終末の希望を桃に 4/4
妻の手の中にある桃は、とても幻想的に光って見えた。果実の表面を覆うにこげが水気をまとい、月や星々の光を存分に吸収していた。
「バリアみたい」と妻は言った。「世界中のいろんなことから、自分を守っているんだわ、この桃。光るバリアを張って」
そう言うと、妻は手にした桃を頭上に掲げて月明りを当てた。「きれい」
「濡れているからね」と僕は言った。「それにしても一体どこから桃なんかが流れてきたんだろう」
「どこからだっていいわよ」と妻は言った。「桃売りの籠から落ちたのかもしれないし、桃源郷から流れ着いたのかもしれないし」
「さっきのキャンプ一家が誤って川に流したのかも」
「あなたって、本当にロマンチックじゃないわよね」と妻は憮然として笑った。
*
それからかなり長いあいだ、妻は川から拾い上げた桃を様々なやり方で検分した。彼女は桃の匂いを嗅ぎ、左右のてのひらを往復させて重さを確かめ、指で押して硬さを感じた。そして桃を僕に持たせて、不思議なポージングを要求した。しかし絵画的な美がそこに成立しないことを確かめると、彼女はすぐに桃を奪い返した。そしてまたじっと桃に見入った。
僕はただ茫然とその様子を観察していた。どうして妻がその桃に惹きつけられているのか、僕はさっぱり分からなかった。しかし妻は、そこに人類史の秘密が隠されているかのように、あるいは何らかの呪術的アイテムであるかのように、すっかり桃に魅了されていた。そんな姿を見ていると、僕の方もだんだん「この桃は人類滅亡を防ぐ鍵なんじゃないか」という気がしてきた。
そのとき、月に雲がかかった。あたりを黒いセロファンのような薄闇が包んだ。
「ねえ、桃太郎をやらない?」と突然、妻が言った。
「桃太郎?」と僕は訊ねた。その唐突な言葉は僕を混乱させた。
「そう、桃太郎」と妻は言った。「あなたのポケットにある私たちの子どもを、この桃に入れて川へ流すの」
「なんだって?」と僕は言った。
そのとき僕はとても動揺していた。僕たちの子どもを、まだタツノオトシゴでしかないけれど確かに僕たちから生まれた生命を、この桃に入れて川へ流すだって?
「私はね」と妻が言った。「それをやってみたいのよ。そして、そうしなければならい気がするの」彼女はとても穏やかで、けれども決然とした表情をしていた。
僕はしばらく迷った。僕の頭のなかでは、人道的なことがらや倫理的なことがらが、ぐるぐるとクマバチのように飛び回っていた。
しかし、そこには光る桃があった。そしてその柔らかい華奢な光はすべての筋道立った思考を飛び越え、僕にある確信を与えた。
「やろう、桃太郎を」僕は決心して言った。「僕はいつだって君の味方だ」
「ありがとう」と妻は言った。
その瞬間、妻の右目から一筋の涙が、光の道のように流れたのを僕は見た。
了
終末の希望を桃に 大中辰弥 @onion
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