合ったりして、それを何度もくり返して、いつかきっと、かれが愛した女性の手もとに届く。そういうものだ。

 奇跡は起こる。そうでなければ、切なすぎる。そうでなければ、世界のほうがまちがっているのだ。

 莫迦げていると笑われるだろうか? だけど、現に僕も、ちいさな行動と、ちいさな奇跡をひとつ起こした。

 新人賞を獲るために、小説を書きはじめたのだ。小説なんて読んだことも、書いたこともない、この僕が。作文の成績が悪くて、いつも両親や教師に怒られていた、この僕が、だ。

 そして、僕はいまこうして、僕とかれのちょっとした物語を、書き終えようとしている。

もう少し、もう少しだ。


 これは小説であるとともに、会ったこともないきみへの手紙でもある。

 これを読んでいるきみがいま、幸せなのか、不幸せなのか、僕は知らない。

 笑っていてくれればいいけれど、そうじゃないかもしれない。泣きながら過ごしているのかもしれない。

 もしそうなら、そしてもし薬箱に新キャベジンコワS錠があったら、どうか、錠剤の数を確かめてみてほしい。

 涙と胃酸があふれて止まらない、ひとりぼっちの夜に。

 もし、新キャベジンコワS錠が、三二一錠だったら。

 三二〇錠より、一錠多かったら。

 一錠だけ、多かったら。

 どうか、心を強く持ってほしい。

 人生は捨てたもんじゃないって思ってほしい。

 ちっぽけなほんの些細な行動が、ちっぽけな奇跡を生むってことを、知ってほしい。

 泣くだけ泣いたなら、あしたのために、どうか涙を拭いて、安らかに眠ってほしい。

 もし、きみの手もとにある新キャベジンコワS錠が、三二一錠だったら。

 三二〇錠ではなく、三二一錠だったら。

 それは、きっと――、




 きみが、ひとりぼっちじゃない、って証拠なのだから。


(了)



(2011年1月)

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偏執狂の猿にタイプライターを無限に打鍵させたとき、猿のテキストが偶発的にカート・ヴォネガットを凌駕する確率に関する実験報告 D坂ノボル @DzakaNovol

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