パートタイム・アンニュイ
琴里和水
第1話
『あたしいつでも あたしどこでも
パートタイム・アンニュイ
いつもにこにこ いつも笑って
ふくれちゃだめよ 泣いてもだめよ
いつも元気に いつも明るく
なにしょげてるの しゃんとしなさい
わかってるわよ そうしてるわよ
だけど聞いてよ あいつが来るの
あいつの名前 あいつの名前
パートタイム・アンニュイ
あいついつでも 突然なのよ
あいついつでも わがままなのよ
来るなら来ると 予告しといて
いてもいいけど 邪魔しないでよ
だけどだめなの 聞きやしないの
いきなり来ては ふりまわすだけ
だからいつでも だからどこでも
パートタイム・アンニュイ
あいつが来ると 重たくなるの
頭も肩も 心も全部
あいつが来ると いやになっちゃう
会社に仕事 友達家族
あなたも入れて 世界まるごと
そうよもちろん 自分もキライ
だからあたしは いつもどこでも
パートタイム・アンニュイ
ねえ、あんたのお気に入りって
あたしだけなの?
ねえ、あんたもたまには
他の人のとこ行きなさいよ
ねえ、あんたどうして
あたしのとこに来るの?
キライ キライ あんたなんてキライ
大ッキライ
ねえ……なによ……どうしてため息なんてつくのよ
いなくなっちゃえ どっかいっちゃえ
あいつがいなきゃ あたし笑える
うっとうしいわ こっちこないで
あいつがいなきゃ あたしはいい子
いつもにこにこ いつも笑って
いつも元気に いつも明るく
ねえ……そういえば、あんた、どんな顔してるの?
あたし知らない 何も知らない
あいつのことは 何も知らない
顔も身体も 歳も背丈も
声も好みも 何も知らない
だけど知ってる ただ一つだけ
あたし知ってる ただ一つだけ
あいつの名前 あいつの名前
パートタイム・アンニュイ』
~アンタレス『パートタイム・アンニュイ』~
「どーして起こしてくれなかったんですかッ!!」
アーク・イェールは金切声をあげた。普段は意識してできるだけ低い声で話すように心がけているアークであるが、動揺した時の甲高い声は、彼のオリジナル、ノア・イェールに酷似していた。
「落ち着けって。大丈夫だって」
ジェイク・ヴァーレンは、ゆっくりとアークを手で制した。
「いつも起きてる時間じゃんか。間にあうって、十分」
「そういう問題じゃありませんッ!」
アークは、大きく息を吸い込んだ。
「1時間半寝たら起こしてくださいと言ったでしょう!?」
「いや、起こしたよ、俺」
「……え?」
アークは、おどおどと目をしばたたいた。
「そ……そうなんですか?」
「一度、目ェ開けたんだけどさー、ムニャムニャ言ってまた寝ちゃった。あんまり気持ちよさそうに寝てるから、起こすのがやんなっちゃってそのまま寝かしといた」
「それは……申し訳ありませんでした」
アークは、深々とため息をついた。
「でも、今度からそういう時は、往復ビンタを食らわしてでもぼくを叩き起こしてください。お願いします」
「……なんで?」
ジェイクは、きょとんと言った。
「え、なんで、って……」
「おまえ、もしかして、急ぎの仕事とか、あった?」
「いえ、別にありませんが」
「じゃ、別に寝ててもいいじゃん」
「よくありません」
アークは、むっつりと言った。
「約束をすっぽかしてしまいました」
「へ?」
ジェイクは、ますますきょとんとした。
「アーク、ゆうべ、誰かと約束してたのか?」
「したじゃありませんか」
アークは、口をとがらせた。
「ジェイクと」
「俺と?」
ジェイクは首をひねった。
「えーと……そうだっけ?」
「そうです」
「いつ?」
「寝る前」
「えー?」
ジェイクは、ますます首をひねった。
「俺、何か言ったっけ?」
「……言いました」
「えーと……ごめん、忘れた。俺、なんて言ったっけ?」
「……」
アークは、いきなり赤くなった。
「あれ? どうした、アーク?」
「……本当に忘れたんですか? とぼけてるんじゃないでしょうね?」
「うん、本当に忘れた。ごめん」
「……あのですね」
アークは、ますます赤くなった。
「ゆうべ、夕ご飯の後、ジェイクは、その……あの……だから、その……し、したい、って、言ったでしょう?」
「あ? ……ああ! そうそう、そういや言ったっけ、そんなこと」
「それで」
アークは、赤い顔のまま早口に言った。
「ぼくは、疲れているから、少しだけ休ませてもらって、そのあとなら、その……してもいい、って言ったでしょう?」
「うーんと……ああ! うん、言ってた言ってた。で、1時間半したら起こしてくれ、って言って寝たんだ」
「そうです!」
アークの声が、再び甲高くなった。
「それで、どーして起こしてくれなかったんですか!?」
「いや……どうして、って」
ジェイクは、あっけにとられた顔で言った。
「だって、アーク、すっげえ気持ちよさそうに寝てたんだもん」
「そんなことは無視していいんです」
アークはきっぱりと言った。
「だって――起きないと――」
「起きないと?」
「――できないじゃないですか」
アークは怒ったように言った。ジェイクは、ポカンと口を開けた。
「おまえ……そんなに、したかったの?」
「違いますッ!」
アークは、真っ赤になって叫んだ。
「そういう問題じゃありません!」
「え、じゃ、どういう問題?」
「ぼくは、するって言ったんです」
アークは、奇妙にかたくなな口調で言った。
「だから、しなければならなかったんです」
「……つまり、したかったの?」
「違わないけど違います!」
アークは、ガバリと跳ね起きた。
「とにかく、申し訳ありませんでした」
「え? なんで謝るんだ?」
「ゆうべできなかったからです」
「やっぱりしたかったんだ」
「違います!」
アークは、キッとジェイクをにらんだ。
「これは、欲求の有無の問題ではなく、信義の問題です!」
「……しんぎ?」
「そうです」
アークは、凄まじい勢いで着替えを始めた。
「信義にもとることは、してはならないのです」
「結局、したかったの、したくなかったの?」
「いいかげんその点にこだわるのはやめてください!」
アークは、苛立たしげに言い、瞬く間に着替えを終えた。
「それじゃ、ぼくもう行きますから」
「え、朝飯は?」
「途中で何か買います」
「だって、まだ時間あるじゃん」
「……」
アークは、大きな目を実に効果的に動かしてジェイクをにらみつけた。
「……いってらっしゃい」
「いってきます」
アークは、もうあとほんの少しでも急いだら、早足ではなくれっきとした駆け足になってしまう速度で部屋を出た。
「……結局、どっちだったんだ?」
取り残されたジェイクは、ぼそりとそうつぶやいた。
アークが、出ていった時とは裏腹の、重い、のろのろとした足取りで戻ってきたのは、夕暮れが完全に夜へと変わってからだ。その片手には、火星随一の高級菓子店『砂糖雪(シュガー・スノー)』の袋がぶらさがっている。
「……」
アークは、家の戸口で一つ、大きく深呼吸した。意を決して、呼び鈴をグッと押し込む。
『はーい』
「……ただいま」
「おかえり」
ジェイクは、屈託のない笑みでアークを迎えた。
「……今朝は、すみませんでした」
アークは、悄然と言った。
「へ?」
ジェイクは、きょとんとした。
「今朝、何かあったっけ?」
「その……」
アークはきまり悪げに言った。
「ぼく……不機嫌で、感じが悪かったでしょう?」
「ああ」
ジェイクは、事もなげに笑った。
「別にいいって。寝起きに機嫌が悪いなんて誰にだってあることだろ」
「しかし」
アークは、硬い表情のまま言った。
「あんな態度をとるべきではありませんでした。申し訳ありませんでした」
「や、別に気にしてないって。だから、アークも気にすんなよ、な?」
「……ありがとうございます。あ」
アークは、『砂糖雪(シュガー・スノー)』の袋をジェイクに差し出した。
「これ、おみやげです」
「わ、ありがと、なに?」
「マーズ・スペシャルです」
「お、やったあ!」
ジェイクは大きく笑った。『マーズ・スペシャル』とは、ベリー系の果汁をふんだんに使った、鮮やかな紅を誇るシャーベットで、ジェイクの大好物である。
「ありがとな、アーク」
「いえ、いいんです。それ、賄賂ですから」
「へ?」
「ジェイクがご機嫌斜めだったら、それで機嫌をなおしてもらおうと思ったんですが」
アークはクスリと笑った。
「どうやらその必要はなかったようです」
「えー、なんで俺が機嫌悪くなるんだよ?」
「ぼくが不愉快な態度をとったから」
「いつ?」
「朝」
「あー、俺、別に気にしてないから」
「それでも、やはり、あんなふうな態度をとるべきではありませんでした」
「なんで?」
「え?」
アークは、きょとんとジェイクを見つめた。
「どういう意味ですか?」
「なんでいけねえの? なにがいけねえの?」
「えーと、それは、だから……」
アークは、困惑したような顔になった。
「その……そんな態度をとると、他人を不愉快にさせるからです」
「でも、俺別に不愉快にならなかったよ?」
「あの……でも……他の人とかは、なるかもしれませんし、それにそもそも、ぼくはあんな態度をとってはいけなかったんです」
「なんで?」
「不機嫌になるにあたってのちゃんとした理由がありませんでしたから」
「へ!?」
ジェイクはあっけにとられた。
「理由がないと不機嫌になっちゃいけねえの!?」
「え?」
アークはきょとんとした。
「普通はそうでしょう? え、違うんですか?」
「別に、理由がなくても不機嫌になる時はなると思う」
「――そうですか?」
「てゆーか、そんなもん自分じゃどうにもなんねえじゃん」
「え? いえ、そんなことはないでしょう?」
アークは、フルフルとかぶりをふった。
「やはり、人間は、自らの感情をコントロールしていかないと」
「いや、それ、無理だと思う。そりゃ、ある程度ならできるかもしれないけど、完璧には無理だろう」
「しかし、努力はすべきでしょう」
「できる分だけすりゃいいんじゃねえの?」
「ぼくは、できる分以下の努力しかしていません」
「いや、してるしてる。ぜってーしてる。ところで」
ジェイクは、アークに片手を差し出した。
「ほっといたら、アイス、とけるぜ」
「あ――すみません」
アークが手渡したマーズ・スペシャルを、ジェイクは手際よく冷蔵庫に収納した。
「めし、できてんだけど、どうする?」
「いただきます」
アークとジェイクは、いそいそと食卓についた。二人の椅子は、大きさも形も、硬さまでもが全く違う。火星人と地球人の体格の相違は、誰が見てもはっきりとわかるほどに明確で、すでに骨格レベルに達しているのだ。同じ火星人のあいだでも、『ゼロ世代』、すなわち、生まれが地球で成長期を過ぎてから火星にやって来た者達と、それ以降の世代との間には、明確な差があった。その差は、ゼロ世代から生まれた第1世代のみならず、生を受けたのは地球でも、成長期を過ごしたのは火星という、『ハーフ世代』との間にも歴然と存在していた。これから次々に生まれてくるであろう第2世代との間には、きっと、より明確な差ができることであろう。
「いただきます」
「いただきます」
ちなみに、ジェイクは地球移民、つまりゼロ世代で、アークは胚の状態で火星に到着し、火星の人工子宮で育まれ、その後、火星移民の家族の養子となって火星で育った、第1世代に限りなく近いハーフ世代である。
「今日、アリス義姉(ねえ)さんからメールがありました」
アークは、口の中のものをきちんと飲みこんでから言った。
「へー、なんだって?」
「『アンタレス』のチケットが取れたから、一緒に行かないか、って」
「あ、いいね。俺、『アンタレス』好き」
ジェイクは、うれしそうに言った。
「アークも、行くだろ?」
「ええ」
「『アイスクリーム・ジャンキー』やるかな?」
「それはやるでしょう。一番のヒット曲ですから」
「俺、あれが一番好き」
「ぼくは、今売り出している曲が――好き、というか、気になります」
「今、っていうと――ああ、『パートタイム・アンニュイ』か」
「ええ」
「あれもいいよな」
「あの歌は――ぼく、わかるんです」
「あ、感性にあう、とか、そういう感じ?」
「感性、といいますか」
アークは、小さく苦笑した。
「『パートタイム・アンニュイ』という感覚が、わかるんです」
「ふーん?」
「ぼく、時々、大した理由もないのに落ち込むことあるでしょう?」
「ん、あー、うん、まあ、な」
「いつも落ち込んでるってわけじゃないんですけど、いきなり落ち込んじゃうことが多いんですよね。後から考えると、なんであんなことで落ち込んだり不機嫌になったりしたんだろう、と思うのに、その時、その瞬間は、落ち込むのを押さえられないんですよ。本当に、ふりまわされる、って感じです」
「ふーん」
ジェイクは、感心したようにうなずいた。
「俺は、落ち込むこと自体あんまりないから、よくはわかんねえけど、でも、そっか、『パートタイム・アンニュイ』か」
「落ち込むこと、ないんですか?」
「ない。ほとんどない」
「いいなあ」
アークは、本当にうらやましそうに言った。
「ジェイクは、強いんですね」
「ちゃうちゃう。てきとーでいいかげんなだけ」
「そんなことないですよ」
「そう? ありがと」
ジェイクは、あけっぴろげに大きく笑った。若々しい顔が輝く。
28歳というジェイクの年齢は、まだ十分若者の内に入るが、その実年齢以上にジェイクは若々しかった。アークは19歳。火星の成人年齢である18歳に達する何年も前に、火星政府より特例成人の指定を受け、成人としての権限を与えられ、その瞬間から自分よりはるかに年上の相手を部下として統率してきた。
火星では、ほぼ完全な実力主義のもとにすべてが運営されている。よく言われるジョークに、『火星では、幽霊でも宇宙人でも子供でもロボットでも大統領になれる。――その実力がありさえすれば』というものがある。まあ、もっとも、火星における『大統領』の職務とは、主に、対地球外交の上での一番代表的な表看板、完全なる火星の代弁者スポークスマンとなることであり、火星の内政においては――まあ、これはまた、別の話である。後ほど語る機会もあるかもしれない。
とりあえずいえることとしては、火星人達は、地球における『大統領』と、火星における『大統領』との間に存在する差異を、誰もがきちんと理解しているが、地球の人間でその差異を理解している者は少ないのだ。
閑話休題。で、あるからして、火星人でアークの抜擢に異を唱える者はいなかった。もしいたとしても、それを公の場で表明するほどの愚行を、あえて冒すほどの馬鹿は一人もいなかった。アークには、誰にも文句をつけようのない、れっきとした実力があったのである。
で、あるからして、アークが接する社会が、火星社会だけだったら、少なくとも表立っての問題は起こることはなかったであろう。
アークは若く、そのうえ、純粋な人類(ホモ・サピエンス)としてのDNAを持っていない。アーク・イェールは、地球の非常に著名な生命科学者(バイオ・サイエンティスト)、ノア・イェールのクローンである(実際には、アークのDNAには、これは純粋な人類(ホモ・サピエンス)由来である、ライド・スペンサーのDNAも組み込まれているのだが、一般的にはアークはノアのクローンで通っている)。
そして、そのノアは『組織』の手によって人為的に生み出された人類(ホモ・サピエンス)由来のデザイナーチルドレンである。ノアもアークも、純粋な人類(ホモ・サピエンス)とは、いささか言いがたい。
しかし、人類のみならず、亜人類(『亜人類』に対する定義は、正式には非常に複雑で多岐にわたるのだが、一般に広く流布しているものとしては、『通常の状態で言語、ないし、それに類する手段を用いて人類とコミュニケートすることができる存在』ということになっている。もちろんこれは、一般に普及させるための非常に簡略化した定義で、この定義に無数にあいている穴は、正規の条文においてはきっちりと埋められている)に対する権利を地球に先駆けていち早く確立している火星においては、アークの一風変わったDNA配列は、全く問題にならないのである。と言って言い過ぎならば、少なくとも、アークの権利は公的に、他の人間と全く変わるところなく保障されている。
火星においては。
地球では――いささか、事情が異なる。地球に亜人類がいないわけではない。それどころか、母集団の圧倒的巨大さにより、亜人類の絶対数は、地球のほうが火星よりはるかに、それこそ比べ物にならないほどに多い。
が、しかし。
地球では、未だ、亜人類に対する公的な権利が保障されてはいないのである。
それはなぜか。
公的な権利など確立されていなくても、誰もたいして困らないからである。
とは、どういうことか。
地球における亜人類の圧倒的多数が、純然たる人類(ホモ・サピエンス)を親、もしくは祖父母、もしくは祖先に持ち、その直径上位親族達から人類としての権利をなし崩し的に相続してきているのである。要するに、親が人間なら子供も自動的に人間であるとみなされたのだ。それに、人類と人類由来の亜人類との間の差異は、大抵が非常に目立たぬ、個人差の範疇に紛れてしまうようなもので、自分が亜人類であるということに、本人も周りも気づかないということがままあったのだ。
だから、ことごとしく亜人類を定義づけ、権利を確立したりせずとも、誰もたいして困らなかったのである。
が、しかし。
では、地球では、亜人類を人類と同等な存在として認識しているかというと――。
そうでは、ないのである。見下している、とまでは言わない。だが、はっきりと、『自分達とは違うもの』として見ているのである。もちろん、そうではない人達も大勢いるし、そういう人達は増加の傾向にある。だが、未だに、地球全体の空気としては、人類と亜人類との間には、れっきとした距離が存在するのである。亜人類における宇宙移民の割合は、人類のそれと比して顕著に高い。理由の一端は、やはりその『距離』にあるのだろう。
さて、アークは、れっきとした亜人類である。火星においてアークの権利は、きちんと明文化され、保障されている。
しかし、地球においては。
そう――これは、アークのみならず、後々火星(ひいては宇宙植民地全域)と地球、すべてを巻き込む大きな問題なのだ。
地球の法律は、すべて人間を対象として制定されている。
そして。
法律は、人間とは何か、ということを定義してはいない。
そんなことは自明の理だ、と考えられていたからだ。かろうじて、胎児にどこまで人間としての権利が保障されるのか、ということが論争の議題となるくらいだ。
さて、では。
アークは人間か?
火星においては、なんの異論もなしに、その通りであると明言される。
しかし、地球においては。
アークを人間である、と認めれば。
地球の法律全てを、根底から見直さなければならなくなる。
始めに言っておくと、これは、誰かが意図してこのような事態を招いたわけではない。そもそも、なぜアークが火星に来ることになったのか。これには、非常に複雑で込み入った事情があるのだが、非常に簡単に要約すると、慢性的な資金不足に苦しんでいる火星が、国家予算規模の養育資金と引き換えに、アーク・イェールの養育を、ノア・イェールから請け負ったのである。
ちなみに、だからといってアークが火星で下にも置かぬ扱いを受けたか、というと、別にそんなことはない。ノアは、金は出しても口は出さないというスポンサーの典型であったし、そもそも火星で重要視されるのは、ただ本人の実力のみである。
アークは、ザクス・セイヤーと、アガータ・セイヤーの養子となり、ザクスとアガータの娘達、アンとアリスを義姉として育った。
ちなみに、セイヤー夫妻はジェイクの叔父、叔母にあたり、アンとアリスはジェイクの従妹である。アークはジェイクの義理の従弟なのだ。さらに言うなら、アンは火星で生まれた最初の子供であり、初めての第1世代である。
まあ、とにかく、ノアに火星、及び地球を引っ掻き回してやろう、などという意図は全くなかったのだ。確かにノアは、騒ぎを起こすことを辞さない、というかむしろ積極的に騒ぎを起こして楽しむような性格をしているが、今回に限って言えば、彼は無実である。さらに言うなら、アークを抜擢した火星にも、なんら他意はなかった。ただ単に、その地位につくだけの実力があったから、アークをその地位につけたというだけである。そしておそらく、それでなんの問題もなかったはずなのだ。
アークが、地球と折衝する必要のある地位につくまでは。
ここで問題。
人間ではない相手との間に交わされた契約は、法的に保護されるのか?
そう、つまり。
『亜人類』であるアークを相手に締結した契約は、法的に有効なのか?
アークが亜人類でも、人間から生まれていたのなら、おそらく問題は起こらなかっただろう。人間から生まれたものは、人間として扱われるというのが地球の不文律だ。
だが、しかし。
アークはクローンである。そして、その、オリジナルとも言うべきノアは、間違いなく人類(ホモ・サピエンス)ではないのだ。
そう、ここで地球は、いきなり目の前に選択肢を突きつけられたのである。
選択肢その1 アークを人間であると認める。
選択肢その2 アークを人間であるとは認めない。
アークを人間と認めれば、すべての法律を根底から見直さなければならなくなる。
アークを人間と認めなければ。
アーク、ひいては、火星とのあらゆる契約行為が無効となる恐れがある。
それどころか、どんな大混乱が生じるか見当もつかない。アークをその地位から降ろせ、とは、要求するだけ無駄である。火星は、その種の干渉を何よりも嫌う。それに、もしそんなことをして、もしも――。
それをきっかけとして地球の亜人類たちが結束し、蜂起してしまいでもしたら。
さて――どうする?
結論から先に言うと。
地球は『見なかったこと』にしたのだ。
とは、どういうことか。
アークが人間であるとも人間ではないとも、公的には一切口に出さない。
ただし、アークとの間に締結された契約行為は、これを法的に完全に保障する。
まあ、要するに、姑息的手段である。
アークは、当然のことながら、その水面下での騒動に、最初から最後まで深く関わった。
そして、アークは。
仕事の場、特に、地球との折衝の場で感情を見せるということがなくなった。アークが『仕事』をしている最中に表情を動かしたとしたら、それは、儀礼のために表情をつくっているのか、自分の表情がもたらす効果を計算しているか、まあ、そのどちらかと見て間違いない。美しく整った自分の顔が他人にもたらす効果を、アークは既に十分に知っていた。
アークは、19歳である。
だが、彼は既に、場合によっては火星を代表しなければならない立場に立っているのだ。
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