冬の終わり夏の終わり

しのはら

1. 冬の日の彼の終わり


 無にいると思った。時間と空間が存在しないのだと。時間と空間が存在しないのに思考があり私があり何かを感じているのだがそういう設定の夢だった。と思う。

 闇の中にいた。闇の中に光が在る。光の中に何かが在る。見える。視界が赤く染まり血の匂いを感じた。夢の中で匂いを感じたのは初めてだった。

 血。流れる血。

 傷口。

 凶器。

 暴力。

 苦悶。

 息苦しい。

 喪われる命。

 喪われた命。

 肉が落ちている。

 体温を失う屍。

 いのち。


 神タネが妻を欲しいと思い土で女の形を作って生命を吹き込んだ。タネはこの女と交わってヒネという娘を生ませヒネが成長すると自分の妻とした。ヒネは夫が自分の父親であることを恥じて死に、地下に行って偉大な夜の女神ヒネヌイテポとなった。妻の死を悲しんだタネは地下にあるヒネの家を訪れ戸を叩いたがヒネは戸を開けず、一緒に戻ってくれと言うタネにこう宣言した。

「あなたはひとりで地上に帰って明るい陽光の下で子孫を養いなさい。私は地下にとどまり彼等を暗黒と死の中に引き下ろすでしょう」

 しかたなく、タネは悲しみの歌を口ずさみながらひとりで地上に帰ってきた。(ニュージーランド、マオリ族の神話)


 絶妻之誓いを受けて伊耶那美命は言う「愛しき我が夫よ、そうするならば汝の国の人草一日に千頭くびり殺そう」伊耶那岐命は言う「愛しき我が妹よ、汝がそうするならば吾は一日に千五百の産屋を立てよう」(日本の神話)


 私は夢をきっかけに死にとり憑かれた。と言っていいのだろう。自分がいつか死ぬとか人はみな死ぬとかいうことではなく、死とは何かという想念が頭を離れなくなった。時代遅れの哲学者のようだなと思い、いやこの問題が時代遅れになることはないのではないかとも思った。


 この世の始め人は不死だった。ただ月が欠けるときは人も痩せ、満ちるときは人も太った。そのうち人間の数が増えすぎたので最初の人間の息子が父に尋ねた。どうしたらよいかと。最初の人間すなわち息子の父はそのままにしておけと答えたが、最初の人間の弟は人間もバナナのように子孫を残して死なせろと言った。地下界の主が弟の言い分をとったので、人間はバナナのように死なねばならなくなった。(マレー半島、メントラ族の神話)


 昔の話だ。昔この星の上で、始源の海で高分子有機化合物が複製を生み出すようになった。どこかになんらかの意図があったのではなく、結果としてそうなった。と。科学は言う。

 複製を作り分裂するそれを生命と呼ぼう。自他を分かつ膜で囲まれた分子の巨大な複合体が膜の外から取り入れた物質を材料に自らの複製を生み出し分裂する。増える。分裂する。増える。分裂し、また分裂し、分裂し、増えて増えて増えて死に死に死ぬ。死んで死んで残ったものがまた増える。変異を繰り返しながら分裂し増えて増えて死に死んで、どれかが生き残ればまだ増える。太古から生き続ける。

 しかし我々は死ぬ。


 産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。(創世記1章28節)

 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2章17節)


 死は進化の結果もたらされたものなのか。なぜそんな進化が起こったのか。生命は死を必要としているのか。ならば何のために生きるのか。ああ、もちろん生きること自体に理由などないのだ生きているからには生きるしかないのだ。生きる意味を求める個人の感慨など生命の進化にはまったく関係が無い。無いのか?


 思索は無駄なのか?


 無駄ではない。と彼女は言った。

 冬だった。灰色の建物、灰色の生命。雑踏の人と人と人と。人は死ぬがあの灰色のビルはどうだろう。いつか倒れる。朽ちて落ちる。それを死と呼ぶのは比喩だ。ビルは生きてはいない。そして死者も、生きてはいない。生きてはいない死者を構成する細胞がすべて死んでいるとは限らない。

 この街を行く人たちは生きている。

 生きているように見える。

 本当に生きているのかおまえたちは。


 お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に返るときまで。

 お前がそこから取られた土に。

 塵にすぎないお前は塵に返る。

 (創世記3章19節)


 横断歩道を渡り終えたところに彼女がいた。「知りたいなら__」と彼女の口が動いた。「心をひらかないと」と。

 心をひらけばいいのか? それで何か分かるのか? あなたに心をひらけばいいのか?

「他人は他人」と彼女は言った。「でも他人が他人じゃなくなることもある。自分が他人になることもあるし他人が自分になることもある。心をひらいて。自分の心を自分にひらいて」

 こころをひらく__

「ほら奥に何かが在る」 

 私のこころの奥に?

「答えがある」

 答えがある。

「あんなにも切望した死の答えが」

 あんなにも切望していた死の答えが。

 そうか。

 夢で見た闇の中の光。

 いのち。

 を、越えて。そのさらに奥へと行けばよかったのだ。より深いところ、より高いところを目指して__

 それはより高い認識。より高い事実。

 事実が拡大する。

 広がる。拡がる。

 事実が拡がる。空間が拡がる。時間が拡がる。認識が拡がる。こころが拡がる。私は存在する。生命として存在する。

 生は死を発明した。古い肉体を棄て新しい肉体を育む多様性。生命は多様な進化を欲している。何かを求めて進化する。その先には何があるのか。アートマンとブラフマンは不二であるのか。それとも一者から流出した存在物が一者へと還るのか。

 我々は進化の途上に在る。我々は生命の入れ物である。進化の入れ物である。死の入れ物である。我々の入れ物である。

 自分の入れ物である。

 自分を進化させようとする自分である。

 私を進化させようとする私である。

 私を支配する生命であり生命を支配する私である。

 私は生命を知った。死を知った。

 それは私である。それは宇宙である。宇宙は私である。

 すばらしい。すばらしい生命。すばらしい私。すばらしいすべて。すばらしい__


 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりにくらし。(空海)


 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(創世記3章22節)




 以上の手記を遺し、彼は遺体で発見された。



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