第6話 夜明けに向かって ①
朝もやの中、いつものように色褪せた赤いジャージ姿で彼女は走った。
今朝は後ろから追い立てる陽気なドラ声はなかった。地面を叩く竹刀の音、古びた自転車をキィキィと漕ぐ音も。
それでもエメルは、毎朝欠かさず続けている八キロのロードワークを終えた。
今やホームグラウンドとなった例の公園に辿り着く。
もしかしたらと淡い期待を抱いたが、デブオタの姿はそこにもなかった。
エメルの顔は悲しげに曇ったが、それでも独りで発声練習を始めた。
きっと来てくれる、そう信じて。
彼の住居もメールアドレスも携帯の電話番号も彼女は知らなかった。いつもここで待ち合わせていたのだ。
だから、ここで待つ以外に彼女の選択肢はなかった。
ベンチの上に置いた籐かごには、いつものように紅茶の水筒とサンドウィッチが入っている。
デブオタがいつも使っているタブレットPCがないので、発声練習を終えたエメルは自分でメロディーを口ずさみながらクラシックバレエの練習に移った。
そうして練習の合間にタオルで汗を拭いては、しきりと周囲を見回すのだった。
(よう、昨日はみっともないところを見せたな)
懸命に練習していれば、彼のことだから照れくさそうにそう言いながら現われそうな気がしてエメルは待った。
もしかしたらバツが悪くて離れた場所から見ているかも知れないと、いつもより大きな声を出して歌を練習した。
それでもデブオタは現われなかった。
『もう、おしまいだ』
彼がこぼした失意の言葉が思い浮かぶ。
雨の向こうに消えたデブオタは、エメルを歌姫にする道半ばで諦め、本当にどこかへ去ってしまったのだろうか。
お昼になった。彼はやはり現われない。
「午後には来てくれるかな。……来てくれるよね」
エメルは独り言をつぶやきながら泣きそうな顔で籐かごのサンドウィッチを食べた。デブオタが傍にいないランチは、美味しいか不味いかのも分からないほど味気なかった。半分はきっと来てくれるであろうデブオタの為に残しておく。
昼過ぎからは、休憩を挟んでストレッチや筋トレ、発声、ダンス、歌唱、ウォーキングといった練習メニューを小刻みにこなしていった。
始めた頃はすぐバテて根を上げてばかりの練習メニューも、毎日繰り返した今ではすっかり慣れたものだった。
様々な種類のステップ、よく響く声の出し方、観客へインパクトを与えるポージングも身に付き、今ではオーディションで当意即妙にアレンジを加えるほど余裕が出来ていた。
しかし、今日はそんな余裕などまるでなかった。
すぐそばで、いつも自分を煽てたり、脅したり、励ましたり、おちょくったり、時には厳しく叱ってくれるあの人がいない。
エメルは涙が出そうなくらい、さみしかった。
それでも、デイブは必ず来てくれると自分に言い聞かせ、練習を続けた。
しかしそれも、次第に陽が傾き出した頃には、限界だった。
陽光が雲に遮られ、公園の侘しい冬景色から更に色彩を奪うと、エメルの心に張り詰めた糸がぷつんと切れた。
「デイブ、お願い。一人にしないで……」
ベンチに座り込むと、エメルはとうとう泣き出した。
その時「あれえ、こんなところで何泣いてるのぉ?」と、下卑た声がした。
顔を上げると、片方はナポレオンジャケットを羽織った赤い髪の男、もう片方はモヒカン頭でライダーズジャケットを着た男、如何にもガラの悪そうな二人組がニヤニヤしながら覗き込んでいる。
エメルは、怯えたような表情を浮かべて立ち上がった。
「何でもないの」
「何でもないのに泣いてる訳ないじゃん」
「心配してくれてありがとう。でも私に構わないで。一人にして欲しいの」
「いや、俺らが一人にしたくないの。一緒に遊びに行こうぜ。泣いてるよりずっとイイじゃん」
「ありがとう。でも私、待ってる人がいるの」
「いないじゃん。待ってても来ないよ。だから行こうぜ」
「来るわ! デイブはきっと来る!」
「来ない来ない。来ても俺らはお呼びじゃない。お呼びなのはアンタだけだよ」
断っても、しつこく絡むような会話と共に二人は近づいてくる。
エメルは慌てて周囲を見回したが、木枯らしの吹く公園に、救いを求める彼女の視線に応える人影はあいにくどこにも見当たらなかった。
「誘拐じゃないよ。ナンパしてるだけなんだからさ」
「そんな怖がらなくていいじゃん」
後ずさりするエメルへ彼等が手をかけようとした、そのときだった。
「おやめなさい!」
ジャパニーズイングリッシュのドラ声に、ならず者二人がぎょっとして振り返ると離れた場所に立っていたオークの太い木の影からぬっと巨体が現われた。
「デイブ!」
エメルが顔を輝かせて叫ぶと、デブオタは慌てて「あ、ちょっとタンマな」と言いながらもろ肌脱ぎになるとマジックペンで自分の額にハートマークを描いた。それで何かのアニメキャラになりきったつもりらしい。
もっとも鏡も見ずに描いたので、額のそれはくちゃくちゃのバッテンマークにしかならなかったが。
「パンクファッションのなりをして、まったく情けない奴等だ。セックスピストルズも草葉の陰でさぞやお嘆きだろうて」
「なんだ手前は。男はお呼びじゃねえんだ、すっこんでろ」
モヒカンの頭を斜めに傾けて片方の男が凄んだが、デブオタは意にも介さない。
エメルに向かってにっこり笑うと手を振って促した。
「さ、こんなのに構わず練習を続けなさい。君は未来のスターとなるべき歌姫なんだから」
「聞こえなかったのか? それとも死にてえのか?」
「フヒヒッ、そこは『汚物は消毒だー!』って言わなくちゃ」
ベルトが間に合わないのでサスペンダーで吊ったズボンからはみ出たお腹をたっぷんたっぷん揺らしながら、デブオタはモヒカン男へ向かってずんずん進んでくる。
「第一トゲ付きの肩パッドもしてねえなんて何の為のモヒカンだよ?」
「何、訳のわかんねえこと言ってんだ手前は。あ? 消えろっつってんだ、よっ!」
モヒカン男は、鋲を打ったベルトを拳に巻き付けてナックルにすると「よっ!」のところでトドのようなデブオタの腹に思い切りきつい一発をお見舞いした……はずだった。
デブオタは衝撃を堪えると、ノーダメージといった不気味な笑顔で顎を上げた。
モヒカン男は信じられないと云った顔で見上げる。
「クックックッ、残念だったな。オレ様の身体は分厚い脂肪に鎧われていてな。エセアナーキストのへなちょこパンチなんぞ、蚊に刺されたほども感じねえんだよ」
そう言うとエメルにウィンクして見せた。
「そういやエメルにオレ様の脂肪遊戯をまだ見せてなかったな。よーく見ておきな」
言うがはやいか、デブオタは両手を掲げた。そのまま「ほいやぁあああ~!」と言う掛け声と共に、万歳の格好でモヒカン男へ覆い被さってゆく。三桁の体重をそのまま武器にしたデブオタの必殺技、人間プレスである。
エメルがポカンとして見ている間に、断末魔にも似た「グヘアアアァ~!」というモヒカン男の絶叫が公園内に響き渡った。
** ** ** ** ** **
悶絶したモヒカン男は、赤髪の男に引きずられ去っていった。
デブオタは何をトチ狂ったのか、公園から退場してゆく二人を「ま、待ってくれよ。覚えてろとか今度会ったときはブッ殺すとか、負け犬の遠吠えを聞かせてくれよ。頼むよ、この通りだから」と土下座せんばかりに引き留めようとしている。
エメルは「そんなのいいから!」と、彼の袖を懸命に引っ張ってベンチに無理やり座らせた。
「無茶して……でもナイスファイト」
半べそをかきながらエメルが笑うとデブオタも照れくさそうに笑った。
だが、その笑いは今までの豪快なものではなかった。どこか淋しそうな翳りが混じっている。エメルの胸に何か不吉な予感がきざした。
それでも気が付かない振りをしてポーチから捻挫用の湿布を取り出すとデブオタのお腹に貼った。
そして「お昼食べてないでしょ?」と籐かごのサンドウィッチを取り出して勧めたが、デブオタは黙って手を振った。
例のリュックサックをゴソゴソ漁った彼は、クリアファイルに入った書類やDVDケースを取り出して並べ始める。
「遅くなってすまねえな。色々準備してたもんでよ」
「準備?」
「これにはこの間のプロモーデョン用の映像が入っている。こっちはエメル自身を売り込む為に作った紹介DVDだ」
これを作るために遅くなったのだ、とデブオタは説明を始めた。
しばらくの間、エメルはキョトンと見ていたが「これは今後三ヶ月間に予定されているオーディションと応募用の連絡先だ」と広げられたリスト表を見たあたりで、ようやく気が付いた。
彼は、これからエメルが自分なしでもオーディションを受けたりプロダクションへ売り込めるようにと準備をしていたのだ。
これらは餞別だ、とエメルは気づいて真っ青になった。今後の売り込みに必要なものを出来るだけ用意して、彼は日本に帰国しようとしている!
このままデブオタがいなくなってしまったら……考えただけで彼女は真っ暗な底無し穴へ落ちてゆくような気持ちになった。
「それとこれ……」
彼が最後に広げたのは、一枚のオーディションの応募申し込み用紙だった。オーディションの名前を見てエメルは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ブリテッシュ・アルティメット・シンガー……」
あのリアンゼルでさえ蹴落とされたほど厳しい、だが未来への成功が約束された、イギリスでもっとも権威あるオーディション。
デブオタは頭を掻きながらエメルへ妙なことを告げた。
「実は昨日オレ様にこのオーディションを受けろと薦めた人がいてな」
「デイブの知り合い?」
「いや、全然面識のない人だった。『ぜひエメル・カバシにこれを受けさせて下さい、きっと出場出来るはずです』って、この申し込み用紙を渡されたんだ」
「この公園で私たちを見てた人かしら」
「いや、そんな風には見えなかったな。メガネを掛けてスーツを着た女性だった。どこかの企業の社長秘書ってカンジの綺麗な人だったよ」
心当たりはないか? と訊かれてエメルは頭を振った。
「そうか。泥だらけのオレ様に『ミス・エメルのプロデューサーですね?』って、丁寧に話しかけてきたんだが……ううむ、一体何者だったんだろう」
しばらくの間デブオタは右に左に首を傾げたが「ま、いいか」と、小さく笑った。
「今までいっぱいオーディション受けてきたからなぁ。顔が売れたのかも知れん」
エメルは、自分を推薦してくれた人のことなど今はどうでもよかった。
そんなことよりこのままだと日本に帰ってしまう彼を何とか引き留める何か良い手立てはないか……それだけを必死に考えていたのである。
「きっと出場出来るって言われたんだ。正直とても嬉しかったよ」
「そうね」
半ば上の空で答えた彼女の目がそのとき捉えたのは、申し込み用紙のある記入欄だった。
見るなり彼女はこれだ! と、内心快哉を叫んだ。
(……これなら彼をイギリスに引き留められる!)
そう思った瞬間、彼女の心は決まった。
「デイブ。私、アルティメット・シンガーに出場するわ」
デブオタは「そ、そうか」と、驚いたようにエメルを見た。彼女はきっと躊躇うか尻込みくらいするだろうと思っていたのだ。
「でもきっとアイツもいるぜ」
「リアンゼル? ふん、もう怖くもなんともないわ。昨日のストリートファイトを見た? 私、彼女に鼻血を噴かせてやったのよ」
エメルは鼻で笑うと顎をつんと上げた。
以前は凄まれただけで恐ろしくて震えていたいじめっ子だったのに、デブオタを懸命に引き留めようとしている今ではリアンゼルのことなど気に留めるほどの価値すら感じない。
出場申込書が置かれたテーブルの前に座るや、挑みかかるように自分のフルネームを記入した。
デブオタは、積極的なエメルの様子を驚いたような眼で見守るばかりだ。
エメルは顔を上げてにっこり笑った。
「デイブ、忘れたの? 最初のオーディションで何も出来なかった私に言ったじゃないの。いっぱい受けていっぱい落ちてるうちに慣れて、いつか認められる日が来る。そうやってプロになってゆくんだって」
「お、おお」
「今までたくさんのオーディションを受けて落ちてきた。今度はブリテッシュ・アルティメット・シンガーだから何だっていうの? 私、怖くなんかないわ。怖いのは……」
――怖いのは、貴方がいなくなってしまうこと
その言葉は胸に秘めたまま、エメルは「さぁ、デイブも名前をここに書いて」と、素知らぬ顔で申し込み用紙をデブオタに向けた。
「えっ、オレ様が何で?」
「何言ってるの? ここ見てよ。身元を保証する人かプロダクションを記入しなくちゃいけないの」
「それは……エメルの親御さんじゃダメかな」
「ダメ。ダメというよりイヤ」
エメルはわざとデブオタの顔を見ないようにして、きっぱりと言った。
「ここに書いていいのはデイブの名前だけよ。……私に、それ以外の名前はない」
その言葉の重さをデブオタがどれほど理解したことか。
「オーディションにも出る必要あるのかな……」
「当たり前じゃない」
「そうか。いや、あのな。実はオレ様……」
モゴモゴと言い辛そうに話そうとしたデブオタへ、エメルは押し被せるように言葉を重ねた。
「デイブ。アルティメット・シンガーに出場するんだもの、観客や審査員を圧倒するような曲を作りましょう。私、その道のプロの作曲家に依頼しようと思うの」
「そ、そうか」
「大丈夫、私にアポイントは任せて。実はちょっと心当たりがあるのよ。デイブは私にさせてきた演出やアイディアを彼に話せばいい。そしたらきっと優勝にふさわしい歌が出来ると思うわ」
「お、おう」
心当たりなど本当は何もなかった。この場で思いついた出まかせである。友達すらおらず独りぼっちだったエメルに作曲家のツテなど無論ない。それどころか、どうやって探し出し、どんなやり方でアポイントを取ればいいのかも知らなかった。
だけど、エメルは体当たりでどんなことでもやるつもりだった。何も怖くなかった。デブオタがここにいてくれる為なら……
「曲が出来たらまた『ドリームアイドル・ライブステージ』のエディットモードで振り付けを考えてね。どんなハードなダンスだって難しい歌だって、私やってみせる。ね、今度は歌でリアンゼルをコテンパンにしてやろうよ!」
必死に言い募るエメルの熱気に押されたのか、リアンゼルをコテンパンにしてやろうという口吻がおかしかったのか、デブオタの頬が緩み、その口元に思わず苦笑じみた微笑が浮かぶ。
エメルの眼が輝いた。
「デイブ。昨日雨の中で言ったわね。“こんな惨めな一部始終を見ても、今までのように歌えるのか?”って」
「……ああ」
「歌えるよ。ううん、歌えるとか歌えないとかじゃない。私、惨めなものや醜いものだってちゃんと見て歌いたい。雨の中のデイブのあの姿……あれを惨めだって言うならあれを知らないままで私には歌う資格なんてない」
「エメル」
「だってデイブは私にこう言ったのよ。“悲しい人や傷ついた人を歌で抱きしめてあげる、そんな優しい歌手になってくれ”って」
「……」
「私、そんな歌手になりたい。いいえ、きっとなってみせるわ」
デブオタは、まるで見知らぬ人にでもなったようにエメルを見つめ、思わずため息を漏らした。
いじけるたびに叱り、萎れては励まし、下を向けば背中を押し続けてきた泣き虫の少女が姿を消し、思慮深さをたたえ、凛とした眼差しを持ち、炎のような情熱を秘めた歌姫が突然現われたのだ。
「デイブ、いままでたくさんオーディション受けて落ちちゃったよね」
「おお」
「私、思うの。もしかしたらそれはこのブリテッシュ・アルティメット・シンガーへ続く為のステップだったんじゃないかって。きっとそうよ!」
「……」
「デイブと出会ったのも、最初に何も歌えなかったのも、デイブと一緒に踊ったのも、いろんな練習をしてきたのも、雨の中でリアンと戦ったのも、みんなみんな……」
デブオタは、もう何も言わなかった。胸がいっぱいになってしまったのだ。
黙って用紙を受け取ると、何やらしばらく考え込んで躊躇った後に名前と住所、連絡先の携帯番号を書き込んだ。
(名前は『春本ヤスキ』、電話番号は……)
エメルは素早く眼を走らせた。もちろん後で控えるのだ。
デブオタはペンを置いた。彼の動揺を表したように文字はヨレヨレに震えてかろうじて読めそうなくらいだった。
ゲームの中で架空のアイドルを育ててきた経験と向こう見ずな度胸、思いつく知恵の限りを尽くしてここまできたが、本当はいつもどこか不安で後ろめたい思いに囚われながらエメルを導いていたのだ。
何故なら彼がリアンゼルに対して切った啖呵「自分は日本の音楽プロデューサー」は……
――実は、真っ赤な嘘だった。
後ろめたさは今も消えない。だから彼がいま書いたのも他人の名前だった。
「春本ヤスキ」とは日本で有名なアイドルプロデューサーである。世間にあまり顔を出さないが、日本でヒットしたアイドル歌手の約半数は彼がプロデュースしたとまで言われていた。
ファンとの距離感を感じさせないライブコンサートなどで人気を演出する一方、CD購入を利用した人気投票制度で応援に多額の費用を掛けさせる仕組みを作り上げ、世間では「搾取系アイドル商法」と呼ばれる悪評も買った辣腕のプロデューサーだった。
デブオタがさんざんプレイしたアイドル育成ゲーム「ドリームアイドル・ライブステージ」も春本ヤスキが監修したと云われている。
架空のアイドルまで作り、デブオタのようなアイドルオタクを手のひらの上で踊らせてきた、芸能界のヒエラルキーの頂点に立つ男。
デブオタは、いわば彼の真似をして今までアイドルの育成ごっこをしていたようなものだった。
だが、エメルはデブオタの知るどんなアイドルよりも最初はみすぼらしかったのに、今では誰よりも美しく、そして逞しく成長していたのだ。
デブオタは身体が震えだしそうだった。
彼女を育てたのは……紛れもなく自分なのだ。
好きな歌手を応援しては搾取されるばかりで最後は裏切られてきた自分が。罵られても黙ってうなだれるしかなかったみじめな自分が。しまいには架空のアイドルを育てて満足するしかなかった底辺オタの自分が……
生まれて初めて感じる誇らしさが、デブオタの心をいっぱいに満たしてゆく。
このままおめおめと帰国など出来ない、と彼は思った。ここまで頼られ、これほどまでに信じられて……この少女をイギリスで最高の歌姫に出来るのは、お前しかいないのだと云う声が聞こえてくる。
力強く彼の背中を押す声。
エメルと初めて出会ったときにも聞こえた、あの心の声が。
(オレは……オレは……)
デブオタはスックと立ち上がった。
その瞳には、エメルを必ず歌手にしてやると豪語した時よりも強靭な光が宿っている。
「ラスボスは強大だ。今まで以上に厳しい戦いになるぞ。だけど、お前ならきっと出来る」
彼は申し込み用紙をエメルに渡しながら、厳かに告げた。
「ロードワークも増やすぞ」
「ロンドンマラソンに出場してもいいくらい走ってみせるわ」
「オペラ歌手も逃げ出すような発声をマスターさせるからな」
「任せて。そのうちロイヤルオペラハウスにだって立ってみせるから」
「よし、オーディションでイギリス中をあっと言わせてやろう!」
「もちろんよ。リアンゼルなんかに負けるもんですか!」
「うむ」
厳しいレッスンの通告ひとつひとつに、頼もしい返事が戻って来る。
デブオタは莞爾と微笑んだ。
「また二人で頑張ろう」
二人で頑張る……それこそ彼女が渇望していた約束の言葉だった。
デイブがこれからもここにいてくれる! エメルの顔は歓喜に輝いたが、そのまま涙ぐんでしまった。
強くなっても、彼女の根っこはやっぱりあの日と同じ泣き虫エメルだった。
「泣くな! 涙はスターになるその日のためにとっておけ!」
「はい!」
以前のように、元気いっぱいエメルを叱り飛ばしたデブオタだったが……
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