音速ミニおっさん

大中辰弥

音速ミニおっさん

 僕と彼女は居酒屋で夕飯を食べていた。そのとき彼女がふいに言った。


「なあ、〈音速ミニおっさん〉って知ってる?」


「なんやそれ」


「えー、知らんの?」と彼女は言った。まるでヘタクソな歌舞伎役者みたいに大げさに目を見開いて。「最近、ここら辺の界隈かいわいささやかれてる都市伝説やん」


「しらん。聞いたことない」と僕は言って、黒霧島くろきりしまの水割りを一口飲んだ。


「知りたい?」と彼女は言って、テーブルにのしかかるように身を乗り出した。彼女は胸が比較的大きい方だったので、前かがみになるとシャツの首元から谷間が見えた。


「どうせ、興味ないって言うても喋るんやろ?」と僕は半ば呆れながら言った。言いながら、僕は彼女の胸の谷間を見ていた。なんとなく僕はそこに割り箸を突っ込んで左右にぷにぷに動かしてみたい衝動に駆られた。もちろん実行には移さなかったけれど。「で、何なん? その〈音速ミニおっさん〉って?」


 そのとき、店員が焼き鳥を運んできた。僕が注文したと砂肝の三種盛りだった。彼女はテーブルにのしかかるのをやめ、店員がもってきた皿を受け取って軽く礼を言った。店員が去っていくのを確認してから、彼女は皿を僕の前に置いた。


「なんかな、ここらへんの居酒屋で、怪奇現象が起こってるらしいねん」と彼女は言った。「お客さんがトイレに立つとか、携帯をちらっと見てたりすると、あら不思議! 食べ物がちょっとだけ減ってるねん」


「はあ?」


「たとえば、ビールの水面が下がってるとか、軟骨のから揚げの山がちょっと小さくなってるとか。ちょっと目を離した隙に、まるで小さいおっさんがサッと食べてサッと逃げたみたいやん? だから〈音速ミニおっさん〉」


「なんやそれ。あほくさい」と言って、僕は残っていた黒霧島を飲み干した。


「なんでよー。面白くない? 〈音速ミニおっさん〉やで? 私なんか、どんな見た目してるんやろとか、服装はスーツ着てるんかなとか、ひとりで想像してメッチャわろてたのに」


 僕は適当に相槌を打ちながら、近くを通りかかった店員に山崎のハイボールを注文した。そして彼女はオレンジジュースを頼んだ。彼女はいつも、一杯目にカルピスサワーを頼み、二杯目にオレンジュースを頼む。そして三杯目はカルピスサワーに戻るパターンと、ミックスジュースを飲んで切り上げるパターンに派生する。


 僕は5つ刺さった砂肝のうち1つを食べた。彼女は自身が注文した山芋とチーズのとろろ焼きを、ほふほふ言いながら食べた。相当熱かったのだろう。彼女はカルピスサワーを口に含んで、全体に行き渡らせて消火するみたいにして飲み込んだ。


「なあ」と彼女は言った。「〈音速ミニおっさん〉って、どんな髪型なんやろ?」


「しらんわ」と僕は言った。本当に、心の底から〈しらんわ〉と思っていた。


 店員が金属製のコップに入った山崎ハイボールと、細いジョッキグラスに入ったオレンジジュースを持ってきた。彼女はオレンジジュースに唇の先だけ浸すようにしてわずかに水分を摂取したあと言った。


「うちはな、たぶん禿げてると思うねん。バーコード型か、ファーが巻かれた卵型か知らんけど、ぜったい禿げてると思うねん。スキンヘッドではないと思う。最後まで戦い抜くタイプの禿げ方やわ、きっと」


 しらんがな、と僕は思った。


「でな、たぶん太ってるねん。だってそうやろ? 居酒屋のカロリー高そうな飯ばっかり盗み食いして、人のお酒を盗み飲みして、絶対に太ってるわ。ん? でも待って。太ってたら音速で移動できひんか。やっぱり太ってないんかもしれんな」


 しらんがな、ホンマにしらんがな、と僕は思った。そして、太ってへんかっても音速で移動できるかいボケと思った。


「あー、ますます謎やわ、〈音速ミニおっさん〉。めっちゃ捕まえたい。捕まえて、虫かごで飼いたい。カブトムシと戦わせたい」


 それだけはやめたってくれ、と僕は思った。


「あと全然関係ないねんけど、ねぎま、ちょうだい」と彼女は言った。

「欲しかったら自分で頼んだらええやん」

「えー、だって全部は食べられへんもん」

「残したら食うたるから、頼め」と言って、僕はトイレに立った。 


 トイレから戻ってくると、彼女はオレンジジュースが入ったジョッキを片手に、スマートフォンをいじっていた。僕は自分の席について、焼き鳥の串に手を伸ばした。


 そして次の瞬間、僕は自分の目を疑った。

 僕のねぎまから、ネギが1ブロック分消失していたのだ。


「おい、やばいぞ」と僕は言った。

「どないしたん?」と彼女は言った。

「俺のねぎま、〈音速ミニおっさん〉に食われてるぞ」

「うそー!?」


 彼女はスマートフォンとジョッキをテーブルに置いて、乗り出すように僕の皿を見た。そして僕はもう一度ねぎまの串を確認した。トイレに立つまで確かにそこにあったネギは、やはり忽然と姿を消していた。


「な? 言うたやろ?」と彼女は言った。「やっぱりおるんやって、〈音速ミニおっさん〉。うちのことバカにするから、あんたのネギだけ持っていかれたんやわ。ざまあみい」


 彼女はまるで折り合いの良くない隣人の息子が中学受験に失敗したことを聞いた人のように、にんまりと下卑た笑みを僕に向けた。


 そしてそのとき、僕は見た。


 彼女の前歯に、おもいっきりネギのカスが挟まっているのを。


「おまえやないかい」



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