あさひとゆうひ
久保田弥代
[ 本編 ]
はじめの「アッ」にイントネーションを置いて、「あっさひー♪」。低いところの「ユッ」から持ち上がるようにして、「ゆっうひー♪」
そう続けて呼ぶと、我が家の飼い猫、あさひとゆうひは、居間に飛び込んだあたしの顔を見に来てくれる。
「おーよしよし、あさひ、ゆうひ、相変わらず美人ちゃんだねー」
よく似た毛並み、よく似た小肥り気味の体格をした、たぶん姉妹の八歳になる雌二匹。背中に浮かぶ丸い茶色のブチが名前の由来だ。あたしが中学の時に、捨てられているのを拾って来てからの、わりと新しめな家族の一員。大学に進み家を離れ、季節に一度しか、あたしが実家に帰ってくる機会はなくなったけれど、この子たちはまだ、あたしを家族だと覚えてくれている。
「またあんたは。こっちのお帰りも聞かないうちから、猫と遊んでるの?」いつもと同じ、母の可愛らしい小言までが1セットで、あたしの帰宅の儀式が完了だ。
いつもと同じ。けだるいくらい繰り返した帰省の風景だったのだ。両手で同時に二匹のお腹を撫で回すうちに、びっくりするほど同じであるはずの、二匹のお腹のふっくら加減に、違いが生まれていることに気付くまで。
痩せ始めていたのは、あさひの方だった。
はじまりの時に、もっと気にしていればよかったのだ。けれどその変化はゆっくり過ぎて、先に続く道筋がもうすっかり出来上がっているなんて、あたしたちは思いも寄らなかった。たまに起きる体重変化。そう思って、その時のあたしは、変化を気にしないようにしてしまったのだ。
あたしが大学に戻ってから、それはジェットコースターが降下するように速度を増していった。
徐々に落ちていくあさひの体重。それ以上のペースで失われていく食欲。実家にいたくてもいられなかったあたしは、遠くで『楽』をさせてもらっていた。もちろん胸は痛んだ。だがそれも、目の前で日々弱る姿を見守り、すがる思いで看病し、嫌がるあさひを連れての病院通いを続けた両親に比べれば、毛ほどの苦労でもないはずだった。
あさひは、ガンに罹っていた。
予定を大幅に早めた次の帰省で、あたしは、痩せた母には「えっ」と声を出し、痩せ衰えたあさひの姿には、呼吸することも忘れた。
ゆうひの姿形に変わりはなかったが、片割れの痛々しさが伝わるのか、今までよりもずっと元気がなかった。
父までもが、少し痩せていたようだった。
「ごめんね」とあさひに謝った。みんなに謝った。あたしは何もしていなかった。出来なかった。逃げていた。
「おまえには、おまえの生活があって人生があるんだから」と両親は言ってくれた。ゆうひはあさひの側に寝転びながら、あたしを見つめた。いつものようにあたしに撫でられるのを、期待しているみたいだった。
ゆうひにはいつも通り、あさひには、身体が痛まないようにおっかなびっくりに、優しく優しく撫でてやった。二つの手を、違う調子で撫で回してやるのは、涙があふれるくらいに難しいことだった。
あたしが次に帰省するのを待ってはくれず、あさひは息を引き取った。あたしは、あさひを看取ってあげることすら出来なかった。
まだ九歳になる前だったのに。まだ二倍は生きてくれると思っていたのに。疑ってなかったのに。あたしたちの、新しめな二匹の家族。それが、片割れのゆうひだけになってしまった。
「あさひはおまえが悲しむところを見たくなかったんだよ」と両親に言われた。でも納得できない。あたしが拾って、両親を説得して、ゆうひと一緒に世話して育てて、大きくなるのを見守ってきたのだ。家を離れてはしまったけれど、あたしには、責任があるじゃないか。どうしてそれを全うさせてくれなかったのさ、あさひ。
悔やんで悔やんで、泣いて泣いて、あたしは、もう『どうして』なんて言わないことに決めた。させてくれなかった、じゃない。あたしがしなかったんだ。決断しなかったんだ。『家族』のあさひではなく、あたしは、あたしの生活を選んだ。だったら、これからは決断する。あたしは『家族』を選ぶ。
バイト代を割いて、ゆうひにはペット用の保険をかけた。ガン保険もついたやつだ。それくらい両親が払うと言ってくれたが、謹んでお断りした。これはあたしの責任でやりたかったからだ。それよりも自分たちに保険をかけておけ、ガン保険のついたやつを、と言っておいた。
新卒の就職先には、なるべく実家への行き来がしやすい土地で、やりたい仕事がある会社を選んだ。難儀はしたが、かろうじて就職には成功。帰省も前よりは頻繁に出来る。これで両親には胸を張って、
「二人に何かあったらすぐに帰ってこられるし、絶対にあたしが二人を看取るからね」
と宣言することが出来た。
「今から縁起でもないこと言うな」と異口同音に叱られて、
「でも、ありがとう」
と、しみじみ感謝された。
ゆうひは、保険を使う機会もなく元気に過ごしてくれている。両親いわく、あたしが帰ってきている時にだけ、部屋の片隅をじっと見つめる――ということがあるそうだ。だとしたらそれはきっと、
「あさひも帰ってきているんだな」
と、三人の意見が一致している。
そういう生活をあたしは選んだ。あさひのせい――ではない。あさひのおかげだ。自分の選択、決断に、あたしは満足している。たとえ独り身を貫くことになろうとも――そう思っていた。
たびたび帰省し、たびたびゆうひのお腹を撫で回す暮らしを続けるうち、ゆうひも、そろそろお婆ちゃんという年齢にさしかかった。母の病気の看病のために会社を辞めたりもした。母の回復後は転職し転居もした。申し訳なさそうにする母は、抱きしめれば黙るということをあたしは覚えた。
それがあたしの選択だ。
ゆうひは前ほど走り回らないし、撫で回してやってもすぐに満足するのか飽きるのか、プイとどこかに行ってしまうようになったが、健康で元気だ。
でも、部屋の片隅をじっと見つめることは、以前に比べたら少なくなったように思う。
徐々に、変化は訪れる。それは、あたしの身の上にも。
『家族』を選び続けてきたあたしだが、こんな『選択』を迫られることもあるのだとは、予想していなかった。
あたしは選ばれ、悩み、考え、迷ったあげくに、ひとつの道を選んだ。
その結果を、今日この日、告げに行く。
一人の伴侶に愛され、愛し、これからの人生を、新しい家族として生きていく決断をしたのだと、家族たちに告げに行くのだ。
そういえば、彼の名前を家族にはまだ教えていなかった。それを知ったら、みんなどんな顔するだろう。ゆうひは、どこか部屋の片隅を、じっと見つめたりするだろうか。
あたしはひとりで、クスクスと笑ってしまう。
佐藤というありふれた苗字で埋没してしまわないようにと、彼の両親が苦心して、主張のある、けれど奇をてらわない名前を考えたのだという。
その名前が、あたしがこの人を選んだ理由ではないけれど――でも、こんなこともあるんだな、と不思議な気持ちになる。
彼を実家に招き入れる時、一度だけやらせて、笑わないでねと前置きして、あたしはこう言った。
「お帰りなさい、
―了―
※)本作は、Webサイト【即興小説トレーニング】 http://sokkyo-shosetsu.com/ において、「制限時間・2時間」「お題:昔の朝日」「必須要素:ガン保険」の条件の下で書かれたものです。
あさひとゆうひ 久保田弥代 @plummet_846
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