マイ・リトル・バターカップ

D坂ノボル

マイ・リトル・バターカップ

 学園通りの駅のすぐそばに、れんが色のちいさな映画館があるの、知ってるかい?

 うん、あの古ぼけた映画館。もうすぐとり壊されるって話のさ。あそこでいま、スティーブ・マーチンの昔の映画をやっているんだ。スティーブ・マーチンは好き? えっ、いや、まあそれはいまどっちだっていいんだけどさ。

 えーと、そうだ。

 その映画館で切符を売ってるのは、もうすぐ七十歳になるお婆さんなんだ。

ぼくが子供のころからずっと、そのお婆さんが、切符を売っているんだよ。

 十年もそこで働いているという話だから、もうすっかり切符売りの大ベテランってわけさ。

 ついさいきん、そのお婆さんと、いくらかの話をする機会に恵まれた。こんどの日曜の上映を最後に、映画館が閉鎖されてしまう。きっとそれで顔なじみの客のだれかと、話をしてみたくなったんだろう。子供のころから映画館に入りびたっていたぼくが、その光栄にあずかれた。

 苺のタルトと紅茶をごちそうするというので、ぼくはお婆さんに誘われるまま、映画館のむかいにある喫茶店に入ったんだ。私設図書館をイメージした、ちいさな店なんだけどでね、シャンデリアがぶら下がってて、雰囲気は抜群によかった。並んでる本も、ぼく好みだったな。黒いロングのワンピースに白エプロンをつけた清楚な店員さんが、上着まで預かってくれるってんだな。まるで、メイドさんのいるお屋敷だよ。お客さんはまばらで、みんな独りきりだった。どこか、みんな寂しそうだったなあ。だれもがみんな、だれかを待っているみたいにさ。

 お婆さんとぼくは、窓から映画館がいちばんよくみえる奥の席を選んで座った。映画がちょうど終わったみたいで、家族連れやら恋人たちが、映画館からぱらぱらと出てきてた。ぼくなんかは、ひとりで映画を観ることが多いから、そういう光景に出くわすのは、あんまりいい気分じゃないんだな。だけど、お婆さんは、どういうわけか客のひとりひとりをしっかり瞳に焼きつけようとしているようだった。その眼差しってのがね、なんだか、とてもやさしいんだな。それに、とてもきれいなんだよ。美人とかなんだってより、品があるというか、やさしい目というか、えーと……うまくはいえないんだけどさ。とにかく、そう、透きとおるようなきれいな目をしたお婆さんなんだ。

 苺のタルトを食べながら、ぼくら、いろんな話をした。ぼくはその映画館で観てきた大好きな映画たちのことを話したり、受験勉強の苦労話をしたりした。ぼくがひどい口べただってのは、君も知ってると思うけど、お婆さんは退屈そうなようすを少しもみせないで、にこにこ笑いながら、ぼくのたあいない話にねっしんにうなずいてくれた。うん、ぼくはそれが、とてもうれしかった。

 おたがいケーキをたべ終えたころには、ぼくたちはだいぶ打ちとけていた。それでぼくは、どういういきさつでいまの映画館で働くようになったのか、って、ニルギリをのみながら、お婆さんに訊ねてみた。ほんの軽い気持ちで訊いたんだ。映画が好きだから、とか、そんななんでもない答えを期待していたんだよ。

 だけど、その質問をしたとたん、お婆さんの表情が、少し曇ったようだった。

 人との距離感というやつは、だから難しい。しまった。調子に乗って、まずいことを訊いてしまったのかな。そう思って、ぼくはあわてて話題を変えようとした。だけどお婆さんは、そんなぼくのようすを察して、なんでもない、というようにすぐににっこりほほえんでみせた。

 ウェイトレスがメイプル・ストロベリーを運んできて、優雅な手つきで一杯めをカップに注いでくれた。ありがとう、とお婆さんはいった。それから、品よくゆっくり紅茶をすすると、自分の身の上について、ほんの少しだけだけど、ぼくに打ちあけてくれたんだ。

 お婆さんがまだ、映画館の切符売りじゃなかったころ――その映画館が、いまよりすこしはぼろっちくない映画館だったころの話。お婆さんが、まだ、お婆さんじゃなかったころの話さ。

 お婆さんはもともと、絵本を作る出版社の編集長だった。旦那さんを脳腫瘍で早くに失くし、ひとり息子を女手ひとつで育ててきた。いまのおっとりしたお婆さんのようすからはにわかに想像できないけど、いわゆる、キャリア・ウーマンてやつだったんだ。

 出版社の仕事はとても忙しく、息子さんと過ごせる時間はとても少なかった。まいにち夜遅くまで働いて、悪いときには休日にさえ会社へ行かないといけなかった。でも息子さんは、じぶんのために懸命に働くお婆さんの背中をみて、ぐれることも問題を起こすこともなく、立派に成長した。息子さんは中学校を出ると、近くの縫製工場に就職した。そして、工場に四年勤めたあと、奥さんになるひとりの女性を家に連れてきたんだ。お婆さんは、涙を流して、こころの底から、喜んだ。

 息子さん夫婦とお婆さんは、ひとつ屋根の下、一緒に暮らしはじめた。そのうち、息子さん夫婦の間に娘が生まれた。お婆さんの、初孫だよ。孫娘さんは、両親に、というよりは、お婆さんに似ているようだった。お婆さんにそっくりの、やさしくてきれいな目をした女の子だった。お婆さんがなおさら孫娘をいとおしく思ったのは、想像に難くないだろう。

 でもね、お婆さんとお嫁さんの仲は、あまりよくなかった。お婆さんは孫娘がかわいいあまり、ついつい甘やかしてお菓子やらおもちゃやらを買い与えてしまう。お嫁さんとしては。娘を厳しくしつけたかった。どちらも、愛情からのことだった。だれが悪いってことじゃあない。でも、その愛情が、家族仲にすこしずつ、溝をつくりはじめていた。

 なにかの歯車が狂いだすと、どこか別のところでも悪いことが起きはじめるものだ。悪いことのなかでも、最悪の部類のできごとが起こった。お婆さんの息子さんが、病に倒れて、亡くなったんだ。お婆さんの旦那さんと同じ、脳腫瘍にかかって。

 あっけないぐらいの最期だった。最後の言葉を交わすことさえ、できなかった。

お婆さんは悲嘆に暮れた。絶望的な気分だった。愛する家族を、ふたりも同じ病気に殺されたんだ。それがどれだけつらいことか、ぼくなんかには想像もつかない。いままで忙しくつらい仕事に耐えてこられたのはなぜか、お婆さんは身に染みて理解させられた。すべては、息子さんが支えだったんだ。

 さらに悪いことに、息子さんの死をきっかけに、お嫁さんは娘を連れて家を出ることになった。そのときの孫娘さんの年齢は、七歳。一夜にして、お婆さんは、すべての家族を失ってしまったんだ。

 もう夜遅く会社から帰るお婆さんを迎える人は、だれもいない。にわかに広く静かになった家に、毎晩お婆さんのすすり泣く声だけが響きつづけた。

 もちろん、離れて暮らしはじめたといっても、月にいちどは、お婆さんと孫娘さんは会う機会をもうけていた。月末の日曜日、それがお婆さんと孫娘さんに与えられた、団欒の休日だった。

 そしてその日によく通ったのが――お婆さんがいま勤めている、あのれんが色の、ちいさな映画館だったんだ。

 お婆さんにしてみれば、映画を観るより喫茶店や遊園地で孫娘さんといろいろ話をしたかったにちがいないよ。映画館となると、静かにしていなけりゃならないし、孫娘さんのせっかくの笑顔も暗がりでよくみえないものね。それでもその孫娘さんというのが、幼いわりに大の映画好きで、いつも、映画館に行きたいといってきかなかったらしい。マーチン・ショートのファンだったらしいよ。まったく、無邪気なものさ。

 映画が終わりに近づくたび、お婆さんはきまって悲しくなった。たとえそれがスティーブ・マーチンの喜劇コメディであってもね。それでも、映画館をあとにするとき、孫娘さんに「おばあちゃん、きょうはどうもありがとう。またいっしょにえいが、みにいこうね」ときれいな瞳をきらきらさせながらいわれると、ああ、また来月もこの娘に会えるのだ、とうれしくてたまらなくなった。けっきょくそれは、お婆さんにとっても、じゅうぶんに幸せな時間だったってわけさ。

 だけど、それも束の間のことだった。いったん狂いだした歯車を止めることは、もうだれにもできない。つぎの月にお婆さんがお嫁さんと孫娘さんの住むマンションに電話をかけると、電話番号が不通になっていた。お婆さんになんの連絡もなしに。いやな予感がしたお婆さんは、マンションの部屋を訪ねた。ドアを開けたとき、お婆さんは愕然とした。そこはもう、見事にもぬけのからだった。いくらかの家具が残ってはいたけど、部屋にはすでに人が住んでいるという生活感がなかった。ただ、慌ただしく引っ越した形跡だけが、みてとれた。管理人さんに訊いてみても、引越し先まではわからないという。

 お婆さんには、事態が呑みこめなかった。ただ、茫然と立ち尽くすのみだった。途方に暮れて、毎晩泣き明かした。もう孫には会えないのだろうか? そう考えるだけで、涙はいくらでも目からあふれだした。

 きっとお嫁さんは、娘がお婆さんに会うのを、こころよく思ってなかったんだろう。そのことは、お婆さんもうすうすと感じていた。連絡もなしに引っ越したのは、そのせいもあったのか、ほかに複雑な事情があったのか、そこまではわからない。いずれにせよ、ひどい話さ。ぼくはそう思う。だけど、事件性がなければ警察は動いてくれないし、親権はお嫁さんにあるわけだから、裁判所にだってどうにもできない。どんなえらい人たちに頼んでも、泣いているお婆さんひとり、だれも助けることができないんだ。すごく悲しいことだけどね。

 でも、そのことでお婆さんが絶望したかというと、そうじゃなかった。

 お婆さんは思い出したんだ。孫娘さんが先月の別れぎわに「またえいが、みにいこうね」っていったのを。孫娘さんはどんなちいさな約束であれ、破るような子じゃあない。約束したかぎり、きっとまた会えるにちがいない。お婆さんはそう考えた。

 それは信じるにはあまりに無邪気な、頼りない約束だった。他人の目には、ばかげた考えと映るかもしれない。それでもお婆さんは、その約束を信じた。それだけが、希望だったから。ほかにはなにも、なかったから。信じないと、こころが壊れてしまいそうだったから。

 お婆さんは月末の日曜日、いつもどおり映画館のまえで孫娘さんが来るのを待った。きっと来る。かならず来る。お婆さんは祈るように信じつづけた。

 夕方の上映が終わった。夜の上映が始まった。それでもお婆さんは待ちつづけた。お婆さんの目のまえを、何十人、何百人の人が通り過ぎていった。だけど、そのなかに孫娘さんのちいさな笑顔はみつからなかった。つぎの月末の日曜日も、そのつぎの月末の日曜日も、お婆さんは映画館のまえで待っていた。だけど、それでも孫娘さんに会うことは、できなかった。

 お婆さんがそれまで勤めていた出版社を辞めて、映画館の切符売りになったのは、そのころさ。孫娘さんに会えないのであれば、仕事になんてなにも意味はない。それにこうすれば、約束の日である月末の日曜日を、仕事につぶされないですむ。まいにちだって、映画館のまえで孫娘さんを待っていられる。お婆さんはそう考えたんだ。

 切符売りの窓口越しに、お婆さんはいつでも孫娘さんのすがたを探していた。きょうは来る。きょうはきっと来る。そう信じて待ちつづけて、何年も経った。そのあいだに、お婆さんの髪はすっかり白くなった。顔のしわも深くなった。それでも、お婆さんの、こころは変わらなかった。お婆さんはまるで映画館の建物の一部になったみたいに、一日も欠かすことなく孫娘さんを待ちつづけた。そして、そのすがたを見ることのできないまま、ついに十年めを迎えた、ってわけさ。

 悲しい話だと思うかい? でもね、お婆さんは、その話をしながらも、ちっとも悲しそうではなかったよ。むしろ逆さ。お婆さんの瞳は、かぎりない希望にみちあふれていたんだ。映画館のまえで待ちつづけているかぎり、かならずまた孫娘に会える。お婆さんは、いまでもそう信じているんだよ。

 もう会えないのかもしれない、そうあきらめそうになったことは、何度でもあった。


「だけど、待つのをやめた次の日に、いつかの約束を信じてあの娘がやって来たらどうするの? たしかに、約束したんだもの。待たないわけにはいかないわ。ねえ、ちいさな約束を守るのが、大事なのよ。その積み重ねなのよ。ちいさな約束ひとつを守れないなら、大きな誓いなんて、もっと守れない。あなたにも、大事なひとができたなら、きっとそのことがわかるはずだわ」


 話を終えて紅茶を静かにすするお婆さんは、まるでヴィクトリア朝の貴婦人のようだった。ぼくはヴィクトリア朝の貴婦人なんていちどもじかにみたことはないけど、そう思った。お婆さんのふしぎな気品の正体が、なんとなくだけど、そのときわかった気がしたよ。

 お婆さんは、孫娘さんに再会しても、もう声はかけないつもりでいるんだ。あれから十年経って、孫娘さんは十七歳になっているころさ。ぼくらと同い年だね。あたらしい生活を楽しんでいる孫娘さんを、じぶんのことなんかで困惑させたくない、お婆さんはそういうんだよ。ただ、せめて、かならずいつか約束どおり映画館にやってくるであろう孫娘に、窓口越しに映画の切符をそっと手渡すだけでいい、それで満足さ、そういうんだよ。ぼくはその話をききながら、涙が出そうになった。あんなに感動したのは、初めて「サボテンブラザース」を観たとき以来さ。

 ぼくは席を立った。もうしわけないけど用事があるので、とお婆さんに別れを告げた。

 お婆さんは笑顔で、そう、楽しかったわ、ありがとう、といってくれた。ぼくも、ごちそうさまでした、こちらこそほんとうにありがとう、って答えた。

 ほんとはさ、用事なんてなかったんだ。ただ、その場にいたら、泣いてしまいそうだったから、それが恥ずかしくて、席を立ったんだ。それに、ぼくにはやらなきゃならないことがある、そう思った。お婆さんの孫娘さんをさがして、お婆さんに、ひとめ会わせてあげることだよ。だって来週の日曜日で映画館は閉鎖されてしまう。もう時間がないんだ。それにいまその映画館でやってるスティーブ・マーチンのコメディには、マーチン・ショートも出てるからね。これはもう、孫娘さんとお婆さんの再会を、運命が望んでいるとしか思えなかった。

 それからというもの、町を歩くときはかならずお婆さんの孫娘さんをさがしながら歩くことにした。われながらばかげてたね、この町に住んでるかどうかもわからない女の子を探して歩くなんて。でも、そうせずにはいられなかったんだよ。お婆さんの、ただ一心に約束を果たそうとする純粋さをみるにつけ。十年前の頼りない約束を信じつづけようとするお婆さんのまなざしをみるにつけ。ぼくもわずかな希望を信じたい、という気持ちになった。希望を捨てないこと、それが勇気だと思った。手がかりになるのは、お婆さんにそっくりだという、やさしくてきれいな瞳。たったそれだけだったけど、そのときのぼくには、それでじゅうぶんだ、って思えたんだ。

 だけど、いくら町を歩いてみても、そんな女の子はみつからない。うん、あのお婆さんみたいなやさしい目をした女の子なんて、そうはいるもんじゃないんだよ。ぼくはようやく、じぶんがやってることの無謀さに気づいた。宝の地図もないまま、勢いだけで船出して、夜の海のまんなかで、どこを目指せばいいか、見失った気分さ。

 もしかしたら、お婆さんの孫娘さんは、もう亡くなっているのかもしれない。いや、そもそもあのお婆さんの話は、じぶんの孤独と寂しさをまぎらわせるために無意識につくりあげた、お婆さんのありもしない妄想だったのかもしれない。そんなひどいことも考えたりした。

 でもね、あのときのお婆さんの瞳を思い出すと、そんなことどうでもいいじゃないか、って、そう思うんだよな。孫娘さんが生きていようと、死んでいようと。お婆さんの話が事実であろうと、妄想であろうと。そんなことは関係ない。ぼくがお婆さんを喜ばせるためにできるたったひとつのことは、お婆さんにそっくりな瞳を持った十七歳の女の子を連れて行って、切符売り場の窓口越しに、お婆さんにひとめ会わせてあげることだけだ、そう思ったんだよ。

 たとえそれが、お婆さんのほんとうの孫娘でなくともいい。お婆さんにそっくりな瞳を持った女の子であれば、お婆さんはきっと、それを自分との約束を果たしにきた孫娘だと信じるだろう。お婆さんにそっくりな瞳を持った女の子であれば、お婆さんの過ごしたこの孤独な十年って時間を、救ってあげることができるだろう。――

 

 そう考えたとき、ぼくはふと思い出した。

 

 うん。身近すぎて、それまで気づかなかったんだけど。

 いたんだよ。

 ぼくの友だちに、あのお婆さんにそっくりな、やさしくてきれいな目をした女の子が。

 おなじ学校の。おなじクラスに。

 いくらなんでも、もう気がついてくれたと思うけど――、




 それが、きみってわけなんだ。




 って、ど、どうして笑うんだよ? おかしくないだろ?

 うそなんかついてないさ。ほんとだって。きみの協力が必要なんだよ。

 ね、お婆さん、かわいそうだと思うだろ?

 映画館が閉鎖されて、壊されてしまうまえに、こころから喜ばせてあげたいって、思うじゃないか。人として。


 で、まあ、ここからが話の本題なんだけど――、




 こんどの日曜日……、よかったら、ぼくとスティーブ・マーチンの映画でも観に行きませんか?

                           (了)




2000年ごろ、原稿用紙換算21枚

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マイ・リトル・バターカップ D坂ノボル @DzakaNovol

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ