最終話 ロザリオ
先ほどの争いが嘘のように、ななぼし食堂は静かであった。
コーヒーにミルクと砂糖をたっぷりと入れ、洞嶋は美味しそうにカップをかたむける。
向かい側に座る七星はブラックで、立ち上がる香りを楽しんでいる。
「やっこさんたち、お友達に会えたかな」
静かに七星は言う。
洞嶋はカップをソーサーに置いた。
「無事に回収できたらいいが。先ほどの連中が、向こうに行っていたら困る」
「そうさなあ。こっちに来られても困るけどさ」
洞嶋は微笑む。
「あの程度の連中なら、私ひとりで大丈夫」
派手なクルマで出かけてまだ十分も経っていない。
もしここで夜明かしをするとなると、やはりお泊りセットを常備しておいて良かった。
洞嶋は妙な安心感を抱いていたのである。
それにしても、あんなにみんながドン引きするとは思いもよらなかった。
菅原のチャライ言葉に騙されたのが一番悪いのだが、ひかりの前でだけは常にクールでいたかったのに、と反省しきりであった。いま思い出しても顔がほてる。
「うん? 何か聞こえるな。何の音だろう」
洞嶋の言葉に、七星も耳を澄ませた。
「ああ、あれは暴走族の連中じゃないかな」
「いまどき暴走族なんて、いるの?」
「ほんのたまあに、ほれ、あっちの国道をさ、大きな音を立ててオートバイで連なって走っていく若造がいるんだよ」
「ほお。集団じゃないと何もできない、かわいそうな
面白くなさそうに洞嶋は言った。
オートバイの排気音が、どんどん大きくなってくる。
「凄い音だな。こんな夜によう。いったい何台で走っていやがんだあ?」
七星は今まで聞いたこともない騒音に、顔をしかめる。
「でも昔聞いた暴動族の音とは、ちょっと違うような」
「そういや、そうだな。
あいつらはマフラーを細工して、どっちかってえと甲高い悲鳴のような音を鳴らすものなあ」
「お腹に響く感じからすると、でっかいオートバイが何十台と連なって走っているような気配だが」
排気音がさらに近くに響いてきた。
立てつけの悪い、古い食堂の窓ガラスが、ピリピリカタカタと不安げに揺れ始める。
「ちょっと待って。ここのお店に向かってきているのでは」
洞嶋は素早く立ち上がる。
もしかすると、先ほど追い返した連中が意趣返しに集団で襲撃に来ているのかもしれない。
「ご主人、私は表を見てくるから、万が一の時には警察に連絡を」
「わかった。ねえさん、無茶はしなさんな」
七星の言葉に、洞嶋はニッコリと笑いながら出入り口のドアを開けた。
ドドドドッ! そのとたん、空気を叩く音が店内に響いた。
洞嶋は素早く飛び出た。
「ウッ」
三十メートルほど先の商店街の入り口から、ライトを照らした大型バイクが次々と向かってくるのが目に入ったのだ。それもかなりゆっくりした速度で。
いったい何台、いや何十台? さすがの洞嶋も圧倒され始めていた。
すかさずポケットからフリスクを取り出すと、口の中にタブレットを放り込み、奥歯を噛みしめるように砕いた。いつでも戦えるように身構える。
洞嶋はオートバイの集団に挟まれるようにゆっくり走ってくるクルマを見て、目を見開く。商店街の外灯に照らされるショッキングピンクの派手なワンボックスカーは、先ほど出かけて行ったひかりたちが乗っていったクルマではないか。
あんな塗装のクルマはそう何台もあるとは思えない。
先頭のオートバイがゆっくりと洞嶋の目の前を通り過ぎる。続いて二台、三台と通り過ぎていく。洞嶋はライダーのヘルメットを見て、さらに口を開けた。
オートバイを駆るライダーはいずれもハーフヘルメットにサングラス、袖なしの革製ベストを着ている。腕の筋肉が丸太のように太い。
洞嶋が驚いているのは、ヘルメットの柄であった。濃いグリーンに白い草木、例の唐草模様であったからだ。
「エッ? エエッ?」
目の前に、マリリンモンローの色っぽい姿が現れた。
洞嶋は驚愕の目で見渡す。揃いの大型バイクが数十台、目の前に痛車。そして、その後ろには、天井に木製のハの字型の屋根を取り付け、さらにその上に太陽のシンボルを乗せたオンボロのマイクロバスが停車しているのだ。
七星は電話の子機を片手に顔を出し、同じく口をあんぐりと開けている。
オートバイのエンジンが一斉に切られた。
シーンと静まり返る商店街。
軒を連ねた店の居住区としている二階から、何事かと顔を出す人たちがちらほら見える。
ガチャリとアルファードの後部ドアが開かれ、ひかりが飛び出てきた。
「先生ーっ!」
ひかりは洞嶋の胸に飛び込んできたのだ。
洞嶋は呆気にとられたまま、抱きついてくるひかりを両腕で抱えた。
「これは、いったい、どうしたのだ?」
「先生ッ! 先生!」
ひかりの目は、笑いながら大粒の涙をあふれさせているではないか。
「ただいま、おじいちゃん」
反対側のドアを開けて、泉太は歩きながら祖父の七星に声をかけた。
「泉太? 友達の家に行ったんじゃなかったのかい」
不思議そうに孫を見上げる。
「何から話せばいいかな。色々ありすぎてさ」
泣きじゃくるひかりを、洞嶋はもう一度優しく抱きしめた。
トマスとシモンもクルマから降りたった。
「ご主人、この度は本当にお世話になり、また多大なご迷惑をおかけいたしました」
神妙な面持ちでトマスは頭を下げ、シモンも真似た。
マイクロバスの中央のドアが、錆びのきしむ音を上げながら開かれる。
市野谷を抱きかかえるようにフランシスコが降りた。猫のミカエルもぴょんと飛び降りる。元の世界の匂いが恋しいのか、さかんに鼻を動かしている。
マイクロバスからベネディクトが姿を現した。
「こんなに大勢の人に入ってもらうには、ウチの店はちと狭すぎるなあ」
七星はつぶやく。
「いえ、ご主人。私たちは目的を達しましたので、ここで失礼いたします。
本当にありがとうございました」
トマスの言葉に、七星は言う。
「なあんにもしちゃいないよ。
それより、今晩くらい泊まっていったらどうだい?
シモンさんにも、まだ教えたい料理があるしさ」
そこへ先頭を走っていたバイクから、大柄な男が降りてきた。
二メートル近い巨漢だ。
ヘルメットとサングラスをはずした。真っ白な長髪と髭がなびく。老人であった。
その目は真っ直ぐ前を見ており、誰もが吸い込まれそうな清らかな笑みをたたえている。
老人は店の前で、片膝をついた。
「私は教皇を務める、パウロ三世と申します。
この度は私の息子どもがこちらさまに多大なご迷惑をおかけいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。
すべては私の不行きとどきが原因。
謝罪では済まないことではありますが、平にお許しを」
「っていわれても、なんのことやら」
七星は言う。
「こっちとしては、特にシモンさんには、タダ働きなんてさせちまったからさ。
ひかりちゃんと孫の泉太が無事なら、こんなめでたいことはないしな」
教皇パウロ三世は、ほっとしたように表情をゆるませた。
「私どもはこれから戻らねばなりません。
みなさま方にお許しいただけたこと、我が太陽神の計らいとして感謝いたします」
革ベストのポケットから、金色に輝くロザリオを二本取り出した。小さな太陽のシンボルがぶら下がっている。
「神の存在を信じる信じないは別にして、これをお二人にお渡しさせていただきたい。
いついかなるときも、我が神はあなたたちの勇気を讃え、お守りしてくれるでしょう」
パウロ三世は自らの手で、ひかりと泉太の首にロザリオをかけた。
「うわー、綺麗だねえ、センちゃん」
「うん。お揃いだなんて、ちょっと照れるけどね」
ひかりは洞嶋の腕の中で微笑んだ。
トマスは、ひかりを抱えている洞嶋のそばに来た。
「お嬢さん。神についてのお話はできなくなりましたが、今宵の宴のことは忘れません」
「ああ、私もだ。楽しい時間をいただいた。ありがとう」
トマスは握手しようと手を差し伸べたが、思い返してあわてて引っ込める。
「シモンさんよ」
「あ、あいー」
シモンは涙に鼻水まで垂れ流して、七星を見る。
「あんたも、身体に気ぃつけて精進しなせえ。
あれだけの料理を作れるんだ。なんだってできるさ」
「あ、あい。ありが、ありがとうご、ざ、いますぅ」
七星は、シモンの丸い肩をポンと叩いた。
マイクロバスの前で、ベネディクトはフランシスコに手をさしだした。
フランシスコは涙を必死にこらえ、ぎこちなく口角を上げ、師の手を握った。
「きみなら、大丈夫。師である私が保証する」
「先生のこと、先生の教えは生涯忘れません。必ず立派な宣教師になります。
先生のような、万人に手を差し伸べる宣教師になります」
「うん。住む世界は違えど、きみは私の一番弟子だ。そして誇りある同志だ」
その横で、市野谷がまだつぶやいている。
「彼がこうなったのは僕の責任です。必ず回復させます」
フランシスコの目は、もう斎間真一のそれではなくなっていた。
パウロ三世はもう一度深々と頭を下げた。トマス、シモンも倣った。
「それではそろそろ、失礼いたします」
言いながらヘルメットをかむり、サングラスをはめる。
トマスとシモンはアルファードから唐草模様の大きな風呂敷包みを抱えだし、マイクロバスに向かった。
オートバイが一斉にセルを回した。ギュルギュルッとエンジンがかかる。
ヴォンヴォンヴォーンとエンジンの回転数を上げていく。
パウロ三世が自身のバイクにまたがった。
「ッシャア、帰るぜ! 野郎ども!」
打って変わって、大きなだみ声で叫んだ。
爆音を立てながらオートバイの集団はその場でUターンし、マイクロバスはバックで国道へもどっていく。数台のオートバイが車道を封鎖するように停車し、マイクロバスがゆっくり出てくるのを待つ。
国道を走ってきたクルマが、クラクションを鳴らしながら急停車していくのがわかった。
マイクロバスが車道に出るのを見計らって、次々とオートバイが走りだした。
「ウホホーイ! 久しぶりに走るぜえ!」
パウロ三世のオートバイが先頭に躍り出た。
暴走族がかわいく見える光景である。迫力が違うのだ。
市民から通報を受けた交通機動隊のパトカーが、サイレンを鳴らしながら走ってきた。
「ケッ、官憲めが。こちとら八十年オートバイ駆ってんだ。鼻垂れ小僧に負けるかよう!」
信者十億人の教会のトップに君臨する教皇は、高らかな笑い声でアクセルを吹かした。
パトカーのハンドルを握る警官は、ニヤリと笑う。
「暴走族が。痛い目にあわせてやるか」
横に座る警官も同調した。
夜の国道を走るバイク集団。変なマイクロバスを挟みながら、駆け抜けていく。
「この先七百メートル先は渋滞ゾーンだ。そこで決着をつけてやるぜ」
警官はアクセルを思いっきり踏み込む。
オートバイの前方に,クルマの停止ランプが見え始めた。
しかし、一向にスピードをゆるめる気配がないのだ。
「あいつら、突っ込む気か!」
警官が叫んだ。
すると、パトカーの前を行く暴走集団が、青い光に包まれた直後、消えた。
文字通り、消えていなくなってしまったのだ。
「ハアッ?」
ハンドルを握る警官は、あわてて急ブレーキを踏んだ。甲高いブレーキ音がパトカーの内部に響く。パトカーは間一髪のところで渋滞の最後尾のクルマに突っ込まずに済んだ。
「お、おい」
「あの、前を走っていた暴走族は」
「消えたのか」
「ああ、消えちまった」
警官たちは見てはいけないものを見た時のように、背筋に悪寒を走らせたのであった。
~~♡♡~~
バイク集団が去った後、ご近所の顔なじみが数人、様子をうかがいに現れた。
七星はそれぞれに頭を下げ、何でもないことを告げる。
八百松の大将が、店のシャッターを開け出てきた。
「あれ、ギンさん。クルマは使うんじゃなかったのかい?」
「いや、もう用事はすんだようだ」
大将は、そうかいと言いながらクルマに乗り、駐車場まで持っていった。
市野谷を抱えているフランシスコが、なぜか茫然と立ちすくんでいるのを見た泉太は、近寄って声をかけた。
「どうかしたのかい?」
フランシスコは食堂の斜め前にある、時計店の軒に吊るされた時計を見入っている。
「変な質問をするけど、あの時計は、合っているのかな」
泉太は見慣れた大きな時計を見上げ、うなずいた。
「でも西暦とか、月日は止まっているんだろ?」
フランシスコは指さした。
「いや、あの時計だけは店の主人がしょっちゅう手入れしているから、この商店街では一番信用できるけどね」
フランシスコは指をさしたまま、ククッと笑っているのか泣いているのか判別不能の声を漏らした。
「そうか。僕はこの世界から跳ばされて半年近くあの世界にいたけど、実際には二時間も経っていなかったんだ。
あの世界は時間軸まで、歪んでしまっていたんだなあ」
泉太はようやく合点がいった。
あの博物館でフランシスコは市野谷に半年前に跳ばされたって言っていたけど、それではトマスたちとの出会いがおかしいことに疑問を抱いていたのだ。
もしかするとシモンが撮影した映像は、このフランシスコをあの世界に跳ばして自分だけが戻ってきた直後ではないかと思った。
あの死にゆく世界は、すべてのバランスが崩れてしまっていたのだ。
泉太はあらためてゾッとした。
だからおじいちゃんたちが、僕たちが出て行ってすぐに戻ってきたって言っている意味がわかった。
泉太たちが向こうで過ごした時間は、こちらでは五分にも満たなかったのだ。
「おい、いつまでくっついている」
「だって、先生に会いたかったんだもーん」
ひかりは洞嶋の大きく柔らかな胸に、顔をうずめていた。
「く、くすぐったい。ひかり、子供じゃないのだから」
ひかりは顔を上げて、えへへっと笑った。
「七星くん」
フランシスコが市野谷を抱えたまま、泉太に声をかけた。
「僕が今から、彼を自宅に送っていくよ」
「大丈夫かな、きみひとりで」
「ああ。このあたりの地理は詳しいしね。
それにこの世界は僕にとっては半年ぶりだから、町の温かさを感じていたいんだ。
ミカエルもいっしょにね」
足元で、ミカエルが甘えている。
「わかった。本当に大変だったね。きみが跳ばされて、まだ二時間も経っていないなんて」
泉太は気の毒そうに言った。
「確かにね。でもこれは、神が僕にお与えになったチャンスなのだって考える。
ここの二時間を、僕は半年という修業の時間に換えることができたのだから」
フランシスコは笑顔で答えた。
その微笑みは師であるベネディクトに似て、とても温かかった。
じゃあ、と手をふるフランシスコに泉太は言う。
「落ち着いたら、ぜひここに来てよ。いつでも大歓迎だから!」
うんとうなずきながら、フランシスコは市野谷をいたわるように歩き出した。
ミカエルも鼻を鳴らしながらついていく。
「さあ、ひかり。そろそろ終電がなくなる。私はまた明日、早朝から仕事なんだ」
ひかりは離れようとはせず、洞嶋の顔を見上げたままささやいた。
「だって、せっかくお泊りセットを持ってきているなら、ここに一緒に泊まっていってくださーい」
洞嶋の顔がパッと赤くなる。
「二度とお泊りセットのことは言うな!」
大声で叫んでひかりを叩こうとしたが、ひかりはするりと抜けだしていた。
「先生、そんな大きな声でお泊りセットなんて言ったら、恥ずかしいですよー」
向かいの二階から、八百屋の大将がニヤつきながら顔を出していた。
「ば、ばか!」
洞嶋は顔を隠して、しゃがみこんでしまったのであった。
~~♡♡~~
翌週月曜日の朝。
「おはようございまーす」
ひかりはいつものように、ななぼし食堂の木製のドアをガラガラと開け、丁寧にお辞儀をしてから店内に入った。
「おう、おはよう、ひかりちゃん。また月曜日が始まっちゃったな」
厨房から七星が顔を出した。
「おーい、泉太っ。ひかりちゃんがお迎えにきたぞー」
いつものように二階に声をかける。
食堂のテーブルには大きな弁当箱と小さな弁当箱が、布巾に包まれ並んでいた。
「今日のおかずは、なんだろなぁ」
ひかりは歌うように、弁当箱をながめた。
「今日はよ、小エビのかき揚げとギンさんお手製の焼売だぜ。それに、サラダつきだ」
「企業秘密のドレッシングであえてあるサラダだねえ。嬉しいなーっと」
ひかりはすぐに食べたそうに見つめる。
「しっかり勉強して、お腹すかしときなよ」
七星の言葉に、はーいと返事する。
「おはよう、お待たせー」
トントンと階段を降りて、泉太が現れた。
ふたりは弁当箱をバッグに入れると、店を出ていく。
「いってきまーす」
「はいよう、気いつけてなあ」
いつもの七星のお見送りである。
「この土日は、また先生と稽古したのだろ?」
地下鉄の駅までの道。左右の商店はまだシャッターをおろしている。
ひかりはスキップするように歩きながら、言った。
「もちろんだよ。やっと弟子として認めていただいたんだから。
でもかなり厳しかったなあ、今回は。
組手をするときも、先生は全然手を抜かないからー」
ひかりはブレザーの袖をまくる。両腕には新しい青あざがあった。
「痛そうだね」
顔をしかめる泉太。
「そりゃ、痛いです。でもその分、技術を叩きこんでくれるから、嬉しくて。
それに先生、蹴りを出すたびに無意識にしゃべっているのがおかしくて」
「なんて言っていたの?」
「えーっとねえ。なぜスガワラが長期出張なんだあ、とか。お泊りセットがどうとか。
次にスガワラに会ったら絶対半殺しにしてやるとか。
なんかコワかったよ、先生の目つき。
そのスガワラって方は、先生の宿敵なのかもー」
ひかりは会ったことのないスガワラが、かわいそうに思えてきた。
中学二年生の冬に、洞嶋といっしょにいた男性が、その菅原であったことは覚えていなかった。
地下鉄に乗り、高校のある駅で降りた二人はいつものように歩いていく。
「そういえば、センちゃんに報告したっけ」
「ああ、市野谷のことだろ」
「そうです。今日登校してくるって、担任の先生が言っていたから」
「結局、彼はどうしたんだろうね、あれから」
ひかりは、うーんと考えこんだ。
「おーい、凪佐くーん」
後ろから名前を呼ばれて、ひかりは振り返った。
「市野谷くん!」
泉太も振り返った。
後方から元気よく手を振りながら駆けてくるのは、市野谷であった。
「やあ、おはよう。えーっと、横にいるのは」
「センちゃんですよう、七星くん。忘れちゃった?」
市野谷は前髪を分けており、表情がよく見える。
あの暗い双眸は消え去り、ニキビはあるものの、普通の男子高校生らしい快活な雰囲気になっていた。
「ごめんね。じつは先週転んだのかどうかして、頭を打って気絶していたらしんだ。
中学時代の同級生で斎間くんってのが、公園で倒れている僕を偶然見つけて、家まで連れて来てくれたらしんだよ。まったく覚えてないんだけど。
それから二、三日寝込んでさ。ようやく週末に起き上がれるようになったんだ」
「病院には、いきましたか?」
「ああ。母が驚いてね。救急車を呼んで救急病院に搬送されて精密検査を受けたんだけど、結局どこにも異常はないからってことで自宅療養してたよ。
あまりかまってくれなかった母が、つきっきりでね。
でもなにかすごくスッキリしてるんだ。悪夢から覚めたみたいに」
市野谷は、笑顔で話す。泉太は気になっていたことを訊く。
「その斎間くんってのは?」
「良い友達だよ。母が浪人中の兄の世話で大変だろからって、毎日僕を看にきてくれているんだよ。高校へ通いながら、ボランティア活動するって言ってたけど。
優しくて思いやりのあるやつだよ」
「そうかい」
泉太は納得顔でうなずく。
「さあ、急ごう。予鈴が鳴る時間だ。
僕、先行くね。職員室によって先生に挨拶してくる」
市野谷は言いながら走っていった。
「あれ、本当に市野谷くんなのかなー」
ひかりはあまりの変貌に、首をかしげる。
「羅針珠が彼の本来持っている明るい性格を、引き出したってことかな。
まあ悪い影響がなくて良かった」
「本当だね。あの珠を呑み込んだら、いいことあったかも」
「たとえば、背が伸びるとか?」
「そう。そうすればわたしも苦労しなくて。って、センちゃん、ひどいー!」
ひかりは弁当箱を入れていない学生鞄を振り回した。
「ごめーん、ね」
泉太は長い脚で走り出す。
ひかりは唇をとがらせたまま、泉太を追いかけた。
胸元にある揃いのロザリオをゆらしながら。
了
トリック・トリップ 無限大 高尾つばき @tulip416
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます