第8話 汝パンツと和解せよ

 ――あの日、姉はパンツに壊された。


 ――だから、私は。



 * * *



 白くヒラヒラした物体が空を覆っていく。薄皮のようなそれは夏の朝日を半分ほど遮り、おだやかな陽光を下界に与えていた。


「……ん? 今日って曇りだっけ」

「いや、予報じゃそんな事は……」


 梨盆りぼん市に朝が訪れる。徐々に起き出してきた人々は空の異変に気が付いた。あれはいったい何だ?


 雲?

 カーテン?


 否! それはパンツ!!


 日光を通し、おぼろげに発光する薄布はまるで、神聖なる天女の羽衣のごとし。

 どこか安心するような、ほのかに甘い香りがあたりに降り注ぐ。地上から見上げる人々は、その幻想的で蠱惑的な景色と匂いに酔いしれた。


「もう! また寝坊して! さっさと起き……あれ、なにこれ……」

「よーし! 今日も一日、張り切って……なんだ、気持ち良い……」


 人々は気付かない。香りに魅了され、パンツに飼いならされてゆく自分に気づく事ができない。ゆえに、抵抗すらできない。


 いかに圧倒的な洗脳力を持つと言えど、パンツである。巨大であっても布きれ一枚。例えば、火を放つ人間が一人でもいれば、この支配は即座に終わる。

 だが、そうはならない。気付けないとはそういう事だ。洗脳とはそういうものだ。魅了された人々は一様に平安そのものの表情。戦意など、沸き起こる筈もなし!

 

 なんという恐るべき、穏やかなる支配。あたたかな侵略。

 そしてその影響はこの街だけでなく、この国だけでなく。世界にまで、広がってゆく。


 ――ロシア。


「……オーロラか? ここはモスクワだぞ」

「違う。だが……おお、神々しい」


 ――フランス。


「ダメだ……いくら絵に残そうとしても、あの匂いだけは再現できない」

「芸術は無力だ……!」


 ――イタリア。


「イイ女の匂いだ」

「こりゃ口説かなきゃ失礼にあたるぜ」

「ヘイ、そこのパンツ! なんて美人なんだ。この出会いは運命だよ」

「俺と刺激的な一夜を過ごさないかい?」

「いいや、俺とだ!」

「俺だ!」


 ――アメリカ。


「オーゥ、グッドスメル。おいマイク、ありゃ何だ?」

「パンツ……じゃねえか? でけえな。自由の女神が脱いだか?」

「おう、でけえ。うちのカミさんといい勝負だな!」

「オイオイ失礼だろ!」

「誰に」

「……パンツに。お前のカミさんはこんなイイ匂いすんのかよ?」

「「HAHAHAHAHAHA!!」」




 世界が巨大なパンツに飲み込まれていく。

 この、惑星全国家教育下着(Planet All Nation Training Shorts=通称P.A.N.T.S)こそが下着同盟アンダー・グラウンドの切り札にして、対人類の決戦兵器である。


 全人類が、全生命が侵された時。

 地球がパンツを穿かされた時。

 この星は、パンツのものとなるであろう。


 即ち――PANTS-de-micパンデミック



 * * *



 彼方へ広がるパンツを見ながら、小春は斧を握り直した。

 地平線から先は見えない。どこまで届く? おそらくは、世界の果てまで。


 いったいどのようにして、これほどのパンツを用意したのか? どのようにして今まで格納し、隠していたのか?

 常識では計りづらい。だが、『裁縫』を固有技能とするパンツがいたら? 異能レベルの『収納術』を持つパンツがいたら? 十分に考えられる。


 なんて――おぞましい!


 小春は全人類と真逆の感想を抱いた。

 いかに良い匂いがしたところで、仮初の平穏を与えてくれたところで……それは人から、人間性を奪う。やがて彼らは抜け殻になるだろう。パンツを求めて這いずるだけの、人の形をした獣になるだろう。……織野真夏のように!


「……やめろ」


 小さく、しかし確固たる声。自ら、それも敵に対して声をかける。小春らしくはない。だが、そうせずにいられなかった。


「今すぐに。やめろ……!」

「冗談」


 しかし絹美は冷淡に返すのみ。


「感謝しなさい、歴史的瞬間よ。ね、面白いものが見れるでしょう? 人が……パンツの下僕しもべになるの。原初の姿よ」


 絹美は愉快さを含んだ声で話を続ける。目の前の小春が向けてくる殺意に漲った視線すら、今の彼女には心地よい。


「そうだわ。ついでに、もうひとつ面白いものを見せてあげましょうか」


 余裕たっぷりに、流麗な仕草でワンピースの胸元に指を差し込む。凄腕の彫刻家が削り出したかのごとき人類最高の胸の谷間から、一枚の布が引き出された。


 その匂いは即座に小春の鼻に届いた。瞳孔が開き、殺意が一瞬揺らぐ。ああ、忘れるはずもない。

 彼女は口元から言葉が漏れるのを抑えられなかった。


「お姉……ちゃん」


 絹美はますます快感に笑みを歪めた。


「ふふっ。そう……真夏ちゃんよ。素晴らしいわね、これほど才気あふれるパンツはそうないわ。私の計画には、無くてはならないものなのだけれど」


 姉のパンツ。あれ以来、片時も休む事なく想い、追い求めてきたもの。姉の思い出が詰まった、小春の目的そのもの。


「どう? ずっと欲しかったんでしょ? 特別に、少しだけ嗅がせてあげても」

「……いらない」


 だが、小春は否定した。

 すぐに殺意を持ち直し、むしろ強める。どす黒い感情を身にまとい、彼女はそれを全て言葉にした。


「あなたをブッ倒して、計画とやらも止めて、這いつくばらせて奪う。だから……あなたに貰う必要はない!!」


 小春は姉のパンツを追い求めていた。なぜ? 目的のためだ。

 彼女の目的は、姉との思い出を持ち帰る事。そしてそれを手掛かりに、姉を奪った憎き敵を叩き潰す事。


 織野小春は姉の面影を追う健気な妹ではない。

 己の幸せを奪った敵を絶対に許さない、容赦なき復讐者だ!


「ふふ……ふふふ。そうよ、そうよね。最初から匂ってたもの。あなたから、復讐者の香り!」


 小春が斧を構える。絹美が羽織っていたストールを脱ぎ、翻した。

 隣で隻リボンがふわりと浮き上がり、旋回を始める。


「いい匂いよ、小春ちゃん」

「黙れ」


 会話はそこまでだった。


 小春は極限集中し、いつでも斬撃を繰り出せる体勢を維持する。隙はない。

 隻リボンが左右に大きく、幻惑するように舞う。

 絹美はその後方で油断なくストールの両端を握る。

 戦闘の口火を切ったのは、隻リボンだった。


「……残念ね、お嬢ちゃん。スマイル、見たかったよ」


 完全なるランダム軌道で小春の視界を超えて飛び回りながらの、襲撃。この動きを肉眼で追うのは不可能だ。

 小春はまだ動かない。ぎりぎりまで引きつける。


 彼女の肉体は限界を超えている。それは変わらない。殺意を燃料に、集中力をなんとか保っているだけの状態だ。

 小春はピンチほど頭を回す。衝動に任せて戦えば勝ちはない。この恐るべき二者を相手に、限られたスタミナで、どうやって勝ちを作る?


 小春は左手で鎖を投げた……自分に対して。斧を持った右腕に鎖が巻き付く。まるで即席の鎖帷子くさりかたびら

 手練れのパンツがまず狙うのは、武器を持った腕の関節だ。この隻リボンも例外ではない。山での戦闘で、明日香の右肘を真っ先に取った前例がある。そこをまず守ろうという算段か。


「おお、やっぱ賢いねえ。疲れててもこんだけ考えるの、たいしたもんだわ」


 隻リボンが攪乱速度を上げる。前回にも見せなかった本気の動き。分身かと見紛う残像が視界を埋めていく。単体で、パンツの群れのようだ!


「でも、ん~~~残念」


 前進する残像の群れが小春に達した。右腕を引き、斧を振る予備動作。だが斬撃は放たれなかった。


「60点、かな」


 左右同時に隻リボンは襲い来た。狙いは……鎖のない両手首。小春は目を閉じて歯を食いしばった。痛みに備える。

 直後、無慈悲にも手首が捻じられ、破壊された。斧のない左手すらも。


「ぐ…………ッ! ッあ…………!!」


 強烈な痛み。押し殺した悲鳴をあげる。だが、そう、小春は痛みに備えていた。知っていた。相手の攻撃を読み、動きを予測できていた!


 怪我しないよう、右腕を守る? この場に及んで小春が選んだのはそのような消極的な覚悟ではない。

 あくまでも短期決戦。ここで決める。そのために手首を捨てた。

 斧が手からこぼれるのも構わず、そのまま小春は右腕を引いた。


 そして左足を軸に……体ごと回転。


 右の二の腕から鎖が伸びる。そこから繋がった斧が振り回される。もはや手で斧を握る必要はなし! 技を出し終えて小春の背後に回っていた隻リボンにその軌道は予測できなかった。

 真横から襲った重く鋭い斬撃が、隻リボンの残る片方のリボンを切断した。


「……しまっ、正気なの……!? き、絹美!!」

「な……んですって……!」


 小春は二回転目に入っている。腕から鎖が再びほどけ、射程が伸びる。離れた位置にいた絹美は、自分にまで斧が届く事を考慮できていなかった。

 遠心力を乗せた斧は横薙ぎに振るわれ、絹美の髪を裂いて顔面へと……


「小娘っがあああああああ!!」


 ストールが渦巻いた。魅惑的な香りが漂う。不可思議な力が働き、斧自体から戦意が削り取られたかのように攻撃が減速する。香りで敵の戦意そのものを支配するパンツのごとき技……だが、完全には、斧の勢いを殺せない。


 絹美は左腕を裂かれた。緊急回避で一歩下がる。小春はここからさらに、一回転を追加することもできた。しかし絹美がストールを派手に翻すと斧の勢いは目に見えて弱まり……ついには地面に転がった。


 小春の攻撃が尽きた。


「やって……くれたわね!!」


 絹美が駆け、前へ出た。回転を終え、よろめく小春にストールを放る。まるで生きているかのようにストールは動き、両脚をまとめて縛りつけた。小春が床に倒れる。その頭部を、絹美は容赦なく蹴り飛ばした。


「あっ……が…………ッ!」


 悲鳴があがる。小春はなおも抵抗するようにもがいているが、両手両足を封じられたに等しく何もできない。絹美は勝利を確信して傍に屈み込み、もはやリボンを失ったかつての隻リボンを拾い上げた。


「大丈夫!? ……!!」

「ああ……死なずには済んだみたい。ごめんね」

「よかった……」


 絹美は立ち上がり、小春を見下ろした。


「まったく……とんでもない子。でも、終わりよ」


 小春が動かないよう、仰向けに転がして腹部を踏みつける。

 彼女は再び胸元からパンツを取り出した。小春の姉、真夏のパンツを。


「う…………ッ、ううぅ」

「二度と立ち上がって貰っちゃ困るわ。だから……お姉さんと同じパンツドランカーにしてあげる」


 絹美の顔に、余裕と愉悦が戻った。口の端を歪めて笑う。

 そして呻くことしかできない小春の顔へ、パンツが投げ落とされた。


「喜びなさい。あなたの欲しかった……お姉さんのパンツよ」



 * * *



「オオオオオああああああ!!」


 穂乃花が両手のトリガーを引き絞る。左右のノズルからレーザーのような水流が噴き出し、パンツの群れを濡らして撃ち落とした。

 いま彼女は巨大な貯水タンクを背負っており、そこから伸びたホースの先から圧縮水流を放っている。


 室内での火炎放射は火事の危険が大きい。またこのような乱戦ではフレンドリーファイアの可能性もある。そこで水鉄砲なのだ。水にはパンツを一撃で倒す力はないが、湿って重くなったパンツは運動能力が著しく低下し、飛行も困難になるため妨害としては優秀だ。


「持ちこたえろ! 私の力は……おそらくあと1回しか使えないと思ってくれ」


 亮子が叫び、戦況を把握する。円卓の広間は大量のパンツと三枚の敵幹部、四人の下着屋パンターが入り乱れる激闘となっていた。右では『女武者』とツバキが切り結ぶ。左では穂乃花が水流で雑兵を落とし続ける。


「がっ……うっ……くそお……っ」


 苦戦しているのは奥の扉を貞操帯『鉄壁の純潔』から守る明日香だ。元々が経験不足である上、利き腕を怪我している。槍も満足に扱えず、何度もその身に金属製パンツの体当たりを許していた。


「お……オオあ!?」

「くそっ……『止まれ』ッ!!」


 水流を丸太で弾きながら『獣王』が穂乃花に迫った。それを亮子は間一髪で救い出す。穂乃花は生命線だ。未だ多数残る雑多なパンツが、ツバキや明日香を狙いに行けば一気に戦線は瓦解してしまうだろう。


 亮子の運転するバギーで駆け付け、この建物に乗り込む際、下着屋パンターたちは見た。上層階から吐き出され、街を覆い始める白い布地を。

 下着同盟アンダー・グラウンドが世界征服を企てているという噂が真実ならば、あれこそが侵略の開始だろう。小春はそれを止めに向かったと考えられる。


 だが小春は、どう見ても満身創痍の状態だった。亮子たちも可能であれば加勢に向かうべきだ。しかしここを突破する事すら、ままならない。自分たちが敗北すれば、逆に敵側に屋上への増援を許してしまうのだ。


 ツバキと『女武者』は互角。互いに決め手を欠く。しかし水流をかいくぐり、ツバキを襲う複数の影があった。それは……Tバック! あの『享楽者』と同じ水着族。当然、水には強い!


「しまっ……ああああああ!?」


 Tバックが駆け抜け、ツバキの全身の衣服が破ける! 美しき裸身が晒される! 水着たちは嬉しそうに舞い踊った。その身を、亮子の投げたコンバットナイフが撃ち抜いた。ツバキがうずくまる。『女武者』はつまらん、とでも言うようにその場を離れ、次の相手を探す。均衡が、崩れた。


「あああ……オオ!!」


 ふんどしが穂乃花のもとへ飛来し、危険な日本刀を振りかぶる。ツバキが胸を隠しながら手裏剣を投擲するが、弾かれる。白刃が閃き、水流ホースを的確に切断した。行き場を失った水が床に漏れる。


 抵抗手段を失った穂乃花、さらには近くの亮子の顔に影がかかった。両者の頭上に丸太が振り上げられていた。亮子は”勝負パンツ”を使用しようと息を吸い込んだ。だが――強烈な眩暈に襲われ、力を使えない。過剰摂取だ。万事休す!


 二人を見下ろす『獣王』の布地にプリントされたクマの絵は笑顔であり、どこか得意げにすら見える表情が亮子には悔しかった。死の絶望と無念さに歯ぎしりをする。その直後、クマの眉間に一本の矢が突き立った。


 丸太が力なく落下し、亮子と穂乃花は慌ててそれを回避した。そして振り返って、彼女の姿を見た。部屋の入口……いや、そのさらに向こう。遠い遠い廊下の先で、猟犬にまたがり弓を構える、『熊狩り』の瑠璃の姿を!!


 再び、好機。『獣王』が落ち、パンツらにもわずかな動揺が広がっていた。その隙を、戦闘勘のある者なら逃さない。

 ツバキは亮子の投げたコンバットナイフを拾い、『女武者』に投げた。投擲技術は彼女の方が高い。『女武者』は振り返り、ギリギリでそれを弾く。よって、次の攻撃を避ける事ができなくなった。


「オオオオオオオああああああああ!!」


 巨大な貯水タンクが投げつけられていた。『女武者』の挙動に、初めてブレが生じる。慌てて日本刀で、タンクを切断。明らかな悪手である。大量の水がこぼれ出し、薄いふんどしを水びたしにした。こうなってはもはや動けない。


 残るは――貞操帯!


「明日香……っ、使え!」


 亮子は近場に置いていた布包みを投げ渡した。数が一つしかないため、切り札に、と考えていた。特に、あの貞操帯には直接攻撃が通じない。だが、これならば。


「なっ……何スか!?」

「それを、斬れ!」


 金属製パンツがさらなる体当たりをかける。明日香は根性で耐えた。先ほど一瞬だけ会えた、師匠の傷を思い出す。小春がどんな思いを抱えているのかまでは知らない。自分は師匠の事を何も知らない。だが、苦しんでいた! そして、自分を、頼ってくれた!


「おらあああああアアアアアァァァ!!」


 明日香はあえて、敵の攻撃を額で受けた。そうすれば、槍を持った腕がフリーになる。前方へ槍を突き出し、投げ渡された包みを切り裂く。


 中から現れたのは……マネキンの下半身!


 貞操帯の動きが止まった。

 そして過敏とも言える速度で反転し、下半身へ飛びついた!

 局部を守り、純潔を保つ貞操帯。当然、下半身保護への使命感は他のパンツよりも遥かに上だ。


 貞操帯はマネキンに装着され、動かなくなった。捕獲完了。

 明日香は大きく息を吐き、膝を着いた。全身が痛む。


「師匠……。勝……って……」


 気力が底をつき、ぼやける意識の中で彼女は虚ろに呟いた。

 ここまで追うほどに慕う師匠……小春の生還と目的達成を願って。



 * * *



「さっさと堕ちなさい。そのパンツは貴重なものなのよ」


 踏みつけられ、微弱な呼吸を続けながら小さな身体を震わせる小春。弱り切った少女を見下ろしながら、絹美は冷徹に言葉を投げる。


「地球がパンツを穿き終えた時……仕上げがいるの。私の意思を、思想を、匂いを通じて全人類に伝える。そのトリガーとなるのがなのよ」


 彼女は屋上の向こう、今もなお広がり続ける巨大パンツを見た。


「この子の知性なら、私の思想のすべてを理解できる。その匂いを、P.A.N.T.Sを使って世界中に伝播するの。……良かったじゃない。あなたのお姉さんが、人類を支配するのよ」


 小春に殆ど意識は残っていない。絹美の話も聞こえてはいなかった。だが、それでも、少女の消えかけている呼吸を辿って、匂いは流れ込んでくる。


 持ち主の『記憶メモリー』が。織野真夏の、知識と想いが。




 ――20歳、職業は下着屋パンター。神速のレイピアを操り『剣舞ブレイドワルツ』の名を冠した女性。最初は、運動能力を活かせる上に金まで稼げると聞いて軽はずみに始めた仕事だった。


 パンツの事も獲物程度にしか思っていなかったが、しかし戦闘を重ねるにつれ、ある事に気づき始める。大群をまとめて処理せず、一枚一枚を倒していくスタイルだからこそ気付けた事。

 パンツにはそれぞれ個性があるが、それだけではない。『人格』がある。


 歯向かうパンツもいた。怯えるパンツもいた。善良としか思えないものも。ではなぜ彼らは一様に人を襲うのか?

 パンツはミームを収集・保存・拡散する。”勝負パンツ”もその原理を利用したものだ。噂される事でパンツが強くなるという証言もある。ならば、だとしたら。


 パンツは、人に事で害獣となってしまったのではないか?


 一年が経つ頃には徐々に、下着屋パンターの活動に疑問を感じ始めた。しかし人間社会に実害が出ているのも事実であり、戦いは止められない。下着屋パンターの中には中毒者コレクターとなり、癒えぬ後遺症を負ってしまった者もいる。


 それに、もう一つ、下着屋パンターをやめられない理由もある。


 ――妹が、笑わない。


 とても可愛い、自慢の妹がいる。笑顔が特に愛らしい。

 だが引っ込み思案をこじらせてしまったようで、自分に全く自信が持てないようだった。妹自身についての話を振っても、何も答えてくれない。いつしか普通の会話では全く笑ってくれなくなってしまった。


 そんな妹が。下着屋パンターの話をする時は。実績を重ねて名を上げた話をする時だけは、幸せそうに笑ってくれる。姉の成功を自分の事のように、いや、それ以上に喜んでくれる。

 そうしたら、下着屋パンターすがるしか、なくなってしまうではないか。


 ……ごめん。ごめんね、小春。

 お姉ちゃんも、あなたと同じなの。とっても不器用で、大好きな妹の笑わせ方もわからないんだ。だから、せっかく心配して止めてくれたのに、下着屋パンターをやめるわけに、いかなかった。


 小春。笑ってね。無責任かもしれないけど、お姉ちゃんはあなたに生き残って笑ってほしい。だから、あなたは逃げる。私は残る。悔しいけど、勝てそうにないから。


 ――あーあ。最後にもう1回笑ったとこ、見たかったなあ……。




 その記憶メモリーは、小春の心の中心に突き刺さった。


 私の……私のせいじゃないか。

 お姉ちゃんはパンツと戦いたくなんか、なかったんだ。

 私が、自分で笑えないから。自分の事が嫌いで、お姉ちゃんに頼りきりで、自分で自分を幸せにできなかったから……!


 パンツが全部悪いわけじゃない。

 現にこのパンツは、お姉ちゃんの気持ちを教えてくれる――。


 絶えかけていた小春の呼吸が復活した。徐々に深く、深く。

 不思議と侵食されている感触はなかった。姉の意思を、想いを貪るように小春は吸った。彼女はこのパンツを受け入れた。


 お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。

 ごめん、お姉ちゃん。ごめん……!


 瞬間。

 小春の身体が白く輝いた。


「――!?」


 絹美が驚愕に目を見開く。足をどけて下がり、ストールを回収する。

 小春の目に光が戻った。そして、超然と立ち上がる。


 パンツを吸って生き返った。”勝負パンツ”の一種か?

 違う。似て非なるもの。この現象を絹美は知っている。


 人が一方的にパンツを利用するのが”勝負パンツ”。

 パンツが一方的に人を支配したのが”中毒者コレクター”。

 これは、そのどちらでもない。パンツと人の完全なる合一。


 即ち、『穿きし者シタギモデル』。


 白き光を纏う小春は今、フリル付きのミニスカート・ドレスを身に纏い、髪には青いリボンが翻る。元のパンツの意匠をうかがわせる戦闘衣。

 その手には、斧。怪我は完治し、体力も戻っている。


 これまで小春は”勝負パンツ”を持たなかった。

 彼女に適合するパンツが存在しなかったからだ。パンツを忌避し、拒否していた小春がパンツから力を得られる道理はない。

 だが、今は違う。姉の心を知り、パンツを受け入れ。そして姉のパンツもまた、小春を認め、力を貸したのだ!


「ふ、ふふ。私としたことが……悪手を打ったわけね……!」


 絹美の笑みが獰猛なものに変わる。

 美女は手にした『隻リボン』を素早く口元に当てた。深く呼吸。二度、三度。

 すると彼女もまた、発光!


 ピンク色の光を立ち上らせ、妖艶なるロングドレスを身に纏う。その両肩には、やはりリボン。隻リボンのかつての姿だろうか。

 下着同盟アンダー・グラウンドの首領であり、常にパンツと暮らしてきた彼女もまた、既にその境地に達していた。穿きし者シタギモデル!!


「遊ぼうとした私が愚かだったわ」


 光とともに魅惑的な香りを撒き散らしながら、絹美は浮き上がった。穿きし者シタギモデルはパンツであり人である。飛行は当然の生態。


 対する小春は己の身体を確認するように一瞥し、拳を握ると顔を上げて絹美を睨んだ。強い瞳で。

 彼女はパンツを受け入れた。だが、この相手は倒す。

 世界をパンツに埋もれさせはしない。


 両者は声を重ねた。


「「叩き潰す」」


 小春もまた飛び上がった。絹美がストールを翻した。今までとは比にならぬ洗脳の香りが広がるが、これもまた生態。攻撃ではない。自身がパンツである穿きし者シタギモデル中毒者コレクターとなる筈がない。


 空中で急速接近し、小春が斧を振り回した。重量を感じさせないノーモーションからの斬撃。速すぎる。神速のレイピアのごとき動き。姉のパンツから得た力! しかしそれを絹美は突然の急加速でかわした。不規則で読めない、隻リボンの動きだ。


「――はああああああああッ!」


 小春は攻撃を緩めない。左へ。折り返して右へ。途中で角度を変えて真下。すくい上げて上へ。そこから袈裟斬り。疾さと、破壊力。しかし斬撃は鋭くても、飛行による空中での体捌きがぎこちない。


「……甘いわね」


 絹美のストールが伸び、生き物のように小春の右脚を捕らえた。ストールが伸縮する。引き寄せられた小春の脇腹に、深いスリットから伸びた絹美の蹴りがヒットした。


「っぐ…………!」

「甘い。無垢で純真な、女子中学生のパンツのように甘いわ」


 片足を封じられた状態で連続して足技を見舞われる。そこでストールが外れる。意図せぬタイミングでの解放に対応できない小春の背後に、絹美が飛行して現れる。ストールがバネ状に収縮した。そして、解放。背中に重い衝撃。


「がはぁ…………ッ」


 小春は苦しげに呻き、血を吐いた。パンツの力を得たからといって無敵ではない。パンツであり、人でもある。当然血液は全身を巡り、ダメージを受ければ死に至る。体勢を立て直そうとするが、うまくいかない。

 やはり勝てないのか。小春が目を血走らせ、再び斧を振ろうとしたその時。


『――小春ちゃん』


 声がした。


 音として響く声ではない。脳内に意思が直接、伝わってきた。

 その優しい声音は、無論、ある人物に酷似していた。


(お姉、ちゃん……?)

『いいえ。……初めまして、小春ちゃん。私はパンツに残された彼女の思念から生まれた意識――真夏さんそのものではない』


(で、でも)

を取り戻すために、ここまでしてくれたんでしょう? 嬉しく思うわ。私も……きっと、真夏さんも。だから、力を貸してあげる。さあ、一度地上へ』


 小春は声に従った。屋上に戻り、床を踏みしめて構える。


「――なに? 逃げるのかしら」


 絹美の挑発。だが声はなだめるように続けた。


『思い出して、小春ちゃん。相手が飛んでいるからといって、自分も合わせる必要はない。私たちは、下着屋パンターよ。飛んでる相手なら、いくらでも相手にしてきたじゃない』


 目の覚める言葉だった。冷静で理知的。戦闘における姉もそうだったのだろうか。小春はパンツから、知性を得た。

 小春は鎖を握る。そして空中の絹美へ、斧を投擲した!


「今さら、そんなもの!」


 もちろん容易くかわされる。鎖を引き戻す。絹美の背後から、再び斧。これもかわされる。絹美が、地上の小春に向けてストールを伸ばす。ここだ。小春は鎖を横に往復させた。レイピアの剣先のごとき速度で斧の刃が舞う! ストールを横切るように。


 ストールが、細切れに切断された。


「なッ……この…………!」


 丸腰となった絹美は地上へ向け急降下。もはや格闘戦しかない。隻リボン直伝の不規則軌道からの、分身! 四方八方から小春を襲う。斧一本では捌ききれない。小春は一度下がろうとした。だがその両足が、床に縫い付けられたかのように止まる。バラバラになったストールが巻き付いていた。


「舐め……るなぁ!!」


 小春の顔面に拳が入った。武器を奪ってなお、押されている。そのまま連続しての拳撃が浴びせられる。


「あうっ、うッ、ぐう…………ッ!!」

「根本的な! 力が! 違うのよッ!」


 二人の距離は肉薄。斧も鎖も使える間合いではない。フィニッシュとばかりに絹美が拳を振りかぶった。渾身のストレートが打ち出される。

 だが、そこで、小春の身体は一段と強く光った。拳を、手のひらで受け止める。


「な…………!?」


 絹美は驚愕した。何が起きた?



 * * *



「わかったよ、ホラ、肩を貸してやるから。歩けるか?」

「かたじけない……ッス……」


 亮子にしがみつき、明日香は立ち上がった。ようやく全てのパンツを無力化した彼女らは、屋上へ加勢すべく動き出した。


「くそっ……ひどいザマだ。早く、あの子を助けなきゃならないのに」

「おアア」


 亮子は後ろを見た。貯水タンクを壊され丸腰の穂乃花。またしても服を失いへたり込むツバキ。怪我をおして駆け付け、今なお痛みに顔をしかめる瑠璃。


「小春……か。あの様子だ、長くは戦えないだろう。おそらくもう……」

「そ、そんな事はないッス!」


 弱気な事を言うツバキを、明日香は否定した。

 スマホを取り出してみせる。


「ほら、バイタルサインもまだ余裕で出てるッス!」

「……お前、ホントにヤバイ奴なんだな」


 あまりのストーカーぶりに亮子は引き気味のため息をついた。だが、思い直して顔を上げる。


「まあ、確かに尋常じゃない子ではあるよ。あの殺気は只者じゃない」

「ああ……凄いね。服を脱がされても動じない。ぞっとしたよ」


 ツバキが同意した。さらに、瑠璃が続ける。


「大胆な攻撃を、容赦なく仕掛けるしな。あれには驚いた」


 空中で丸太を両断した姿は、目に焼き付いている。

 そしてくすりと笑い、付け加えた。


「……あと、ちょっと可愛い」

「ちょっとじゃないッスよ!」


 明日香が口を挟み、主張した。


「あ、笑ってるの見た事ないッスか? すんげーッスよ」

「いやあ、大抵キレてないか? あの子……」

「それもまた良し! あの身体で、たった一人でパンツを一掃する姿にアタシは惚れたんス。師匠が負けるなんて、信じられないッスよ!!」


 明日香は握りこぶしを作って力説した。


「……わかったよ。信じよう」

「そう! 信じるッス!」

「まあどっちにしろ、加勢には行かないとな」

「おアア」



 * * *



 ――


 あの『獣王』がそうであったように。そして穿きし者シタギモデルは人であり……パンツでもある。

 誰かが強いと信じれば信じるほど、今の小春は力を増すのだ。幸いにして彼女には、妄信的とすら言える自称弟子がいた。


 絹美の頬を汗が伝った。掴まれた拳が、離れない。小春の放つ光がいよいよ強くなる。拳を押し返し、前進する。絹美の言う「根本的な力」は、既に逆転してしまっていた。押し込まれる!


「うおお……あああああアアアアアアァァ!!」

「な……そんな…………!!」


 屋上の縁にまで彼女は追い詰められた。耐えがたき屈辱。

 必死に振りほどいて、得意な空中に逃れる。だが、ここから攻撃する手段がない。


 小春は空中を睨んだまま力を溜めた。そしてそれを、一気に解放する。

 器用な空中戦をするつもりはない。ただの、加速しての体当たり!

 ジェット噴射の勢いで小春の肘が絹美の腹部に突き刺さった。


「がっ……はあああァァ!?」


 今度は絹美が吐血する番だった。ドレスに血の汚れがつく。壮絶!

 あまりの衝撃に絹美はバランスを崩した。落下する。眼下のP.A.N.T.Sへ……!


「負ける……? 私が……私の計画が……!」




 ――空を飛ぶことができないのが、彼女の悩みだった。


 物心ついた時、彼女は森の中にいた。少女はヒトに捨てられた子だった。絹美は幼い頃から、サバイバル生活を余儀なくされた。

 そこは野生のパンツの隠れ里。絹美は様々なパンツを狩り、かわるがわる吸って知識を吸収し成長した。


 そんな中で、仲間とも出会った。遊び相手の『享楽者』。そしてずば抜けた知性を持ち、彼女の良き理解者となった『隻リボン』。言葉を教えると、なんと喋る事まで出来るようになった。

 そうして生きるうち、絹美は人間よりもパンツに親近感を感じるまでになっていった。だが、彼女は飛べなかった。


 私はパンツになりたいのに。いや、人間との繋がりなど無い私は、人間だろうか? 違う。私は、既にパンツなのだ。なのに飛べない。パンツなのに!




「――原初! 人は裸だった!」


 絹美は血を吐きながら叫んだ。小春が斧を構えて追ってくる。


「人は知性を得て、裸を恥と考えた! それから、パンツを穿いた? ……違う!」


 記憶を呼び覚ます。パンツから学んだ記憶。正しい起源を。


「パンツが、教えてあげたのよ! 裸は恥と! パンツを穿く事が知性だと! 人は獣だった! 知はパンツにあった! なのに……ゴホッ、人間は、パンツを支配した気になって……!」


 それは、真実であった。歴史の裏に隠されたパンツと人の共生であった。


「あなたも! パンツから力を得たじゃない! パンツの知恵を借りたんでしょう!? パンツに罪はない! 容赦なく狩るなんて……」


 小春が頭上に達した。少女の目は、しかし、


「……あなたの言う事、今はわかる。パンツは、悪くないのかもしれない」


 和解の余地など感じさせないほどに、凍り付いており。


「でも」


 小春は、彼女自身の結論を伝えた。


「お前は私からお姉ちゃんを奪った。だから許さない」


 斧が振り下ろされた。


「くっ……ああああああああああああああああああああああああ!!」


 絹美の服が元に戻り、分離した隻リボンが空中で斧を受け止めた。そのまま小春の斧は両者を押し込んだ。女帝の身体はP.A.N.T.Sに突き刺さり、巨大パンツを破きながら地上へと堕ちていった。


「や……った……お姉……ちゃん……」


 そして遅れて小春も力尽き、パンツと分離した。意識が途切れる。姉のパンツは少女の腕に絡みつき、怪我をさせないようゆっくりと降下していった。

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