浅葱の空の下で

文久三年 九月十八日


壬生前川邸 大広間にて




 庭先から幾らか冷たい秋風が、大勢の人々がひしめき合う室内に悠然と吹き込んでくる。



「────我が新撰組の要であった芹沢局長をうしなった事は、誠に痛恨の極みであり…」



 透明感の増した日差しが大広間を照らす中、白銀色のかみしもを着用した近藤が涙を浮かべ、厳粛に弔辞を読み上げている。


 急遽、水戸から駆け付けた芹沢の実兄は、棺桶にさかきの枝葉を供えたまま、弟の変わり果てた姿を見ては嗚咽し、その場を離れようとしなかった。


 幕末の葬儀に初めて参加した更紗だが、焼香の匂いのしない神式に参加したのは生まれて初めてで。


(……芹沢先生、あなたが神職の家柄だったなんて知らなかったよ。)



 芹沢鴨が浪士組を結成する前まで名乗っていた名は下村継次で、婚姻と同時に婿養子に入った下村家は由緒正しき神官の家系であった。


 幕府は仏式以外の葬儀は認めていなかったのだが、水戸では藩主徳川斉昭公の勤王かつ神宮崇拝の影響により、神式の葬儀が受け入れられていた。


 更紗も倣って、用意された玉串と呼ばれる枝葉をお供えし、棺桶の中に紋付袴姿で横たわる二人の亡骸へ目線を落としていく。


 閉眼したまま事切れた平山は、斬首された首が胴体とずれないように何重もの晒し木綿が巻かれていた。


 対して芹沢は顔に目立つ傷はなかったが、死しても尚、見開いた眼が敵を睨みつける鬼の形相であった。


(……芹沢先生、平山さん。安らかにお眠り下さい。)


 

 亡骸に添えられた少し褪せた浅葱色の隊服が、彼らが京で作り上げた歴史の象徴に思え、更紗は感慨深い思いで一礼をする。


 二つの棺桶が白装束の隊士たちの手によって外へと運び出される頃、感傷に浸る人々の往来が芳しくなっていた。


 弔問に訪れた会津藩関係者、諸藩の留守居役を近藤や山南、井上が誘導しているが、更紗は最後尾に座ったまま、ぼんやりと眺めるだけ。


 視界の端で神主と話していた土方は大広間の中央まで進み出ると、隊士へ向けて大声を張り上げた。


「今から壬生寺へ埋葬する。支度が出来た者から屯所前へ並んでくれ」



 一日ぶりに見た姿は疲れを覗かせていたが、山南と同じく水浅葱色の裃を着用し、時代劇の役者のように綺麗な髷を結わえていた。


 芹沢と平山、梅の惨殺体が発見されてから、忙しなく葬儀の準備に取りかかるのと並行し、下手人の捜索が芝居仕立てに行われていた。


 結局、奉公所には三名とも病没と報告したようだが、今朝方、隊内には長州藩士による未明の暗殺であったと公表された。



「────、大丈夫か?聞こえてるか?」


 視線の先で、綺麗な手が何かを遮るようにひらひらと宙を舞っている。



「…更紗?…まさか目ェ開けたまんま居眠りしてるんや…」


「……あ、すみません……ちょっと意識、飛んでました」



 更紗は白拍子のような出で立ちの美丈夫を見やり、頬を緩めた。



「山崎さん、いつも黒の着物ばっかだから、全身白だと変な感じですね。あ、悪い意味じゃないです。よく似合ってますよ」


「まぁ、喪服やさかいな。葬式ん時くらいは俺も白着るわな。あんたも白の着物よう似合うてるで。…打掛より白無垢の方が似合いそうやな」


「……今、お葬式ですからね。私たちも行きましょうか」



 場違いにも妖艶に微笑んで立ち上がる山崎に苦笑い、更紗も畳に手を付いてゆっくりと立ち上がる。


 現代の喪服は黒色が常識だが、江戸時代は喪主に限らず参列者は染めずに仕立てた白色の喪服を着用することが一般的であった。


 人の流れに合流し板廊下へ足を踏み入れた瞬間、後方から伸びてきた手が一人で結んだ黒の組紐を解いていく。


「…ん? 何でほどく…?」



 小首を傾げて後ろを振り返ると、白の羽織袴姿の斎藤が呆れ顔で佇んでおり。



「お前はしっかりしてるようで抜けているからな」


「……え、どういうことで…?」


「敢えて突っ込まんが……口吸いの痕位隠しておけ」


「………っ……」



 その言葉の意味を理解した更紗は赤くなった顔を伏せ、手の平で髪を撫でつけ首筋を覆った。



「原田辺りに見られたらまた執着されるぞ」


「……これは……蚊です」


「別にお前の色恋にとやかく言うつもりは無い。隊の連中が煩くなるのが面倒なだけだ」



 さも関心がない素振りを見せた斎藤は、自分を追い越し大広間を後にする。


 一夜限りの割り切った関係なのに見える所に痕跡を残されていたとは、恥ずかしいやら腹立たしいやら、感情がいつにも増して浮いては沈み。


(……もう…暫く髪結べないじゃんか…!)



 面と向かって文句を言いたくても、気まずさに勝てず、このまま泣き寝入りする他、選ぶ道はない。


 玄関へと向かう前川邸の廊下は、隊士たちの揃わぬ足音で満たされていた。



「市村」


 人の啜り泣く声、妙な噂話を口にする声が鼓膜を静かに擽る中、その一言は全ての音を退ける力を持っている。


(……大丈夫、平常心。)



 どんな顔で会えばいいか答えは出なかったが、一つ屋根の下で暮らす以上、何としてでも超えなければいけない試練であった。


 少しずつ、前のような関係に戻ればいい。


 更紗はトクトクと高鳴る鼓動を封じ込めるように、そっと深呼吸をした。



「……何でしょうか」


 発した声は思いの外、上擦ってしまったが、今できる精一杯の返事であった。


 警戒するように距離を取ったところで、裃を纏う侍が視界から消えることはなく。



「話しがある。ちょっと面貸せ」


「……え、何…」



 伸びてきた手を避けるようにして身体を捻ると、不機嫌そうに顔を顰める土方がわざわざ自分の隣へ並び、流し目を寄越してくる。



「あんな胸糞悪りぃ書き置きを残すなんざ、どういう了見だ。まさか出て行くつもりじゃねぇだろうな」


「出て行きませんよ。…行く当てもないし」


「知っての通り、許可なく出て行けば脱走の罪になる。詰め腹切りたくねぇなら此処に居ろよ」


「……鬼。私には切腹させないって言ったくせに」



 反射的に瞳を細めて睨み付けたが、隣の侍は片眉を吊り上げ、余裕の顔つきを浮かべている。


「新撰組の隊士でありゃア俺が鬼なのはよく分かってんだろう」



 久しぶりの会話が切腹の話など、色気も素っ気もなく拍子抜けである。


 けれども、そのくらい何もなかったように接して貰える方が自分としては都合が良かった。


「……そうですね」



 意に反してチクリと痛む胸の内に気づかないフリをした更紗は、愛想のない顔つきで仄暗い廊下を進んでいた。


 そんなこちらの態度が面白かったのか土方は小さく笑うと、いつもの淡々とした声色で話し出した。



「熱は下がったか?身体はどうだ」


「お陰さまで、すっかり良くなりました」


「何で髪解いてんだ。結わえてやる」


「いえ、お気持ちだけで十分です」



 土方の申し出を間髪入れず断ってみるものの、再びクツリと口の端を持ち上げる仕草がやけに心の奥に引っかかる。


「そうかい。困っているかと思ったんだがな」



 確信的に痕を付けられたのではとみるみる羞恥が募るが、慌てて首を横に振り、蘇りそうになる記憶を懸命に振り払った。


(…………思い出さない。全部、忘れるの…)



 天井の虫籠窓から板廊下へ差し込む光の柱は、常に均一で揺らぐことはない。


 揺蕩うのは、秋がもたらす新しい空気とそれぞれに交錯する複雑な心だけで。



「永倉さん、行こう」


 二人の間に流れる暫しの静寂な時は、短いようで長いものであった。


 通りかかる平隊士の視線に気を配ることもせず、侍は暗い土間に腰を下ろし、足下に汚れなき涙を落としていた。


 その様子に誰もが近づくこともままならなかったが、更紗だけは恐る恐る前まで進み、跪くように腰を下ろした。


「……悪りぃ…先に行ってくれ……最後に……参列する…」



 その掠れ声に心臓が大きく波打つが、女は堪えるように男を見つめ続ける。


 やがて、永倉は観念したのか垂れていた頭を持ち上げると、涙でぐしゃぐしゃになった顔を綻ばせた。


「先生によ……こんなみっともねぇ面……晒す訳いかねぇだろ…」



 普段見ることのない泣き笑いの表情が、更紗の瞳に映る世界を歪ませていく。


 芹沢の死を聞くや否や、血相を変えて八木邸へ飛び込んで行った永倉の姿が目に焼き付いて離れない。


 白袴の上にポタポタと悲しみを染み込ませる侍は、苦しげに息を漏らし。


「……何で…芹沢先生が……殺られなきゃなんねぇんだよ……今畜生が…」



 こちらへと歩んでいた土方が、踏み出した足を止める。


 暗殺を実行した男、知っていて止めなかった女、どちらにとっても永倉の嘆きは心に深く突き刺さり、息の詰まるものであった。


(……永倉さん……ごめんね。)



 唇を噛んだ更紗はその手を男の背後に回すと、羽織の上からでも筋肉の盛り上がりが分かる背中を摩り始める。


(……芹沢先生を助けられなくて…本当にごめんなさい…)



 慰める資格がないことは分かっていたが、見殺しにしてしまったあの日から、どんな現実からも逃げずに全てを受け止めると決めていた。



「……あれだけ豪胆で…人を惹きつける武士もものふは……そこらじゅう探しても…居ねぇよなァ…」


「……うん」


「……いつか新撰組は…先生を喪った事を、後悔する時が来る……日ノ本の損失だぜ……全くよ…」



 永倉の涙声を聞きながら、更紗は溜まる涙を零さぬよう力一杯気を張った。


 一緒に泣いて悲しむほど、己の罪は軽くない。


 罪と罰に苛まれた女は、在りし日の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡っていた。


 故人との想い出は不思議なもので、良いことばかりではなくとも、振り返れば、悪いことばかりでもなかったような温かい心地をもたらしてくれる。


(……最期に話せて、本当に良かった。)



 肉体は空という名の土へ還ってしまうが、魂はその背中を追っていた若き侍へ受け継がれていくもの。


 芹沢鴨の存在が求心力となり、新撰組の土台をこうして作り上げたのだ。



「……なら…後悔しないように……先生の意志…永倉さんが継いであげて?」


「……尽忠…報国……のか…?」


「……私にね…教えてくれたの。何を思って生きてきたとか……武士はどうあるべきかとか……全部は分かんなかったけど、彼の伝えたかった想いはちゃんと私の中に届いた」



 目蓋を下ろせば、松の間で過ごした二人だけのひと時が、まるでほんの少し前の出来事のように蘇ってくる。


「……一生、忘れないんだ」



 その言葉を聞いた永倉は顔を伏せ、声にならない想いを解き放っていた。


 同門で親しかった彼がどれだけ芹沢鴨を尊敬していたか、日頃の言動から十分に読み取れるものであった。


 唯一無二の存在を失い、憔悴し切った侍の心が少しでも穏やかなものになるようにと、更紗は何度も祈りを捧げた。



「いつまで湿っぽくいやがる。もう葬列は出発してんだ」


 気づかぬうちに傍まで歩いてきていた土方は、味気ない声音を土間に響かせてくれる。


 止まっていた時が動き出すように、更紗は懐に入れていた手拭いを差し出し。


「……忝い」



 ぼそりと更紗にだけ聞こえるように呟いた永倉は受け取ったそれを広げると、無造作に顔を拭き上げた。



「……餓鬼ん時以来だぜ、こんなに泣いちまったのは……野暮ってぇなァ」


「野暮ったくてもいいじゃん。…きっと先生は天国で喜んでると思いますよ」


「…天国って…黄泉の国の事か?」


「その黄泉の国っていうのがどんな感じか分かんないですけど……例えるなら…お花畑があって、食べ物に困らなくて、幸せに暮らせるみたいな……分かんないか」



 必死にイメージを伝えたところで、訝しげに首を傾げる二人の男には到底理解できる世界感ではない。


(……でも、絶対に閻魔様と揉めそうだよね。)



 数々の悪行を思い返せば思い返すほど、芹沢鴨が天国に行けるイメージが掴めず、張り詰めていた頬が自然と綻んでいく。



「……よく分かんねぇけどよ……極楽浄土みてぇなもんかね?」


「あ、そうそう。永倉さん正解。そんな感じかも」



 思案げな表情を浮かべる侍へ更紗は何度か頷き微笑むが、土方は軒から覗く天を見やると、スッと切れ長の目を細めた。


「あの野郎は極楽浄土に逝けねぇだろう。地獄で俺を待ってやがる」



 誰だって、好き好んで人を殺めるわけではない。


 どういう気持ちで暗殺したかなど簡単に推し量れるものではないが、紡いだ言葉の中に、男なりの懺悔の想いが垣間見れた気がした。



「先に行く。おめえらも早くしろ」


 不意にこちらから視線を逸らした土方は、振り返ることなく光の先へ進んでいた。


 精悍な白装束が見えなくなり、土間が仄暗い闇に包まれると、泣き腫れた一重の目を押さえた永倉は意を決したように立ち上がった。



「よし、見送りに行くとするか」


「はい」


「……色々とよ、世話になったな」



 優しげな声に更紗は驚き顔を上げるが、既に永倉は光溢れる玄関へと歩き出していた。


「……それは、私もです。これからも…頑張ろうね」



 もう声が届かないことは分かっていたが、玄関口の陽だまりに向けて小さな言霊を落としていく。


 前川邸を出ると太陽の光が全身に降り注ぎ、更紗は広がる光を遮るように目を細め、額に手をかざした。


「……綺麗…」



 透明感に溢れた光の世界にあるのは、晴れ渡った浅葱色の空と地上を埋め尽くす純白色の葬列だった。


 出発してだいぶ経つというのに、最後尾は屯所前で待機していた。


 それは、関係者だけでなく壬生村の老いも若きも喪服に身を包んで参列していたからで。



「……芹沢先生、見てますか?こんなに大勢の人があなたを想ってますよ」


 見上げた雲一つない空へ向かって呟いた女の言葉は、天へと昇るように、消えていく。



 目の前に続く純白の行列が、誠の白であるのか偽りの白であるのかは、一人一人の心に尋ねてみないと分からないことで。


 例え、目に映るものが真実でなかったとしても、想いを信じて己の道を歩み続けることに意義があるのだと、更紗は心に深く思う。



「永倉さん、いつまで女々しく泣いてるんですか。侍らしからぬ行いですよ」


「コラ!馬鹿!ぱっつぁんの涙は湧き水みてぇに清らかなんだからな!」


「左之さんは少し黙っててください。これでも一所懸命に慰めてるんですから」


「総司、慰める相手に手の内を明かしちゃあ終いだぜ。まだまだ若造だな」



 む、と膨れる沖田と泣き腫らした永倉を交互に見た藤堂はひと笑いすると、潤んだ赤い目をこちらへ向けて声を張り上げる。



「更紗も早くおいで!皆で待ってたんだよ!」


「……え、だって。最後尾ここじゃん!」


「副長助勤が揃いも揃って尻に固まっていては、示しが付かないでしょう」


「よし!総ちゃん!よく言った!」


「二人の言う通り、源さんが前で列を空けてくれているから、差し支えはないはず!」


「……ちょ、藤堂さんまで。調子いいこと言って…」



 更紗は手持ち無沙汰にしていた隊士たちの様子を伺うが、穏やかな表情で頷いてくれる。



「早くしねぇと置いていくぞ」


 仲間に囲まれた永倉の表情を見て、先ほどまで感じられなかった嬉しさが心の奥に芽生えていた。



「……しょうがないなぁ…もう…」


 クツリと笑みを溢した更紗は、背筋を伸ばして光の差す方向を見据える。


「行きますか」



 透き通るような蒼白の柔肌に注がれるのは、天からの恵みである煌めきと青空を吹き抜ける一陣の風であり。


 下ろした栗髪は、さも秋風と戯れるのを待ち侘びたようにふわり、ふわりと宙を浮遊していた。


 更紗は碧色の双眸で真っ直ぐに進む道を捉えると、どこまでも続く浅葱の空の下を歩んでいった。




【月夜に誠の桜はらりと 起/了】

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月夜に誠の桜はらりと【起】 沓名 凛 @uminoesoragoto

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