第3話 見えない何かが変わり始めて ①
季節は、春から夏へと向かっていた。
イギリスの夏は花天国と呼ばれるほど色とりどりの花々が咲き乱れる。
しかし、夏を前にしたこの季節でさえ公園の花壇や、街路樹の根元にはブルーベル、クレマチス、ラベンダーといった花々が既に咲いていた。
夏を待ちきれないと言わんばかりに早くも咲き乱れる花々は見た目にもどれも可憐で微笑ましく、通りがかって気が付いた人々は、みな顔をほころばせていた。
だが、そんな美しい花にも気づかず、暗い顔のまま道端をトボトボと歩く一人の少女がいる。
それは、三ヶ月ほど前、デブオタへプロ歌手になってみせると宣誓した少女、リアンゼル・コールフィールドだった。
「どうして……」
唇から力なくつぶやきが漏れる。
テレビ番組に出演する歌手のオーディションがある、と聞いたとき、リアンゼルは今度こそ合格してデビューしてみせるつもりだった。
自信はあった。
今までも幾度かオーディションに挑んでことごとく落選してしまっていたのは、自分の実力が審査員の好みに合わなかったからに違いない。自分の実力にさえ気づいてもらえれば……そう思っていたのである。
審査の場で精一杯自分の美声を聴かせたリアンゼルは、その場にいた他の応募者達よりも自分の歌がずっと上手に思えた。
だから、複数選出される出演者の中に必ず自分も入ると思っていた。
しかし……
リアンゼルは首から下げたオーディション応募者用のプレートをのろのろと手に取った。
「どうして……」
恨むような言葉しか出てこない。
プレートには「一七」と書かれている。合格者として最後まで呼ばれることのなかった、自分の番号だった。
これだけの美貌と歌の才能に恵まれているはずなのに、何故自分はプロ歌手として認められないのだろう。
肩を落としたままの彼女の足はいつのまにか例の公園に向かっていた。
理由はなかった。
例の二人に罵声を浴びせたところで、また無視されるだけだろう。それなのに何故そこへ足が向かうのか、彼女は自分でも分からなかった。
引きずるような足取りは、公園に入るとますます重く、遅くなった。
あの二人がいつもいる場所へ近づくと、デブオタが張り上げているドラ声が聞こえてきた。
「エメル。眼だ、眼! 視線は常に前だ。オレ様を見ろ。見ながら回れ!」
オークの木の陰からそっと覗くと、青いジャージのデブオタが自分を指差していて、彼を見ながらエメルが爪先立ちで身体を回転させていた。
色褪せた赤いジャージがクルリクルリと不器用に回る。
「あいつら、バレエなんてやってんの?」
リアンゼルは、眼を見張った。
エメルはデブオタの指導でクラシックバレエを練習していたのだ。
歌の振り付け。
ダンスの基本は全てクラシックバレエにあり、そこから学ばなければいけないことをリアンも知っていた。
だが、歌手にとって歌唱力が一番重要だからダンスなど多少疎かでも構わないとリアンゼルは勝手に決め付け、所属するプロダクションの練習プログラムを途中で止めてしまっていた。
ぎこちない動きで懸命に正しい姿勢作りと回転を繰り返すエメルは、リアンゼルよりずっと下手くそで、素人に毛が生えた程度のレベルだった。
しかし、エメルが小さな進歩を毎日積み重ねている様子は、無力だったはずのスケープゴートが少しずつ爪を磨いでいるように思えて、不安を掻き立てさせられた。
「まだまだふらついているぞ。エメル、軸足に体重を乗せるんだ。そうだ、そうそう!」
PCのタブレットを手にしたデブオタは、クラシックバレエの基礎練習の動画とエメルの動きを見比べ、声とゼスチャーで懸命に彼女へ指導している。
「いいぞ! 動きが昨日より良くなってる」
デブオタが小さな上達を見つけて褒めるたび、エメルは汗だくの顔を輝かせる。
デブオタがバレエの動画をその巨体で不恰好に再現して正しい動きを解説すると、エメルは真剣な表情でそれを真似した。そうして音楽に合わせてジャンプし、身体を回転させ、背中を反らして足を曲げ、腕を伸ばす。
「よし時間だ、休憩しよう。ダンスの練習はここで一旦終了な」
一定の練習時間を設定しているらしく、タブレットから小さなアラームが鳴るとデブオタは手を叩き、エメルはその場にへたへたと座り込んだ。
「ハハハ、結構疲れたな」
例によって豪快に笑いながらデブオタは傍らのクーラーボックスからスポーツドリンクと冷えたタオルをエメルに渡し、首に巻いたタオルで自分の汗を拭いた。
肥満体の彼は、まるで人間版チョコレートファウンテンのように全身から汗を噴き出している。
「でも、だいぶ形になってきたぞ」
「そ、そうですか?」
バレエの練習用に敷いたゴムマットをクルクル巻き取って仕舞い込みながら、デブオタはさり気なくエメルをおだてた。
「最初は五分も持たずにへたばるし、ちょっと回転しただけでコケまくってたじゃねえか。それが今じゃ十分近くフル稼働出来ている。ロードワークが昨日から三キロコースにレベルアップ出来たのも体力がついてきた証拠だ」
「途中でバテちゃったけど……」
「ペースが掴めてなかっただけさ。今のエメルなら慣れれば出来る。大丈夫だ」
今のお前なら出来る……そう言われたエメルはくすぐったそうな顔をタオルで拭いて「エヘヘ」と笑った。
その様子を見たリアンは顔を曇らせた。
(いじけてばかりのエメルが調子に乗ってる。それでも、この私がエメルごときに追いつかれるなんて絶対あり得ないけど)
(だけど……)
「あ、誰だっけお前」
不安な気持ちにかられて俯いていたリアンゼルは急に声をかけられ、ぎょっとして顔を上げた。
いつの間にか見つかってしまったらしい。デブオタが、嘲笑を含んだ顔でこちらを見ている。
「リアンゼルよ。リアンゼル・コールフィールド! 私の名前くらい覚えなさい」
「だが断る。悪口しか言わない奴の名前なんか、覚えたくもねえ」
「物覚えの悪い日本人。死ねばいいのに」
エメルは、悪態で火花を散らす二人をかわるがわる見ながらオロオロしている。そんな彼女をよそに、デブオタは豚のように鼻を鳴らすとベロベロバーをして見せた。
「で、お暇なイギリス人のナントカ様、こちらへはどういった趣でお越しになられましたかな。もしかして、また誹謗中傷しか出来ない惨めなご自分の姿をお披露目に?」
「……」
リアンゼルは怒りに肩を震わせたまま、一言も発しなかった。ただ、憎しみのこもった視線で睨みつける。
しかしそんな眼差しなど歯牙にもかけず、デブオタは顎を上げて見下すように笑うばかりだ。
エメルがリアンゼルの視線を遮るようにしてデブオタの前に立った。
「デイブ、次のレッスンを始めましょう」
「お、おう」
ちらっとリアンゼルを振り返ったエメルは、デブオタへ懸命に笑いかけた。
「次は発声の練習だったよね。頑張らなきゃ。まだまだ始めの一歩なんでしょ?」
「……そうだな。エメルの言うとおりだ」
デブオタは傲岸な表情を解いて、ふっと優しい笑顔をエメルに向けた。
「よし、やるぜ!」
「はい!」
デブオタは、ラジカセをスピーカー代わりにしてタブレットPCをケーブルで繋ぐと画面を操作して芝生の上に置いた。
ミュージカル「コーラスライン」の名曲「ワン」が流れ始める。エメルは小さな口を一杯に開き、母音だけで懸命に歌い始めた。
一コーラスに息継ぎをするタイミングは一度しかない。肺活量を増やし、はっきりとした発声を鍛える為の練習である。デブオタが課したプロ歌手への特訓の一環で、彼女はこれを毎日二〇分休みなく続けていた。
聴き入ったリアンゼルは、すぐにエメルの成長に気が付いた。
(少しだけど前より上手くなってる。「アニー・ローリー」を歌ったときより音程が正確になった。声量も拡がってハッキリ響いてきた)
リアンゼルは唇を噛んだ。
もう何も言わなかった。自分の悪罵にめげることなくエメルは努力し続けている。それがたまらなく不愉快だった。
(このままにしてなるもんですか。このままに……)
憎しみを込めた一瞥をくれるとリアンは踵を返した。
デブオタは眼を細め、黙って立ち去るリアンゼルを鋭い眼差しで見送った。
(あいつ……)
彼は、懸命に歌の練習をしているエメルには何も言わなかった。
しばらくしてタブレットから小さなアラームが鳴るとエメルは発声練習を止め、疲れ切った顔で振り返った。
「あ……リアン、またいなくなってる」
デブオタは笑った。
「心配すんな。今日は悪口も言わないですごすご帰っていったよ」
「そう……」
デブオタは「奴、もしかすると本気になったのかも知れん。ザコからラスボスに進化するかもな」と、予言じみた独り言をつぶやいて肩をすくめた。エメルはキョトンとして彼を見上げている。
そんな彼女に向かってデブオタは大口を開け、ニカッと笑いかけると「さてさて、そんな訳で」と、胸ポケットから一枚のビラを差し出した。
「ライバルを気にする余裕も出てきたエメル様には、そろそろオーディションに挑戦してもらおうかな」
ビラに印刷されていたのは小さなラジオ番組のテーマソングを歌う歌手の募集だった。オーディションは三日後で課題曲は自由。持ち込み音源も可能と記載されている。読むうちにエメルの顔は見る見る真っ青になった。
ビラの向こうにおそるおそる顔を向けると、デブオタが自信たっぷりの顔で鼻息を吹いている。
「ま、まさかこれに私が出るんですか?」
「おうよ! いよいよエメルのオーディションデビューだ。曲は振り付けなしで歌いやすい曲を選んでおいた」
「む……」
無理です! と言い出す前にデブオタは「大丈夫だ、心配するなって」と、大声で請け負った。
「曲はタブレットのフリーソフトでオレ様が作っておいた。伴奏はオーケストラ演奏だって出来るしバックコーラスはボーカロイドがやってくれる。ドゥフフフフ……これぞ世界に誇るアキバのハイテク音楽文化って奴よ! ジョンブルども、刮目するがいい」
エメルには理解不可能な独り言をつぶやくと、デブオタは「クックックッ、ボカロPのオレ様の実力が火を吹くときがついに来たようだな!」と咆えた。
「言ってること全然わかんないけど、大丈夫じゃないです……」
「何言ってんだ、あれだけ練習してきたんだぜ。そろそろオーディションデビューしなきゃ」
「そうですか?」
「そうだよ!」
妙なもので、自信満々のデブオタに言われているうちに、エメルも次第に(私、もしかしたら出来るのかも……)という気持ちになってきた。
考えてみれば、この三ヶ月余り毎日のようにロードワークで身体を鍛え、大声を出し、歌い、踊り、回ってきたのだ。
簡単にプロの歌手になれるはずないだろうが「試しにこの娘に歌わせてみるか」って展開だって、もしかしたらあるかも知れない。
不安も大きかったが、精一杯歌ってみようと心を決めたエメルは「わかりました、やってみます」と、小さなコブシを握り締めた。
「よし、その意気だ!」
「はい!」
……そして、元気よく返事したその三日後。
エメルはロンドン近郊のあるオーディション会場のラジオ局にいた。
ヒザがガクガク震えている。
精一杯歌うと決めたはずなのに、歌うどころか立っているだけでやっとという有様だった。
デブオタと共にそこに来るまでは、まだ大丈夫だった。
例の公園でデブオタと早朝に待ち合わせ、自転車に二人乗りして会場に来るまでは。
小さなラジオ局といっても来てみれば想像とは全然違っていた。最近立て替えたばかりらしい五階建ての小奇麗で立派な建物だった。
緊張した面持ちで見上げていると、玄関でエントリーの受付をしてきたデブオタがエメルに番号の書かれた札を渡した。
「部外者は中に入れないってさ。オレ様はここで待ってる。頑張れよ!」
「は、はい」
「緊張すんな、エメル。リラックス、リラックスな」
「は、はい」
「よし、行ってこい!」
豪快に背中を叩かれ、その勢いに押されるように中へ入ってみると、そこには自分と同世代の少女達が既に長蛇の列を作っていた。
全員がライバル、敵同士である。親しく口を利くものは誰もいない。互いに敵意を含んだ視線を向けている。無論、エメルにも。
エメルは、そんな視線から隠れるようにして列に加わり、縮こまった。
そうして待つこと二時間。ようやく自分の番号を呼ばれた。
自分の前に審査を受けた少女と入れ違いにドアを開け、スタジオにおずおずと入る。
そこに五人の審査員が椅子に腰掛けて待っていた。
既に沢山の応募者を審査して疲れているのか、みな愛想もなく仏頂面である。エメルは怖くて何も言えなくなりそうだった。
それでも声を振り絞って「よろしくお願いします」と挨拶をする。
すると一人がさっさと始めろ、と横柄に顎をしゃくった。
エメルは歌う前からもう心が折れそうだった。三日前の勇気など、とうにどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「名前は?」
不機嫌そうに聞かれ、エメルは震え声で答えた。
「四十七番のエメルです。エメル・カバシ……」
「歌は?」
エメルはCDをケースから取り出した。中にはデブオタが作ってくれた伴奏曲が入っている。それを傍にあったコンポのトレイに入れようとした。
だが、手が震えてそんな簡単なことさえちゃんと出来なかった。エメルは泣きそうになりながらようやくCDをセットし、再生ボタンを押した。
静かなピアノの序奏が始まる。歌は三日間、みっちり練習を重ねてきていた。
(歌わなきゃ。ちゃんと歌わなきゃ……)
しかし、肝心の歌のパートに入っても声がまったく出なかった。
頭の中が真っ白になってしまったのだ。歌詞すら思い浮かばない。
エメルは震える手でマイクを持ったまま、ただ立っているだけだった。
(途中からでも歌わなきゃ……ここは何て歌詞だった?)
彼女は懸命に思い出そうとした。何とか歌おうとした。
だが、結局言葉はひとつも出てこなかった。伴奏だけが虚しく流れる。
しまいにはとうとう、審査員が呆れたように「もういい」と手を振った。
惨めな気持ちで停止ボタンを押し、CDをケースに戻すと「ありがとうございました」と、頭を下げた。涙が出そうだったが懸命にこらえた。
結局、ちゃんと言えたのは最初の自己紹介と最後のお礼だけ。エメルは身も心もぼろぼろになって逃げるようにスタジオを後にした。
廊下で列を作って待っている少女達に泣きそうな顔を見られまい、と、そのまま小走りに走ってラジオ局の外へと飛び出した。
そこには、壁にもたれるようにして空を見上げているデブオタがいた。エメルを待っている間にどこかで買ったのか、麦藁帽子を被っている。
「よう、おつかれ」
照れたような彼の笑顔を見て、エメルはホッとした。
だが、安心して笑いかけようとしたのにどうしたことか涙が先に出てきて、エメルは突っ立ったまま何も言えなくなってしまった。
「オーディション、終わったかい?」
答えようとしても言葉が出てこない。三ヶ月間あんなに練習したのに何も歌えなかったとはとても言えず、エメルは下を向いてサマーカーディガンの袖で眼をこすった。
すると、それを待ち構えていたように涙がどっと溢れ出した。
(泣くな! 涙はスターになるその日の為にとっておけ!)
いつものように怒号が飛んで来るだろうとエメルは身をこわばらせたが、デブオタは何も言わなかった。
黙ったまま、麦藁帽子の中に入れていたらしい汗拭きタオルをエメルの顔に当ててくれた。
(泣いてもいいんだ)
下を向いたエメルの口から「ええん、えんえん」と泣き声が漏れると、デブオタは彼女の頭に麦藁帽子を被せ、泣き顔を隠してくれた。
もしかしたら、こうなることを予期して待っていたのかも知れない。
「さ、帰ろう」
デブオタは、子供のように泣きじゃくるエメルの手を引いて自転車に乗せ、走り出した。
エメルは彼のでっぷりしたお腹に手を回すと背中に顔をくっつけて泣き続けた。汗を吸ったデブオタのシャツからは埃っぽい匂いがしたが、少しも不快に思えなかった。むしろ、その匂いはエメルを優しく慰めているように思えた。
デブオタは「エッホ、エッホ」と間抜けな掛け声を掛けながらペダルを軽快に漕ぎ続けている。
イギリス特有の曇りがちな空から時折差し込む初夏の日差しは、傷ついたエメルに優しく降り注ぎ、いつもの公園に帰り着いたときには、西へと傾きだしていた。
ベンチに並んで腰掛け、デブオタと一緒にレモネードを飲んでいる間に、エメルはようやく落ち着いた。
そして正直に「頭が真っ白になって歌えなかった……ごめんなさい」と謝った。
何も出来なかった惨めなファーストオーディション。その一部始終を正直に話した。
「あれだけ練習したのにごめんなさい。デイブ、あんなに一生懸命教えてくれたのに」
謝っているうちに情けなくなって、また涙で声が詰まってしまった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……自己紹介の名前を言ったのと最後にありがとうございますって言えただけで私、なにも……」
エメルがわっと泣き出しかけた……その時だった。
「待て待て待て! 歌えなかったのはいいんだ。それよりもおい!」
デブオタは眼を丸くして立ち上がり、エメルはキョトンとなった。
「え?」
「エメル。お前ちゃんと名前言えたのか! 最後にお礼も言ったのか?」
「い、言いました。それだけは言ったけど。でも私それだけで他は何も……」
「本当かよ! エメル、お前やったじゃん!」
歓喜の声に驚いて、エメルの零れかけた涙が引っ込んでしまった。
デブオタはまるでオーディションに合格でもしたかのような感激で「うおおー!」と右手を空へ突き上げている。
「凄え! おいエメル、お前最初のオーディションでそこまで出来たのかよ!」
「そこまで?」
何も歌えなかったオーディションのどこが凄いのだろう……エメルはポカンとなった。
すると、デブオタはエメルの肩を掴んで揺さぶった。
「あのなぁ、最初はロクに歌えないのは誰だって当たり前なの! 緊張でガチガチになって歌えないのが普通なんだよ」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ! たぶんマドンナもマライヤ・キャリーもレディ・ガガもな。つーか経験値ゼロなのに最初から出来る方がおかしいだろ? どんな歌手でも生まれて初めて受けるオーディションは挨拶も歌も最後のお礼も出来なくてガクガクブルブルで失格! が普通なの。お約束なの。通過儀礼なんだよ」
「……」
「それをエメル、お前自分の名前が言えた? お礼も挨拶も言った? ちゃんと言えたんだよな!」
「は、はい」
「はいって……お前、三ヶ月前はそこのトイレの影で蚊の鳴くような声で人に隠れてコソコソ歌っていたんだぜ。そのエメルが最初のオーディションでそこまでやってのけた! 他の奴らとは格が違うぜ。よくやったぞ!」
満面の笑みで「さすがオレ様が目をつけただけはあるな」と、自画自賛しながらも褒め称えるデブオタに、エメルは泣き笑いの顔になった。
「本当? 良かった……私全然ダメだったって情けなくて泣いてたのに」
「情けないどころじゃねえ。お前、絶対大物になれるぜ! オーディションはこれからもガンガン受けさせるからな。失敗なんていくらでもしろ! いっぱい受けてるうちに嫌でも慣れる。で、慣れて実力を発揮出来るようになったらいつか認められる日が来る。みんなそうやってプロになってゆくんだ」
「そうか……そうなんだ……」
惨めだった気持ちはどこかへ消え去り、エメルはデブオタに褒められた嬉しさで胸がいっぱいになった。
「だからさ、オレ様はエメルの最初のオーディションにこれを選んだんだ」
エメルが歌えなかった曲のCDを取り出すと、デブオタはラジカセに入れて再生スイッチを押した。ピアノの序奏が流れ始める。
「では、オーディションを始める。はい、次の人。名前と番号は?」
よそいきの声でデブオタが審査員を演じ始める。エメルは朗らかに応じた。
「四十七番。エメルです。エメル・カバシ!」
誇らしげに胸を張る。弾んだ声で応えると序奏に続いて歌い始めた。
するとどうだろう。
オーディションでは何も歌えなかったのに、それが嘘だったように歌詞が自然に唇から溢れ出た。
周囲には夕暮れを散歩で楽しむ人々が公園を散策している。
三ヶ月前は人前で歌うのがあんなに怖くて恥ずかしかったのに、今はもう少しも恥ずかしいと思わなかった。
「Oh, it is true. If tomorrow comes, the sun shines...」
(本当よ。明日が来れば太陽はまた輝く)
行き交う人々が彼女の朗々たる歌声に耳を留め、次第に足を止める。
デブオタがエメルの最初のオーディションに選んだのは、世界的に有名なミュージカル「デイジー」の名曲「ドリーミング・トゥモロー」だった。
「When I am sad, I think. And this sorrow surely fades away tomorrow and happiness comes...」
(辛いときは明日のことを考えるの。きっとこの悲しみは消えて幸せが来るのだと)
エメルは歌詞の言葉に心を合わせ、一心に歌う。
太陽が昇れば、夜が明ければ、きっと素敵な何かが待っていると
希望を、夢を失わずにいれば辛い悲しみも消えて、いつか幸せを運ぶ明日がやって来ると……
それは、大恐慌のさなかでも希望を失わずに歌う孤児の少女デイジーと同じ、力強く美しい姿だった。
二分に満たない短い歌が終わったとき、二人の周りにはいつのまにか二十人近い人々が輪を作ってエメルの歌を聴いていた。
そして最後のフレーズをエメルが歌い終わるやいなや、拍手と歓声が沸き起こった。
「え……」
それは、エメルが自分の歌で人から賛辞を受けた、初めての瞬間だった。
見回すと人々はみな一様に笑顔を自分に向け、手を叩いている。感動してハンカチで目頭を押さえている老婦人もいた。
意外な光景に戸惑ってデブオタを見ると、彼はゼスチャーで人々を示し、懸命に何やら促している。
そうと悟ったエメルは慌てて頭を下げて会釈した。
「あ、ありがとうございます……」
「ミス・エメル。素晴らしい歌でした。オーディションは合格ですよ。おめでとうございます」
そう言ってデブオタが笑うと、人々の間からどっと笑いが起き、もう一度温かい拍手が贈られた。
「ありがとうございます。ありがとう、本当にありがとう……」
嬉しくて笑ったエメルの頬を涙が伝って落ちてゆく。
それはオーディションに失敗して流した時の涙ではない。人々からの温かい賛辞が嬉しくて流れた涙だった。
「泣くなッ! 涙はスターになるその日の為にとっておけ」
「はい、スミマセンッ!」
一度は萎んだ希望が心の中で大きく膨らんでゆく。
エメルは思った。
もっともっと頑張ろう。
明日はもっといい歌が歌えるように。
そしたらきっといつか……
** ** ** ** ** **
ロンドン郊外にある「デファイアント・プロダクション」は、イギリスの中では中堅ながら新進気鋭の歌手を擁すると目されている芸能事務所である。
そのレッスンルームで、いま懸命にボイストレーニングに励んでいる一人の少女がいた。
彼女はショッキングピンクの派手なトレーニングウェア姿でもう一時間近く汗を流している。
その光景が非常に珍しかったので、三四歳の女性マネージャー、ヴィヴィアン・ラーズリーは、彼女のトレーニングが終わるのを廊下で辛抱強く待ち、如何にも終わったのを偶然見かけた風を装って部屋に入ってきた。
「ハイ、リアン。珍しいわね、天才のあなたがボイストレーニングなんて」
「ヴィヴィ、久しぶり。元気にしてた?」
近くの椅子に座りかけていた彼女は、さっと立ち上がった。
疲れて椅子に腰掛けようとした素振りなど見せたくなかったのだ。背筋を伸ばし、汗を拭くリアンゼルからは凛とした言葉が返って来る。
「たまには練習だってしないとね。声が錆び付いちゃうでしょ?」
「フフ、その通りね」
ひっつめ髪から眼鏡にかかったほつれ毛を耳の後ろへかき上げると、ヴィヴィアンは含み笑いをしながら自分がマネージャーを務める、負けず嫌いのこの少女を眺めた。
周囲には、リアンゼルのプライドの高さは傲岸不遜にも見えた。
だが、最近このプロダクションで甘ったれたプロ歌手志望の少女が目立ってきたきたように思えるヴィヴィアンには、弱味など見せまいと強がる彼女の姿勢は、決して嫌いではなかった。
そんなリアンゼルがブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションの一次予選で惨敗してからもう三ヵ月半になろうとしている。
あのとき彼女は前髪で涙を隠し、逃げるように会場を去っていった。
プライドをズタズタにされたであろう彼女がそれきりスターになる夢を諦めてしまったのかとヴィヴィアンは心配していたが、それは杞憂だった。
その二日後には事務所に現れ「今後もプロデビューに向けて活動するから所属契約を継続し、支援して欲しい」と依頼してきたのだった。
日本と違い、イギリスの芸能界では歌手はマネージャー経由でテレビやラジオの放送、コンサートイベントのプロモートエージェントと契約するのが通常である。
もちろん、それはプロとして評価された歌手の話であり、事務所に所属しているだけのリアンゼルのようなアマチュア歌手には仕事がまわってくるはずもない。
認められるためには、有望なアマチュア歌手として紹介されるか、オーディション等で実力を認められるかしかないのだ。
リアンゼルはめげることなく、あれから幾つものオーディションを受けていた。また、ヴィヴィアンも新人歌手の発掘企画や有望そうなコンテストがあるたびにリアンゼルに紹介してくれた。
しかし、はかばかしい結果はまだ何も得られていない。
その正確な理由をヴィヴィアンは知っていたが、それを敢えてリアンゼルに告げようとはしなかった。
プライドの高いリアンゼルには自己否定の忠告が屈辱であり、却って反発を生むだけだと知っていたからである。
「練習なんかしなくてもリアンの歌はそう簡単には錆び付かない、私はそう思うけど」
ヴィヴィアンはわざと反対のことを言った。
「まあね。でもちょっと訳があって……いえ、こんな言い方じゃマネージャーに失礼ね。実は絶対に許せない奴がしゃしゃり出てきたの」
「許せない?」
「ええ。素人以下でゴミクズみたいな分際の奴が、身の程も弁えずにこの私に挑戦してきたのよ」
ヴィヴィアンは、思わず笑い出した。
「へえ。リアンに挑戦して来るなんて、また命知らずな奴が現れたわね。どんな人?」
「元クラスメイトの引きこもりで日英ハーフの小娘よ。で、自称音楽プロデューサーの脂ぎったデブの日本人がマネージャーで付いてる」
「珍しい組み合わせね。ハーフの歌手志望に日本の芸能プロダクションが支援で付いたなんて」
「ふん。あんな奴、本当に音楽プロデューサーなんだか。毎日公園でおままごとみたいに歌やダンスの練習をさせてるけどね」
まさかブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションで落選した後の惨めな成り行きまで話す訳にもいかない。
なので、リアンゼルは吐き捨てるように「ソイツにちょっとしたことから言い掛かりを付けられたの」とだけ言った。
「面倒なことこの上ないんだけど、絶対にあの二人を叩き潰さないといけないの」
「ふうん」
「まぁ私の実力が遥かに上だから、向こうはプロデューサー付の二人がかりでも所詮かないっこないでしょうけど。でもそれだけじゃ癪だもの、私も全力でやってやろうと思ってね。あんまり柄じゃないけど歌唱力とか更に磨こうと思って。で、しばらくはここでちょくちょく練習……」
「リアン」
リアンが言い終わらないうちに、ヴィヴィアンは彼女の言葉を引き取った。
「これからここに来て練習するつもりなのね」
「ええ」
「そのライバルに全力で勝つのね。本気なのね」
「もちろんよ……ヴィヴィアン、どうかした?」
「いいえ」
ヴィヴィアンのにこやかな笑みは変わらなかったが、彼女はその裏で厳しく引き締まったマネージャーの顔に変貌していた。
「リアンゼル・コールフィールド」
「どうしたの? 急に改まって」
「あなたにお薦めの練習プログラムは明日まで作っておくわね」
「え?」
「勝つためには全力を尽くさないと。そして勝利の先にはプロ歌手になったリアンゼル・コールフィールドがいないと。そうでしょう?」
「も、もちろんそうだけど」
「人から言われて努力する天才なんかいない。みんな自分で始めるものよ。あなたの口から努力という言葉が出るのを私はずっと待っていたのよ」
リアンゼルはその言葉に驚いて、目をしばたたかせた。
(天才は努力を自分で始める……)
ヴィヴィアンは、そんな彼女に「ちょくちょくだなんて遠慮しないで。毎日でも来て頂戴。大歓迎よ」と、大袈裟な仕草で両手を広げた。
リアンゼルは、ちょっと困った顔になった。実績こそまだ何もなかったが、自分の才能に自惚れていた彼女はそれほど努力するつもりではなかったのだ。
「でもヴィヴィアン、あなたは私だけの専属マネージャーじゃないから他の娘のマネジメントもあるんでしょ?」
「もちろんよ。でも私はあなたのマネージャーとして最大限、努力は惜しまないわ。それに、その日本人のプロデューサーとやらに私も負ける訳にはいかないもの。一緒に頑張りましょう!」
「え、ええ」
マネージャーはとても嬉しそうに張り切っている。リアンゼルは戸惑ってしまった。
しかし、彼女はちょっと頑張ればいいだけだとすぐに思い直した。
自分には圧倒的な実力があるはずなのだ。その実力さえちょっと磨けば自分を差し置いてプロ歌手になろうなどというあの二人の思い上がりなどすぐに叩き潰せる。プロ歌手にだってなれるだろう。
(その為にちょっとの間……そう、ちょっとだけ全力の本気を出して頑張ってみよう)
そう考えると気持ちが楽になったので、リアンゼルは、マネージャーに「よろしくね」とウィンクした。
リアンゼルは、自分が虫けらのように見下しているエメルが「いじけて泣いているだけ」の存在から変わり始めたことなど到底認めるつもりはなかった。
だからこのとき、彼女は気がついていなかった。
自分もまたエメルと同じように変わるために一歩を踏み出したことを。
「自惚れているだけ」だった自分自身から……
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