バス、来たる。

みづき あおい

バス、来たる。


『そういえば、今日2月12日は「レトルトカレーの日」だってご存知でした?

カレーが日本初のレトルト食品なんですが、その発売日が1968年の今日だったので「レトルトカレーの日」なんだとか。

レトルトカレーって、なんか懐かしい感じがしてしまうんですよね。

学生時代は3日に一回は食べてましたし--』


 レトルトカレーも最近は美味しいよね、そう思いながら私が生まれたころから使って居そうな年季の入ったラジカセの電源をプツンと落とした。


 我が家では、朝はテレビをつけない。元々は祖父母が建てた古い家だからリビングとダイニングキッチンが別々と言うのも理由の一つかもしれないけれど、昔から朝起きてご飯を食べて学校に出発するまでの時間にテレビがついていたことが無い。


 そのかわりにずっと地方局のFMラジオがかかっている。毎日聞いているけれど、産直から放送する今の季節のおすすめ野菜だとか、雪の状況だとか、田舎ならではの内容と田舎だけどこんな訛ってる人なかなかいないよ?という訛り具合で喋るおじさんが、ある意味いい味を出している。


「おばあちゃーん、行くからねー。鍵かけてくからー」


 奥の部屋に引っ込んでなかなか出てこない祖母に向かって、玄関から声を張り上げる。耳が遠いから、聞こえているかはちょっとわからないけれど。


 玄関の引き戸を開ける前から型板ガラス越しにぼんやりと雪の吹き溜まりが出来ているのが目に入って、意を決して引き戸を開けると、冷たい風と一緒に溜まっていた雪がなだれ込んできて、小さくため息をついて箒で雪を掃き出した。


 お父さんが雪かきをしてから仕事に行ったはずだけれど、さらさらと降り続ける雪は小一時間ほどで3cmは積もってしまったらしい。今日は帰ってきたらまず雪かきだなぁ。そんなことを思いながら歩く足元では、雪がキュッキュッと音を立てる。


 バス停へ向かう途中の公園の前にある電光温度計を見上げると、その表示は-2℃。雪が降ってるから今日は暖かい。出来ればこのまま気温が上がらないでくれると、雪が重くならないから有り難いけど。


 チャリチャリチャリ……と雪の中で微かな金属音にハッとして顔を上げると、バスが向かい側から走ってきた。私が乗るバスとは逆方向、駅から住宅地方向へと走るそのバスはほぼ無人に近かった。

 バス、どのくらい遅れるかな?バスが遅れるのはもはや想定内なのだ。むしろこんな雪の日は、時間通りに走ることの方が期待できない。


 到着したバス停には既に3人待っている人が居た。いつも同じ時間に乗るから、何となく知っている顔ぶれの3人。ちょっと頭の毛の具合が心配なおじさんと、ぽっちゃり系OLのお姉さん、そしてすらっと背の高い眼鏡のサラリーマンのお兄さん。


 サラリーマンのお兄さんの隣に並んで、心の中でガッツポーズをした。チラリと横目で盗み見るその横顔は、相変わらず涼しげで、結構かっこいいと思う。雪が降りだしてバスの時間を早めたら、毎朝一緒になるようになったお兄さん。今では、学校の為と言うよりこの人の顔を見たいからこの時間のバスを選んでいると言っても過言じゃない。


 さらりとした黒髪にちょっと雪が積もりつつある。いつもイヤホンをしているけど、何聴いてるのかな?Jポップ?洋楽?家で朝聞いてるようなラジオなんて聴かないんだろうなぁ。普通にかっこいいし、彼女居るよね。絶対。


 声すら聴いたことのない人の事を、なんでこんなにも考えているんだろう。そう一瞬思ったけれど、別にいいの、見るだけだから……と自分を正当化してふぅっと息を吐く。小雪が舞う中を真っ白な私の吐息が立ち上っていった。


 バス、まだ来ないかな?と視線を投げたその先に、信号を曲がってバスがこちらに向かってくるのが見えた。こんな天気だけど、思ったよりもすんなり乗れて良かった。そう思いながら、バス停前で止まったバスに除雪車が押しのけて行って出来たバスのステップよりも高い雪と氷の塊を上って乗り込む。


 ピピッと聞き慣れた音を聞きながら、サブバッグのポケットに入れてあったバスカードを通すと残高『160円』と表示された。


 残高が少なかったことを完全に忘れていたので、慌ててお財布を確認すると、中には五千円札が1枚と小銭が四十七円。よかった、バスカードは買えそう。ほっと息をついて財布を鞄に戻しながら、さり気なく視線を斜め後ろに向ける。


 いつも同じバス停でバスに乗るあの眼鏡のお兄さんの定位置は、ドアの近く。いつもその辺りに立っていて、私はいつもその斜め前位に立っている。もちろん、乗っているうちに前にズレて行くワケだけど。

 

 ふふっと思わず笑みをこぼしてしまうのは、あのお兄さんの眼鏡がいつも曇るのを知っているから。視線を向けた先では案の定、眼鏡ふきで眼鏡を拭いている。


 朝しか会えないあのお兄さんの眼鏡をしていない所を見られるのはこの時だけ。素顔は結構優しげなのが好き。上部分が強調されたサーモントフレームで、眼鏡をかけると一気に凛々しくなるトコとか……結構好き。きっと仕事も出来るんだろうなぁ。これで仕事へっぽこだったら詐欺だ、詐欺。勝手なことを思いながら、いつまでも見ているわけにいかないと視線を前に戻す。


 大したことじゃないんだけど、これが最近の細やかな楽しみ。


バスに揺られること30分とちょっと。いつもよりもかなり時間がかかって到着した学校の近くのバス停で、バスカードを通して運転手さんに五千円札を差し出しながら声をかける。


「すみません、三千円のバスカード下さい」


 私の言葉に顔を向けた運転手のおじさんは、全く詫びれた様子もなく、むしろめんどくさそうに答えてきた。


「あー、おつり切れちゃったんだよね。千円札無いの?」


「……無い、です」


「小銭は?」


「無いです」


「五千円ならおつり要らないけど」


 え? 五千円? それ買ったら、私所持金47円になっちゃうし。そしたら、帰りに温かい飲み物一つ買う事すら出来ないし……。誰か友達から借りたら大丈夫かな? 


 どうしよう、と頭をめぐらせていると左肩を軽く叩かれた。振り返ると、目の前に差し出されている千円札が1枚。


「来週も乗るでしょ?」


 初めて聞いたその低い声に声を失って、ただコクコクと頷いた。そんな私に、サーモントフレームの奥の瞳が僅かに微笑んだ。


「来週、返して」


 差し出されていた千円札を受け取るときに、一瞬だけ指が触れ合った。


「あ、ありがとうございます。千円のバスカードくださいっ」


 相変わらずめんどくさそうにバスカードを出した運転手のおじさんから、ひったくるようにカードをもらうと急いでカードリーダーに通して、バスを駆け下りた。


 ……初めて、声を聞いた。私の事、覚えてくれていたんだ。


 冷静に考えたら、朝のこんな時間からお釣りが無いなんて、ほぼ間違いなく補充するのを忘れたんだろうし、高校生だからあんな偉そうな対応をされたのだと思うけれど、そんな事はどうだってよかった。


 初めて聞いた声が、思っていたよりも低かった。話す言葉は、優しげで柔らかかった。一瞬触れた指先は、温かかった。


 ほっぺたが、熱い。



◇◆◇◆◇




 サクッサクッと氷が混じった雪を踏んでくる足音が聞こえて、逸る心臓を抑えながら顔を上げる。さっきはめちゃくちゃ緊張しながら見たのに、ちょっと頭が残念なおじさんだった。今度こそ……、そう思ってあげた視線が、黒いスタンドカラーのコートを着た、眼鏡のお兄さんの視線と絡む。


「おはよう、ございます」


「……おはよう」


 長い指でイヤホンを外しながら、お兄さんの唇が弧を描く。


「金曜日、ありがとうございました」


「いいえ。朝からお釣り無いのは、ありえないよね」


苦笑したその表情を見ながら、鞄の中で手にした封筒を取り出す。トトト……と耳の奥で心臓の音が響いていた。


「あの、これ……」


「ん?」


 怪訝そうな声が一緒に帰ってくるのも無理はない。私が差し出したのは、貸してもらった千円札が入った封筒と、もう一つ、淡いブルーのラッピングがしてある小さな箱。


「あ、あの、深い意味は無くてっ! 私、五千円使っちゃったら所持金四十七円になっちゃうところで、凄く助かって。

で、ちょっとお礼にって思ったら、バレンタインだったから……こんな、可愛いのばっかりで……。

好きとか、そういうのじゃなくてっ!! あ、でも嫌いってわけじゃなくて……」


 慌てて紡ぐ言葉は、まとまりが無くて、順番も何が何だかわからなくて。こんなこと言ってどうするの? という事まで口走ってしまう。


「あぁ、もう。何言ってんの私」


ここはバス停で、いつも同じ時間のバスに乗るおじさんとOLさんが近くに居てこの会話なんて丸聞こえ。目の前にいるこのお兄さんだって、名前すら知らない人なのに。あまりの恥ずかしさに、腕で顔を覆ってしゃがみ込んでしまう。

 

 もうやだ。明日からこの時間のバスに乗れない。お兄さんにだって、変な子って思われたに決まってる。


 いたたまれなくて、消えてなくなりたい、そんな気持ちでいた私の頭の上から降ってきたのは、くすくす笑う低い声。しゃがみ込んだままの私の手から、そっと封筒と一緒に小さな箱が持っていかれる。


「うん、特別な意味はないのは判った」


 ……判ってもらって、良かった…の? なんだか不思議な感覚に陥りながらも、まだ恥ずかしくて顔を上げられずにいると、大きな手がぽんぽんと頭を撫でた。


「バス、来たよ。ほら」


 その言葉に顔を上げた私の目の前には、手が差し出されていた。


「いつまでもしゃがんでないで」


 やんわりと微笑む、サーモントフレームの奥の瞳。差し出された手を取って良いのか躊躇う私を急かす様に、もう一度「ほら」と柔らかい声が降ってくる。


 躊躇いがちに手を伸ばす私と、眼鏡のあの人の前に――



  ―――――― バス、来たる。

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