殺しの美学

 平成二十四年の梅雨の時期、当直を終えた大倉春香は、缶コーヒーを買うためにサービスエリアを訪れた。この場所でしか売っていないコーヒーを飲むため、自動販売機に手を伸ばした時、突然彼女の背後に長髪の女が大倉春香に声を掛けてくる。

「大倉春香さん。もうすぐ村上のやり直し裁判が始まるようね」

 どこかで聞き覚えのある声を聞き、大倉春香は背後を振り返る。そこには黒髪のショートボブの髪型の長身の女が立っていた。女の首筋には黒子があり、女である大倉春香でさえも注目してしまうほどの巨乳が特徴的だった。

 白色のシャツにタイトスカートを履き、黒色のマリンキャップを深く被った女に、大倉春香は首を捻る。

「もしかしてあなた……」

 その女は周囲に人がいないことを確認し、彼女の口を左手で塞いだ。

「静かに。三年前から変わっていないんでしょう? あなたの彼氏の体から覚せい剤の成分が検出されるなんておかしい。彼が無差別殺傷事件を起こすはずがない。この三年間、疑念を抱いていたあなたに面白いことを教えます。あの事件はある刑事を殺害するために行われた」

 女は左手を離し、大倉春香は目を大きく見開く。

「どういうことですか?」

「彼はホストクラブの面接に行ったらしくてね。そこで丸山翔っていう男に出会った。その男は覚せい剤の売人で、あの無差別殺傷事件で亡くなった林警部補にマークされていました。それで丸山はどうしたと思う? あなたの彼氏に強力な覚せい剤を投与して、無差別殺傷事件を引き起こした。彼は無差別殺傷事件に偽装して、林警部補を殺したんですよ」

「そんなことが……」

 言葉を失う大倉春香に、女は優しく彼女の肩を叩く。

「酷いですよね。あの事件の黒幕は、今でもホストクラブで働いていて、大金を巻き上げているのに、あなたの彼氏は刑務所の中。そんな男を警察に突き出しても、怒りは収まらないよね。だからジワジワと彼を追い詰めて、殺しませんか? 凶器だったらあなたに馴染み深い奴を入手できますし、私の指示通りに動けば、復讐は上手くいきます」

「確かに許せない」

 女の言葉によって復讐心に火を付けた大倉春香は、何度か会ったことのある女に従い、犯行に及ぶ。


 そして現在、大倉春香の前には、真相を見抜いた野次馬の男と対峙している。

「ある人というのは?」

「首筋に黒子がある巨乳の女」

「分かりました」

 愛澤春樹は予想通りの答えに頬を緩め、大倉春香から離れ、出入り口に向かう。そんな彼の手には携帯電話が握られていて、彼は片手でメールを打った。

 それから三十秒後、大倉春香は潰れたショッピングモールの出入り口から姿を見せる。その様子を三百ヤード離れた位置からスコープ越しに金髪の外国人男性が見ていた。

 レミエルはライフルのスコープで大倉の姿を捉えると、白い歯を見せ引き金を引く。銃弾が飛び出し、女の頭を撃ち抜くのには、数秒も必要ない。頭から血が噴き出し、その場へ倒れ込んだ大倉春香の近くには、瞳を閉じ佇む愛澤春樹の姿があった。真相を見抜いた彼は、先程まで生きていた女のことを気にしない。

「見事でしたね。重要な証言を聞かせないために、渋谷花蓮を気絶させるなんて。ウリエル」

 愛澤の言葉に反応して暗闇の中から、ポニーテールの女が現れる。その女、宮本栞は大倉春香の遺体から目を反らし、彼に尋ねる。

「どうして私の正体が分かったのですか?」

「手がかりは電話でのあなたの言動のみ。あの時あなたは僕に聞きましたよね。まるでトカゲのしっぽを切るように、秘書に罪を着せる政治家をどう思うのか。その真意が気になった僕はあなたについて調べたんです。そうしたら、面白いことが分かりましたよ。あなたは七年前の一月にマンションの屋上から投身自殺を図った桜井真の娘だってことがね」

「ラグエルの情報収集能力は凄いですね。あなたの推理通り、私は桜井真の娘。確か私の母とあなたは幼馴染だったようで、一度会ってみたかったんですよ」

「なるほど。ところであなたはどうやってここに来たのですか?」

「仲間に送ってもらいました。ラグエルの自動車の助手席に乗って、母についての話を聞きながら大学に戻るのも悪くないと思って」

 遺体を前にしても堂々とした彼女は可愛らしくウインクする。その態度に愛澤は溜息を吐く。

「分かりました。乗ってください」

 宮本栞の申し出を了承した愛澤は、自動車を停めた空き地に向かい歩き始める。それを宮本栞は追いかけ、彼の右隣りを歩きながら、彼に声をかける。

「どうして大倉春香は狙撃されたのですか? ザドキエルからは渋谷花蓮を気絶させろとしか聞いていなくて……」

「そのことですか? ある女と関わったから消されたんですよ。もっとも彼女には別の思惑があるようですが」

「渋谷花蓮は一応気絶させましたが、それでも聞こえていたらどうしますか? 人間は死ぬ間際でも聴覚だけは健在だって言いますし」

「疑わしきは罰せよ。僕達が逃亡した後で、組織の殺し屋が殺害する手筈になっていますから」

 ウリエルがラグエルの自動車の助手席に座り、2人を乗せた自動車は、夕陽に照らされた道を颯爽と走り抜けた。


7月10日の早朝、喜田参事官は自宅のリビングで朝刊を読んだ。

『横浜のショッピングモール跡地で若い2人の女性の遺体』という見出しの新聞記事を瞳に映した参事官は頬を緩める。


新聞記事によれば、ショッピングモールの解体作業のため駆け付けた作業員が、頭を撃たれた若い女性を発見。その後通報を受けた県警の刑事が中を調べると、首を絞められた別の女性の遺体を見つけたらしい。射殺された女は大倉春香。絞殺された女は渋谷可憐。警察は殺人事件と見て調べを進めているとのこと。


新聞記事を要約した喜田の元に、一本の電話がかかってくる。携帯電話に表示された文字を瞳に映した彼は頬を緩め、それを耳に当てた。

『もしもし』

 喜田の携帯電話からは、大倉春香に殺人を唆した女の声が流れる。喜田は動揺することなく彼女に話しかけた。

「まさかあなたが黒幕だとは思いませんでしたよ」

『サマエルが容疑者になることは、想定外なことだったけれど、それ以外は計画通り。丸山翔という覚せい剤の売人を消せば、私達が贔屓にしている指定暴力団流星会が販売する覚せい剤が売れやすくなる。暴力団の組長に商売敵を消してくれって頼まれたから、彼女を利用しました』

「それにしては、やり方は回りくどいと思いますが」

『ただ殺すのも面白くないでしょう。問題はなぜ殺されたのか。商売敵だから殺されたっていう不純な犯行動機より、復讐に手を貸した方が楽しいですから。覚せい剤と一緒ですよ。一度やったら二度と止めることができない。善良な人間に殺意を芽生えさせ、自らの手を汚さずに対象を消す。それが私の殺しの美学です』

「相変わらずですね。それで要件は何ですか?」

『八月一日。私の仕掛けたもう一つの爆弾が爆発するから、処理を任せます。今回は消さなくていいからね。七年前の酒井と同様。以上ですよ。ナンバーフォーさん』

 電話は一方的に切れ、喜田参事官は床を強く蹴った。

「お前もか」

 独り言で不満を爆発させた参事官は、新聞を畳み、職場である警視庁に向かい、歩き始めた。

 


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殺しの美学 山本正純 @nazuna39

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