2. 夏の日の世界の終わり
死因はくも膜下出血だった。
駐車場の真ん中で倒れているのを早朝発見された遺体の頭部に外傷は無く先輩は病死と判定された。夜明け前徒歩で駐車場を横切ろうとしてたまたま途中で発症したのだろうと。
しかしひとり暮らしの自宅に遺されていた例の手記を読んだ私には先輩はみずから命を絶ったんじゃないかという思いがぬぐえない。くも膜下出血で自殺って、どうやって? 分からない。
あの手記が気になるのはそこに事実が書かれていると私が思うからだ。あそこに登場する「彼女」。私はたぶん彼女を見たことがある。外見の描写などは一切無かったがあれが彼女だと思う。
冬の日の雑踏で、横断歩道を渡り終えたところで、先輩は彼女と話していた。日暮れの早い冬の午後ビジネス街の路上で周囲の世界が流れるように動いているのにそこに立つ二人だけ時間が止まっているように見えた。私は流れる世界の方に属する人間で、先輩が話に集中しているようだったので声を掛けずに二人の脇をすり抜けて先を急いだ。
通りすぎる一瞬視線が合った。彼女と。彼女は微笑んでいた。
穏やかな笑みが視界の隅へ流れ風景と一緒に背後に消える。私はなぜか振り向いた。
彼女はいなかった。先輩も。雑踏に立ち尽くす私を避けて世界が流れた。
次に会ったのは春の公園だった。
緑は日ごと勢いを増し、やわらかい風が巨木の枝葉をざわざわとそよがせる春だった。天上から降りそそぐ暖かく優しい陽光がすべてを包み、すべてを輝かせていた。
草を踏み、ひとり歩く私の前に彼女はあらわれた。唐突に、巨木の陰から。
「こんにちは」と言って彼女は微笑みかけてきた。あの時、冬の雑踏で見たあの笑みだった。
私は返事をしようとしたが、したのだが、彼女はすぐに巨木の後ろに隠れて消えた。急いで裏にまわって見てみても、そこには誰も、いない。
夏の午後、三たび彼女はあらわれた。
坂道の上、白いワンピースを着て幻のようにたたずんでいた。つばの広い帽子の下で唇が小さく動き幻のように微笑んだ。
「またお会いしましたね」
声すらも幻のようだった。私はぼうっとしていて、やっとのことで喉の奥から返事をしぼり出した。
「ああ……そうですね」
夏の太陽が頭上から容赦なく照らす。今日の予想最高気温は40度だとか言っていた気がする。蝉が鳴いている。
「__蒼い」空を仰いで彼女は言った。「この蒼い空を越えたところには、もっと遥かで広大な星の世界が広がっていて」
坂の上の彼女の背後には夏の空が見える。陽光の入射角が深く青も深く濃く彼女は白く。
「宇宙は膨張している」彼女の顔が目の前にあった。今の今まで坂道の上側にいるのを見上げていたはずだが。
「膨張速度は観測地点から遠く離れるほど大きくなり」彼女の瞳が私の瞳を覗き込んでいる。私の瞳を。私の心を。
「膨張速度が光速に達したところが観測の『壁』になる。『壁』より向こうを観測することはできない。光速で遠ざかる『壁』から光速で伝達される情報は宇宙が膨張を開始した刻の姿を観測者に伝え続ける凍結した時間の姿。壁は世界の終わり。事象の地平」
めまいがした。幻のような彼女は本当に幻覚ではあるまいかと、ふと思う。
「観測不可能な『壁』の向こうには、何があるかしら」
観測不可能な壁の……向こう?
光速で遠ざかる『壁』は彼女の言うように事象の地平、世界の終わりだ。そこから先の時間も空間も観測できない。宇宙はそこで閉じている。それでも『壁』の向こうに何かがあるとするならばそこはもはや『空間』ではない。空間が無いのだから、やはり『向こう』というものも……無い。
「本当に?」
科学雑誌で多宇宙モデルの図を見たことがある。宇宙の中に複数の銀河があるように『それ』の中に複数の宇宙がある図だ。しかし『それ』は時間でも空間でもなく、人知を越えた何物かを表現する比喩、なの、では、
「そこには何があるかしら?」
彼女はくすくすと笑った。瞳の呪縛は解かれ、私は目をこすった。
……黄昏。いつの間にかこんなに時間が過ぎている。彼女はまた私から少し離れて坂の上に立っている。ワンピースが夕陽の色に染まっている。
「……きみは誰なんだ」
宇宙のことなどどうでもいい。彼女が何なのか知りたい。
「知りたい?」
知りたい。
「教えてあげる」
風が吹く。地上に残された夏の午後の熱気が渦を巻き、空が__暗い夜空が__さっきまで夕暮れだったはずなのに青暗い夜の始まりの空が文字どおり渦を巻いて、その、渦の向こうに見えるのは、見上げているのは……
__宇宙__
宇宙には始まりがあるという。では、始まる前は何だったのか。
結論はすぐに出る。『始まる前』は無かったのだ。
宇宙が存在しないところには時間も存在しない。
時間が存在しないところには過去も未来も無い。
宇宙が誕生する前、すでに宇宙は存在していた。
宇宙が消滅したあと、宇宙は存続し続けていた。
時間というのは認識の流れる方向にすぎない。
あなたはまだ生まれていないと同時に生まれようとしていると同時に生まれたと同時に死んでいないと同時に死のうとしていると同時に死んだと同時に死んでいると同時に生きている。
それを認識する主体が時間の流れを作り出す。
すべては私という主観の認識によって決定される。
私という主観の認識は物理法則に従って決定される。
物理法則は宇宙のすべてを支配している。
宇宙のすべてを認識するのは私という主観のみである。
なぜなら外界からの情報を認識しているのは私という主観のみだからである。
したがって宇宙のすべてを支配する物理法則の働きを認識するのも私という主観のみである。
物理法則が存在しなければ私という主観が認識する外界のパターンが決定されないため私という主観には物理法則が必要である。必要だから物理法則を主観的に認識している。現に。このように。
では。
私という主観が外界の認識を決定する必要が無かったら?
そこでは私は物理法則を必要としない。
ゆえに。
宇宙が存在する必要も無い。
なぜなら。
宇宙は物理法則にしたがって存在するからである。
「何を__」彼女は何を言ってるんだ。そんな、そんなことは「そんなことは聞いていない__」
流れる汗で私は顔も背中も濡れそぼっていた。夏。だから。そう、夏だから。汗をかく。当然のように。
無秩序の渦の中心にたたずむ彼女のワンピースははためいているのに帽子は微動だにしない。言いたいことは言ったとばかりにこちらの返答を待っている。ように見えた。
それが宇宙であるならば、世界は。
「そう。世界はあなたが主観による外界の認識パターンを決定するために存在する。あなたはそうすることによってのみ世界の中に自分の位置を見いだすことができるのだから。__世界は、あなたのために存在している」
そんな、それは、まさか、主観的にはそうかもしれないが。しかし転倒している。どこかに欺瞞がある。
「欺瞞も何も含めた世界のすべてがあなたの心の中にある」
いや、そうだ。あの理屈は循環論法になっていないか?
「世界の始まりに造物主がいるのがお好みですか? それとも始まりは記述できない特異点?」
そういうことではない。そういうことは言ってない。言っていない。
「悩む必要は無いの。あなたは確かに存在しているのだから。問題は、この先あなたが自分の存在をどう受け止めるのか。これでいい、とすべてを受け入れることも__世界のすべてを肯定することもできる。反対に、すべてを否定して、世界の存在を否定して、世界を滅ぼすことだって__」
なんだ。なんなんだ。彼女はいったいなんなんだ。おまえはいったい__「誰なんだ」
風が止んだ。
青空が戻ってきた。
夜は、どこかへ消えていた。
彼女は。
彼女はどこに行った。
蝉が鳴いている。彼女の声が聴こえる。
「世界を肯定することができない者は自らを肯定することもできない。そして存在意義を見失いついには自らの世界とともに、滅びる。
すべてはあなたとともにあり、あなたはすべてとともにある」
どこにいる。どこから聴こえる。
「もう少しであなたの世界も滅んだのにね」
それが__のぞみか__
「まさか。どちらがいいかはあなたが決めるの。あなたにしか決められないの」
おまえは誰なんだ。
「忘れないで。世界はあなたが決めるの」
私の世界は私が決めるとして__「きみの世界は誰が決めているんだ」
「わたし?」
声は背後から聞こえた。
「あなたが感じる世界のすべてはあなたが決めている」
「……なるほど」
私は振り向いた。白いワンピースの彼女は坂の下にいた。
「きみは自分が存在してると思っているのか」
「存在って不思議」
彼女は楽しそうに笑っている。
今度こそ、本当に日が傾いてきた。
「自分が存在してると感じているならそれでもいいけれど、それが現実とは限らないと思わないか」
「どういうこと?」
帽子のつばを揺らして首をかしげて問う彼女が、初めて本当に問いを投げて来たように見えた。
「虚構の中の登場人物に現実と虚構の区別がつくものかな」
「虚構世界の中での現実と虚構の区別ならつくんじゃない?」
「なまなましい感覚も現実の質感も鮮明な過去の記憶も、なまなましい感覚と現実の質感と鮮明な過去の記憶として設定されているだけだとしたら」
「五分前世界創造仮説みたいなことを言い出すのね」
「きみの記憶は本物か? きみには意志があるのか? きみが感じている世界は本当に感じているのか?」
「それはあなたには永遠に分からない」
「この世界のすべては私が決めているのにか?」
そう言われて彼女は帽子の下で眉をひそめた。初めてだ。これも。
「真の現実を体験したことが無い者に現実と虚構の区別がつくはずは無い。生まれたときから夢を見続けている者には夢と現実を比較することすらできない。きみには無理だ」
「なぜ」
苛立ち。それは隙だ。
「自分以外のすべてが虚構だと考えることは子供にもできるが自分自身が虚構だと考えることは難しい。きみにも難しいようだな」
「あなた、なに」
彼女が身構えているのが分かる。夕陽に照らされてオレンジに染まっている。蝉が鳴いている。影が長く伸びる。
私は冷ややかに彼女を見つめている。彼女は黙って私を睨んでいたが、その身に影が差したのに気付いて地面に視線を移し、そして異変に気が付いた。
「あなた、なに」
それはさっきも聞いた。しかし今度は彼女の表情が違っている。いぶかしんでいるのでもないし、楽しそうでもましてや微笑んでもいない。私を見る目は見開かれ据わっていた。両手で自分の腕を抱くようにした彼女はまるで化け物でも見るような目で私を見ている。
私の足元から伸びる影が彼女をとらえ、ゆらゆらと蠢いていた。
「こんな__あり得ない」
「何があり得ないかを決めるのはきみなのか?」
私の影は彼女を包み込み、白いワンピースを夕陽色から夜の色に塗り替えた。
「もちろん現実的にはあり得ない。こんなものは虚構だ。それを言うならきみだって虚構だ」
「やめて」
「今さら」
黒く蠢くなにかが彼女の足から這いのぼり頭の先まで侵食して全身を闇に沈めると、私に据えられたその瞳だけが世界を映して夕陽の色に輝いているように見えた。化け物でも見るような目だけが。やめてほしい。そういう目で見るのは。
思わず目をそらし、また向き直ると私の影は蠢くのをやめていた。夏の夕陽を受けて伸びる長い影法師。蝉が鳴いている。
彼女は消えていた。つばの広い帽子だけが坂道に転がっていた。
風が吹いた。ごく普通の風だ。つばの広い帽子はごく普通の風にふわっと持ち上げられたが、すぐに落ちた。
物語の終わりに帽子を舞い上げてどこかへ運んで消し去ってくれるような便利な風は吹かなかった。私は帽子に背を向けて坂を登り始めた。気温も落ち着いてきた。坂の向こうにはまた世界が続いているはずだ、続いていればいいなと、普段は意識しないようなことを思った。蝉が鳴いている。夜が近付いている。もちろんすべては虚構なのかも知れないが、虚構の中の私に真の現実とやらとこの虚構の区別はつかないし、ついたらついたでどうにかしていくしかない。それは覚悟なんて大層なことではなくて、そうするしかないからそうするしかないと思うのだ。
ねえ、そうだよね。
冬の終わり夏の終わり しのはら @shinola
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