恋人の時計
忍野佐輔
恋人の時計
それを見て孝之は心の中で苦笑する。その店員と面識はなかったが、恐らく先日の騒ぎを聞き及んでいるのだろう。時計をオーダーメイドして貰う為に半日以上ねばったのだから、当然かもしれない。
カウンターの前に孝之が立つと、女性店員は優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ご注文のお品ですね?」
「はい。……先日は、その、すみません」
「いえいえ、いつものことですから」
どうやら自分以外にも、ああやって粘る客はいるらしい。
そう思うと、孝之の罪悪感が少しだけ軽くなった。
「では、念のため中身の確認をお願いいたします」
女性店員は箱を開いて、注文していた腕時計を孝之に差し出す。
注文通りだ。『H・F』のイニシャルもきちんと入っている。
孝之は店員に「ありがとう」と告げ、包装して貰った時計を受け取る。
「ありがとうございました。どうぞ――これからもご
店員の言葉を背に受けて、孝之は店を出る。
途端に冷たい空気が身体に突き刺さった。春先だというのに、まるで冬のような寒さだ。街行く人々も秋物や冬服が目立つ。そう言う孝之自身も今日ばかりはコートを羽織っていた。同居人の『異常気象で寒くなる』という忠告に従ったのだが、それが無ければ今ごろ凍え死んでいたかもしれない。
空を見上げてみれば、日射しすらも弱々しかった。まだ三時くらいだろうに、まるで夕方のようだ。
孝之は時間を確かめようと、上着のポケットから懐中時計を取り出す。
「ん?」
異常は見てすぐに判った。
文字板のカバーガラスが割れ、時計自体も止まっていたのだ。
どこかでぶつけて壊してしまったらしい。彼女から貰った大切な時計だったのだが。
今度、あの時計屋で直して貰おう。
ため息をついて、孝之は壊れた懐中時計をポケットに戻す。
孝之は白い息を吐きながら家路へとついた。
「ただいま……?」
アパートのドアを開け、そう声を張り上げる。
返事はない。良かった、どうやら同居人は出かけているらしい。孝之は胸を撫で下ろして自室へと急ぐ。先ほど買ったものを見られるのは避けたい。
そうして孝之が買ったものを自室の机に置いた時、玄関から鍵を開ける音が聞こえた。
「ただいま~」
「おかえり」
孝之が玄関へと出て行くと、
「ありがと」
「今日は――――イタリアンかな?」
「んふ、正解っ」
遙は嬉しそうに微笑む。
同棲し始めて三ヶ月の恋人は、いつも通り美しかった。
が、
「あれ、少し疲れてる?」
食材を返すとき、遙の表情が少し陰ったように見えた。
「…………ん? ううん、そんなことないよ」
孝之の問いを軽く受け流して、遙はキッチンへと消える。
こりゃあ職場で何かあったかな。孝之はそう恋人を心配する。愚痴があるようなら吐き出させてやらんと。ストレスを溜めこむのは良くない。
「遙、料理手伝うよ」
「そお? じゃあ、こっちお願い」
孝之は料理を手伝いながら恋人の愚痴を聞こうとする。だが結局、遙の口から愚痴が漏れることはなかった。
まあ、いいか。
嫌なことを忘れて穏やかな時間を過ごすのも良い。夕食を終える頃には、孝之もそう考えるようになっていた。
それに、今日は大切な日なのだ。
「なあ、遙」
夕食を終えた後、『今だ』と感じた孝之は意を決して、恋人に声をかけた。
その声がいつもと違うものだったのだろう。遙も身構えるように「ん?」と首を傾げる。
「これ――あんまり高いもんじゃないんだが」
そう言って孝之は、昼間に買った時計を差し出した。
恋人への交際一周年記念のプレゼントだ。
中身を見た遙は「わあ」と歓声を上げたあと、眉をひそめた。
「これ、イニシャルが間違ってるよ」
遙は『H・F』と彫られたイニシャルを指して言う。
彼女の名前は『楠木遙』なのだから、イニシャルは『H・K』だろう。と言いたいらしい。
「ああ。イニシャル間違えちゃったか」
「ちょっと、一周年のプレゼントでしょう? ちゃんと確認してよ」
ムッとした表情で、遙は時計を孝之に突き返そうとする。
それを孝之は「ああ、でも」と遮った。
「でも今からじゃ直せないし」
「でも――」
「だからさ、その、『藤原 遙』になってくれよ。そうすればイニシャルが合うだろう?」
「……そ、」
「僕と一緒に、同じ時を過ごしてくれないか?」
何度も考えたプロポーズの言葉だった。
虚を衝かれた遙の顔が固まる。
暫く、沈黙が流れた。
「は、遙?」
耐えきれず、孝之は口を開く。
「――、――よ」
「え? 聞こえない」
「だから、いいよ。その時計、わたし貰う」
「…………えっと、つまり」
「プロポーズなんでしょ。受けてあげる」
その時、湧き上がった感情を何と表せば良いのか、孝之にはわからなかった。
お互いに笑いあって、何故か、お互いに涙を流していた。
ともかく嬉しくて、ほっとして、恥ずかしくて、そして幸せだった。
そうして、
同棲しているものの、お互いの部屋は分けている。それは
そういう気遣いを思い出す度、遙は嬉しくて、たまらなくなる。
パチリ、と自室の灯りをつけた。
途端、
壁一面に広がる『腕時計』のカーテンが、キラキラと光っていた。
それらには全て同じ
遙は僅かに空いたスペースに、547個目の時計を飾った。
「今日も幸せだったね」
遙はその時計を優しく撫でる。
『一周年記念&プロポーズ記念』という日を繰り返すようになって、既に一年半。
どれだけ繰り返しても、時計を受け取る時に沸き起こる、言いしれぬ感情が薄れることはない。
恋人である
交通事故で脳に大きなダメージを受け、事故以降の出来事を長期間記憶できなくなった。ひと言で表すなら、一晩寝ると、その日の事を総て忘れてしまうのだ。
以来、藤原孝之は目を覚ます度に『交際一周年記念日』を迎えている。
その日壊れた懐中時計同様、彼の時間も止まってしまった。
――だから、
時計店に同じ時計を大量に注文し、時計を受け取りにきた孝之に渡して貰えるよう手配。テレビには録画した当時の番組が映るようにして、カレンダーもずっとそのまま。彼の友人達には藤原孝之と縁を切って貰らった。それでも不安で、孝之が外に出る度、彼が違和感に気づいた場合に備えて後をつけている。季節の移り変わりを誤魔化すのは毎回苦労するが、孝之自身の認識能力が落ちているのか最近は『異常気象』のひと言で済んでいる。
だけど『疲れてる?』と孝之は気遣ってくれた。
周囲の異常に気づけなくても、わたしの事はちゃんと見てくれている。
だからわたしは、どんなに大変な事でも頑張れるのだ。
遙は、壁一面の腕時計を端から順番に撫でていく。
大丈夫だよ、孝之。
わたしは約束したから。
一年半前からずっと、毎日あなたと約束してる。
「ずっと一緒に、同じ時を過ごしましょうね……孝之」
【endless】
恋人の時計 忍野佐輔 @oshino_sasuke
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