第2話 奔放なる享楽者

「ねえ小春。パンツってね、本当は人を守るためにあると思うの」

「……?」


「だって、パンツがなかったら困るでしょ? 元々は私たちの、下半身を包むものなんだから」

「う、うん」


「だから……今は物騒な事も多いけど、あんまり頭ごなしにパンツを悪って決めつけちゃうのもどうかなって、最近思うんだよね。絹美さんも同じこと言ってたけど」

「……そう」


「共存とかできないのかなー。どう? 家でパンツ飼ってみるとか」

「えっ」


「もちろんお姉ちゃんが出かけてる間は小春が世話するのよ? そしてゆくゆくは小春が業界トップのパンツブリーダーとしてテレビとかに――」

「…………。」


「あっ。これ引いてる顔だな。ごめんごめん、最後のは冗談だからね? よしよし」

「…………ひどい」

「ごめんってば」


 姉と話すのは楽しくて好きだった。


 話の最後はいつも冗談になり、遊ばれているような気も少なからずしていたが、綺麗で聡明な姉は小春の自慢だった。姉に頭を撫でてもらえるのは小春のひそかな楽しみで、とても大切な時間だった。


 ただし、これは1年ほど前までの話である。




「小……春…………!」


 もはや名前を呼ぶのがやっとのようだった。その先は言葉にならなかった。だが、彼女が何を言わんとしているのかは考える間でもない。


 逃げろ。つまりはそういう事だ。


 全てが狂ってしまったその日、下着屋パンター織野おの真夏まなつが相手にしていたのは空を埋め尽くすような大群ではなかった。


 ただ、一枚。目の前のたった一枚のパンツ。それだけ。


 確かに、単体でも強力な力を持つパンツはしばしば存在する。元の持ち主が極めて有能な女性であったものや、思春期の少女の濃密な記憶メモリーが封じられているもの等がそうだ。

 しかし、一流の下着屋パンターですら。今期3位以内は確実と言われる『剣舞ブレイドワルツ』の織野真夏ですら太刀打ちできない相手というのは過去に例がない!


 白く手触りの良さそうな生地に、アクセントとして高貴な黒のフリル。どこの令嬢のものだろうか。


 真夏はかすむ眼でかろうじて目の前をにらみ、左手で得物のレイピアを構えた。

 利き腕の関節は既に破壊されていた。痛みと疲労が体の動きを鈍らせる。”勝負パンツ”は既に使い切っており、侵食度も限界に近い。


 それでも、撤退はしない。後ろには小春という一般人がいる。二人で買い物に来た帰りだった。妹は平穏な日常の住人だ。脅威に関わらせる訳にはいかない。それが、下着屋パンターの役目だ。


 小春は涙をぬぐって姉に背を向けた。自分が残っているせいで姉が退けない――それを悟ったから。姉の危険を少しでも減らせるなら。そして可能なら助けを。誰か。

 だがその判断は遅すぎた。


 小春は駆け出した。

 それと同時、敵のパンツが真夏めがけて突撃した。


 真夏はレイピアを振るった。どれほどの大群が相手でも、圧倒的な速度で全てを処理してきた一本の刃。『剣舞ブレイドワルツ』の名を冠する神速の斬撃。


 それを、相手は読み切っていたかのようにヒラリとかわした。


 紙一重、いや、布一枚、届かなかった。布が、真夏の顔面に被さった。

 織野真夏は己の終わりを悟った。指から力が抜け、乾いた音とともにレイピアが地に落ちる。

 そして最後に、絶望とともに、震える唇から言葉が漏れた。


「……ごめんね」




 その後、姉は生還した。それはそうだ。パンツといえど命までは取らない。

 だが無論、無事では済まない。


「ねえ、小春うーーーー」

「……何」


「パンツはー? ねえ小春パンツ、あーーーー、パンツうう」

「……ご飯、もうすぐできるからね」


 なだめるように声をかけ、よだれを拭いてやる。なるべく刺激しないように。今はまだおとなしくしているが、何かの拍子に火がついてしまえば、どんな行動に出るかわからない。


「ねえパンツーー、小春、今日は何色のー、うーーーー」

「はい、ご飯」

「ぱんつ!」


 小春はサンドイッチを差し出した。三角に切ったパンをパンツに見立てている。この形でないと姉は口にしない。ケチャップでリボンを描いてやると、さらに喜ぶ。


 食事が終われば、また猿轡さるぐつわをかけてやる必要があるだろう。住宅街を徘徊し、ベランダから侵入して他人のパンツを口にするといった症例も報告されている。


 パンツの魅力に取りつかれ、定期的にパンツを吸引しなければ生きられなくなった存在、中毒者コレクター。その中でも特に、日常生活にまで支障をきたすレベルのものを重篤者パンツドランカーと呼ぶ。現在の織野真夏は、それにあたる。まだ治療法も確立されていない。


 元々、小春は姉が下着屋パンターをするのに反対だった。危険性と常に隣合わせだからだ。つたない言葉を駆使して抗議した事もある。だがすべて、はぐらかされた。話術では敵うはずもない。


 そして結果的に、こうなった。

 重篤者パンツドランカーの症状のひとつ、幼児退行を伴う『Peter-Pants症候群シンドローム』は確実に真夏を蝕んでいた。


 辛い日々だ。尊敬する姉はもういない。本当は、今の真夏を視界に入れたくもない。姉を元に戻す方法はないのか。最近はそればかり考えている。


 ――理性を失った姉が戻ってきたとき、彼女はパンツを穿いていなかった。


 パンツがパンツを奪う、などという例は今のところ確認されていない。では姉の下着はどこへ消えたのか。そこには、狂ってしまう直前の真夏の記憶メモリーが刻み込まれている筈なのだ。


 理性を失う直前、姉は何を思ったのか。そこに、姉を元に戻すヒントが隠されている可能性はないのか。どちらにしても、姉の最後の思い出を他人が持っているのだとしたら、耐えられない。


 だから、織野小春は斧を取って戦うのだ。



 * * *



「なるほど……もはやいくさだな」


 梨盆りぼん市の中心市街にて。『対布忍』ツバキは腕を組んで電柱の上に直立し、目の前の景色への感想を漏らした。電柱の下には、小春と明日香。この三人が、市街地の掃討を担当する。


 害獣であるパンツを収集・統率し、強大な戦力をもってパンツによる世界征服を企むと噂される組織、下着同盟アンダー・グラウンド。ついに本格的な侵攻を開始した彼らを食い止めるのが今回の任務だ。


 下着屋パンターならば誰もがその名を聞いた事がある組織である。だが名前が知れている割に謎が多く、全貌が見えない。都市伝説ではと疑う声もあった程だ。わかっているのは組織の名と……その目的のみ。


 人類すべてを中毒者コレクターにする。

 即ち、下着大感染パンデミック


 実現すれば、人間はすべてパンツの奴隷になってしまうだろう。

 大それた話に思えるが、この数を見れば、それも信じるしかない。


 ツバキは昨日にもこの市街で駆除を行っている。それから一晩。たった一晩で、パンツは空を埋め尽くすまでに増えていた。これと同レベルのコロニーがあと二つ、既に梨盆市には発生しているらしい。悠長に構えている暇はない。


「――始めるか。おい、ヒヨッコども」


 ツバキは電柱の上から、後輩二人に呼びかけた。


「私が先行する。貴様らはこぼれ球でも拾っていろ」

「なッ、なにィ~~!」


 高圧的な物言いだ。もちろん、小春より先に明日香が反応する。


「師匠よりランク下のくせに失礼な! あっ! 撃墜数を稼ぐ気ッスね! そうはさせねーッスよ! ねっ師匠!」

「…………了解しました」

「ホラ! 師匠もこう言ってますよ! 了解! 了解なので……えっ了解?」


「物分かりが良くて助かる」


 言い捨て、ツバキはぐっと膝を曲げ跳躍姿勢を取った。丈の短い忍装束から伸びる、みずみずしい生足に力が籠もる。

 直後、爆発的な蹴り出しでツバキは中空に身を躍らせた。同時に片手を懐に差し入れている。


「出し惜しみをしている暇はないな」


 懐から取り出されたのは――白い布地。下着屋パンター、ツバキの”勝負パンツ”だ。

 両端を耳にかけ、股間部を口元に装着する。呼吸とともに、すぐに『記憶メモリー』が全身に浸透し始める。


 ”勝負パンツ”とは下着屋パンターが概ね一人一枚持つ、切り札である。パンツは憎き敵ではあるが、人に力を与える。ならばそれを利用しない手はない。


 無論、吸引しすぎれば中毒者コレクターとなってしまう諸刃の剣である。多用は禁物だ。特に、絶対に素人が真似するべきではない。協会も、軽率な下着屋パンターごっこの禁止を全国の子供たちに呼び掛けている。


 ツバキの勝負パンツは、シンプルな純白。過去の高名なくのいちの物である。

 電柱や、付近の屋根を飛び渡るツバキの身体が薄くピンクに発光し始めた。このパンツからダウンロードできる技能……それは、誘惑の忍術。


 ざわ。空を埋め尽くしていたパンツが、いっせいに向きを変えた。当然である。パンツが好んで狙う標的は繊維系の物質と、何よりも、人間の女性。ツバキから漂う濃密なフェロモンに反応したのだ。


「フフ……良い子だ」


 ざざざざざ、とうねりを上げ、パンツの群れはツバキに向け集まった。

 ――狙い通り。


「眠るがいい」


 ズパッ、という小気味よい音とともに、手裏剣が全方向へ射出された。ツバキは着地し、再度、軽く真上へ跳ぶ。高速で横に一回転。手裏剣の第二波が放たれる。


 パンツが次々に撃墜されてゆく。手裏剣一枚でパンツ一枚……などという非効率な事はない。先端の丸められた手裏剣はパンツを貫通はしないが、軌道上で接触したパンツをすべて無力化し続ける。


 眼下の市街には、布の雨が降った。すでに退避勧告が出されてはいるものの、人々はまばらに残っている。獲物を自らに引き付けてから撃墜するツバキの戦法ならば、彼らを傷つけることもない。


 小春は地上で、運よく手裏剣を逃れたパンツが市民を襲う前に狩って回った。文字通り、こぼれ球を拾う仕事だ。鎖は使わず、一枚一枚に対して斧を振り、


「ちェー、あんな物言いでホントに強いでやんの。悔しいっスわー」


 よそ見をしながら明日香が振るった槍が、住民にぶつかりそうになったので斧の柄で止めた。じろりと少し、睨んでやる。


「げッ。す、すんません……」


 しかしやはり、ツバキは強い。上は任せて良さそうだ。


 もちろん中には手裏剣の間を縫って、ツバキに肉薄するパンツもあった。大人の狡猾さを備えた、レース地の白と黒。しかしこれも問題にならない。ツバキは右手で手裏剣を投擲しながら左手で短刀を抜き、近接距離の相手を薙ぎ払った。まるで隙がない。


「面白みのない相手だな。数が多いだけなら、なんとでもなる」


 跳躍。回転。斉射。着地。抜刀。斬撃。再び跳躍。

 一切の動作に無駄のない、無慈悲なパンツ狩りマシーン。


 回転。斉射。着地。抜刀。斬撃。視界を右へ。刀を逃れた一枚がある。

 刃を折り返し、再度斬撃。手ごたえがない。左右を確認。敵の姿がない。

 後頭部で結った髪に違和感を感じる。――わずかな風圧。背後。


 やはり手練が混じっているか。それも相当の。

 振り向きざま、三たび斬撃。今度はしっかりと、敵の姿を視界に捉えた。


 極小の生地で作られた、マイクロビキニ。


 性質上、水着も下着と同じく動くことがあるという噂は本当だった。マイクロビキニは左の端を人間の腕のごとくに持ち上げ、クイクイ、と挑発してみせた。そしてヒラリと、斬撃をかわす。


 生地がマイクロすぎて――当たらない!

 そのまま敵はツバキの至近にまで迫る。


 ”勝負パンツ”を吸引した事で、精神が侵食されつつある。敵の香りを吸わされれば、すぐにでも中毒者コレクター化してしまうかもしれない。ツバキは屈辱に歯を食いしばり、顔面を防御した。


 それが敵の狙いであった。


 マイクロビキニは顔面を無視し、ツバキの無防備な胴体へするりと肉薄した。形の良い胸部、細い腹部を撫でるように二周する。そしてユラリと離れ、距離を取った。

 その、次の瞬間。


 ツバキの全身の衣服が弾け飛び、空中で裸身が晒された。


「え…………っ?」


 不意を突かれ、声を上ずらせながらツバキは自らの首から下を見た。そして何が起きたのかを理解し、瞬時に赤面した。


「あ……わ、ひゃああああああああああああああああああ!!」


 先ほどまでより1オクターブは高い、甲高い声が響いた。


 突然の悲鳴に、小春と明日香は弾かれたように顔を上げ、そして見た。ツバキの一糸まとわぬ裸体を。同性から見ても実に見事な身体だった。明日香ほど胸が大きくはないが、全体のバランスは芸術的なまでに均整が取れている!


 明日香は槍を小脇に抱え、スマートフォンを取り出すとカメラを起動して激写した。これが、現代のくのいちの肢体か! だが本人はそれどころではない!

 全く予想していなかった。パンツは人に怪我をさせる事もあるし、臭いで人を狂わせる事もある。だが、パンツと戦っていて服が脱げた事など過去に一度もないのだ!


 今や彼女は顔にパンツを装着し、首から下はすっぱだか。下手な全裸よりよほどおかしい。忍者の歴史は長いが、ここまでの変態はどの時代にも存在しない!


「うわっ、あっ、あああああ、見るなああああ」


 慌てたツバキから反撃の手裏剣が放たれる。だが狙いに精度を欠いている。マイクロビキニは全てを悠々と回避し、あざ笑うように空中でゆらめいた。


「ん? マイクロ……ビキニ……?」


 スマホをしまいながら、ようやく敵影をまともに見た明日香が呟いた。


「もしかして……『享楽者』じゃないッスか!? ヤバイッスよ!」 

「……何それ」

「ハワイを単独で壊滅させたバケモノっスよ! あのへんの住民、調教されて今じゃ完全に裸族らしいッス! なんで日本に……」


 そう、この相手はどこにでもいる路傍のパンツとは違う。

 下着同盟アンダー・グラウンドでも屈指の実力者。最高幹部である至高アメイジング四枚スクエアのひとつ……『奔放なる享楽者』マイクロビキニ! 獲物の人間をすぐに陥落させるのではなく、弄ぶことを楽しむ異端の変異種である。


「…………へえ」


 小春が、小さくつぶやいた。


 目の前の空では、生き残ったパンツの一群が体勢を立て直していく。マイクロビキニはその中心で、楽しげにゆらめいている。右へ左へゆらめいて……右へ、急旋回。


 その真横を、鎖に繋がれた斧が通り過ぎていった。

 余裕を見せていたマイクロビキニの動きが、一度、ぴたりと停止した。


「狂わせたのね。――たくさんの人間ひとを」


 小春は民家の塀から屋根へ、いつの間にか上っていた。殺気に満ちた目線を空へ向けたまま、鎖を引き戻す。往復する形で再度襲った斧を、マイクロビキニはまた避ける。


 手元に戻った斧を小春は掴み、ゆらりと腕を持ち上げて構えた。

 瞬間、少女の周囲の空気がどろりと濁る。その表情は露骨な怒りでも戦意でもなく、眉は複雑に歪み、目の光は不安定に揺れ、口の端は吊り上がっている。


 明日香がごくりと唾をのむ。小春の正確な心情は彼女にも測りかねるが、とにかく凄まじく強い何らかの感情が、小さな身体の中に渦巻いているのがわかった。

 

 マイクロビキニはフラフラと揺らぐのをやめ、静かに空中から小春と対峙する。

 パンツが人の感情を理解するのかはわからない。わからないが……


 少なくとも今、小春の殺意は、布地に響いている。そのように見えた。

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