第7話 優美なる女帝

 空を飛ぶことができないのが、彼女の悩みだった。



 * * *



 最上階まで上った絹美はドアを開けて屋上に出た。

 この建物は逆三角の形をしており、上層階に行くほど面積が広くなる。ゆえに屋上は非常に広い。きわめて不安定な形と言えるが、建築技術の粋を集め、地震程度では倒れないよう設計されている。


 トップ下着屋パンターとしての収入、パンツ回収業者の経営による収入、しゃぶしゃぶ店経営による収入。実業家として得た富の全てを、彼女はこの建物に、そしてこの計画に注ぎ込んだ。


「――いよいよ、始めるつもりなのね」


 絹美に話しかける声があった。喋るパンツ、『隻リボン』。風が吹き、片方しかない装飾をなびかせる。


「もちろんよ。機は熟した。……犠牲も出したのよ、ここで止めるわけには」


 長い髪を風にあおられながら、絹美は祈るように目を閉じた。これまでに狩られた様々なパンツたち。遊び相手だったマイクロビキニ、『享楽者』。彼女らの犠牲なくしてこの日は迎えられなかった。


 計画実行の地である梨盆りぼん市。その近隣で活動する有力な下着屋パンターを市内に集め、自らの監視下に置く。

 そのためにあえて「ミッション」を発動させた。時間を稼ぎ、下着屋パンターたちを可能な限り消耗させておく。計画当日に邪魔させないために。

 先手を打って絹美がミッションとして扱っておけば、計画に気づいた他の者が勝手な動きをしようとしても妨げられる。


「どうしても、やるのかい?」

「何よ、当たり前じゃない」


 絹美が、らしくない子供っぽい声を出した。少し不服そうに眉をひそめる。この相手にだけ見せる事のできる顔だった。


「人類は……愚かよ。害獣? どっちが! 己が知性を極めていると、勘違いしているんだわ。全部、全部……パンツが、教えてあげた事なのに」


 美女は切なさをたたえた瞳で、横の隻リボンを見た。


「私が、思い出させる。このPANTS-de-micパンデミック計画で。私の想いを、知を、信ずるものを、この世界に伝播させてやる。それが、の存在理由でしょう? 私は。私だって――」


 風が一層強く吹き、絹美の言葉をさらっていく。


「……そうね」


 隻リボンは短く答えた。もとより、止めるつもりは無い。


 8月2日の日が昇る。決行の時は近い。



 * * *



 斧を取り戻してから約15分の間、小春は地獄のような時を過ごした。


 目的はこの部屋の先にある。なのに、前進できない。円形の広間に満ちる無数の敵を相手に、部屋の中央に踏み込む事がまず下策である。わざわざ相手に包囲されに行くようなものだ。


 田舎町で相手にした群れよりも数が多い。練度も高いようだ。大技を出せば隙を突かれる。接近戦で確実に、一枚ずつ仕留めていくしかない。

 だが、それでは、いつまで経っても数が減らない……!


「ハァッ、ハァッ、ハァ…………ッ!」


 息が上がる。汗がポタポタと床に垂れる。必死の形相で相手を睨みながらも、口が半開きになってしまう。人の身の限界である。多くの下着屋パンターならば、ここで”勝負パンツ”を使うだろう。


 だが、小春は……”勝負パンツ”を持たない。

 自らが穿くパンツすら持たない少女が、戦いにパンツの力など借りるだろうか。頼りになるのは己の身体と、斧一本のみ。


 こうして10分以上の間、小春は進まぬ戦いを続けた。

 だが次の1分には、それまでを超える絶望が待ち受けていた。


 これまでと違う匂いを感じ、小春は霞む目で前を見た。

 広間の奥から、新手が現れていた。


 丸太をかついだ『獣王』熊パンツ。日本刀を構える『女武者』ふんどし

 さらに――見た事もない、金属製の、パンツのような何か。


 瞬間、小春の腕や首筋に鳥肌が立った。さらに一段上の地獄が口を開けたのだ。少女はそれを肌で感じ、戦慄した。

 呼吸を整えようとするが、うまくいかない。そして当然ながら、敵は待ってはくれなかった。


 かなりの遠距離から、丸太が突き出された。全身の骨をたやすく砕くであろう一撃を、横に転がって回避する。起き上がると、目の前にはギラギラと危険な光を反射する白刃が迫っていた。


「…………っ! ああッ!」


 叫ぶ。斧を掲げて、小春は日本刀を受けた。彼女が戦闘で声を出す事は珍しい。己に喝を入れながらでないと、必要な動きができなくなってきていた。

 残り少ないスタミナと圧倒的な戦力差。長引けば、必ず負ける。その状況は彼女に危険な賭けを強いる事となった。


 小春は斧を両手で正眼に構えた。大きく息を吸って、止める。

 そして、床を蹴った。


 真正面への全力突撃!


 次々とパンツが飛び来るが、四肢を狙うものは構えた斧で防御した。顔面へ取りつくものは……あえて無視! 息を止めている間は匂いを吸わされる事もない。


 横合いから丸太が襲いくる。前方へ跳躍してかわす。着地とともに前転。そこへ斜め前から、日本刀が振り下ろされる。鎖を振り回して刃へ打ち付け、軌道を変えてやる。足は止めない。前へ。前へ!


 広間を抜ける扉が見える。その前に陣取る、金属製パンツ。

 それがいかなる能力を持ち、どれほどの強者なのか。知った事ではない。押し通る! 小春は斧を振りかぶり、思い切り打ち付けた。


 ギィン、と重い金属音が鳴った。敵は動きを停止しなかった。まるで効いていない。斧の一撃で、倒れないパンツ。


 ――詰んでいないだろうか?


 これは小春にとって最大の不幸だった。どんな戦いにも相性というものはある。この相手には、直接の打撃が通じないのだ。

 至高の四枚アメイジング・スクエアの最後の砦。絶対の防御を誇る守りの要。『鉄壁の純潔』の異名を取る、この……貞操帯には!!


 貞操帯は一度引き、直後に前に出た。突破する事しか考えていなかった小春は、その小さな額に金属による体当たりの洗礼を受けた。


「あっ……あぁあ!」


 激しい衝撃に脳を揺さぶられ、意識が明滅する。足をもつれさせて無様に床を転がる。


「はーッ、はーッ……うう……あうぅ」


 額から血を流して悶える。痛みと、酸素不足による苦しみ。敗北感がのしかかった。突破は成らなかった。ああ、ここで終わるのか。目的も果たせず、姉と同じ重篤者パンツドランカーとなってしまうのか。


 悔しくてたまらなかった。悲しくてたまらなかった。そして同時に、申し訳ない、という感情が浮かんだ。


 ……誰に?


「師匠ーーーーーーーっ」


 自分を慕ってくれる、あの少女に。


「師匠おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 いつもそんな声で、騒がしく着いてきてくれる、この少女に!


 ――声がする。

 ――本物の声が。


 リーチの長い槍が突き出された。小春を襲うべく飛びかかっていたパンツが蹴散らされる。遅れて、別の声が割って入った。


「全体! ……『休め』ッ!!」


 全てのパンツが、一瞬、動きを停止した。

 再び、小春に好機が訪れた。先に進む好機が。


「う……ああ……うおおおあああああああ!!」


 小春は再び己に喝を入れ、無理やり立ち上がった。

 亮子の能力は長くは続かない。時間の猶予はない。素早く扉を開け、先へ。

 そして身体を滑り込ませ、すぐに扉を閉じた。


 パンツの動きが復活する。貞操帯は己の不覚を悟り、扉へ体当たりを行おうとした。だが、長い槍の柄によって阻まれた。パンツ停止の隙に扉の前まで突っ切っていた明日香は、片手でぎこちなく槍を操りながら体を入れ替えると、扉に背を預ける形でその場を守った。


「師匠! ……先へ、行ってくださいッス!!」


 扉を挟んで、小春はその声を聞いた。たまらない気持ちになった。

 姉のパンツという目的のため、常に独断専行してきた自分が助けられている。


 形のない感情が溢れる。

 普段はコミュニケーションが苦手で、声を出す事すら抵抗があって。それでも、どうしても伝えたくなった事があって。

 口をついて、その言葉は小春から吐き出された。


「あ……! ありがとう…………っ!!」


 全霊で、小春は扉の向こうに叫んだ。


 折れかけていた気力が、再び燃え始めたのを感じる。

 小春は踵を返し歩き出した。



 * * *



 薄暗い廊下を、小春は歩み進む。

 先ほどの明るい広間とは雰囲気が異なる。等間隔に設置されたおぼろげな照明だけが、通路の先を照らしている。


 体力の限界はとうに超えている。額の傷が痛む。一歩一歩進むだけでも、自分の体が万全とは程遠いのがよくわかる。

 すぐにでも、横たわり休みたい。休むべきだ、と肉体が絶え間なく訴えている。小春はそれを棄却し続ける。


 何が彼女をそこまでさせるのか。無論、目的のため。

 目的だけが今の小春を支えている。立たせている。進ませている。

 痛みをおして一歩を踏むたびに、思い出す。




「あーっ小春、また、あたしのパンツ持って寝たでしょ!」

「…………。」

「ねえ、それお姉ちゃんのだから。返してよ」

「…………だって」

「何よ」

「お姉ちゃんがそばにいるみたいで、安心する……」

「…………もう! わかったわよ。今日は一緒に寝てあげるから。ね?」


 お姉ちゃん。大好きだったお姉ちゃん。


「小春、おかえりー。今日は学校どうだった?」

「…………。」

「高校、どこ行くか決めた? こっちの制服とか小春に似合いそうだけど」

「…………。」


「うーん、返事なしかい? あっそうだ、今日お姉ちゃんねえ、50枚も狩っちゃった」

「! ほんと!?」

「なんか今度表彰されるんだって。いや~なに着てこうかな」

「すごい。やったあ」

「…………ありがとう」


 私は何もできないし暗い、ダメな子だけど、お姉ちゃんがいる。

 綺麗で強くて優しい、そんなお姉ちゃんと一緒にいられるのが、応援できるのが、私の幸せだった。

 自分の事を考えるのはつらい。でも、お姉ちゃんの事を考えると、それだけで、いつでも楽しくなれた。


「ただいまー」

「!! ……お姉ちゃん! 腕……」

「あー、ごめん、ヘマしちゃった。なんか脱臼だって」


「……お姉ちゃん」

「ん?」

「テレビで見たの。重篤者パンツドランカーって……あ、あんなふうになっちゃうの? やめようよ、下着屋パンター……怪我もするし、や、やだよ」

「……ちょっと、やめる訳にはいかないなあ」


「な、なんで」

「……ナイショ」


 お姉ちゃん。

 お姉ちゃんはどうして、下着屋パンターを続けてたの?


 正直、最初は嬉しかった。強くて格好良いお姉ちゃんが見られるから。

 でも、お姉ちゃんを失うくらいなら、そんなもの!


 ……私なんて、お姉ちゃんを取ったら、何も残らないよ。

 私には何もないのに。

 私の幸せは、お姉ちゃんだけだったのに――。




 廊下が壁に突き当たる。右横に、階段。

 小春は顔を上げた。姉との思い出は、彼女を原点に立ち戻らせた。

 ダメージや疲労が消えるわけではない。

 だが、前に進める気がする。斧を強く握る。


 意を決し、小春は階段を上った。

 そしてドアに手をかけ、開く。外気が彼女の肌に触れた。

 屋上だ。




「……来たわね。いらっしゃい」




 昇る朝日を背に、逆光を浴びる美女のシルエット。

 夏の熱風に髪をなびかせながら、迎える声は吹雪のように冷たい。


 広大な屋上の逆の端に立つのは、絹美。

 さらにその横には一枚のパンツが浮いている。……『隻リボン』。


「なかなか、良いタイミングよ。……面白いものが、見せてあげられる」


 小春は息を呑んだ。

 並び立つ強大な敵に対してではない。

 絹美の立つ建物の縁の、その向こう。


 布が、吐き出され続けている。


 この建物から、一枚の巨大な布が広がっていく。

 真っ白なその布はふわふわと浮き、眼下の街を覆い、やがて地平線にまで達し、それでも止まる事なく、景色を飲み込んでゆく。


「これが何だか、解るわよね?」


 絹美が挑発的に人差し指を舐めた。

 この、逆三角形の城から左右に広がっていく布の形状。それもまた、逆三角。


 認めざるをえない。

 小春は思わず、その単語を呟いた。


「………………パンツ」

「その通り」


 下着を統べる女帝は妖艶に微笑み、誇らしげに己の計画の要を、伝えた。


「これは――地球に穿かせるパンツよ」

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