第5話 『隻リボン』
通算八度目の斬撃が手応えなく通過する。戦斧の片刃が傾きかけた陽光を照り返し、赤い軌跡を描いた。
「おお、良いじゃない! 今のは良かった。次は当たるかもしれないわね!」
遠心力に振り回されながら次の斬撃軌道を計算する。九度目。水平に放つ。それを強引に、途中から真下へ直角変化。土の地面に刃がめり込む。手応えなし。
「惜しいーーーっ! 90点! ついに90の大台に乗せてきました!」
と同時に、鎖を鞭のように打ち振って上から追撃をかける。複数のうねりが何度も地面を叩く。数匹の蛇が暴れるかのごとき連続攻撃。
「なるほど、斧に気を向けさせての! これも高得点ね。でもお嬢ちゃん、やっぱ顔が怖いよ。これだと芸術点のほうがね~~。ホラ、一回笑ってみよ? 素材は良いんだからさ。一回でいいから。せーの、」
鎖の動きはコントロール可能だ。それだけの経験を積んできた。幾重にも折り重なるような攻撃が正確に敵を狙う。しかし……その全てが、目の前のパンツには当たらない。
「スマーーーイル」
敵は得意げにフラフラと浮かぶ。
小春は鎖を引き戻した。斧の柄が再び手元に収まる。
このたった一枚のパンツが戦況を変えてしまった。小春が仕留めかけた『獣王』は既に逃げ去った。「逃げろ」と言われ、なおも暴れようとした熊パンツだったが、このパンツが再度、低い声で「帰りなさい」と告げると、すごすごと引き返していった。
さらに、そこへ二頭の犬が駆けてきて、痛みと恐怖で気を失った瑠璃の体をくわえて回収した。今は小春とパンツの一騎打ちだ。
「おーーい。聞いてる?」
小春は正面を睨んで警戒し、斧を引いて構える。
とにかく尋常ならざる相手だ。その実力は勿論だが、何よりも特異なのは――
「なんで人間が黙っててパンツばっか喋ってんの? ねえ、バランスおかしくない?」
パンツが、人語を操っている。
小春は感じる。相手の匂いから、格の違いを。独特で刺激的な香りだ。
噂には聞いた事がある。消えぬ傷跡をその身に残した、伝説的な強パンツ――通称『
だが、隻リボンが喋るなどという話は聞いた事がない。一切ノイズのないクリアな音声。スピーカーが仕込まれている様子もない。
小春は左手で鎖をヒュンヒュンと回し、つま先でリズムを取る。いつでも動けるように。隻リボンは薄布特有のヒラヒラした動きで、幻惑するようにゆらめいている。右へ、左へ。再度、右。
その瞬間、ガクンと敵の軌道が変化した。パンツにとってパーツが欠ける事は、人間でいう隻腕や隻眼にも等しい不自由を伴う。飛行のバランスが取れなくなるからだ。無軌道で、加速と減速を繰り返し、突然回転する事もある。しかし一方で、それは動きが読めないという事を意味する。
隻リボンはいつのまに小春の、鎖のない右手へ接近していた。
「どうして私が喋るのか気にならない? お嬢ちゃん」
パンツは斧を握る右手に巻き付くような動きを見せた。指が狙いか? 反射的に斧から手を離して右手を引く。斧が落ち、地面に刃が突き刺さった。この距離では攻撃手段がない。バックステップ。しかし隻リボンもついてくる。
「パンツは知識を保存するの。君たちもそれを吸うでしょう?」
”勝負パンツ”の事を知っている。過去に
「人はパンツに意味を与えたがるよね。ただの布だったはずなのに、人が興奮するのはどうしてかな? 私たちは、その『意味』を蓄積する――」
特別速くはない。だが、動きがまるで読めない。何も考えていないかのような、フラフラとした飲酒運転のような飛行。
鎖をかいくぐった隻リボンは小春の左手を狙ってきた。やむなく鎖をも手放す。武器が、なくなった。着実に小春は追い詰められていく。こんな酔拳のような動きで、やっている事は詰将棋だ。
得物を失った
しかしその集中は、すぐに破られた。足音が近づく。
「!! ……師匠、武器が……! そ、そいつそんな強いッスか!」
明日香。高跳びから着地し、ここまで駆けてきたか。
「そうだ! 今こそ”勝負パンツ”じゃないッスか!? 師匠が使えば、もうよゆーッスよ! 使ってんの見た事ないけど!!」
「? へえ、興味あるわね」
その言葉に反応したのは、小春ではなく隻リボンだった。
「え?」
「うん?」
「パ……」
明日香はガクガクと震えて一歩下がった。
「パ、パパパパパンツがしゃべったああああああア~~~~~~~~!!!??」
「! ……そう! それ! そのリアクションよお!」
小春に迫っていた隻リボンは嬉しそうに飛び跳ね、明日香の方角へダイブした。
「お、おお?」
パンツの好意的な声に小動物に懐かれたかのような錯覚を覚え、明日香の動きが止まる。小春はその危機をいち早く察した。胃の中で熱いものが渦巻いた。彼女は叫ぼうとした。だが既に遅かった。
グラリと空中で一度揺れ、隻リボンは急加速。次の瞬間には、明日香の槍を持った右肘に取りついていた。猶予は与えられなかった。容赦もなかった。隻リボンは全身の布地を引き絞った。
ゴキリと鈍い音がした。
「…………ッ!? あ……あああああああああああ!!」
遅れて、絶叫が響いた。
関節が外れ、腕の角度が歪んでいる。瞳が涙にうるむ。尋常でない量の汗が噴き出し、額や頬を流れた。槍がカラリと音を立てて地に落ちる。
「う…………ッ、ううッ…………!」
明日香は膝をついた。隻リボンが彼女の肘から離れた。瞬間的に、小春の頭の中を予感が駆ける。放っておけば、次はどこか。もう敵はいつでも止めを刺す事ができる。即ち、顔。
姉の姿がフラッシュバックした。明日香。お姉ちゃん。明日香。自分のせいで、また誰かが
それは絶対に嫌なことだった。
「あ……あすかっ!!」
声が出た。
「――ほんと、素直な子ね」
同時に、敵からも、冷徹な声。
小春の視界いっぱいに、布地が広がっていた。即座に進路を反転したパンツが目の前にいた。
次はどこを狙う? 確かに顔だった。ただし、小春の。
「し……ッ、師匠ーーーーーーーーー!!」
明日香が叫ぶ。小春は最後の抵抗として息を止めた。何秒持つか?
「すっ、スミマセ、く……くそぉっ、クソッ!」
明日香は涙目で自らの太股を殴った。小春が逃げろ、とジェスチャーしている。ふがいなさと無力感に、明日香は
明日香は槍を前方の地面に突き出し、小春の斧から伸びる鎖に引っ掛けた。そのまま持ち上げ、鎖を浮かせる。小春が鎖を掴んだ。
「これくらいしか、お役に……ッ! でも! あの!」
叫びながら明日香は背を向けた。
「名前! ……呼んでくれたッスね……!」
声には嗚咽が混じっていた。悔しさと激しい痛み、しかしその中に一握りの、嬉しさがある事を否定できない。
小春が、明日香を、気にかけた。初めての事だった。
「絶対……絶対ちゃんと帰ってくるッスよ……!」
そう言いながら、明日香は全力で逃げ去っていった。
戦闘中にもかかわらず、その言葉は小春の心中に明かりを灯した。
織野小春は人間関係が下手な少女である。姉以外に、こんな感情を持つのはいつぶりだろうか。
小春は鎖を振り上げた。隻リボンはヒラリと顔面から離れ、鎖は彼女自身の鼻面を叩いた。衝撃と痛みで涙が出る。だが、呼吸が復活した。
「……ほう、ほう……! 青春ねえ。お姉さんうらやましくなっちゃうな」
隻リボンは小春が鎖を握る右腕の、肘を狙いにいった。ここで武器を離せば先ほどと同じだ。
鼻血を垂らしながら小春は、笑った。友情と、そこから湧き出る戦意に。なぜか、戦いが楽しく思えた。初めての体験だった。小春は攻撃的な笑顔を浮かべたまま、握った鎖を強く引いた。
地面にめり込んでいた刃が引き抜かれた。斧は予測不可能な軌道で暴れ出す。その姿を例えるならば、鎖の胴を持ち、斧の頭を持つ龍!
しかしこれが、隻リボンに対しては有効な手となった。不規則には、不規則。幻惑する側だったパンツが、混乱に巻き込まれている。龍は小春の身体をも容赦なく傷つけながら暴れ狂う。
そしてついに、斧でできた
「……! 痛っ……たァい……!」
声。小春は油断なく鎖を引き戻し、再び斧を手にした。
敵は力を失わず、眼前に浮いている。人語を操るほど強力に固着したパンツの意識は、一撃で刈り取る事はできないとでもいうのか!
「こ……怖あ。いやいや。こうなったら……!」
小春が身構える。隻リボンはしばし中空に留まり――そして、
「帰ります! 怖いので!」
引き返して森の木々をすいすいと潜り抜け、遠ざかっていった。小春は反射的に前のめりになり、追いかけようとしたが踏みとどまった。足場の影響を受ける人間が、飛んで逃げるパンツに追いつく事は経験上不可能だ。
「また遊ぼう、小春ちゃん。次は恐くない笑顔も見たいな――」
小さくなっていくパンツから、小春は視線を外さなかった。しかし今度はフェイントはなく、隻リボンが戻る事はなかった。
「……っ。はあ」
集中が限界に達し、小春は大きく息を吐いて座り込んだ。打ち付けた肘が痛む。
言葉で、動きで、人間を翻弄する。食えないパンツであった。
成程、あんなひねくれた欠陥品、しゃぶしゃぶにしても食べられそうにない。
* * *
小春が市街地に戻る頃には、すっかり日も落ちていた。
あたりが冷え込んできた上、着ていたTシャツも随分と汚れてしまったので、彼女は道中でパーカーを購入して羽織った。
足を引きずるように歩く。外傷としては鼻に若干の傷跡がある程度だが、疲労が尋常ではない。
前日の田舎町での戦闘、さらに今日だけで凄腕のパンツと二戦。肉体の消耗はすさまじく、頭の中にもやがかかったようで、ほとんど無意識に左右の足を交互に進めているだけの状態だ。スクールバッグに詰めてある斧と鎖が、重くて仕方ない。
夜の街はささやかな街灯の明かりに彩られ、平和な様子だった。昼間、戦場になっていた時の混乱は既になく、業者による回収も終わったのかパンツの一枚も落ちてはいない。
小春は大通りから一本路地に入り、街の裏側を目指した。さしあたっては、
路地を歩み進める。次の角を右だったはずだ。しかしその手前で、小春は足を止めた。見覚えのある顔が、左手の建物から出てくるところだった。
「あら……小春、ちゃんよね? 直接は初めましてかしら。お疲れさま。残念ね、この時間に戻るなら、言ってくれればご馳走したのに」
饒舌に語るのは、妖艶なる声。優美なる大人の女性。
スラリとしたプロポーション、ワンピースから伸びる長い脚。ストールを羽織った美人の体現者は、目の前のしゃぶしゃぶ店『光の織布亭』から出てきたようだった。店先では、どこか恥じらうような表情の女性店員が頭を下げている。
「ふふ。噂には聞いてたけど、可愛い子ね。今日は大活躍だったそうじゃない」
「い、いえ……」
「あら、ホントにお疲れみたいね。ウチ来て寝る? なあんて……」
絹美は微笑み、ストールを外してふわりと広げた。
瞬間。
小春は全身の血液が沸騰するような感覚を味わった。
鼓動が加速し、指先が震える。
目を見開いて前を見る。絹美。
――この人から、お姉ちゃんの匂いがする。
小春は衝撃ゆえに判断に迷った。どういった言葉を口にすれば良いかわからなかった。ヒラリ、と、絹美のストールが目の前を通過した。意識がぐらついた。
とさり、と軽い音を立て、小春はその場に倒れた。
遅れて、金属音とともに斧の入ったバッグが落ちる。
絹美の唇が笑みの形を作る。
「――車を出して貰えるかしら」
彼女はしゃぶしゃぶ店の店員に命じた。店員は「かしこまりました」と、
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