桜花は一片の約束  - 終春賦1945 -

ニセ梶原康弘@アニメ化企画進行中!(脳内

終春賦 1945

「ここね……」


 見上げた門の材木は、長い間掃除も手入れもされなかったのですっかり腐っていました。

 己の重さに耐えかねて横木が崩れ落ちています。

 私は、残骸のようなその門から中へと足を踏み入れました。



**  **  **  **  **  **



 山奥に近いこの家にずっと人は住んでいません。戦後から無人の家になったらしいようです。

 だけど、ここにはおどろおどろしい姿をした怨霊がずっと棲んでいるという噂がたっていました。

 しかも興味本位でこの家に訪れその恐ろしい姿を見た者は一人や二人ではなく、この屋敷は呪われた化け物屋敷として近隣に知れ渡っている、と私は聞きました。

 そんな噂のせいか、この廃屋はまるで時代から打ち捨てられたように取り残されていました。

 それでも、昨年計画された新興住宅地の新たな用地に組み入れられ、ようやく取り壊しの対象となったのです。

 そんな経緯から取り壊した後に祟りでも起きないよう、除霊と供養をして欲しいと霊能力者である私のところへ依頼が来たのでした。


 ただ、除霊の依頼を受けた私が最初この家を下見したとき、不思議なことにいつも感じるはずのおぞましい邪気や霊気は少しも感じませんでした。

 感じたのは今にも消えてしまいそうなほどかすかな哀しみと寂しさ。それだけでした。


 詳しく話を聞いてみると、恐ろしい霊の姿を見たという話はあるものの、危害を加えられた話や呪われて実害を受けた話は一つもありませんでした。

 そこで今回は丸腰でそこへ除霊に行こうと思い立ちました。敵意を示さない為に霊の害意を砕く法具や護身の符も一切身につけません。

 恐ろしくないのかと言われたら、確かに多少は怖いし、不安もあります。

 だけど、浮かばれぬ魂や憎しみに歪んだ霊を鎮めて天に還すという奇特な仕事をしている以上、大なり小なり不安や恐怖はつきまといます。

 私はいつも除霊師というという自分の仕事をそんな風に割り切っていました。

 それに、好奇心もあったのです。

 下見に立ち寄ったとき私が感じたのは寂しさだけではありませんでした。

 それは何かを想い慕う、美しい感情でした。


 何かを憎み、怨んで、魂のあるべき形が歪み、おぞましい姿をした霊魂ならいくらでも見てきました。

 そして、除霊のために近づくと霊魂から吐き気を催すような瘴気を嫌でも嗅がねばなりませんでした。

 だけど、この家にからはそんな匂いを少しも嗅ぎ取ることはありませんでした。

 では、どうしてそんなに恐ろしい姿になってしまったのでしょうか?

 私はそれを知りたいという気持ちもあって、敢えて無防備な状態でこの崩れた家へと足を踏み入れたのでした。



 屋根は茅葺かやぶきでした。

 手入れもされず長い間放置されているうちに、屋根から柱や梁木へと腐敗が進んだようです。

 壊れた玄関から見渡すと屋内はほとんど朽ちていて、腐った嫌な匂いがしました。

 縁側の破れた障子戸も風雨に晒され、腐った床板から落ちた畳は半ば土と同化しています。私は顔をしかめるとその場を離れて庭へと歩を進めました。

 しかし、そこも雑草が生い茂り、庭と言うより野原のようになっていました。

 そこに一本の木がぽつねんと立っていました。

 捻じくれた、小さな桜の木。

 かすかな霊気はここに憑いていました。

 過去に火事にでも遭ったのか焦げて黒く変色しています。その後、まっすぐに成長することが出来ず、まるで苦悶するように捩れてしまったようです。本当なら、もうとっくに朽ちて枯れているはずの木でした。

 取り付いた霊気はそれを懸命に枯らすまいとしていたようでした。木は最後の力を振り絞るようにして花を咲かせていましたが、ほとんどの花びらはもう風に散ってしまっていました。

 本来なら花に代わる緑の芽吹きもほとんどありません。この木にはもう、新たな季節を生きる力すらないようでした。

 私の感じる霊気も今にも消えそうなほど、か細くなっていました。

 人の生に例えれば、それは臨終に近いことを意味していました。

 他に手がかりはないのかと思って目を閉じ、自分の周囲に気を巡らすと、家の中に何かを感じました。

 それは、桜に憑いた霊気と何か繋がりがありそうでした。


 土足のまま砂と泥で汚れた縁側に上がり、床板を軋ませて、座敷らしい部屋へと入ります。部屋の中には家具らしいものもありましたが、私が感じたものはそこにはなさそうでした。箪笥の陰を覗き込むと、桐で作られた手文庫がありました。

 きっとこれです。

 蓋を開くと、変色した薄紙に大切そうに包まれた手紙が入っていました。

 私は、心の中で勝手に読む失礼を詫びると、手紙を静かに開きました。

 手紙には丁寧に書いた金釘流で、こんな文章が綴られていました。



――春の広島は桜がとても綺麗です。

貴女とこの桜を一緒に見たかった。

中には日のあたらない場所で咲いている花、痩せた土壌で苦しげに生きている木もあります。

木や草花は自分で生きる場所を選べません。

だけど、どんな場所でも深く根を張り、花を咲かせ、精一杯生きようとします。

そんな健気な姿を見ると、私はどんな時でも、どんな場所でも、一生懸命生きようと思うのです。

私の船はこれから沖縄に向かいます。

帰って来たら、もう一度貴女とあの桜の樹の下でお会いしたいと思っています――



 手紙には潮の香り、鋼鉄の匂いがごく僅かな気配となって残っていました。

 そして文面には、誰かを大切に慈しむ、やさしい想いが遺されていました。

 でも、それは私がこの家を下見に来た時感じた、美しい感情の持ち主とは別の人のようでした。


 私は、残された僅かな気配を頼りに、更に気を集中しました。

 そうすることで、その手紙を書いた人の人となり、その人の時代と運命を辿ってゆくことが出来るのです。

 私の脳裏に浮かんだおぼろげな景色は次第にはっきりとした輪郭と色合いになってゆきました。

 垣間見たのは様々な情景でした。

 桜の花に似た淡くささやかな恋、暗闇のような絶望の時代、運命に抗い立ち向かう人々、炎と嵐が吹き荒れ血に染まる空と海。

 そして、私が最後に見たものは……


「そう、そうだったのね」


 私は、涙を拭うとその手紙を胸にしまって縁側から庭に出ました。周囲を見回します。手頃な板切れを拾って折ると、何とかスコップ代わりになりそうでした。

 桜の木に歩み寄ると、その根元の土を浅く掘りました。手紙を広げてそっと置き、文面を隠すように土を被せました。


「この手紙を書いた人を、貴女はずっと待っていたのね」


 手紙を埋め終えた私は、桜の木に触れて語りかけました。

 はっきりわかったことは、この木に憑いた霊魂は人に祟るような害意などなく、ただ手紙の送り主をもう何十年も待ち続けていた……ということでした。

 そして、何もしなくとも生気の絶えたこの木と共にもうすぐ消えるということでした。

 この哀れな霊魂をこらしめて駆除する必要などない、このままそっとしておいてあげよう、私はそう思いました。

 そうして、この家を出ようと庭から踵を返した時でした。


「ありがとう」


 ふいに、背後から鈴を転がすような少女の声が私に呼びかけました。

 しかし、驚いて振り返ろうとした私は「待って、こっちを向かないで」と悲しげな声に押しとどめられました。


「みんな私を怖がるの。だから振り返らないで。私を見た人はみな恐ろしい化け物だと言うのよ」

「そう聞いたわ。でも私は……」

「ええ。あなたはとても強い力を持っている。私を消すためにここに来て、でももうすぐ私が消えることを知っていて何もしないでくれるのね」

「あなたはどうしてそんな姿になってしまったの?誰かを怨んでいるのでもないでしょうに」

「……」


 ややあって、背後の声は静かに語り始めました。


「六九年。私は待ち続けたの。戦争は負けそうになって、とうとう沖縄まで戦場になってしまった。でも、あの人は約束してくれたわ。僕の乗っている船は絶対に沈まない船だからきっと帰ってくる……そう言って」


 私は黙って頷きました。

 手紙の気を辿って私が垣間見た情景は昭和の初めの頃でした。

 そう、あの太平洋戦争の時代だったのです。


「最後にあの人がくれたのが、あなたが埋めてくれたあの手紙だった。私は信じて待っていたの。この桜の木の下で待っていたら、きっとあの人は帰ってくる。今度逢うときはもう二度と離れない。そう心に決めていたわ。でもあの夏の日、突然落ちてきた悪魔のような太陽が私を……」


 まさか……私は息を呑みました。

 沖縄戦のあった太平洋戦争最後の夏、広島に落とされた悪魔の太陽。それは紛れもなく人類が犯した最大の、あの禁忌に違いありません。


「そうだったの……」

「あの光が私の身体を焼いたの。死にたくない、あの人にもう一度逢いたい、そう思いながら私は焼けただれ、こんなに醜い姿になり、この桜の木と溶け合って死んでしまった……」


 一九四五年八月六日。

 突如、広島に現われた人為の地獄は、桜の木の下で想い人を待つ少女を一瞬にして焼き尽くし、生命を奪ったのです。


「こんな姿になってしまったけれど、桜の花が咲く頃にあの人はきっと帰ってきてくれる。そう思って毎年、一生懸命花を咲かせながらずっと待って。でも、もう……」


 悲しく震える声は、いつしかすすり泣いていました。


「あの人はどうして来てくれなかったの? 最後の力を振り絞って今年の花を咲かせたのに。私はもう力尽きて消えてしまう。新しい季節が巡って来てもこの木には花を咲かせるどころか、芽吹く力すら残っていない……」


 私は静かに応えました。


「辛いでしょうけど聞いてね。あの人は死んでしまったの、あなたと同じように。もう二度とここへは戻れないの」


 悲しい真実。

 だけど悲嘆に暮れたまま消えるよりせめて未練を残さないように、私は手紙から辿って知った真実を告げようと決心しました。


「死んでしまった……あの人が?」

「あの人の船はね、激しい戦いで沈んでしまったの。あの人は貴女にもう一度逢いたいと思いながら戦いに倒れ、奥都城おくつきとなった船と共に水底へ沈んでしまったの……」


 私は手紙から感じた過去の情景を心に広げ、彼女に見せてあげました。



 一九四五年四月七日。

 地獄の戦場となった沖縄へ救援に赴くべく、広島から小さな艦隊が出航しました。

 四年に渡る戦いで壊滅した日本海軍の最後の艦隊。

 その中に、ひときわ威容を誇る巨大な戦艦の姿がありました。

 それは強大なアメリカと戦うため、貧しい日本が必死に作り上げた不沈戦艦でした。

 しかし、生き残った僅かな護衛艦を従えて出撃したその戦艦には充分な燃料も、上空を護るべき航空機もありませんでした。

 艦隊は、たちまちアメリカ軍に発見され、攻撃機の大編隊から繰り返し空襲を受けます。死に物狂いで戦いながら彼等はそれでも沖縄を目指しましたが、最後にはとうとう力尽きて沈んでしまったのです。

 そして、巨大な爆炎を天高く吹き上げて沈没した戦艦と共に彼女が待ち続けていた彼も戦死し、海の底深く沈んでいったのです。


――私は、どんな時でも、どんな場所でも、一生懸命生きようと思うのです――


 戦争という過酷な時代の中でただ誠実に生き、時代の波に飲み込まれるまま。

 愛する人が三ヵ月後に、残酷な運命に遭うことも知らぬまま。



「ああ、あの人は……あの人はずっと海の底で眠っていたのね……」


 悲しい光景に慟哭する彼女を労わるように、私は静かに諭しました。


「もう待たなくてもいいのよ」

「……」

「戦争はずっと昔に終わったの。あの人はもう帰ってこないけれど、辛いことは忘れてここで安らかにお眠りなさい」


 せめて貴女が静かに眠れるように霊句を唱えてあげるから……と私が言いかけたとき、彼女は「いいえ」と遮りました。


「ありがとう。あの人のことを教えてくれて。わたし、行かなくちゃ」

「行くってどこへ? まさか……」


 驚いて息を呑んだ私の背後で、かすかな風が弱々しく舞い上がる気配を感じました。


「あんなに暗くて深い海の底で、あの人はどんなに淋しくて辛かったでしょう。私、行かなくちゃ……」


 今にも消えそうなのに。辿り着けるかさえもわからないのに。

 それでも旅立とうとする声は凛として、ためらう気振りすらありませんでした。

「あなた、あの人のところへ行くつもりなの?」

「ええ。でももう風に乗るための花びらはもうほとんど散ってしまった。あとはようよう飛べるだけ……でも」


 私、行くの。あの人の眠る海へ――


 次の瞬間、私の身体を温かい風がつつみ、桜の花びら達が風に舞って吹き過ぎてゆきました。


「ありがとう。さよなら……」


 それは、まるでささやくような、やさしい声でした。

 振り返るともうそこには何の気配もなく、ただ、かすかな桜の残り香だけが漂っていました。

 暮れなずむ、美しいの夕暮れの中に……



**  **  **  **  **  **



 私があの家にはもう何の霊障もないと告げて間も無く、あの廃墟のような家は取り壊されました。

 帰らぬ人をひそやかに待ち続けていた悲しい霊のことなど誰も知らぬまま、やがて活気に満ちた音と共に整地や基礎工事が始まりました。

 しばらくしたら、そこは何も知らない人々の新しく楽しい生活の場となるのでしょう。


 彼女は、愛する人の許へ辿り着けたのでしょうか。

 私には知る術はありません。沖縄の彼方の海はあまりに遠く、そしてあまりにも深いのです。


 それでも私は時おり、ある情景を心に思い浮かべるのです。

 光も届かぬ深く暗い海の底。静かに眠る鋼鉄の残骸と、そこへ舞い降りて寄り添う一枚の桜の花びらを……


 私はいつか遠い未来、彼女の物語を誰かに語る時があるかも知れません。

 でも今はまだ、全てを心の底にしまっておこうと思います。



 誰も知らない、春の終わりの思い出とともに……

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