終わりの始まり

 押し黙る二人を、湿気の入り混じった空気と単調で退屈な雨音が傍観者のように見守っていた。


 一度だけ、遠のいていた雷鳴が鼓膜を揺らしたが、頭上に落とされた男の溜め息の方が何十倍も女の心を震わせ、揺さぶらせた。



「…今宵は俺も気が立ってんだ。何するか分かんねぇぞ」


 含みを持たせた物言いに更紗の鼓動が大きく跳ねる。


 人を殺めてしまった今宵のような日は、どの隊士も血が騒いで眠れぬ夜を明かすのかもしれない。


 土方も例に漏れず、遊女の施しによってそれを解消しようとしているのは理解できるが、相手の顔を見てしまった手前、不毛な嫉妬心が女心に火をつける。


(……今日だけは……他の女を抱かないで…)



 更紗はどうしても遊郭へ行かせたくない一心で、冷静さを欠いた駆け引きを口にしていた。


「それでもいいって言ったら……朝まで傍にいてくれますか?」



 意を決して見上げた瞳に映る男の表情は存外険しいもので、切れ長の双眸が訝しげに自分を見据えていた。



「おい……てめえで何言ってやがんのか分かって…」


「ちゃんと分かってます……一回くらい、いいですよ」


「莫迦か。餓鬼がませた事言ってんじゃねぇよ。寝言は寝て言え」



 一生分の勇気を振り絞った捨て身の誘惑は、露骨に呆れた表情を浮かべた土方にバッサリと斬り捨てられ、闇夜へ葬られる。


(……もう……惨めすぎて…消えたい…)



 女として見られていないことは、相部屋で過ごした数日、何も手出しされなかったことで既に証明はされていた。


 しかしながら、本人から宣告された言葉の方が格段に重く、心に刺し込まれた傷は何百倍も深く何万倍も痛々しかった。



「………もう…いいです。変なこと言ってすみませんでした。忘れて下さい…」


「斎藤か山崎を寄越してやる。彼奴等ならおめえの様子が可笑しくても察してくれんだろう」


「じゃあ……山崎さんを呼んで貰っていいですか…」


「……何で山崎なんだよ」



 土方は小さく舌打ちを落としてくるが、惨めに拒絶された今、この男に話すことは何もないと、更紗は唇を噛み締める。


(……もう、放って置いて…)



 勘の良い斎藤に会えば全てを悟られ、あの日のように号泣してしまう弱い自分が出て来そうで、山崎の方が負の感情を抑えやすい気がしただけなのだが。



「言えねぇ理由でもあんのか」


 土方は明らかに苛立ちを滲ませた口調で、こちらをぎろりと睨み付けてくる。


 更紗は答えるまで鬼の詰問から逃げられないと、途切れ途切れに息を吐いた。



「……別に……そっちの手習いもしてくれるそうなんで……。どうやったら大人になれるのか相談するだけです……」


「ほう、そっちの手習いねぇ」


「もう……バカなガキに構ってくれなくていいんで……早く綺麗な遊女さんのところへ行ってあげて下さい」



 泣きそうな顔で俯く更紗を見下ろしていた土方が目の前でしゃがみ込んだかと思えば、濡れた栗髪を長い指で梳いてくれる。


 この後に及んで子供扱いされるほど、心を逆なでられることはない。



「……何、ですか…」


 更紗は涙を浮かべたまま睨み返すが、土方は表情一つ変えずに自分の肩を軽く押し、そのまま身体を畳へ押し付ける。


「……っ……」



 刹那、頭を強打するかと反射的に目を瞑るが、添えられた大きな手のお陰で痛みなどはなく。


 恐る恐る反転した世界を見やると、至近距離から見下ろす眼差しが背後の闇夜と同じ冷たい色で自分を捉えていた。



「……もう…何…」


「据え膳食わぬは男の恥とも言うか。俺が抱いてやる」


「……えっ…と…」



 突如、目の前に落とされた言葉に頭が真っ白になる。


 大きな瞳を不自然にパチクリさせるが、それを見つめていた土方は徐に顔を近づけてきて。


「おめえが誘ったんだ……後悔すんじゃねぇぞ」



 優しく触れた唇の感触に硬直すれば、それをほぐすように重ね合わせてくる。


 直ぐに息もつけないほどの濃密な時に変わっていくが、更紗は熱っぽい吐息を零すのが精一杯で、なかなか新しい酸素を取り込むことが出来ず。


「……ん…っ…!」



 眩暈を覚える苦しさに逞しい胸元を拳で力一杯叩くと、濡れた唇を離した男が不機嫌な顔つきで見つめてきて。



「……てめえ、どういう了見だ」


「……し…死ぬ……息……させて…」



 更紗は襦袢の合わせを握り締め、大袈裟に胸を上下させて空気を吸い込むが、土方はその火照った頬に手を添えると眉間に深い皺を寄せた。



「…おめえ、いつから熱出てんだ」


「…………。」


「具合が悪りぃっつうのはこれの事か」


「…………。」


「…たく、弱ってる女を抱く趣味はねぇぞ。今なら止めてやる」



 朦朧とする中、畳み掛けられた言葉の数々が脳内に響き渡り、更紗は思考のループへ引き摺り込まれていた。


(……私は……どう…したい…?)



 一方通行でしかない不毛な恋が成就する可能性は皆無で。


 万一、想いが通じ合ったとしても時代を超えた男女の恋愛など、倫理的にも社会的にも許されるものではないことはよく分かっている。


 ただ、幸か不幸かこの男にとっては、未来から来た女など興味本位の遊びの対象でしかない。


 元々、玄人相手との遊びばかりを選んでいる辺り、武士として命を賭す覚悟をした男は、未練を残さぬように女と関係を持つにも割り切っていることは知っている。


 詰まる所、このまま一線を超えても抱かれた数多の女の一人になるだけ。


 いつか自分の存在がこの世界から消えても土方歳三の人生に影響を及ぼすようなことは、決してならない自信があった。



(……今日を…生涯忘れられない記憶にして……生きてもいいですか?)


 脳裏に焼き付いて離れない亡き大切な二人へ向けて、心の中でそっと許されない許しを乞う。



 時は動乱の世である。


 いつまで幕末に身を置くかは分からないが、これからも目を背けたくなるような不条理な現実が待ち受けていることは重々に予想できる。


 最初で最後の温もりを糧に、哀しみや虚しさ、寂しさと向き合って生きていけるのなら、それに一度だけ手を伸ばしてみても罪にはならないだろうか。


(……明日からは何があっても前だけを見て進むから……今夜だけは……)



 更紗は目頭が熱くなるのを感じながら目蓋をゆっくりと持ち上げる。


 不本意にも惚れてしまった男が自分だけを見つめてくれていた。



「……止めない。どうぞ続けて下さい」


「…熱でイかれちまったか」


「……そうかもしれません。でも今だけ……明日の朝……目が覚めた時には今夜あったこと、…全てを忘れますから」



 言霊が収拾のつかない感情を苛み、その目尻から涙の雨を降らせてくれる。


 言葉とは裏腹に、今日を取り巻く全ての出来事は、生涯忘れることのない記憶になるのだろう。



「……分かったから泣くな。今宵はおめえの気の済むようにしてやるから」


 珍しく困った表情を浮かべた土方は、静かに伝う涙を拭って更紗を抱き寄せると、露わになっていた白い首筋に顔を埋めた。



「…っ……」


 吐息が素肌に触れる。


 優しく甘噛む感触に、思わず肩がびくりと跳ねるが、男は行為を続けたまま襦袢に巻かれた細い帯の結び目を緩める。


 解いた帯を畳へ落とした逞しい手は、襦袢の合わせに指先をかけて片方を開く。


 露わになった腰の湯文字も器用に外すと、濡れそぼった冷たい襦袢と合わせて後方へと放り投げられた。



「寒くはねぇか」


「………は…い…」



 締め切った部屋の中、一糸纏わぬ己の姿が行灯の明かりに照らし出されていた。


 落ちる男の陰影がやけに艶かしく見え、羞恥で女はまともに見ることができない。


 骨張った指が乳房に付けられた無数の痕を数えるようになぞっていき、小さな吐息を零していく。


「…未だ残ってんだな。俺が消してやる」



 膨らみを滑る感触に心拍の上昇が止まらず、更紗は熱か羞恥か分からない高まりから、耳朶まで紅く染まった顔を両の手で隠すのが精一杯であった。


 向き合う土方はフッと小さく笑うや否や、自身の帯を静かに解いていく。


 両袖から腕を抜き、鍛え上げられた肉体を露わにすれば、着物ごと覆い被さって更紗を優しく抱き締めた。


「加減してやるから、言えよ」



 女を彩るようにその指が鎖骨を通り、張りのある乳房に触れ、肢体を堪能するかの如く包み込んでいく。


 追って素肌を這う唇は微かな痛みと甘い痺れを生み出し、更紗は耐え切れず身を埋める男の首元へ腕を絡ませた。



 己の身体を見るたびに蘇った悍ましい感触が、徐々に脳裏から解き放たれていく。


 消し去りたい過去の記憶が、忘れない新しい記憶へと一秒毎に塗り変わっていく。


(……土方さん……好き…でした。)



 愛おしい想い出と引き換えに不毛な想いを浄化して、短かった片想いに今日限りで終止符を打つ。


(……もう…迷惑はかけない…から…)



 明日、目が醒めれば全てが泡沫の幻となり、今宵感じた想いを大切に心の箱へと閉じ込めたら、例え何が起ころうとも振り返らず前へ進もうと心に誓い。


(……私……ちゃんと強くなるから。)


 

 吐息が太腿に触れる。


 互いの息遣いや身体から伝わる温もりが五感を刺激し、快楽に身を委ねるたびに嬌声が自然と洩れ、心を震わせた。


「更紗」



 濡れた唇が微かに耳に触れる距離で、あの日以来の名を囁いてくれる。


 女は声にならない声を漏らし、じわりと涙の滲む瞳を向ければ、土方は目尻を下げた優しげな眼差しでこちらを見据えており。


「何泣きそうになってんだ」



 交わした視線の先に答えなどなく、更紗は言葉を紡がない代わりに、潤んだ淡褐色の双眸で見つめ返し、唇に弧を描いた。



「……汗かいてんじゃねぇか」


 普段見せない柔らかい表情を浮かべた土方は手を伸ばし、頬や首筋に張り付いていた栗髪を更紗の耳へかけると、その頭をくしゃりと撫でる。


「もう少し頑張れよ」



 開かれていた内腿に指先が触れ、僅かに乱れた吐息と共に圧迫が女の身体の芯を徐々に貫いていく。


「……ん…ぁ……っ…」



 抑えようのない快感に苛まれ、更紗は顔を歪めて唇に手の甲を押し付ける。


 それを見下ろしていた土方は、華奢な指に自身の指を絡ませ、灯火の明かりが揺蕩う畳へと縫い付けた。


「声くれぇ好きに出しゃあいい。それにしても…あったけぇな。さっきより熱上がっちまったか」



 繋がった場所から馴染む温もりがとても心地好くて、気を抜くと一瞬で涙が溢れそうになる。


 埋め込まれた熱を奥深くに感じながら、ゆっくりと開始した律動に篭っていた熱情が一気に集まっていくのを感じ。


 二人の境界線が綺麗に溶けてなくなってしまえば良い。


 今だけは絹糸のように細くでも心が繋がりますようにと、朦朧とする意識の中、何度も願い──────




 光が部屋の隅へ足を踏み入れると、闇は恐れを成すように後退していく。


 熱に浮かされ、夢の世界を彷徨い続ける女の傍には絶えず人の気配があり、過去の記憶が蘇るのと同時にその心を穏やかなものへと変えていた。



 幼い頃、熱を出した夜は決まって仕事を休めない母に代わり、楠木家の家族が看病に当たってくれるのが更紗の常であった。



 ────サラ、気分はどう?何か食べたいもんある?



 鼓膜を揺らす懐かしい声と額に触れる冷たい手の感触に、やっと元いた世界へ戻ってきたのだと、安堵する。


 きっと長い長い途方もない夢を見ていたのだと、全身の力が抜けて溶けるような錯覚に陥っていき。


「……央太ぁ……冷たいアイス食べたい……ほんと…帰ってこれて良かった……」



 へにゃりと微笑む更紗を見つめていた男は口元を緩めると、片眉を上げて不服そうにしながらその首筋に顔を埋めた。


「俺の腕ん中で野郎の夢を見るなんざ、良い根性してんじゃねぇか。嫌がるかと思って我慢してやったが……仕置きだな」



 不意に痛みを素肌に感じ、現実の世界へと呼び戻された更紗は、声に誘われるように目蓋を持ち上げる。


「……何だ……夢…か」



 ぼんやりとした視界に映るのは、書状の積み重なった文机と────


 下帯を巻き付け始めた一糸纏わぬ男の後ろ姿で、惚けていた脳が一瞬で覚醒する。


(………無理。刺激強すぎて……無理…)



 まるで彫刻かと思うような均整の取れた肉体が、和やかな朝の光を浴びている。


 昨夜、捨て身で情けを掛けて貰ったはいいが、後の展開を何も考えていなかったとは、本末転倒甚だしく。


(……とりあえず……寝たふり…。)



 一気に現実へ引き戻された更紗は、着付ける衣擦れの音から逃げるように寝返りを打ち、狸寝入りを決め込んでいたが。


 頭を撫でてくれる心地良い感触を感じれば、頭上に土方の静かな声音が落ちてくる。


「……おめえが遊女なら、馴染みになるんだがな」



 その言葉に目蓋の裏が熱くなってくるが、顔に掛かっていた髪のお陰で睫毛の震えを気づかれることはなかった。


 襖の閉まる気配を感じたため、更紗はゆっくりと瞳を開けて微かに滲む板目の天井を見つめる。


 光の領域が急速に広がっていく中、独り涙を散らすように細く長く息を吐いた。


「……さっきので十分じゃん。思い出は貰ったし……大丈夫。手放せる」



 惚れた男を困らせるつもりはない。


 仮初めの時でも女として見て貰えたのなら、恋を終わらせるには充分なものであった。


 気怠い身体を起こし、残る甘い痺れに意識を委ね、生まれたままの姿で布団の上に座り込む。



 明け方まで降り注いでいた雨はすっかり上がったようで、外から差し込む日差しが眩しく碧色の瞳を射る。


「……そろそろ皆、帰ってくるよね…」



 額に手を当てながら陽を避けるように視線を伏せると、目に映るその景色に思わず小さく苦笑が零れてしまい。


「…消してやるって……付けただけじゃんか」



 忌々しい痕の上には、鮮やかな紅い印が花のように無数に咲いていて、嬉しさと切なさが入り混じって胸がいっぱいになる。


「……土方さん……消してくれて…ありがと」



 例え土砂降りの雨が降り注ごうとも止まない雨がないように、どんなに辛い現実にぶち当たろうとも明けない夜はないのである。


 昨夜、惚れた男から貰った大切な温もりを忘れないように心の奥底に閉じ込めた更紗は、幾分落ち着いた心情で現実と冷静に向き合う。


「……もう、立ち止まったりしないから」



 膨らみに付けられた紅い印をそっと指先でなぞると、傍に置いてあった藍鉄色の長着を手に取り、スッと立ち上がる。


「……もう、迷惑は掛けない」



 帯を締めて着替え終われば、文机にあった筆を取り、書き損じて放置されていた紙に文字を綴った。


「…読めるよね。楷書だけど」



 お世話になりました。 と端的に書いた紙を文机の中央に置くと、いつものように縁側の障子を開け放つ。


 柔らかな光の中で、清澄な朝の空気を全身に取り込んでいれば、八木邸の方角から人々の騒々しい声が聞こえてきて。


「……御飯作んなきゃ」



 時は止まることを知らず、塞ぎ込む時間などないほどに確かな毎日をもたらしてくれる。


 更紗は踵を翻し、後ろを振り返らず真っ直ぐに歩みを進めながら、仮初めの時を過ごした部屋を後にした。

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