第6話 夜明けに向かって ②

「駄目だね、話にならない。帰らせていただく!」


 一週間後。

 エメルが「ツテがある」と称して呼び出したプロの作曲家は、話を始めて三〇分も経たないうちに、怒鳴り声を叩きつけて席を立ち上がった。

 ロンドンの高級ホテル、クラリッジスのラウンジに居合わせた客が一斉に振り返る。

 かつてはシンガーソングライターとしても鳴らした有名な作曲家ピクシー・スコットは、呆れたように首を振ると厳しい声で言い放った。


「そもそもアポイントから失礼だと思っていたが、どんな仕事の依頼かと思って足を運べばビジネスの話にすらなっていない。時間の無駄だ」


 吐き捨てるような言葉の向こう側では、さっきまでたどたどしく自分の構想を説明していたデブオタが狼狽し、言葉を失っていた。

 いつもエメルを相手に強引かつ頼もしく話す彼だったが、プロの作曲家を相手ではさすがに勝手が違うだろうと緊張の余り、自分が何を話しているのかも解っていないトークになってしまった。

 そして、イライラしたスコットはとうとう痺れを切らせてしまったのである。

 エメルの顔も青ざめていた。

 もっとも、これが以前の彼女なら怒鳴られただけで縮み上がってもう涙目になっていたことだろう。


「そもそも君は本当に音楽プロデューサーなのか? 契約書もない、企画書もない、これで一体何のビジネスだというんだ。説明も支離滅裂でさっぱりわからない」


 五十代にしては若く精悍な風貌のベテラン作曲家は、厳しい面持ちで矢継ぎ早に畳みかける。

 立ちあがったスコットは、思わず下を向いたデブオタへ憐れむように言葉を掛けた。


「ボーイ、契約の内容と説明の言葉くらい事前に準備したまえ。その前に社会の一般的な礼節の何たるかを勉強してから出直せ。正直、私じゃなくて二流や三流の作曲家くらいが君には似合うだろう」


(何ですって?)


 それはリアンゼルと同じようにデブオタを見下すような物言いで、それを聞いたエメルの様子がふいに変わった。

 しかし、リアンゼルの時のように思わず我を忘れるような怒りには駆られなかった。

 大切な人を見下す冷ややかな作曲家の態度が、彼女を逆に冷静にさせたのだ。

 エメルは、呼吸を整えながら目の前の男を観察した。まるで彼の正体を見極めようとするように。

 高価そうなスーツ、ビジネスマンとしての優雅な身の振舞い、隙のない言葉遣い。きっと立派な仕事が出来る男なのだろう。

 だが、エメルは思った。

 どんなに仕事が出来る立派な男でも、土砂降りの冷たい雨の中で必死に営業してくれたデブオタのあの姿に到底及ぶはずがない。

 彼と同じことがこの男には出来るだろうか? エメルは心の中でかぶりを振った。

 おそらく出来ないだろう。あんな勇気を持っているデイブに二流や三流の作曲家など似合うものか!

 エメルは決然として、席を立ちかけた彼へ言葉を返した。


「デイブが緊張して上手に説明出来ないから話を理解しようとせずに侮辱する。貴方はそれで本当に一流の作曲家のつもりなの?」

「何?」


 一流を自負する作曲家が鋭く睨むと、エメルはターコイズグリーンの瞳に冷たい怒りを漲らせて睨み返した。


「確かにアポイントは下手でした。ここには契約書もなく企画書も用意していない。貴方が不快な思いをして当然かも知れない。それはごめんなさい。でも、作曲で大切なこととそれは関係ない。大事なことは歌う人が気持ちよく歌える、聴いた人が感動する、そんな曲を作ることじゃないの?」

「それは私に対する侮辱の言葉として受け取っていいのか」

「違います。貴方が私達を侮辱している。不器用だけど真剣な私達を」


 声こそ震えていたがエメルは怯まなかった。隣のデブオタは驚いたように見ている。

 しばらくの間、スコットとエメルは睨み合っていたが、スコットの灰色の瞳がふっと和んだ。無礼な物言いを激怒しても良かったのだが、一流の作曲家として、彼女の真剣な言葉に思わず好感を抱いたのだ。

 社交辞令ではなくそんな切り出し方で話をされたことはずっとなかったな、と彼は思い出した。もしかしたら作曲の仕事を始めて今までなかったのかも知れない。


「君たちがいい加減でないことだけは理解した」


 そう言うと、立ち上がっていたスコットはもう一度座り直した。


「子供扱いしたことは詫びよう。私も大人気なかった。では改めて、どんな曲を私に作って欲しいのか、その事情を聞かせてもらえるかな」

「はい。それは、あの、その……」


 ピクシー・スコットの物腰は柔らかかったが、それだけにいい加減な受け答えは許さないという態度が見て取れる。デブオタはすっかり上がってしまって、またしどろもどろで話を始めそうになった。目が落ち着きなく泳いでいる。


「君、名前は?」

「デブ……いや、は、春……本ヤス、キ、です」

「ヤスキ、まずはそこの水を飲みたまえ。両手で持って、むせない様にゆっくりとだ」


 デブオタは言われたとおり、素直にコップの水を両手で飲んだ。


「そう、それでいい。それから深呼吸しなさい。君の話は最後まで聞くと約束する。だから気持ちを楽にして話すといい」

「ありがとうございます」


 エメルはテーブルの上で震えているデブオタの腕に自分の手を乗せて励ました。


「デイブ。この人に何もかも話して。曲の話より先に私たちのこと。ほら、公園のトイレで出会った日のことから」

「ああ……」


 煌びやかなシャンデリアや大理石の床、高級そうなテーブルなど豪華なホテルの中にいる場違いさですっかり怖じ気づいて緊張していたデブオタは、ようやく人心地のついたような顔で頭を下げた。


「すみません。緊張していて。その、こんな場合の礼儀も知らないもので」

「いや、今のそれでいい。自分の至らなさを正直に謝罪するのも礼儀のひとつだ。ゆっくりとした口調で話すといい。その方が落ち着いて話せるよ」


 黙って頷くとデブオタは静かに話し始めた。言葉が舌足らずな部分はエメルが横から懸命に補足する。

 デブオタは時折、上目遣いに彼の顔色を伺ったが、無表情のスコットは何も口を挟もうとしない。

 公園の中でエメルと出会い、リアンゼルと対峙したくだりは、さすがに苦笑じみた顔で彼は耳を傾けていたが、横断歩道を目隠しで渡り大声を上げさせる特訓など様々な練習を聞いているうちにその笑いは消えた。

 体当たりで受けた幾つものオーディション、練習の数々。先日の大手のレコード会社に飛び込み営業をかけて放り出されたこともデブオタは恥ずかしそうに、だが包み隠さず語った。スコットは唇を横に結んだまま、ただ黙って聞いている。

 最後にブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションに挑戦するために曲を作ろうと考えて今回アポイントを取ったのだと聞いた時、わずかに頷いた。

 エメルもデブオタのことを彼に理解して欲しいと思い、最後にもう一言だけ付け加えた。


「彼は私に言ったの。“悲しい人や傷ついた人を歌で抱きしめてあげる優しい歌手になってくれ”って。……私、そんな歌手になりたいの。だからこそ貴方に作曲をお願いしました」


 それを聞いた時、スコットの顔にようやく感情の色が動いた。


「……そんな曲を私に作って欲しいというのだね」


 デブオタとエメルは揃って頷いた。

 しばらくの間、沈黙が流れた。スコットは何やら考え込んでいるようだったが、おもむろにデブオタへ向かって口を開いた。


「最近では彼女にどんなプロモーションをさせていた?」

「ああ、それならこれを」


 デブオタは例の汚らしいリュックサックからタブレットPCを取り出すと電源を入れ、動画を再生させた。仮想空間のステージに合成されたエメルがバーチャルアイドルのシャドーエメルと共に華麗に踊り、歌う、プロモーション動画の「恋は貴方の瞳に染まって」。

 さすがのスコットも「これは珍しいな」と、眼を見張った。


「このプロモーションビデオはどこの制作会社に作らせたんだ?」

「オレ様が……」

「君が一人でこれを作ったのか?」

「はい」


 スコットはちょっと感心したようにデブオタを見直した。

 だが、プロモーション動画を見終わった彼をもっと驚ろかせたのは「報酬はどれくらいを用意しているのかね」と尋ねた時のデブオタの返答だった。


 デブオタが「ここに入っているだけ……」と一枚のカードをおずおず差し出すと、スコットは怪訝そうに受け取ったが、ふと気が付いたように彼を眺め回した。

 まるで、このカードが彼にとってどれほどの価値があるのかを伺うように。

 さすがにデブオタの破れた靴とペラペラのポリエステルジャケットはエメルがプレゼントしたものに代わっていた。

 だがボサボサの髪、ヨレヨレのズボン、擦り切れかかったシャツ、薄汚いリュックサック……と、彼の身なりをひとつひとつ確かめるスコットの瞳に、次第に驚嘆の色が浮かんだ。彼は腕組みをしてしばらく思いを巡らすとうなずいて、突然こう言った。


「君はビジネスマンとしては失格だ」


 思いがけない言葉にデブオタとエメルはビックリしたが、「だが」と続けるスコットの顔には、言葉とは裏腹に賞賛するような表情が浮かんでいた。


「君はイギリスでも滅多にいないユニークなプロデューサーだな。しかも信念を持った男だ。彼女が何故私に怒ったのか、その理由も腑に落ちた」


 今回のオファーがどういうものか私なりに理解した、と言うとスコットは宙を睨んで何事か考えだした。厳しく眉を寄せた額の奥で猛烈な勢いで頭脳を回転させ、作曲家としての構想を素早くまとめているのを感じさせる。

 ややあって、彼は落ち着いた口調で話し始めた。


「引き受けよう。ブリテッシュ・アルティメット・シンガーでこの歌姫が歌うのに相応しい曲は必ず用意する」

「あ、ありがとうございます!」


 最初は激怒していたスコットを前に青ざめていただけに、半ば信じられないといった様子でデブオタが頭を下げると、彼は事務的な口調で契約や作曲の内容を話し始めた。


「今回の依頼に関連した費用は全て君がくれたこのカードに含まれるものとする、いいね。」

「はい」

「まず作曲だが、オリジナルで曲を一から作るには余り時間がない。君らには歌をマスターして振り付けを身につける時間も必要だろう。そこで今回は過去のヒット曲をアレンジする。新しい曲より短期間で作れるし、聴いた覚えがある人の耳には新鮮さに欠けるリスクこそあるが興味も惹きやすいんだ」


 デブオタは「なるほど」と感嘆し、エメルもうなずいた。


「彼女、エメル・カバシのイメージに合った曲にはこれぞという心当たりがある。著作権、使用料の交渉も私に任せてくれ。今回の報酬にその費用も全て含めておくから心配はいらない」

「ありがとうございます」

「原曲はアップテンポな曲だが、アレンジにしたバージョンの他に数パターン用意する。そのデジタルデータ、音源、楽譜を引き渡して納品とさせてもらう」

「わかりました」

「明日にでも今の内容を契約書で用意する。制作スケジュールを考えて納品予定日もそれに書いておくから、それで了承出来たらサインしてくれ」


 そこまで話すとスコットは「では、また後で連絡する」と立ち上がったが「ありがとうございました」と頭を下げたデブオタを見て静かに声を掛けた。


「ヤスキ、ビジネスマナーくらいは身につけろ。あと、スーツとネクタイだ。日本ではどうか知らないが、ここイギリスではそれなしだと足元を見られるぞ。だが……」


 思わず顔を上げたデブオタへ、スコットは握手を求めて右手を差し出した。


「次に私と会うときは、どちらももう不要だ」



**  **  **  **  **  **



「エメル。お前、すごいなぁ……」


 スコットを見送った後、デブオタはエメルを眺めてしみじみとつぶやいた。

 エメルは静かに微笑んでいる。


「あんな作曲家と堂々と渡り合いやがって」

「堂々とじゃないよ。必死だったんだよ。それに……」


 怪しい歌手と蔑まれた冷たい雨の中、這いつくばった土の上から「エメルは絶対に違う!」と叫んだデイブの姿がエメルの脳裏に思い浮かぶ。

 貴方のあの姿が私をこんなに強くさせてくれたのよ、と心の中でエメルはささやいた。

 そんな声にならない言葉にこそ気が付かなかったが、デブオタは明るい声でハッパをかけた。


「さあ、彼から連絡が来るまで練習ガンガンいくぞ!」

「はい!」


 既に年は改まっていた。

 木枯らしの吹く中、凍てつきそうな冬の寒さを吹き飛ばすように、レッスンが再び始まった。イギリスでも最高に位置するオーディションが目標である。特訓は俄然、熱を帯びたものになった。

 雨や雪の降る日は屋根のある公園の東屋に場所を変え、練習は一日も欠かすことなく続く。

 デブオタはアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』から様々なダンステクニックや歌い方をピックアップしてエメルに教え込んだ。

 また、インターネットの検索からも役立ちそうな歌唱技術や練習方法を漁ったが、かなり上達したエメルへデブオタから教えられそうなことは、もうあまりなかった。

 それでも何かエメルのレベルアップに役立ちそうなものを、とデブオタは有名歌手のレッスンを撮影した動画を見たり芸能プロダクションのサイトから練習カリキュラムをダウンロードしたりして彼女の知らないところで必死に勉強した。

 そして翌日には、さも知っているような顔で指導した。

 目標は余りにも高い場所にあるのだ。大見得を切った裏側で、夢に向かって少しでも可能性を探ろうとデブオタも懸命だった。

 練習の合間には、彼女の喉を枯らさないようにと買い込んだハーブキャンディーを二人で嘗めたり紅茶を飲んで休憩を取る。

 座学も行った。デブオタは、これも前日にネットで必死に調べた音楽用語や楽譜の読み方を分かりやすく纏めておき、受け売りの知識をいかにも知っている風に装ってエメルに講義した。

 昼になると、テーブルベンチにエメルが用意したランチを広げ、一緒に食べる。

「おお、うまそうだな!」と、デブオタは相変わらずの健啖ぶりを発揮してガツガツ食べていたが、エメルははちきれんばかりの彼のお腹とみすぼらしい身なりをしきりと心配そうに見やって、ようやくおずおずと声を掛けた。


「ねえデイブ。スコットに頼んだ作曲のギャラはどれくらいだったの?」

「はした金さ、心配すんな」


 振り返りもせずにデブオタは答える。エメルは彼に気が付かれないようにこっそりため息をついた。

 彼と出会って、もう一一ヶ月が経っていた。


「デイブ、ホテル代とかバカにならないんじゃない? よかったら私のアパートメントに下宿するのはどうかしら。パパはほとんど出張でいないし、私にも無関心だから気兼ねすることないのよ」


 思い切ってそう申し出たこともあったが、デブオタは「トンでもない!」と、まるで恐ろしいことでも聞いたように首を振った。


「日本じゃアイドル歌手のスキャンダルは一番のご法度だぜ。男のお泊まりが発覚してクビになったってことも珍しくもないんだ」

「そ、そうなんだ……」


 驚いてデブオタを見ると、彼はエメルが理解してくれたものと思って大仰に頷いた。


「そうなんだよ。だから、デビュー前のエメルにヘンな噂が立つような真似なんてとても出来ねえよ。まぁ、気持ちだけ受け取っておくぜ。ありがとう」

「うん……」


 デブオタが「リッツロンドンみたいなところに毎日泊まってる。心配すんな、フヒヒッ」と笑って話を終わらせてしまったので、エメルももうそれ以上無理に薦められなかった。

 なので、出来ることと言ったらせいぜい晩御飯の足しにと毎日サンドウィッチを持たせるぐらいだった。

 それでも温かいスープを詰めた水筒も一緒に持たせたり、サンドウィッチに彼の好物の白身魚のフライやコールドビーフを挟んだりサラダを添えたり、精一杯彼を気遣った。

 作曲家に高額な報酬を支払ったのだ。もう所持金だって幾らも残っていないだろう。どこかで寝泊り出来ているのか、食事や睡眠をちゃんととれているのか、エメルは心配でたまらなかった。


「さぁ、練習始めようか。いつまでもゴロゴロしてると身体が鈍っちまうしな」


 見ると、デブオタが立ち上がり、笑いかけている。

 その屈託のない笑顔を見たエメルは、思わずジャージの袖口で目元を押さえて俯いた。


「どうした、エメル」

「何でもない。目にゴミが入ったの」

「ああ、木枯らし吹いてるもんな」


 心配して寄り添ったデブオタからは日本のオタク特有の埃っぽい匂いがして、その匂いを嗅いだエメルは思わず彼に抱きついてしまいそうになった。

 こんなにも温かく支えられている。胸がいっぱいで苦しくて、だけど嬉しくて……

 デブオタがその巨体で風上に立って「どうだ、少しは風よけになるだろ」と豪快に笑ったので、ようやくエメルは我に返った。


「もう大丈夫よ。さぁ、始めましょう!」


 踊り子のように身体をクルリと身軽に回転させ、彼女は微笑んだ。


「よし、じゃあ今度はこの曲をやってみよう」

「はい!」


 デブオタは自ら手拍子を打ち、メロディーをハミングし、さながら舞台演劇の振り付け係のように指導を始めた。

 時にはその短い足を不恰好に曲げてポーズをとり、魅力的な姿勢を解説する。エメルは真剣な眼差しで彼の一挙手一投足から目を離さない。彼の言葉ひとつひとつも大切に反芻しては懸命に学ぶのだった。そんな小さな成長の積み重ねが、歌姫の力を着実に磨き上げてゆく。

 そうして昨日より歌が少しでも上手になったり、ダンスが華麗になるとデブオタの眼は輝いた。


「いいぞ、その調子だ!」


 デイブの嬉しそうな声と笑顔は、エメルにとって何よりのご褒美だった。

 疲れなどどこかへ吹き飛び、新しい力が湧きあがってくる。彼が喜んでくれるなら何だって出来る、何だってやってみせる、と彼女は思うのだった。

 今まで自分をいじめ抜いたリアンゼルに負けてなるものかという対抗心もあったが、何よりデブオタの為に頑張りたい、彼の願いに応えたい、という想いがエメルをどこまでも果敢にさせていた。


「エメル、こんな動画があったぞ。ダンスのバリエーションに生かせるかも知れん。試してみよう」

「はい!」


 ある日、彼が探し出してきたのはギクシャクしたロボットの動きやのろのろとしたゾンビの動き、道化師の滑稽な動きのパントマイムだった。


「これ、とっても面白いわ! 観た人はきっとビックリするわね」

「だろ? これをダンスステップの合間にアクセント風に付けてみれば、観客の眼をもっと惹きつけられるぜ。フヒヒッ」

「審査員も驚くでしょうね、ふふっ……。見てて、今度はこれをマスターしてみせるから!」


 動画を観ながらエメルは、その動きを真似しようと懸命に練習を始めた。さすがに最初は不慣れな動きに戸惑って何度もよろけたり、倒れたり。

 だが、もうそれで落ち込むようなかつてのエメルではなかった。失敗は、がむしゃらに挑む今の彼女の闘志に、却って火をつけるようなものだった。

 そして、そんな様子を見ていてデブオタも黙っていられるはずがなかった。

 彼はその晩、徹夜して例のシャドーエメルで振り付けを作ってくれた。

 バーチャルアイドルの機能でどんな角度からでもその動きを見ることが出来、スローモーションで動かすことも出来る。

「どうだ、オレ様って凄いだろ!」と、目の下にクマを作ったデブオタのサムズアップを見てエメルはどんなに感激し、奮い立ったことか。解りやすい見本のおかげでレッスンの成果は飛躍的に向上した。

 今度はそれをダンスのバリエーションへと活かそうと試み始める。

 やがて、二人の熱意と努力は見事に実を結んだ。

 その日、デブオタが「では、オーディションを始める」と、わざと尊大にアゴをしゃくって合図すると、エメルは、これもすました顔でスカートの両端をつまんで会釈した。

 ラジカセからマイク・レノの「チェイシング・ジ・エンジェル」の序奏が流れ始める。彼女は歌い始めた。

 歌いながら、エメルは戦闘機の空中機動を思わせるような流麗な動きで踊る。だがそれは突然カクカクとした不恰好な動きやノロノロとしたスローな動きに転じた。

 勝手知ったデブオタですら思わずハッとさせるや、今度は小刻みなステップやターンを多用して激しく踊り始める。

 そんなトリッキーな動きにも、エメルは簡単には息を切らせない。透き通るような歌声は川のせせらぎのように耳に心地よく、それでいて力強さも矛盾なく感じさせる。目を閉じていると激しく動き回りながら歌っているようには聴こえなかった。

 それはこの一年近く毎日のようにロードワークで体力を培い、クラシックバレエで俊敏な動作を身に着け、開口や発声で腹式呼吸を鍛え続けた賜物だった。

 デブオタは、自分のアイディアを取り込んで煌くように舞い、華やかに歌うエメルを惚れ惚れとした眼で見つめる。

 曲が終わって「どう?」と彼女が振り返ると、自分の頭上に大きく「ごうかーく!」と両腕で輪を作った。


「ダンスはもう満点をオーバーランだ。『ドリームアイドル・ライブステージ』のメンバーの誰もがエメルには降参だ」

「本当?」

「ああ、ゲームキャラならもうぶっちぎりでSSランクってところかな。フヒヒッ」


 そう言うとデブオタはエメルの髪を手でクシャクシャにして「エメル、お前がナンバーワンだ!」と褒めてくれた。エメルは嬉しくて、また涙が出そうになった。


「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」

「はい!」


 怒っているはずなのに、デブオタのカミナリは嬉しさを隠し切れない。

 エメルも、今では彼に怒られるのが褒められるのと同じくらい嬉しくてたまらなかった。


「よし、次は歌唱力をいろんな角度からもう一度見直そう。チェックリストを作ってきたんだ。勢いで上達した時って、意外と基礎や基本を忘れて疎かにしがちなんだ。ダンスだけ上手くなっても肝心の歌が駄目だったら本末転倒だからな」

「はいっ!」


 だが、一方で……

 そんな熱意溢れるレッスンの成果が試される「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー」について調べ始めたデブオタは、それがとてつもなく厳しいオーディションであることを知って戦慄することになった。


 エメルに歌の基礎をお浚いさせている横で「敵を知り己を知れば百戦危うからず。傾向を調べて対策を練れば優勝はいただきだぜ!」と嘯いてネット検索を始めたデブオタだったが、その全貌を目の当たりにするや、その荒かった鼻息も次第に病人の呼吸のように弱々しくなっていった。

 応募資格はさほど厳しくもなく、門戸は広い。

 だが、その門に入れるのは僅か六四人。事前審査から恐ろしく厳しいのだ。

 そんな事前審査に合格した者は、テレビ中継のオーディション番組に出場出来るのだが、ここから更に厳しい関門が幾重にも待っている。何しろ高名な歌手や音楽事業のプロデューサーが綺羅星のごとく審査員に名を連ねているのだ。

 公平を期するために選考のたびにその審査員も毎回変わってゆく。それも次第に高名でより厳しい顔ぶれへと。

 実力以外のいかなるコネも策略も、この厳正なオーディションには一切通用しない。ここ二、三年は優勝の栄冠を手にした者すらいなかった。

 昨年のオーディションでは、とある審査員が「何の情熱もないのに憧れだけプロになれるとでも思ったのか。帰りたまえ!」とオーディション中のアマチュア歌手を叱り飛ばしたエピソードまで生まれていた。

 彼女が泣きながらオーディション会場から逃げ去ってゆく様子を映したアーカイブ動画を見て、さすがのデブオタも言葉を失った。

 それでも毎年、多くの少女達がイギリス最高の歌姫を目指してこのオーディションへ応募してくる。

 それも半端な人数ではない。イギリス中のどこからと思えるほど夥しい数の少女達が「アルティメット」の名を冠する歌姫を夢見て毎年集まってくるのだ。


「凄え。これに比べたら日本のアイドルオーディションなんて子供だましだ……」


 デブオタはぼう然となって独りごちた。ある程度予想はしていたがまさかこれほどとは。

 希望の光はあまりにも遠く、儚い。デブオタは唇を噛みしめた。

 だが、どんなに怯んでも彼はもう後に引くつもりはなかった。

 傍らではエメルが自分を見上げ「デイブ、次のレッスンは?」と、眼を輝かせている。


「よし、次はこれだ」


 こわばった表情を振り払うようにデブオタは大声を出し、笑顔を作ってみせた。

 歌う時の姿勢をチェックする動画を再生して「頑張れよ!  でもリラックスな、リラックス」と、エメルの背中をたたく。

 エメルは頬を紅潮させてうなずいた。

 いまだ一つのオーディションにすら採用された訳ではなく、誰から認められた訳でもない。確かなものは、まだ何ひとつないのだ。

 それでも、ひたすら自分を信じてついて来るこの少女の為に、彼は持てる知識、思いつく知恵の限りを尽くして戦おう、と決意していた。


 だが、このときデブオタは知る由もなかった。

 これから挑もうとしているオーディションに対して彼が偽った名前。侵していた小さな瑕疵。

 それが、彼の知らないところで奇禍を及ぼそうとしていることを……

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