第3話 黄
「お友達が来たわよ」
オレンジが切り分けられて、あの日の僕の机に置かれた。
母親は右手に持っていたペティ・ナイフを傍らに置くと、精一杯の笑顔を作る。
気を回しているのだろう。
僕はそんな所に、何だか腹が立った。手先からは、いつも洗剤の匂いをさせている。それも何だかわざとらしい。
大人はいつもお節介で、余計な事ばかりする。
そして肝心な事は見落としていたり、気付かないふりをしてみたりする。
僕は酷い世界の話を人にした事はない。
増してや、一番信用ならない両親なんかには絶対だ。
だから彼らにとってタケオは、幼稚園時代からの近所の親しい友達としか写っていなかった。
去年の冬。
中学校三年生の二学期の終わり。
あの日、僕は面食らった。
まさか自分を訪ねて、家に人が来るとは思ってもみなかった。しかも、よりにもよって、あいつが。
母親は嬉しそうに、タケオを僕の部屋に招き入れた。
マフラーとコートを外したあいつは、いきなり頭を下げた。
「ウメハル君。おれは君に謝らなくちゃいけない」
タケオは一言目で、簡単に僕の心の中にも入って来た。
そしてまるで、あの幼稚園の砂場での出会いが、掛け替えのないものだったみたいに振る舞うと、嬉々として腕を奮う母親の夕食まで一緒に食べた。
順番に風呂にも入り、枕を並べて布団にもぐった。
たくさんの話をした。
あんなに人と話をした事は、今まで生きて来てあっただろうか。
好きなテレビの事、ゲームやまんがの事、アイドルや好きな女子の事、行きたい高校や大学の事。
窓の外が白々とするまでそれは続き、二人はほぼ一緒に眠った。
目覚めたくなかった。
目覚めて広がる、幸せに包まれた世界が何だか怖かった。
ゆっくりと目を開ける。
昨日までとは、違うはずだった。
違う日常が、待っているはずだった。
笑顔の友達が、そこで待っているはずだった。
タケオとの間にあった誤解や行き違いは霧散して、僕の周りには素晴らしい世界がやって来ているはずだった。
でも。
そんな非、日常は何処にもなかった。
酷い世界に僕は生きている。
いつも気が付くと、あいつから離れる事に失敗している僕がいる。あいつから離れる為に、受験する高校は秘密にしておいたはずだった。
しかし、その唯一の脱走計画も、儚く消えた。
あいつは、僕の受験した高校を密かに受けてすんなりと合格。
パラグアイに分布する、ブッシュの中で待ち構える肉食獣みたいな顔をして、入学式の校門前で待っていた。
あいつは人の心を操る。
そして、酷い世界に僕を置き去りにして行く。
まぁいいさ。
僕もいつまでも、やられっぱなしでいるつもりはない。
最近僕は、その糸口を見つけた。
同じクラスの相川マツユキ。
人が良さそうで、ぼうっとしている。取りあえずのところそいつを、僕の身代わりにした。
玩具の代わりは玩具。けっこうよくある事なんだ。この世界ではね。
だが油断や甘さは禁物だ。
これはあくまでも緊急避難。いつまた僕に、タケオの気紛れで、揺り戻しがあるかも分からない。
だから今のうちに、更に確実な方法を探した。
この酷い世界。
あいつから離れる事すら出来ないのなら、あいつをどうにかするしかない。
論理的に考えれば、あいつをこの世界から追い出すしかない。
シンプルに言ってしまえば、それは、殺すしかないって事だ。
そりゃあ、汚い大人の犯罪者達から見れば、少年法は魅力的なのだと思う。刑期的にも、殺しすら楽勝なのかも知れない。でも僕は、殺人程度の事で人生を棒に振りたくはない。
あいつを追い出せるけれど、僕までが捕まってこの世界から追い出されてしまう。それじゃ、本来の論理からは破綻している。
だから僕は探した。
確実で、そして更に僕が捕まらない方法を。
酷い世界の火薬と煙の中をかい潜って、一つ一つの扉を開けた。まるで犬みたいにダストシュートに鼻を突っ込み、鼠がするように排水溝を
そして、先週ある噂にたどり着いた。
《 C O R D 》コード。
簡単に言ってしまえばそれは、非常にローカルなSNSだった。
ネーミングは、絆に由来するものらしい。どこか日本的な雰囲気を強く感じたが、それもそのはずだ。
この高校でしか、ほぼ使われていないし知られてもいない。
僕みたいなマイノリティは別として、ほぼ全校生徒が日常最も頻繁に使用しているコミュニケーション・ツールだという。
断片的に集めた情報を総合するとこうだ。
まずはストアからアプリをダウンロード。ここでのパスワードには学績番号が使われ、そのままアカウントとなる。
小さなコミュニテイを形成する事も可能だが、基本機能はクラス
ここでの文字トークが、実に色々な力関係やら優劣を決めていく。
囁かれた噂や情報は瞬く間に全校に広まり、知らない者はのり後れて、立ち回るチャンスを逃してしまう。
そしてポイントは、一定の階級しか入れないタワーと呼ばれる場所。
そこには、この学校の最重要機密がおさめられているという。
定期試験の過去問題と予想問題から始まり、校長と全教員、理事会役員、卒業生を含む全生徒に関する個人情報から裏情報。そして、友達間での交遊分布までが一挙に集約されているのだそうだ。
びっくりした。
自分の知らないうちに、こんなものが構築されていたなんて。
パスワードがなければ入れないけれど、それを取得すれば携帯デバイスから頻繁にアクセス出来る。
気を付けて見ていると、僕の席の左隣。そして右斜め後ろ。そのトーク画面のチェックに必死な人間が、大勢いる感じがした。
たぶん。
これで人気者さんグループは、勢力図とかが一夜にして塗り変わったりするのだろうし、一般人さん達は、ある日いきなり僕みたいな、この酷い世界につき堕とされて来たりするのだろうね。
それは、最初からここにいる僕には関係ない。
冷静に考えてみれば、これの設計者や管理者はとっくに卒業生だろう。
廉価版ではあるだろうけれど、企業が営利目的でSEに組ませた程度のプログラムは感じる。今や腹が突き出て気持ちの悪い息を吐く、脂ぎった禿げ頭のオヤジだったりするのかも知れない。
それも今は関係ない。
大人はみんな汚くて嫌いだけれど、一方的に利用してやるだけだ。関係ない。
でも一昨日、すごい僕に関係ある事があった。
何とか入れてもらえた、小さなコミュニテイのスレッドを覗いていた僕は、思わずデバイスを握りしめた。
珍しく声を上げて、変なポーズまでしてしまったよ。
実に興味をそそるスレッドが先々週、そこで立てられていたんだ。
〈誰でもいいです。お願いです。確実な効果を保証する、呪いの方法を教えて下さい。毎日毎日が千秋のようです。/トロイ〉
僕のように酷い世界に生きている人が、他にもいるのだろう。
千秋だなんて、詩的な表現だ。
線の細い、女子だろうか。
とにかくこのトロイというハンネの人が書いた文面からは、シンプルなのにとても鬼気迫るものを感られじた。
僕らみたいな弱い立場の人間は、ネットやSNSは別として、リアルで横に繋がりを作りたがらない。
肉食獣から見て目立つ事は、命取りになるからだ。
群れていたら余計に目につきやすくなってしまうし、下手をするとその群れからデコイにされてしまう。
草原の象や鹿とはわけが違う。間違えても、僕たちは助け合ったりはしない。
だから余計に、こういった立場の人間の話は新鮮にも感じた。
スレッドが立てられた当初から、反応するアクセスは多かったみたいだ。でも、これは難しいだろう。
確実な効果を保証する、呪いの方法。
確実な、方法。
僕は好奇心からずっと追って、時系列に皆のコメントを読み進めていった。
スレッドが多少停滞気味になったあたりで、shiroikichiというハンネのやつが登場。この人がすごい。
スレッド全体が沸き返るような、有益情報を持ち込んで来ていた。
それは〔おかえりなさい〕という呪いの方法だった。
おかえり。
悪い事をした人間に悪い事が、かえる。
因果応報って感じだ。
期待が高まる。
確かにあれはすごいよと、効果を試したらしい別のハンネからのコメントがあった。賞賛する、更に別の複数のハンネによるコメントもある。
そもそもこういった書き込みをしている人間は、全てがハンネばかりだから、誰が誰だかは分からない。
でも、確実に分かっている事があった。
一番知りたい。そしてそれさえ分かってれば、実は他の情報はほぼどうでもいい事。
呪いのターゲットだった。
隣のクラスの吉岡と広田。
それは実名公開されていた。僕は直接の被害を受けた事はないが、タケオと並ぶいじめの常習犯だ。
うちみたいな進学校に、ヤンキーの類いはいない。
でも、あいつらは学年の三幹部みたいなものだ。よく廊下や教室で、タケオと一緒に話していたりする。
身体も大きくて、まともにやってかなう相手じゃない。しかも僕ほどではないけれど、頭だって切れる。
それが、この方法で最近病院送りになったらしい。
確かにこのところ、二人の姿を見てはいない。
効果は実証済みって。
いいよ。
これ、いいよ。
〔おかえりなさい〕
これだ。
これしかない。
これでタケオを倒すのは、僕しかいない。これでタケオまでいなくなれば、三幹部一掃。この世界だって、本当に変わるかも知れない。
僕は早速その日から、行動を開始した。
善は急げと言うものね。
確実な、方法。
そして僕が捕まらない方法だ。
道具は苦労して、完璧に揃えたよ。儀式もしっかり丸暗記した。勿論今夜だって、ちゃんと続行する。
「ほおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
有理数が、肺の奥の奥から吹き出て来ているみたいな。
そんな、放課後恒例のため息。
やれやれ。
僕は、デバイスをタップして閉じた。
やっと、またいつもの一日が終わる。
今日もグレネード・ランチャーが派手に飛び交って、ガトリング・ガンがむせ返るような硝煙を撒き散らしていた。
ここはとても、人間のいる世界じゃない。
どうにかやっと、今日を生き延びたって感じだ。
こんな世界、早く何とかしないと。
そうそう。
ここには、あの怪のひとつがあった。今閉じたデバイスのボディ表面にある、キャリア会社のロゴ脇。直線のような、変な染みが徐々に伸びてきている。
線の怪だ。
授業中、みんなより早く問題が解けてしまった僕は、これらの怪に大胆な推論を立ててみた。
全ての学問だって、推論から始まるって言うものね。
一つ目が点の怪。
二つ目がここにある、線の怪。
そして三つ目が、面の怪。
つまりだよ。
点から始まって線が一次元、そして面が二次元。組み合わさって、それが三次元へって感じで、まるで何かの流れを示しているようにも、見えないかな?これって。
それに今日は、三日目だろ?
そろそろな、気がする。
きっと、何かが生まれる啓示だね。
何かって?
それは、このくだらない酷い日常を破壊して再生させる、偉大な何かだよ。でも大人もだめ。あれも一緒に破壊しないと。やっぱり、だめだね。
昨日の事だ。
この携帯デバイスを、この前機種変したキャリアショップに持って行ったんだ。そうしたら一言。店員、前例が無いって。
あの時に、にこやかに対応していた店員が、まるで別人。
無償では修理出来ないって。
もし直したいのなら、金を出せって事らしい。
ボディの裏や電池周辺部ならともかく、通常の使い方でそこに染みが発生した前例はないのだそうだよ。
つまり、僕が通常ではない使い方をしたと言いたいらしい。
いいよ、どうせお前ら大人なんか。
最初から期待していない。
前例が無い事は分からないし、分かっている事から分からない事を導き解いて行く頭なんて、最初から持ち合わせていないんでしょ?
仕方ない。
責任回避と自己防衛が、大人の大原則だもの。
それに、肝心な事には気が付かないくせにすぐ声を荒げるし、不思議な事や変わった事があると取り乱す。
そもそも、論理的な思考が欠如しているのさ。
僕は違う。こんな怪現象。
こんな怪なんて、方程式に入れてみれば楽勝。
大人は馬鹿だから。
『社会に出てから使うかどうかなのではない。方程式は勉強なのだ』
なんて言う。
僕には違う。
方程式は全てだよ。
論ずるまでもなく数学の全てだし、物事の仕組みの全てだし、物理学の世界にさえ繋がっている。
分からないかな?
つまり、この世はだいたいが方程式で解けてしまうって事なんだ。
簡単に言おうか。
まずは、最近の自分の行動をyとする。
で、最終的な怪の存在をxとする。
式は二つ使おうか。
そう、これは、二つの式を使う美しい方程式。連立方程式で解きます。先にどちらか一方の式で、yだけをしっかり確実に求める。
そこで求められたyの解をもう一方の式のyに代入する。こうすれば、残るxの解なんかすぐに解けるさ。
で、解決。
早速それを解きたくなってウズウズしてきた僕は、鞄を開ける。
黄色い表紙をした、あの大好きな大学ノートを取り出した。
「よう、持って来たろうな」
本 文 を 読 ん で そ の 怪 を 求 め よ 。 夜 洲 多 夏 @micromank2
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