最終話

「え――あ、はい、そう、です」

 アークは戸惑ったように言った。

「ご存知、なかったですか? 身体データなんかも、そちらに送っていたはずですが?」

「頭では知っていましたが」

 ノアは、アークをまじまじと見つめて言った。

「頭で知るのと実感するのとでは違います。ああ――やっぱり、どう見ても、ボクより背が高い」

「それは、まあ」

 アークはまだ幾分戸惑いながらも、真面目にうなずいた。

「火星人、ですから」

「ふむ――なるほどねえ」

 ノアは感心したようにうなずいた。

「よくもまあ、そこまで育ったもんですね」

「あ……はあ」

 アークはあっけにとられたようにうなずき、続いてカチリと威儀を正した。

「ええと、直接には、はじめまして。アーク・イェールです」

「はじめまして――ですかね、こういう場合、やっぱり」

 ノアは小さく肩をすくめた。

「はじめまして。ノア・イェールです。ま、見ればわかると思いますが」

「ノア・イェール」の前後に、なんら修飾語を入れなかった、という一点が、ノアのほうも、彼なりに緊張もしていれば気を遣ってもいるのだ、ということを端的に表している。

「ああ――そっちのキミにも、はじめまして、ですね」

「はじめまして」

 ジェイクは、軽やかに前へ歩み出た。

「ジェイク・ヴァーレンです」

「ヴァーレン」

 ノアは、大きくうなずいた。

「マスター――ああ、つまり、アンツさんと、アレックス君の、曾孫ですね、キミは。――なるほど」

 ノアはジッとジェイクを見つめた。

「面影がありますね」

「そうですか?」

「ええ。これで髪をオールバックにしたらもっと似ますね。アンツさん、あのヒトの喫茶店、ボク大好きでした。――ところで」

 そう言いながら、ノアはパッとアークのほうへと向き直った。

「アーク、キミも、少し髪型を変えたほうがグッとよくなりますよ。その髪は、もっと伸ばしたほうがいい。それに、縛るなんてもったいない。せっかくきれいな髪なんですから、縛らず自然のままにしておけばいいのに」

「はあ、でも」

 アークは、ちょっと口をとがらせた。

「そうすると、手入れが大変ですから」

「そういうことに手間を惜しんじゃいけませんよ」

「ぼくは、この髪型が好きなんです」

「――なるほど」

 ノアもまた、ちょっと口をとがらせた。

「まあ、好みは人それぞれですから。けど、絶対伸ばしたほうが似あうと思うんですが」

「そうですか?」

「そうですよ。それに、キミ、地味ですねえ」

「ええ、まあ」

 アークは胸をはった。

「地味なのが、好きなんです」

「ふぅん」

 ノアは、鼻を鳴らすのと嘆息するのとを、一度にまとめてやってのけた。

「それにしても、限度というものがあるでしょう?」

「そんなに地味ですか?」

「地味です。ああ、でも」

 ノアは、アークの胸元のブーケを指さした。

「それは、いいですね。気にいりました」

「ノア博士の分もあります」

 ジェイクはすかさずブーケをノアに差し出した。ノアは、ニッと破顔した。

「これはどうも。気がきくじゃありませんか、ジェイク君」

「どういたしまして。――あの、ところで」

 ジェイクは、ブーケを渡しながら首をかしげた。

「お連れのかたは?」

「ユーゴ君ですか? さあ、さっき、荷物のことで何か言われていましたが」

「……」

 アークは、ジトリとノアを見つめた。

「なんです、アーク?」

「あなた、いったい何を持ってきたんです?」

「別にそんなに変わったものを持ってきた覚えはありませんが」

「……ほんとに?」

「キミに嘘ついてどうなるんです」

「……それもそうですね」

 アークはフッと肩の力を抜いた。

「博士ぇッ! ノア博士!」

 若々しい声が響いた。ノアの助手、ユーゴ・ラリックが、火星に到着したばかりで、火星の低重力、その他諸々の環境にまだ慣れていない地球人に可能な限りの速さでかけよった。

「ああ、遅かったですねえ、ユーゴ君」

「博士」

 ユーゴは、パタパタと両手をふりまわした。

「どうも皆さん、あれが服だということを理解しがたいようですよ」

「はぁ? じゃあいったい、なんだと思っているんです?」

「一番穏当なところで、前衛芸術の一種」

「不穏当なところでは?」

「近くの根底を揺るがす、感覚破壊兵器」

「はぁあ? なんですか、それは?」

「いやあ、まあ、俺はこの反応、予想してましたけどね」

「……いったい何を持ってきたんです」

 アークがうめいた。

「服です」

 ノアはあっさりとこたえた。

「服といっても、いろいろありますけどね」

 ユーゴはヒョイと口を挟み、ヒョイと肩をすくめた。

「説明に、えらいこと手間取りましたよ」

「で、納得してもらえたんですか?」

「まあ、半分ぐらいは」

「それなら、ま、いいでしょう」

 ノアは身軽くアークとジェイクのほうへと向き直った。

「紹介しましょう。ボクの助手、ユーゴ・ラリック君です」

「はじめまして。ユーゴ・ラリックです」

「どうも、はじめまして。アーク・イェールです」

「ジェイク・ヴァーレンです」

 ロゼ・ワインと同じ色の髪と、群青色の瞳のユーゴ・ラリック。

 蜂蜜色の髪と、孔雀青の瞳のアーク・イェール。

 緑の黒髪と、黒土色の瞳のジェイク・ヴァーレン。

 みな、若かった。

 外見だけ見れば、ノアもまた、若い、といってもいい。この三人よりは年上に見えるかもしれないが、しかし、百歳を超えた老人には絶対に見えない。では、いくつに見えるか、といえば、これはなかなかに難しい問いかけだ。ノアの外見は、若い、というよりも、年齢不詳、といったほうがいいのかもしれない。なにしろノアには、まともな第二次性徴が来ていないのだ。彼の異様なほど甲高い声は、実のところ、ボーイソプラノが声変りせずにそのまま残っている結果なのだ。

「仲良くやりなさい」

 ノアは、保護者ぶって言った。

「はーい」

 ジェイクはあっけらかんといいお返事をした。

「よろしくお願いします」

 アークは丁寧に、ユーゴに一礼した。

「あ、どうも、こちらこそ、よろしくお願いします」

 ユーゴは、ノアとアークに順繰りに会釈した。

「火星へ、ようこそ」

 アークは晴れやかに宣言した。

「歓迎します。どうか楽しんでいってください」

「それはもちろん」

 ノアはニヤリと笑った。

「楽しませてくださいよ、アーク。そして」

 ノアは、キュッと大きな目を細めた。

「火星の皆さん」







「あー、すごーい、アークのちっちゃかった頃そっくりー!」

「違いますよアリス君。逆です。アークが僕にそっくりなんです」

「あ、そうでした」

 アリスは、おっとりと笑った。

「あ、この子は?」

「これは、子供の頃のガート君。こっちがナルア君です。ボクの――まあ、幼馴染、といったところですかね」

「かっわいー」

「ガート君もナルア君も、子供の頃はかわいかったんですけどねえ。大人になったら、ガート君はサイボーグになっちゃったし、ナルア君は威圧感が物凄いことになっちゃったし。あ、ほら、これがアンツさんです」

「ひいおじいさん?」

 アンが脇からのぞきこんだ。

「うわっ、ひいおじいさん、眉間のしわすごっ!」

「いやあ、あのヒトは、いつでも何かしら、グルグルグルグル悩んでましたからねえ。ま、でも、いいヒトでしたよ。なかなか面倒見もよかったですし」

「これ――ひいおばあさんですよね?」

「ええ。アレックス君ですね」

「ひいおじいさんと、ひいおばあさんと――この、サングラスの人は?」

「ああ、エリック君ですよ。カレは――はて、カレはいったい、あの二人、つまり、アンツさんとアレックスさんの、なんだったんでしょうねえ? エリック君はボクの友人でした。それは間違いありませんが、カレとアンツさんとは――はて――上司と部下? だけではなかったような――友人? いや、ちょっと違いますねえ。まあ――仲はよかったみたいですよ。エリック君はアンツさんに、しょっちゅう叱られてましたが」

「あらやだ、エリック叔父さんじゃない」

 後ろから、アンとアリスの母にして、アークの養母、アガータ・セイヤーが歓声をあげた。ノアは大きくうなずいた。

「ああ、そうそう、エリック君はアンツさんの義理の息子でしたっけね。そういうふうに言えばよかったんですかね? しっかし、どうもあの二人、あんまりそういう、なんというかその、義理の親子、って感じがしなかったんですよねえ。アレックス君とは、もっとそういう感じがしなかったんですよねえ。だって、アレックス君は、エリック君より年下だったんですよ? なのに、義理の母って――ねえ?」

「ひいおじいさんとひいおばあさん、叔父さんと叔母さん、二代続けて、歳の差カップル」

 アガータは腕を組んだ。

「これって、遺伝、ってやつなのかしら?」

「母さんと父さんは同い年じゃない」

「あなた達の代あたりで、また歳の差カップルが来るかもよ?」

「それはそれで面白いかも」

 アンはクスリと笑った。







「盛り上がってるなー、あっち」

 アンとアリスの父にして、アークの養父、ザクス・セイヤーは、少し感心したように言った。

「アーク、あっちに行かなくていいのか?」

 ジェイクがたずねた。アークはフルフルとかぶりをふった。

「今はやめておきます。どうもあの話の流れから行くと、そのうちぼくが義姉さん達に着せられたスカートをはいて踊ってる、幼かりし日の写真とビデオまで引っ張り出されてくるんじゃないでしょうか?」

「あ、俺、それ見たい」

「ぼくは見たくありません」

「いやあ、でも、写真ならいいですよ」

 ユーゴは苦笑した。

「俺なんて、ノア博士におむつかえるところまでリアルタイムでバッチリ見られちゃってるんですよ? もう金輪際、頭なんて上がるもんじゃありませんよ」

「子供の頃から、ずっと、ノアを知ってらっしゃるんですよね」

 アークはユーゴを見つめた。

「ええ。生まれた時から、ずっと」

「……後で少し、お話し、できますか?」

「今でもいいですよ?」

「いえ」

 アークは静かに笑った。

「もう少し――あとで、いいです」







 同じ髪の色、同じ瞳の色、同じ肌の色。

 アークとノアは、向かいあってクロレラ茶を飲んでいた。あまり一般的な飲みかたではないが、二人ともクロレラ茶に、たっぷりとミルクと砂糖を加えて飲んでいる。

「――二人で、ね」

 ノアは、ポツリと言った。

「ずっと、こうやって、ちゃんと、直接向かいあって話がしたい、と、思っていたんです。思っていたんですが――いざこうなってみると――なにをどう話せばいいのか、よくわかりません」

「――」

 アークは無言でうなずいた。

「――幸せ、ですか?」

 ノアは、たずねた。

「幸せです」

 アークは、ためらわずにこたえた。

「――よかった」

「――ええ」

 アークは、ノアを見つめた。

「――幸せ、ですか?」

 アークはたずねた。

「――ええ」

 ノアは、静かにうなずいた。

「あの」

 アークはわずかにためらった。

「おかしなことを聞いてもいいですか?」

「――なんですか?」

「わけもなく――理由もなく――別に、なにがあったというわけでもないのに――」

 アークは吐息をもらした。

「悲しくなる――泣きたくなることは――ありますか?」

「――わけもなく悲しくなる、なんていうことはありませんよ。悲しくなるのには、必ずそれなりのわけがあるんです。わけもなく、と感じるのは、その理由を自分で自覚できていないからそう思ってしまうだけです。――しかしまあ、キミの言わんとしていることはわかりますよ」

 ノアもまた、吐息をもらした。

「そうですね――ボクにも、そういうことがあったのかもしれない。いえ――きっと、あったんでしょうね。けれども、ボクは――それに、気づくことができなかった。気づいていれば、もしかしたら、もっと――。でも、気づかなかった。そして――ボクは、もう、二度と、わけもなく悲しくなることはないでしょうね」

 ノアは、薄く、淡く笑った。

「ボクがいないのは――ライドが、いないからです。この悲しみが消えない限り、ボクは二度と、わけもなく悲しくなったりはしない。わけは、ある。いつも――いつでも」

 ノアは、目を伏せた。

「かれは――もう――いない」

「ぼくがいます」

 アークは、ささやくように、叫ぶように、言った。

「ぼくが、ここに、います」

「――ここに」

 ノアはうなずいた。

「火星に――ね」

「――ええ」

「ここが、好き、ですか?」

「ええ。――あなたは?」

「好きですよ。そうじゃなかったら」

 ノアは小さく笑った。

「キミをここに送り込んだりはしない」

「――そうですね」

「――アーク」

「――はい?」

「――あのね」

「――はい」

「キミをね」

「ええ」

「抱っこして、みたかったんですよ、ボク」

 ノアは、照れたように笑った。

「でも、もう――キミは、ボクより、背が高いんですね」

「――」

 アークは、目をしばたたき――。

 ゆっくりと、立ちあがった。

「――アーク?」

「抱っこ――は、ちょっと無理ですけど」

 アークは。

 ゆっくりと、両腕を差し伸べた。

「でも――あの――ぼく――」

「――」

 どちらがどちらを抱きしめたのか。

 二人は、ずいぶん長いこと、そのままたたずんでいた。







「好きなんでしょ?」

「好きですよ」

 ジェイクとユーゴは、ニヤリと目と目を見交わした。

「『Like』じゃなくて、『Love』なんでしょ?」

「両方ですよ。――両方。だから助手をやってられる」

「俺は、『Love』」

 ジェイクはきっぱりと言った。

「絶対的に、『Love』」

「『Love』にしろ、『Like』にしろ」

 ユーゴは微苦笑した。

「とにかくほっとけませんからね。ずっとそばにひっついてますよ」

「あ、わかる、それ」

 ジェイクはうなずいた。

「離れたくないんだよな」

「そう――離れたく、ない」

「地球に、帰るの?」

「ええ、帰りますよ」

「地球のこと、好き?」

「ええ」

「俺も、好きだったけど」

 ジェイクは真面目な顔で言った。

「今も好きだけど――でも、今は、火星のほうが、もっと好き」







「――ぼく、似てますか?」

「――誰に?」

「――ライドさんに」

「――似ています。そっくりですよ」

 ノアは、ふと、まぶたをおろした。

「彼は、本当に――地の塩、だった」

「地の――塩――」

 アークは、不安げに目をしばたたいた。

「ぼく、は――」

「キミも、地の塩、です。キミも、また」

「ぼく――も? そう――ですか?」

「そうですよ」

「……」

 アークは、グッと奥歯に力をこめた。

「――あの」

「はい?」

「ぼくは――ぼくは、あなたのようにはなれません。でも――でも、ぼくにも、できることがあると、思います。ぼくは――ぼくは、そう、地の塩に――誰かの――いえ、誰かの、じゃ、ありませんね。ぼくは、ぼくが知っている――ぼくを愛してくれる――ぼくが愛している、すべての人達の、幸せを守れる人間に――なりたいと――思います――」

「――やっぱり、そっくりだ」

 ノアは、泣き笑いのような声をあげた。

「かれも――ライドも、そうだった。ライドも、いつも、一番に家族の――ボク達の幸せのことを考えてくれていた。――そっくりですよ、キミは」

「義父(とう)さんと、義母(かあ)さんも、そうです」

 アークは言った。ノアはうなずいた。

「いい人達ですね」

「――昔、ぼくは」

 アークはわずかにためらい、しかし、決然と顔をあげた。

「あなたに似ているのも、似ていないのも、いやだった」

「――そう、ですか」

「今は――今は、もう、わかりました。ぼくがあなたの血を受け継いでいるのも事実なら、ぼくはぼくで、あなたはあなた。同じ人間ではありえないのも、また事実。だから――そう、それが、わかったから――楽に、なれました」

「――よかった」

「――ええ」

「――あの」

 アークは、はにかんだように口ごもった。

「はい?」

「あの」

「どうか、しましたか?」

「あの――ぼく」

 アークは、うっすらと頬を染めた。

「ぼく――あなたのことを、家族だ、と、思っているんです。だから、あの――『あなた』というより、もっとちゃんとした呼びかたで呼びたいんです。でも、あの――どう呼べばいいのか、わからなくて――あの――どう呼べば、いいですか?」

「――」

 ノアは真面目な顔で考え込み、ゆっくりと口を開いた。

「――ありがとう。――そうですね、キミには、もうすでに、立派な御両親がいらっしゃる。今更割り込むつもりはありませんよ。そう――だから」

 ノアの、その、笑みは。

 驚くほど、大人びて見えた。

「ただ、名前を呼んでくれればいいですよ。――ボクの、名前を」

「――ノアさんは」

 アークは、真っ直ぐにノアを見つめた。

「ぼくの――名づけ親、ですよね」

「――ええ」

「聞いても――いいですか? ――どうしてぼくは、『方舟(アーク)』なんですか?」

「――」

 ノアは。

 ずいぶんと長い間、じっと、目には見えぬものを見つめていた。

 何が見えたのか。

 ノアが口を開いた時、その声は、少しも震えてはいなかった。

「ボクは――本当は、ボクは、昔からわかっていたのかもしれない。――ライドは、ボクより先に死ぬ、と。かれの生は、ボクよりもずっとはかないのだ――と。ボクは――ボクは、ね、一人では、生きられない。それは――わかっているんですよ、自分でも。ボクは――本当に孤独になったことがない。――耐えられない、と、思いますよ、きっと。誰もボクのことを見てくれない――ボクのことを気にかけてくれない、というのは。ライドは、ボクを見てくれた。死ぬまでボクのことを気にかけてくれていた。でも――かれは、ボクを置いて、死んでしまった。――本当は、わかっていたんですよ。かれは――かれは、いなくなる――と。でも、ボクは――かれのいない、世界なんて――」

「――」

「――キミが、いればね」

 その声は、とても静かだった。

 だが、アークの心の弦は、弾け飛びそうなほどに震えていた。

「かれのいない、世界でも――生きていくことが、できるから――だから――だからキミは、『方舟(アーク)』なんですよ。アーク――ボクの、希望――」

「――」

「――キミのことを、愛しています」

 ノアは、ぎこちない笑みを浮かべた。

「キミを、愛している。――はじめは、幻を愛していたのかもしれない。でも、ね」

 ノアは、ヒョイとアークの額をつついた。

「キミを見てたら、幻を見ている暇なんて、これっぽっちもありゃしませんね」

「お互い様ですね」

 アークはクシャリと笑った。

「ぼくも、あなたの影を相手に、勝手にもがいていました。勝てるわけ、ないんですよね。だって、相手は影なんだから。――でも、もう、影は見ません」

 アークは大きく笑った。

「本物のほうが、ずっと面白いですから」

「よろしい。しかし」

 ノアは再び、アークの額をはじいた。

「どうせ言うなら、魅力的と言いなさい、魅力的と」

「これから言うつもりだったんですよ」

 アークはすました顔で言った。

「本物のほうが、ずっと魅力的です」

「よろしい」

「ノアさん、あのね」

「なんですか?」

「ぼくはね」

 アークは晴れやかに笑った。

「ぼくは、あなたのようにはなれない。あなたにはできることが、ぼくにはできない。でも、ぼくには、あなたにはできないことができます。ぼくにもできることがあります。だから――それを、します」

「――なにを、するんですか?」

「創るんです」

 アークは高らかに宣言した。

「ぼく達が、これからもずっと、幸せに暮らしていくことができる火星を」







「――で、とどめにキスだよ」

「前々から疑問に思っていたんですが、なんだって公衆の面前でそんなことしなくちゃいけないんでしょうね?」

「結婚式のお約束だべ?」

「どこのどいつです、一番初めにそんなことをやらかしたお調子者は」

「いやあ、最初は、宗教的な儀式か何かとかだったのかもよ?」

「まあ、そうかもしれませんが」

「どーしても、だめ?」

「……別に、だめとは言ってません」

「なら、よし」

「5秒以内ですませて下さいね」

「えーッ!?」

「5秒あれば十分でしょう」

「じゃ、貸しにしとくね」

「貸し?」

「利息はトイチね」

「トイチ、って――その単位は?」

「分。秒と言わないこの優しさよ」

「あーもうわかりました! 好きにしてください!」

「怒った?」

「……怒りませんよ、こんなことで」

「よきかなよきかな」

「……ジェイク」

「なに、アーク?」

「幸せに、なりましょうね」

「俺、もう幸せだよ?」

「じゃあ、今以上に、幸せに、なりましょうね」

「おうともよ」

「でもね」

「ん?」

「ぼく、時々、意味もなくわけもなく、落ち込むかもしれませんけど、よろしくお願いしますね」

「わかってるって。まかせとけ」

「苦労をかけます」

「そんなの」

 ジェイクは、屈託も、含みも、裏表も、何一つない、あっけらかんと晴れ渡った満面の笑みを浮かべた。

「晴れの日がありゃ、雨の日もあるさ」




『パートタイム・アンニュイ』 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パートタイム・アンニュイ 琴里和水 @kotosatokazumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ